【試し読み】大人気〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ最新作。でも、ここから読んでも面白い!『グレイラットの殺人』冒頭公開
大人気〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ最新作『グレイラットの殺人』(M・W・クレイヴン/東野さやか訳)は好評発売中!
サミット開催が迫る英国で、刑事ポーと相棒ティリーが大活躍! 英国推理作家協会賞最優秀スリラー小説賞(スティール・ダガー)を受賞した傑作ミステリの冒頭を特別公開です。
シリーズを読むのは初めてという人でも本作から読めます! ぜひお楽しみください。
〇シリーズこれまでのあらすじ
元カンブリア州警察のワシントン・ポーは、今は国家犯罪対策庁の重大犯罪分析課の部長刑事として働いている。同僚で分析官であるティリー・ブラッドショーとともに、ストーンサークルで発見された焼死体をめぐる事件や、カリスマシェフ冤罪事件、人体連続切断殺人事件などの様々な難事件を解決してきた。そして今回、ポーとティリーが挑むのは、サミット開催が迫る英国を揺るがす、シリーズ最大の事件! その事件は、3年前に起こった奇妙な強盗事件と関連しているようで……?
〇登場人物表
ワシントン・ポー…………………国家犯罪対策庁の重大犯罪分析課の部長刑事
ステファニー・フリン……………同課警部
ティリー・ブラッドショー………同課分析官
エドワード・ヴァン・ジル………NCA情報部長。SCASの責任者
ヴィクトリア・ヒューム…………ポーの隣人の農場主
〇冒頭試し読み
1
ショーン・コネリーの面をかぶった男がダニエル・クレイグの面の男に言った。「猿のバートランドと猫のレイトンが暖炉のそばにすわり、栗が焼けるのを見ていた」
注意を向けさせるにはいい方法だ。
「そうか」ダニエル・クレイグは言った。
それぞれジョージ・レーゼンビーとティモシー・ダルトンの面をかぶった男たちが作業の手をとめて聞き耳を立てた。ヘッドホンを着け、複雑な指示を吐き出すノートパソコンをたずさえたピアース・ブロスナンは、目の前の金庫室の扉とディボールド社製の三連式の時限錠と文字合わせ錠しか見ていなかった。ロジャー・ムーアは外にとめたバンのなかだ。
「バートランドは石炭をどけようとするが、手に火傷を負うのが怖い」ショーン・コネリーの話はつづいた。「だが、栗は食べたいし、火が消えるまで待つ気もない。そこで、あれをつかみ出してくれたら、半分やるとレイトンを説得する」
「で、猫は応じたのか?」
「応じた。レイトンは真っ赤に熱した石炭をどかして栗を一個一個拾いあげる。そいつをバートランドが次々と自分の口に放りこむ。最後にはメイドが入ってきて、驚いた二匹はその場から逃げるしかなくなる。レイトンは痛い思いをしただけで、なにも得られない」
ティモシー・ダルトンはショーン・コネリーの手下だが、ほかはダニエル・クレイグのところの者だった。ジョージ・レーゼンビーは荒事担当、ピアース・ブロスナンはメカ担当でロジャー・ムーアは運転役だ。ダニエル・クレイグはチームリーダーとして当然の質問をしなくてはならないと感じた。
「なんでそんな話を聞かせる?」
「べつに理由はない」ショーン・コネリーは言った。「こいつはフランスの詩人、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌが翻案したおとぎ話でね。『猿と猫』というタイトルで、他者のためにみずからを犠牲にする者を描いている。“火中の栗を拾う”ということわざはこの話に由来する」
「それは実際にはたとえだ」ティモシー・ダルトンが言った。「ことわざじゃない」
ショーン・コネリーは振り返ってダルトンをにらんだ。金庫室の前室の雰囲気が変わった。それまでは張りつめた空気だったものが、目に見えない悪意に覆われた。
「“絶対に口をひらくな”と言ったはずだが、それのどこが理解できなかったんだ?」ショーン・コネリーは抑えた声で言った。
面をかぶっていても、ティモシー・ダルトンの顔が青ざめたのがわかった。ダニエル・クレイグは自分のチームのジェームズ・ボンドたちに目をやり、肩をすくめた。金を払うのはショーン・コネリーで、しかも払いがいい。その彼が猿と猫と栗の話をして、自分の手下を辱めたいなら、誰にとめられよう?
