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意味を持たない時間の豊かさを知る 『何もしない』本文試し読み

SNSなど、人々の関心を売買する「アテンションエコノミー(注意経済)」が跋扈する現代。そこから抜け出すために必要なのは、効率主義から離れてみること――つまり、「何もしない」ことだ。
つながりを避けては生きられない時代にふさわしい自分のあり方を見つけ出すヒントを紹介する話題の一冊、『何もしない』(ジェニー・オデル、竹内要江訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)から冒頭「はじめに」を特別試し読み公開します。「意味」を持たない時間、その豊かさとは……?

『何もしない』(ジェニー・オデル、竹内要江訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫/早川書房)
『何もしない』早川書房

『何もしない』

はじめに――有用の世界を生きのびる

救出は、連続する破局のなかにある小さな亀裂を手がかりにする。
  ――ヴァルター・ベンヤミン

何もしないでいることほど難しいことはない。人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され、占有されていることに気づいている。私たちは数値評価を得るべく自由時間を差し出し、たがいのアルゴリズムと交流し、個人ブランドを確立し、維持する。なかには、実体験のすべてを能率化、ネットワーク化することにエンジニア的満足感を覚える者もいるだろう。とはいえ、刺激が多すぎて思考の流れが維持できなくなるかもしれないというある種の不安は残る。

意識からふと消えてしまう前にそのような不安を捉えるのはたやすいことではないが、実のところそれは差し迫った感情なのだ。人生を意義あるものにしてくれるものごとの多くが、偶然のできごとや、妨害、セレンディピティに由来すると、私たちは結局わかっている。それは、体験を機械的なものとする視点が排除しようともくろむ「なんでもない時間」だ。

すでに1877年に英国の小説家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは忙しさを「生気の欠けた状態」だとして、「ありきたりの仕事に従事していなければ生の実感がおぼつかない、生きながらに死んでいる凡人がちまたにあふれている」と述べている。そう、結局人生はいちどきりなのだ。哲学者のセネカは「生の短さについて」という文章のなかで、過去を振り返ると人生が指の間からこぼれ落ちていることに気づく恐怖について述べている。フェイスブックに夢中になって、ふと気づいたら知らぬ間に一時間経っていた誰かさんのことを言っているみたいだ。

記憶をたどってよく考えてほしいのです……ご自分で何を失っているのか気づかぬままに、いかに多くの人間があなたの人生を奪っていったのか。無益な悲しみ、愚かな喜び、尽きせぬ欲望、社交の誘惑にどれだけのものが奪われ、その挙句あなたには人生の時間がほとんど残されていないということを。すでに自分の人生が尽きかけているということが、おわかりですね。

集団的なレベルではその可能性はより高まる。複雑な思考と対話が要求される複雑な時代に生きていることを私たちは自覚している。そのうえさらに、どこにも見つからないはずの時間と空間まで要求される。無限のつながりという便利さは対面での会話の陰影を巧妙に消し去り、その過程で大量の情報と文脈コンテクストが切り捨てられる。コミュニケーションが阻害される、ときかねなりの果てしないサイクルのなかで無駄にできる時間などないに等しく、たがいを見つける方法も限られている。

成果ばかりに価値を置くシステム内では芸術の存続が危うくなるという事実を考えると、それは文化にかかわることでもある。テクノロジーの新自由主義的な明白な運命マニフェスト・デスティニーとトランプカルチャーの両方に共通する傾向は、陰影があり、詩的で、はっきりとしないものごとに耐性がないということ。「なんでもないもの」が許容できないのは、それらを利用したり占有したりすることができず、目に見える成果も出ないからだ。(そのような文脈に当てはめると、トランプ大統領が米国芸術基金への資金援助打ち切りに躍起になっていたのは意外でもなんでもない)20世紀初頭にシュルレアリスムの画家、ジョルジョ・デ・キリコは「非生産的」とされる活動がますます受け入れられなくなる将来を予見している。彼はこう書いている。

われわれの時代が物質主義、実利主義に向かいつつある状況を目の当たりにすると……精神の喜びを追求する人たちが堂々と陽のもとに居場所を求める権利を失う社会が到来するという考えが突飛なものではなくなる。作家、思想家、夢想家、詩人、形而上学者、観察者……謎解きに挑んだり、批評の展開を試みたりする人物は時代遅れの存在となって、魚竜やマンモスのごとく地上から姿を消す運命にある。

本書では、そのような場を陽のもとにとどめておくにはどうしたらいいかを考察する。中国には立派な高速道路をも迂回させる、「ネイルハウス(釘子戸)」と呼ばれる立ち退き拒否の家があるそうだが、本書はそのネイルハウスの頑固さにならい、注意経済アテンション・エコノミーにたいする政治的抵抗行為としての「何もしない」を実践するためのフィールド・ガイドだ。

