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翻訳作業中、すごい頻度で悪夢を見た”イヤSF”――『物体E』訳者あとがき

11年前の夜、巨大なクルミのような形をした小型宇宙船が、町の海沿いにあった海軍基地に墜落した。それはやがて〈物体E〉と呼ばれるようになり、研究所に姿を変えた基地で秘密裏に研究されていた。わたしはそこの警備主任だった――
主人公、ダクの一人称で描かれる『物体E』は、思いも寄らない出来事に端を発し、坂を転げ落ちるように悪夢が加速していくSFサスペンスです。翻訳者の金子浩さん曰く、「本作の翻訳作業中は、『隣の家の少女』を訳していたときとおなじくらいの頻度で悪夢を見た」。”イヤミス”ならぬ”イヤSF”の解説をお届けします。(編集部)

訳者あとがき
金子 浩

 巨大防衛企業が運営する秘密研究所のベテラン女性警備主任、ダクことダコタ・プレンティスの運命の歯車は、部下として配属されてきた若き新人マット・セーレムと出会った瞬間に狂いだす。マットは、運命の女(フアム・ファタール)ならぬ運命の男(オム・ファタール)だったのだ。
 本作の舞台になっている元海軍基地の秘密研究所クイル・マリンでは、〈物体E〉と呼ばれている、11年前に墜落した巨大なクルミのような小型宇宙船と、その内部で発見された、ときどき動きだして電力と人間の生命力を吸収する謎の装置〈ハープ〉、そして生死不明なエイリアン〈モス〉を研究している。〈モス〉は、その名のとおり、胸にコケ(英語で"moss")状のものが生えているという特徴はあるが、UFO事件でもっとも頻繁に目撃され、だれもが宇宙人というと思い浮かべる、グレイの肌に大きな目という、いわゆるグレイ・タイプだ。
 この設定は、1947年にニューメキシコ州ロズウェルで墜落したUFOの残骸と宇宙人の死体が米軍によって回収され、ネバダ州の空軍基地エリア51に運びこまれて保管されているという噂が下敷きになっている。
 北カリフォルニアの海沿いにある秘密研究所クイル・マリンの職員たちは、〈モス〉研究の責任者であるロイド博士をはじめ、多くがエキセントリックで、感情と精神のバランスを崩している。元特殊部隊員できわめて有能な警備主任であるダクも、苛酷な職務に疲れ、退職を申し出ようかと──そんなことをしたらどうなるかわからないにもかかわらず──考えていたのだが、新人として配属されてきた年下のマットにひと目惚れし、禁断の交際をするようになる。ダクは苦境から逃れようと必死にもがくが、次から次へと問題が発生し、破滅へと転げ落ちていく。

 本作では、一人称で物語を語るダクが、地の文で年下の恋人のマットを“あなた”と呼びつづけるというユニークな構成になっている。そのため、読み進めるにつれ、ダクはどうしてこんなふうにことの顛末をマットに語っているのだろう、ダクが顛末を語っている時点のダクとマットはいったいどうなっているのだろうというサスペンスがじわじわと高まる。そして本作は、あっと驚く、とんでもなく悲惨な、だがある意味甘美な結末を迎える。
 読んでいやな気分になる後味の悪いミステリを“イヤミス”と呼ぶことが一般的になっているが、本作はまさに“イヤSF”だ。わたしはかつて、ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』という、後味が悪いことで有名なホラーを翻訳したのだが、本作の翻訳作業中は、『隣の家の少女』を訳していたときとおなじくらいの頻度で悪夢を見た。本作は、SFファンだけでなく、イヤミスやホラーのファンも存分に楽しめる作品なのだ。

『物体E』は、成り立ちもまたユニークだ。本作はもともと、マック・ロジャーズ脚本の同名(原題は Steal the Stars)ポッドキャスト・ドラマとして企画された。それを、ロイド博士役でポッドキャスト・ドラマ版に出演しているナット・キャシディが小説にしたのが本作なのだ。
 SFとファンタジイを数多く出版しているアメリカの出版社TORブックスが、TOR LABSというレーベルを立ちあげてポッドキャスト・ドラマの配信を開始することになった。そしてその第一弾として、ポッドキャスト・ドラマ版『物体E』の全14話が、2017年8月2日から11月1日まで、iTunesやGoogle PlayやSpotifyなどで毎週配信された。

 主人公のダクを演じたアシュリー・アトキンソンは、数々の映画やテレビドラマや舞台に出演している女優で、出演映画としては、スパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』(2018)やマーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)などが挙げられる。『LAW & ORDER』シリーズや『エレメンタリー ホームズ&ワトソンin NY』など、ドラマシリーズへのゲスト出演も多い。