前室に静寂がおりた。
ピアース・ブロスナンがそれを破った。
「あいたぞ」彼は言った。
近ごろでは貸金庫のサービスがある銀行は少ない。ボンドの面をかぶった男たちが侵入した金庫は、人材派遣会社が所有する専用の施設のひとつだった。最先端のセキュリティシステムをそなえているが、それも事前のハッキングおよび、ピアース・ブロスナンの現場での金庫破りのテクニックによって骨抜きにされてしまった。
それでも、バックアップのシステムが作動したらおしまいだ。
「時間はどのくらいある?」ショーン・コネリーが尋ねる。
「十八分二十秒」ダニエル・クレイグが答えた。
ショーン・コネリーは手首を裏返し、腕時計に目をやった。まだ時間はたっぷりある。
金庫室は幅十五フィート、奥行三十フィートの長方形で、天井が低かった。なかはネオン管で照らされていた。スチール製のテーブルがドアの反対側の壁に固定してある。長いほうの壁二面は、床から天井まで貸金庫の箱でびっしり埋まっていた。箱はいちばん下がスーツケースの大きさで、目の高さよりも上に行くにしたがい、だんだんと小さくなっている。
監視カメラが作動しているが、六十分遅れの映像を映すよう調整済みだ。金庫室を監視している職員はここでの一部始終を目にすることになるが、それはいまから一時間後だ。
「こいつから始めようぜ」ティモシー・ダルトンが言った。
箱の中身を査定するのに雇われた彼は、役に立ちたくてうずうずしていた。これまでのところはお客さんにすぎなかった。彼は大きめの箱のひとつに近づいた。
「そいつじゃない」ショーン・コネリーは言い、ポケットから一枚の紙を出した。番号を読みあげる──9‐206。
ジェームズ・ボンドの面をかぶった男たちは散らばって、その番号の金庫を探した。ジョージ・レーゼンビーが見つけた。頭の高さの位置にある、小さめの箱のひとつだった。
「ミスタ・ブロスナン、やってもらえるか?」ダニエル・クレイグが言った。
ピアース・ブロスナンは錠前を調べた。金庫室のドアは手強かったが、入室するときに必ず監視がつくため、金庫そのものの安全対策はおざなりで、シリンダー錠と大差ない。かばんからスナッパーバーを取り出した。シリンダー錠を破壊してあけるための錠前師用の道具だ。一分とかからなかった。ブロスナンはスナッパーバーをかばんにしまい、うしろにさがった。
ショーン・コネリーは小さな扉をあけた。貸金庫のなかは空だったが、それはあらかじめ言われていた。彼は面の下でほほえんだ。
「気にするなって」ダルトンが言った。「まだ何百個とあるんだ」
「実を言うと」ショーン・コネリーは言った。「ここには中身を取り出すために入ったのではない」
「そうなのか? じゃあ、なにが目的なんだ?」
「ものを置いていくためだ」
ショーン・コネリーはズボンのウエスト部分から銃身の短いリボルバーを抜くと、ティモシー・ダルトンの後頭部に押しつけ、引き金を引いた。
ダルトンは磨きあげられた床に倒れこむ前に絶命した。淡紅色の靄が彼の頭があったあたりにただよった。金庫室内に火薬と血のにおいが立ちこめた。
恐怖のにおいも。
「なにをする!」ダニエル・クレイグが怒鳴った。「銃はなし、そう言ったろう! 仕事のときは銃を持たないと」
「おれがさっきの寓話のどこに不満を感じているかわかるか?」ショーン・コネリーは言った。銃は体のわきにたらしていたが、必要とあらばいつでも使うつもりなのはあきらかだ。
「教えてくれ」ダニエル・クレイグはぴくぴくと痙攣している死体から目をそむけながら言った。
「あのあとどうなったか、まったく書いてないことだ。裏切られたと知った猫のレイトンが猿のバートランドになにをしたかが書かれてない」
ダニエル・クレイグはもう一度死体に目を向けた。痙攣はもうとまっていた。
「この男が誰かを裏切ったということか?」クレイグが足を踏み入れたこの世界では、裏切りは正当な動機だ。
ショーン・コネリーはなにも言わなかった。