本書はアーティストや作家だけに向けたものではなく、人生とは手段以上のもの・・・・・・・であるので最適化されないと考えるすべての人に向けて書いた。私の議論の原動力となっているのは単純な拒絶だ。それは、自分にとっての「今・ここ」や周囲にいる人たちだけではなんとなく物足りないと考えることの拒絶だ。

フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォームは、私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ちにつけこむダムのような存在で、人間のもっとも根源的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている。孤独、観察、シンプルな自立共生コンヴィヴィアリティ(自立した人間が他者や環境と創造的な関係性をたがいに結ぶ、イヴァン・イリイチが提唱した概念)は、それじたいが目的や結果なのではなく、幸運にもこの世に生を享けた者ならだれもが持つ不可侵の権利だと認識されなければならない。

私が本書で提案する「何もない(nothing)」とは、資本主義的な生産性の観点から見た場合の「何もない」に限定されるという事実が、『何もしない』というタイトルを冠する本がなぜか行動計画らしきものになっている皮肉を説明している。本書では以下の一連の動きに注目してみたい。

ひとつめは、ドロップアウトすること。これは1960年代の「ドロップアウト」とたいして変わらない。ふたつめ、私たちの周囲のモノや人へと横方向に向かう動き。みっつめ、下降して所定の位置に収まる動き。現在のテクノロジーのほとんどが、内省、好奇心、コミュニティに属したいという欲望を釣り上げるための疑似ターゲットを内包するデザインになっているので、油断すると私たちの歩みはことあるごとに妨害される。

何らかの逃避に憧れている人がいたら、聞いてみるといい。そもそも「大地に帰る」とはどういうことなのか? 大地とは私たちが今まさにいるこの場所のことでは? 「拡張現実」というのは、受話器をもう持ち上げなくてもよくなるということだけを意味するのだろうか? それでは、そういう状態になったときにあなたが対峙するモノ(もしくは人)とはいったい何/誰なのか?

本書は新自由主義的な決定論がはびこる荒涼とした景観のなかに埋もれた、曖昧さと非効率性の源泉を探る試みだ。それは手軽な完全栄養代替食のソイレントが幅を利かせる時代に、四品からなるコース料理を出すようなものだ。だが、何かをやめてみたり、ペースを落としたりすることへの誘いのなかに、読者にいくらか安らぎを見出してほしいと思ってはいるものの、週末限定のリトリートだとか、ただ創造性について論じる本として終わらせるつもりはない。

私が定義する「何もしない」の重要なポイントは、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えたりすることではなく、私たちが現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかるということだ。私の主張が反資本主義なのはまぎれもない事実であり、時間、場所、自己、コミュニティを資本主義の観点から捉えるよう促すテクノロジーにたいしてはとりわけ警戒している。

それはまた、環境や歴史にかかわることでもある。私は場所に向ける注意の矛先を変え、深めることを提案しているが、そうすれば自分が歴史に人間以上モア・ザン・ヒューマンのコミュニティの一員として参与しているという意識が生まれるだろう。社会的視点とエコロジカルな視点のどちらにおいても、「何もしない」の究極の到達点とは注意経済アテンション・エコノミーから私たちの注意を奪還して、それを公的で物理的な領域に移植してやることなのだ。

私はテクノロジー反対派ではない。なぜなら、自然界の観察を可能にする道具から脱中央集権型の非営利ソーシャル・ネットワークまで、私たちが今ここに存在するのを助けてくれる可能性を秘めたさまざまな形のテクノロジーが世の中には存在するからだ。私が反対しているのは、企業プラットフォームが私たちの注意を売買することや、狭義の生産性ばかり神聖化して、ローカルで、人間くさくて、詩的なものを無視するようなテクノロジーのデザインや利用法だ。現行のソーシャル・メディアが表現(そこには自分を表現しない権利も含まれる)に及ぼす影響と、依存性が故意に組み込まれている点を懸念している。

だが、必ずしもインターネットそのものやソーシャル・メディアという概念じたいが悪者なのではない。責められるべきは、商業的ソーシャル・メディアが持つ侵略的ロジックと、私たちをつねに不安、羨望、注意力散漫の状態にしておいて利益を上げることを奨励する金銭的インセンティブだ。さらに、そのようなプラットフォームから派生する個性礼賛やパーソナル・ブランディングは、オフラインにおける私たちの自己像や実際に暮らしている場所についての考え方に影響をおよぼしている。