 ポッドキャスト版『物体E』の脚本を担当した1974年生まれのマック・ロジャーズは、おもにオフ・オフ・ブロードウェーで活動しているニューヨーク在住の劇作家で、演劇関係の受賞経験が多数ある。幼いころからのSFファンで、アイザック・アシモフやレイ・ブラッドベリが好きだったロジャーズは、カレル・チャペックの『ロボット』から想を得、チャペック本人も登場する"Universal Robots"(2009)ではじめてSF演劇を上演し、高い評価を得て以来、おもにSF演劇の脚本を執筆するようになった。代表作の"The Honeycomb Trilogy"(2012)は、エイリアンの侵略を描く三部作だ。ロジャーズは、ポッドキャスト・ドラマの脚本家として雇われ、外宇宙からのメッセージの解読をテーマにした"The Message"(2015)と死者のデジタル的な再生がテーマの"LifeAfter"(2017)を書いて大好評を博した。ポッドキャスト・ドラマのおもしろさと可能性に目覚めたロジャーズが、仲間たちとともに一から構想したポッドキャスト・ドラマが『物体E』だったのだ。『物体E』では、ジェイムズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』やパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』のようなノワールなクライムノベルとSFを融合させることを試みたという。

 ノベライゼーションを担当した1981年生まれのナット・キャシディも、やはりニューヨークの演劇界で活躍している劇作家兼俳優だ。キャシディはこれまでに数多くの舞台の脚本を執筆し、俳優として出演もしており、脚本と演技の両方で演劇関係の賞を何度も受けている。俳優としては、インデペンデント系のホラー・コメディ映画"They Will Outlive Us All"(2013)で主演を務めたり、『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』や『BULL/ブル 法廷を操る男』や『クワンティコ/FBIアカデミーの真実』などのドラマシリーズにゲスト出演したりもしている。キャシディが書く脚本の多くはホラー風味のダークコメディだ。"Any Day Now"(2009)は死者の復活がテーマだし、"The Temple, or, Lebensraum"(2015)はH・P・ラヴクラフトのクトゥルー神話短篇「海底の神殿」が元になっている。インタビューに、自分は本質的にホラー作家だとキャシディは答えている。いちばん好きな作家はスティーヴン・キングで、リチャード・マシスンやクライヴ・バーカーからも影響を受けたという。

 ロジャーズは、プロデューサーのショーン・ウィリアムズと演出家のジョーダナ・ウィリアムズと、ギデオン・プロダクションズという演劇制作チームを組んで活動しているが、ポッドキャスト・ドラマを制作するためのチーム、ギデオン・メディアを、キャシディを加えた四人で2017年に結成した。
 ギデオン・メディアが、演劇に強い関心を持っていてロジャーズに注目していたTORの編集者の誘いで、同社と組んでポッドキャスト版『物体E』を制作することになったため、四人はミーティングを開始したのだが、その直後、TORからキャシディに、小説版を執筆しないかというオファーがあった。演劇を志す以前の少年時代は小説家をめざしていたキャシディは歓喜したが、スケジュールを聞いて愕然とした。TORは、ポッドキャスト版の配信終了と同時に小説版を刊行することを望んだ。そうなると、キャシディが初挑戦の小説を完成させるまでの時間は3カ月ほどしか残っていなかったのだ。
 それからキャシディは、午前中はメールで届いた、ロジャーズが前日書いた分の脚本にもとづいて『物体E』の小説版を執筆し(ロジャーズが改稿すると、それにあわせてキャシディも書き換えなければならなかった)、午後と夜はポッドキャスト版の録音を手伝いながらロイド博士役として出演もするという大変な生活を続けた。もっとも、主人公のダクを演じたアシュリー・アトキンソンの演技からノベライゼーションのためのインスピレーションが得られたのは、そのような執筆の仕方のメリットだったという。
 小説版『物体E』は、まるで綱渡りのようだった執筆環境の影響もあってか、全篇にひりひりするような焦燥感が漂っていて、それが魅力のひとつになっている。小説版のストーリーは、基本的にはポッドキャスト版どおりに進むが、主人公ダクの心理がより深く、より生々しく掘り下げられ、彼女の人間性がうかがいしれる過去と現在のエピソードが追加されている。

 キャシディは、今回のノベライゼーションがいいトレーニングになったので、今後もぜひ小説を書きつづけたいとインタビューに答えている。おそらくホラーになるのだろうキャシディの単独長篇も楽しみだが、SF志向のロジャーズとホラー志向のキャシディという絶妙のコンビでも、また小説を書いてほしいものだ。

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『物体E』
ナット・キャシディ&マック・ロジャーズ/金子 浩訳
ハヤカワ文庫SF
カバーイラストレーション:加藤直之

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コメント1件

金子さんが、『隣の家の少女』を翻訳しているときに凄い頻度で悪夢を見た、とおっしゃっているのが、とても感慨深かったです。読むだけでも辛いのに、あれを何度も細かく読んで翻訳することを考えると、悪夢を見るのも納得です💦
『物体E』も面白そうなので、読んでみたいと思います。
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