「いずれにしろ、ダルトンはくそボンドだ」ダニエル・クレイグは言い、腕時計に目をやった。「これで終わりか?」
「あとひとつ」ショーン・コネリーはポケットからなにかを出し、空の貸金庫のふちに置いた。時間をかけて、ぴったりの位置になるよう調整した。
「終了だ」
その言葉を合図に、ボンドたちは撤収した。
三十分後、金庫室のカメラを監視していた警備会社から強盗事件の通報を受け、警察官の第一陣が到着した。
しかし彼らが目にしたのは、床で冷たくなった死体と、それを見おろすラットの置物だった……。
2
ワシントン・ポー部長刑事はふだん、法廷に立つのを毛嫌いしている。お役所仕事的なところも、かつらをかぶった間抜けがえらそうにしているのも時代遅れだ。法廷弁護士に従わざるをえないのも気にくわないし、警官が証拠を提示してもたいていは不審の目で見られるのも気にくわない。せっかくくだした判断を、いわゆる専門家とやらに一瞬にして突き崩されるのも気にくわない。
しかしなにより気にくわないのは、ポーが出廷するということは、被害にあった人がいるという事実だ。愛する人と永遠の別れを告げた家族。二度と男を信用できなくなった女。自宅から出ることのなくなった老人。
法廷に立つのを毛嫌いする理由はいくらでもある。
しかし、今回はちがう。
今回、彼は被告として出廷している。
そして楽しむつもりでいた。
ポーの裁判は市の中心部にある現代的な建物、カーライル複合裁判所で審理がおこなわれる。過去を思わせるものは、この建物の外で急死した十九世紀の下院議員の像だけで、これは第二級指定建造物になっている。ポーはこういう像が好きだ。もっとたくさんあってもいいと思う。
さきほど堪忍袋の緒が切れかけた地裁判事が、あらためて確認した。
「どうか心にとどめてもらいたいのですが、ミスタ・ポー」判事は言った。「この裁判はあくまで民事であるものの、法的代理人をつけることを強く推奨します。あなたのご友人が──」判事はメモを確認した。「──“スティーヴン・ホーキング博士の車椅子”ほども優秀であることは疑いませんが、本日、こちらで出る結論は簡単にもとに戻せるものではありませんよ」
「助言はよく理解しました、判事」
「法的代理人を拒否したことは、控訴の理由にならないことも理解しているのですね?」
「しています」
地裁判事はブルドッグのような頬と、テレビドラマの主人公ランポール弁護士におそろしいほどよく似た風貌の持ち主だった。耳から毛束が飛び出ているせいで、ふさふさした毛の動物がもぐりこんでいるように見える。判事は半月形の眼鏡ごしにポーを見やった。ポーは見つめ返した。
「けっこう」判事はため息をついた。「ミスタ・チャドウィック、先を進めてください」
原告側の事務弁護士が立ちあがった。小柄で口ひげをはやし、融通がきかず、自治会の防犯活動の会合で議事録をとっていそうなタイプだ。
「ありがとうございます、判事」彼は分厚いマニラ紙のファイルをひらき、要約書を出した。「本件における事実関係は明白です。およそ五年前、ポー氏はトマス・ヒューム氏からシャップ・フェルにある土地を法律にのっとって購入しました。その土地は──」
「たしか、ヒューム氏はいまは故人となっていると聞いていますが」
「残念ながら、そのとおりです、判事。ヒューム氏はその土地の法的な所有者であり、それを自分の権利の範囲内でポー氏に売却しました。そこに、当時使われていなかった羊飼い小屋が含まれております」
「問題の建物ですね?」
「そうです、判事。われわれの理解によれば、ハードウィック・クロフトは一八〇〇年代初期から存在しておりました。それが近年、湖水地方国立公園の拡張区域に含まれることになったのです。地方都市計画を担当する部署は、建屋は二〇〇五年以降、歴史的建造物に指定されており、それゆえ、当局の特別許可なしに変更することは許されないという立場を取っております。ハードウィック・クロフトのもとの所有者には、その指示が知らされております」
「ミスタ・ポー、なにか言っておきたいことはありますか?」判事は言った。