私はその場ザ・ローカルに、今という時間に存在することの大切さを主張しているが、そう考えると、私が生まれ育ち、現在も暮らすサンフランシスコのベイエリアに本書もまた根差すものでなければならないだろう。この地域にはよく知られた二つの顔がある――ハイテク企業と雄大な自然だ。サンドヒルロードに立ち並ぶベンチャー投資家のオフィスからそのまま車で西に向かえば海が一望できるレッドウッドの森に到達するし、フェイスブック本社キャンパスからぶらぶら歩いて行けば、海辺に生息する鳥がたくさん集まる干潟に出る。

私は子ども時代をクパチーノで過ごし、ヒューレット・パッカード社の母のオフィスに連れて行かれることもあって、いちど最初期のVRヘッドセットを装着してみた経験がある。確かに、家のなかでコンピュータに向かっていることも多かった。だが、それ以外では家族で時間をかけてハイキングに出かけ、ビッグベイスンにあるオークやレッドウッドが生い茂る森を訪れたり、サングレゴリオ州立海岸の岸壁の上を歩いたりした。夏になるとたいていサンタクルーズ山地でのキャンプに参加して、「セコイア・センペルビレンス」(レッドウッドの学名)という名前などを毎年のように覚えていた。

私はアーティストであり、作家だ。2010年代初頭にコンピュータを使ってアートを制作していたという理由で、また、おそらくサンフランシスコ在住ということから、何でもありの「アートとテクノロジー」カテゴリーに入る人だとみなされている。だが、私がテクノロジーについて関心を抱くのはただ、テクノロジーによっていかに物理的現実にアクセスしやすくなるかという一点だけで、そのテーマに心血を注いでいる。そんなわけで、私は少しばかり奇妙な立場に押しやられることになった。テクノロジー関連のカンファレンスに招かれることがあっても、それよりも外でバードウォッチングをしていたいと思うタイプの人間なのだ。

だが、これは私が経験してきたちょっと変わった「どっちつかず」の状態の一例にすぎない。そもそも私は異人種どうしの両親のもとに生まれているし、アーティストとしては物質的世界についてのデジタル・アートを制作している。これまでに、「ゴミ捨て場」として知られているレコロジーSF(サンフランシスコを拠点とするゴミ収集業者)、サンフランシスコ都市計画局、インターネット・アーカイブなど、風変わりな場所で招聘アーティストになった経験がある。私にとってのシリコンバレーとは、子ども時代の懐かしい思い出の源泉であると同時に注意経済をもたらしたテクノロジーそのものでもあり、愛憎相半ばする関係にあるのだ。

居心地は悪いかもしれないが、どっちつかずの状態に身を置くのは悪いことではない。本書のアイデアの多くは、スタンフォード大学のデザインと工学専攻の学生相手にスタジオ・アートを教え、その重要性を議論した年月のなかで生まれたものだ。(なかにはこちらの言わんとすることがどうしても理解できない学生もいた)私のデジタル・デザインの授業で行う唯一のフィールドトリップはただのハイキングで、私はときどき学生を屋外に座らせて、15分間何もしないでいるように指示する。そのような試みは何かを伝える私なりのやり方なのだと、最近わかってきた。山と、目まぐるしく変化する起業精神文化に囲まれて暮らしていると疑問を抱くものなのだ。現実世界が目の前で崩壊しているというのに、デジタル世界を構築することになんの意味があるのか、と。

私の授業で一風変わった活動を行うのは、心配だからでもある。学生や知人と接していると、彼らがとてつもないエネルギー、激しさ、そして不安を抱えているのが伝わってくる。人びとは通知に気をとられているだけでなく、生産性と進歩の神話を信じ込み、休むのはおろか、自分の現在地をちょっと確認してみることすらままならない。さらに、本書の執筆に打ち込んでいた夏のあいだじゅうずっと、私は終わりのない森林火災を目の当たりにしていた。この場所は、あなたが今いる場所と同じく何かを大声で訴えている。私たちはその声に耳を傾けるべきではないだろうか。


「意味を持たない時間」の効用とは? この続きはぜひ本書『何もしない』でご確認ください。

書誌情報

『何もしない』
著者:ジェニー・オデル
訳者:竹内要江
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
発売日:2023年11月
本体価格:1,060円(税抜)

著者略歴

ジェニー・オデル Jenny Odell
アーティスト・作家。バードウォッチング、スクリーンショットの収集、おかしな電子商取引の解析など「観察」をともなう作品を多く発表し、フェイスブック、インターネット・アーカイブ、サンフランシスコ都市計画局、レコロジーSF(ゴミ収集業者)など多様な団体で招聘アーティストとなった。アメリカ国内のほか、欧州、中国、中東などでも作品の展示が行われている。2013~2021年スタンフォード大学講師。カリフォルニア州オークランド在住。本書『何もしない』はバラク・オバマ年間ベストブックに選出された。