ポーは隣にすわる人物に目をやった。彼女は首を横に振った。
「ありません、判事」
「問題の建屋が歴史的建造物であるという主張に異議をとなえることが、現時点であなたに残された数少ない法的手段のひとつであるのを承知していますか?」
「承知しています、判事。しかしながら、ひとこと言わせていただくなら、購入した時点でハードウィック・クロフトが置かれている状況については知りませんでした。トマス・ヒュームはおそらく……おれに話すのを忘れていたと思われます」
傍聴席で誰かが身を硬くしたのが見えたというより、感じで伝わってきた。トマスの娘のヴィクトリア・ヒュームがポーの応援団として来ているのは知っている。父親の詐欺まがいの行為に責任を感じているからだが、ポーはそんなことはないと何度も説得した。現金を渡す前に通常の事前確認をしなかったから、そのツケを払っているだけなのだ、と。
「ポー氏は現職の警察官でありますから、法律を知らなかったというのが正当な理由にはならないのをご存じでしょう」チャドウィックが言った。
ポーはにやりとした。その科白を待っていたのだ。
チャドウィックはその後、十分をかけて、ポーがハードウィック・クロフトにおこなった改修の内容をあげていった。屋根の補修。清潔な水道水を得るために設置した井戸とポンプ。土中に埋めた浄化槽。発電機と配電設備。要するに、ハードウィック・クロフトを現代的で住み心地よくするためにおこなったすべてだ。お気に入りの薪ストーブにも言及があった。
チャドウィックの説明が終わると、判事が言った。「ポー氏が改修をおこなったことを、どのようにして知ったのですか?」
「どういうことでしょう?」
「誰から聞いたのです、ミスタ・チャドウィック?」
「憂慮する市民からです、判事」
「その人物はオクセンホルム在住ではないと思いますが」
チャドウィックは餌に食いつかなかった。
「われわれがどのようにして改修の事実を知ったのかは、本法廷で議論することではありません、判事」
しかしポーは判事の指摘が正しいと知っていた。ポーが許可を受けずに修復した事実を当局に通報したのは元警察官で、ウォードルという名の主任警部だった。ジャレド・キートン事件でポーと衝突した相手だ。ウォードルは誤った方向に捜査の舵を切ってしまい、それで警官としてのキャリアを棒に振った。警察を辞め、いまはあらたな職を目指している。地方政治だ。ポーはウォードルが傍聴席にすわっているのではないかとなかば期待しながら、椅子にすわったままうしろを振り返ったが、ヴィクトリア・ヒューム以外誰もおらず、傍聴席はがらんとしていた。べつにかまわない。ウォードルの仕業でないなら、べつの誰かだろう。ポーは中産階級が〈ネクター〉のポイントを集めるがごとく、敵を次々と集めているのだから。
「では、つづきをどうぞ、ミスタ・チャドウィック」判事は言った。
当局の事務弁護士はさらに十分を費やし、ポーが抵触した規制をこまかくあげていった。二分後、ポーはうとうとしはじめた。
ポーはここ最近、ハードウィック・クロフトに長期滞在している。重大犯罪分析課、略してSCASは・キュレーター事件・以来、重大な事件を担当しておらず、しかも、あの事件の終わり方が終わり方なだけに、誰もあらたな捜査など望んでいなかった。そこで、国家犯罪対策庁情報部長のエドワード・ヴァン・ジルは関係者全員に一カ月の休暇をあたえたのだった。
休暇はポーにとってありがたかった。“キュレーター事件”によって彼は肉体的にも精神的にも打ちのめされたが、一部の連中にくらべれば軽くすんだ。自宅での時間を満喫した。ほとんど毎日、リュックサックに食べ物を詰め、シャップ・フェルに向かった。ポー、愛犬のスプリンガースパニエルのエドガー、何千頭もの羊しかいない世界に。
「フリン警部はどうしてる?」ポーは隣にすわる女性に小声で訊いた。SCASのステファニー・フリン警部は、くだんの事件のさなかに出産したが、通常の出産ではなかった。いまも病気休暇中で、復帰するかどうかもさだかでない。
「黙っててよ、ポー!」女性が小声で返した。「ここ、よく聞いておきたいんだから」
ポーは考え事に戻った。自分の将来がかかっているとはいえ、法的な議論を一分以上聞いていられる脳みそは、彼にはそなわっていない。あとでフリンに電話をすること、と心のなかにメモをした。ここ最近、彼女と話をするのを避けていた──両者にとっていやな記憶を呼び戻すような気がするからだ。
「反論する用意はできていますか、ミスタ・ポー?」
ポーはまばたきをした。チャドウィックはすでに自席に戻り、全員の目が自分に注がれていた。
彼は立ちあがった。
「地元当局が求めているのは、ハードウィック・クロフトをおれが購入したときの状態に戻すことを強要する裁判所命令であるという理解でよろしいでしょうか、判事?」ポーは言った。
「そのとおり。反論の用意はできていますか?」
ポーは自分の右にいる人物に目を向けた。相手はうなずいた。
「できています、判事」
「その同僚の方には法務についての資格がないようですが、あなたの代理人をつとめるだけの能力があると、信じているのですね、ミスタ・ポー?」
「そのとおりです、判事。おれの言葉を信じてもらってけっこうです」
ポーは腰をおろした。ハンプシャーに住んでいたときは自宅は単に住むところでしかなかった。いま、彼には家がある。それを守るためなら、汚い手を使って闘うのもいとわない。
そして、これからしようとしているのは、とてつもなく汚い闘いだった。
「あとはまかせたぞ、ティリー」彼は言った。
3
マチルダ・”ティリー”・ブラッドショーは変わり者だが、いい意味での変わり者だ。彼女はオックスフォード大学からふたつの博士号を取得しているが、いまの首相が誰かも知らないだろう。円周率を千桁まで空(そら)で言うことができ、制止しなければ本当に空で言ってみせるだろうが、セックス・ピストルズとは何者かと問われても答えられない。彼女は十三歳で高等教育をスタートさせたが、それはオックスフォード大学の入学担当の教授が、娘さんのような”一世代にひとりいるかどうかの頭脳”には国が提供する以上の刺激が必要であると、彼女の両親を説得したからだ。
専門は純粋数学だが、もっとも抜きん出ていたのが科学の分野だった。世界じゅうの国と民間企業から研究助成金を受け、当然ながら、その後もオックスフォードで職業人生をまっとうするものと期待されていた。しばらくは本人もそれで満足していた。
やがてそうではなくなった。
入学担当の教授が見落としていたのは──もしかしたら、意図的に目をそらしていたのかもしれないが──思春期直前に子ども時代を終わらせてしまうと、それなりの影響が出るという点だ。まわりに同年代の子がおらず、知的水準が異なる人に触れる機会がないと、社会的に常識とされる話し方や考え方に必要なスキルが磨かれない。その結果、思ったことをそのまま口に出し、言われたことをすべて信じる、世間知らずで邪気のない女性ができあがった。
ポーはいまだ、彼女がなぜ学問の世界を去り、国家犯罪対策庁の重大犯罪分析課に入る道を選んだのか、真相を探り出せていない。父親から気まぐれな性格を受け継いだのではないか、とポーは見ている。彼女は三十代前半でオックスフォード大学を辞め、SCASの分析官の職を得た。彼女の弁によれば、自分が打ち立てた数学の理論モデルを現実のプログラムに実装してみたかったとのことだ。なんのことやらポーにはさっぱりわからないが、ダイヤモンドは見ればわかる。彼は彼女の庇護者となり、彼女がはじめて目にする胸躍るあらたな世界の先導役を買って出た。そのかわり、彼女のほうもできるかぎり、彼のとげとげした部分をやわらげ、荒ぶる心をコントロールしてやっている。
そして、誰もが驚いたことに、ふたりは友だちになった。仲間ではなく、友だちに。一生のうちにひとりかふたり、出会えるかどうかというレベルの友だちに。
だからこそ、ポーの住居にまつわる問題を知った彼女は、一週間の休暇を取って、計画法の専門家になったのだ。
これからどんな攻撃が仕掛けられるか、チャドウィックはわかっていなかった。
緊張していたかもしれないが、ブラッドショーの表情からそれはうかがえなかった。彼女は法律の教育をまったく受けていないが、四年にわたって大学で学んだのち、一年間の司法実務課程を受け、さらに事務部門からの支援も得ているチャドウィックは、インターネットで一日学んだだけのブラッドショーの足もとにもおよばなかった。
「こんにちは」彼女は言った。
それから判事に小さく手を振った。判事は困惑しながらも手を振り返した。
「あたしの名前はマチルダ・ブラッドショーです、判事。お会いできてとてもうれしく思います」
「わたしもきみに会えてうれしいですよ、マチルダ」
「なんなんですか、これは?」チャドウィックが言った。
「あいさつくらいしたところで、なんの不都合もないでしょう、ミスタ・チャドウィック」判事は言った。
ポーはほほえんだ。ブラッドショーはすでに判事を味方につけたようだ。
「礼儀正しくするのはなんの問題もありません、判事」チャドウィックは言った。「わたしが指摘しているのは、本法廷で主張を述べるつもりなら、それなりの服装をすべきだという点であります。あのような恰好をするとは、判事に無礼であるだけでなく、何世紀にもわたる伝統をないがしろにしているも同然であります」
ブラッドショーはTシャツと大きなサイドポケットがついたカーゴパンツという恰好だった。いつもの服装となんら変わらない。きょうのTシャツは黒地に白い大きな文字で”あなたは物質である”と書かれている。その下に、かなり小さな文字で”しかし、光速の二乗をかければ……エネルギーになる”とある。
ポーは起立した。
「きょうのTシャツは、きみのお気に入りの一枚だよな、ティリー?」
「そうよ、ポー。ニール・ドグラース・タイソンの引用文がプリントしてあって、限定品なんだから」
「ほうら、彼女はこの場にふさわしい服装をしてきてるんですよ、判事」
チャドウィックが起立した。
「しかし──」
「ミスタ・チャドウィック、本法廷では、わたしが侮辱されたかどうかを判断するのは、このわたしであって、あなたではありません」判事は言った。「わたしはミス・ブラッドショーの主張を聞くつもりです。あなたも彼女の主張を聞きたいなら、着席してください」
チャドウィックは腰をおろした。
「どうぞ、つづけて、ミス・ブラッドショー」
予行演習どおり、ブラッドショーはリュックサックから書類を二部、取り出した。
「判事席の前まで行ってもいいですか、判事?」
「許可します」
ブラッドショーは判事のところまで行き、書類を一部、渡した。引き返す途中で、もう一部をむっつり顔のチャドウィックに渡した。
「こちらの立場は単純明快です、判事」彼女は言った。「郡裁判所がポーに不利な判決をくだすのは法律に反しています」
「なんだと!」チャドウィックは大声を出した。
判事はけわしい顔を彼に向けてから言った。「具体的に説明してください、ミス・ブラッドショー」
「本当にものすごく単純な話なんです、判事。一九〇一年、ケンダル行政教区は条例二五四を提案し、それがのちに国務大臣によって法律として承認されました。シャップ・フェルとマーデイル・コモンを保護するのが目的です。資料に含めた地図を見ればわかるように、ポーの自宅はそれらの境界内にあります。条例二五四は採石場を違法に拡張するのを禁じるものだと思われます。いま渡した資料に、もとの文書のコピーが入ってます。一九七四年にケンダル行政教区がサウス・レイクランドの一部になると、条例はすべて引き継がれ、現行の計画法に組みこまれました。その後、カンブリア州によって批准されています。それ以降、廃止になってません」
チャドウィックは分厚い読書眼鏡をかけ、渡された書類をもどかしげにめくっていた。
判事は落ち着きはらっていた。
「で、その条例はなにを禁じているんですか、ミス・ブラッドショー?」
「第二項F号で、指定された境界内にある石を故意に移動する、並べかえる、あるいは傷つけることを明確に禁止しています」ブラッドショーはポーのほうを向いた。「ポー、どうやってハードウィック・クロフトを修理したの?」
「そこらへんに転がってる石を片っ端から使った」ポーは言った。
「判事、第三項E号を見ると、樹木または草を切ったり損傷したりする行為も、明確に禁止されているのがわかると思います。ポー、浄化槽や井戸はどうやって設置したの?」
「地面を掘って埋めるしかなかった」
「そのとき、周辺の樹木と草を損傷した?」
「残念ながら、そのようだ」
「そのふたつの違反行為にはどのような罰則が明記されているのですか、ミス・ブラッドショー?」判事が尋ねた。
「裏の表によれば、以上の条例にひとつでも反した者は、現在のお金に換算して五十ポンド以下の罰金が科されると定められてます」
ポーは起立した。「告発された場合、指摘のあった違反行為について有罪であると認める所存です、判事」
「ばかばかしい」チャドウィックはぴしゃりと言った。「七〇年代に受け入れを強制された百年も昔の条例の全容を、地元自治体が知りつくしているはずがない。判事、これはあきらかに悪あがきにすぎず──」
判事はほほえんだ。
「しかしながら、ミスタ・チャドウィック、あなたが先ほど言ったように、そんな法律があるとは知らなかったというのは言い訳にはなりませんよ」
チャドウィックの顔が真っ赤になった。
判事はつづけた。「まだざっと目を通しただけですが、たしかにこれは法的な文書のようです。そして本法廷には、国務大臣が承認した法律を無視する権限はありません」彼は半月形の眼鏡ごしににらんだ。「それは地元当局も同様です」
ブラッドショーがふたたび起立した。
「判事、本法廷がハードウィック・クロフトをもとの状態に戻すよう求めた場合、ポーにもう一度法をおかせと求めることになります。壁を設置するのに使った石の位置はもと通りというわけにはいきませんし、浄化槽と井戸を掘り起こせば樹木と植物はどうしても損傷を受けます」
「ミスタ・チャドウィック、ミスタ・ポーが法をおかすことなく自宅をもとの状態に戻すにはどうしたらいいか、説明願えますか?」
チャドウィックは目の前の文書をじっと見つめた。
「二週間の休廷を要請いたします、裁判長」彼は言った。
「却下します。訴えを起こしたのはあなたの側ですから、準備は充分にできているはずです。さて、つけくわえることがないようなら、わたしはいったん引きあげます。戻ってきたときに裁決を言い渡すことになります。ミスタ・チャドウィック、わたしがあなたならば、どんな裁決になるか覚悟しておくでしょうね。さらに申しあげておきますが、恨みを晴らすためだけに法律を変えるような自治体を、本法廷はよしとしません。わかりましたか?」
「よくわかりました、裁判長」チャドウィックは言った。
ポーはブラッドショーにほほえみかけた。ふたりはグータッチをした。
ふたりの期待どおりに運んだ。
そのとき、男がふたり法廷に入ってきて、すべてがふいになった。
――(本篇に続く)
書誌情報
■タイトル:『グレイラットの殺人』
■著訳者:M・W・クレイヴン/東野さやか訳
■発売日:2023年9月20日
■レーベル:ハヤカワ・ミステリ文庫
■本体価格:1300円(+税)
■ISBN:978-4-15-184254-2
DEAD GROUND
by
M. W. Craven
Copyright © 2021 by
M. W. Craven
Translated by
Sayaka Higashino
First published 2023 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is published in Japan by
arrangement with
D H H LITERARY AGENCY LTD.
through TUTTLE-MORI AGENCY, INC., TOKYO.