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ミステリ界の巨匠を代表する名作! エラリイ・クイーン『九尾の猫〔新訳版〕』飯城勇三氏によるnote版解説 全文公開!

九尾の猫_帯 (1)

現在大好評発売中のハヤカワ・ミステリ文庫のエラリイ・クイーン新訳版4部作。それぞれの巻に収録された。クイーン研究家・飯城勇三氏による巻末解説を全冊分順次公開いたします! 原本での真相に触れる部分のかわりに、note版だけでしか読めない新しいトピックをそれぞれ書き下ろしていただきました! 今回は『災厄の町』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』と続いてきた四部作の掉尾を飾る名作、『九尾の猫』です!

解説 もう一つの傑作

エラリイ・クイーン研究家  飯城勇三

その刊行──往きて帰りし物語

 一九四二年の『災厄の町』で新たな境地を開いたクイーンは、同じ地方都市ライツヴィルを舞台に、『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』という優れた長篇を生み出しました。しかし、作者クイーンの充実ぶりとは逆に、探偵クイーンは、この『十日間』の結末で、探偵をやめる決意をします。そして、傷心のエラリイが、ニューヨークに戻って間もなく起こった事件を描いたのが、本作『九尾の猫』なのです。ただし、前作を読んでおく必要はありません。冒頭などで説明してあるので、いきなり本作から読み始めても大丈夫です。また、訳者も未読の人のことを考え、『十日間』に言及している部分をぼかして訳してくれました。
 その『九尾の猫』は、クイーンの中期作の中では、『災厄の町』に次ぐ高い評価を得ています。
『災厄の町』〔新訳版〕の解説で紹介した、アメリカのクイーン研究誌が一九七一年に実施した長篇ランキングは、①災厄の町 ②Yの悲劇 ③Xの悲劇 ④九尾の猫 ⑤エジプト十字架の秘密──なので、中期作としては二位になります。
 また、クイーンの片割れであるフレデリック・ダネイが一九七七年に来日した際に、《週刊朝日》誌九月二十三日号のインタビューに答えて挙げた自作のベストは、①チャイナ・オレンジの秘密 ②災厄の町 ③途中の家 番外・九尾の猫──なので、これまた中期作としては二位になります。
 ただし、本作が『災厄の町』より劣っているわけではありません。すでに読み終えた人ならわかるはずですが、この二作は、あまりにも作品のタイプが異なるので、比較して優劣をつけることができないのです。地方と都会、殺人が終盤に一つと冒頭から連続、殺人を噂話のネタにする住民と殺人におびえる住民、クイーン警視たちの出番のあるなし、旧弊な愛の物語と最新の精神分析の導入……。したがって、「どちらの作風が好みか」という観点からの評価にならざるを得ないわけですね。実際、『東西ミステリーベスト100』(二〇一二年)では、『災厄の町』より『九尾の猫』が上位に来ていますから。他の作家と異なり、作風の幅が大きいクイーンならではの評価の難しさと言えるでしょう。

その魅力──鼠たちの沈黙

 トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(一九八八年)が火付け役となって一九九〇年代にブームを巻き起こしたサイコキラーもの。本作は、その先駆として評価されています。アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』などとは違い、サイコキラーものの犯人は、(読者の常識外の)異常な動機で連続殺人を実行していますが、本作がこちらのタイプであることは、読んだ人には明らかでしょう。
 一方、殺人の動機が金銭や愛憎ではないということは、捜査側はプロファイリングを行い、犯人の思考を推理しなければなりません。まさにこの点こそが、サイコキラーものが本格ミステリにもなり得る理由であり、本作が本格ミステリとして高く評価されている理由でもあります。「なぜ被害者がだんだん若くなるのか?」「なぜ女性の被害者は全員が独身なのか?」「なぜ電話帳に載っている者だけが被害者なのか?」という謎が鮮やかに結びつく真相は、ミッシングリンクものとして見ても、傑作だと言えるでしょう。また、第六と第七の被害者の年齢が大きく開いている理由に感心した本格ファンも、少なくないはずです。
 しかし、本作の最大の魅力は、大都市そのものを描いた文学としても読める点でしょう。
『災厄の町』などで地方都市ライツヴィルを主役として見事に描き出した作者が、その筆力をもって、世界最大の都市をパニックにたたき込んだのです。殺戮をくり返す〈猫〉も、それを追う警察も、恐怖に駆られる市民も、それをあおるマスコミも、うろたえるだけの政治家も、まるで本当に存在しているようではありませんか。メトロポル・ホールの暴動などは、サイコキラーものにも本格ミステリにも必要ありませんが、本作には、なくてはならないものなのです。
 そして、そのパニックの陰には、第二次世界大戦が潜んでいます。一九九三年の評論「大量死と密室」(『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』収録)の中で、法月綸太郎氏は、本作からニューヨークを戦場にしようとする作者の狙いを読み取りました。特に後半に頻出する戦争関係の言葉を見ると、的を射た指摘だと言えるでしょう。
 しかし、二十一世紀の現在から見ると、〈猫〉の脅威は、世界大戦よりはテロに近いのではないでしょうか? 実際、9・11直後のアメリカの狂騒を見て、本作を思い浮かべた人は少なくなかったはずです。また、第7章でプロメテウスが語る権力と民衆と恐怖の関係も、国家間の戦争よりは、テロに合っています。過去を向いていたはずの作品が未来を示してしまう──本作の評価が上がるのは、むしろ、これからかもしれません。
 そして、さらに本作の評価を上げるであろう本が、二〇一二年に刊行されました。マンフレッド・リーとフレデリック・ダネイの間で創作時に交わされた書簡を集めたBlood Relations という本です。この本の三割ほどが『九尾の猫』関係の書簡なのですが、その中では二人の創作をめぐる主導権争いが激しくなり、コンビが決裂する寸前まで行ったことがわかります(ダネイが本作を気に入っているのは、完成までに一番苦労したからかもしれませんね)。また、本作の背後に存在する二人の多種多様なディスカッションを読むと、さらに評価が上がるわけです。
 では最後に、ファン向けの小ネタを二つ。
〔その1〕本作を「犯人がわかりやすい」と低く評価する日本の本格ミステリ・ファンは少なくありません。おそらくそれは、容疑者が少ないためなのでしょう。主要人物から被害者と捜査関係者を除くと、数名しか残りませんからね。原書の初刊本には登場人物表は存在しないのですが、三種の邦訳書では読者の便宜を優先して入れているため、さらに犯人を当てやすくなっているわけです。これから本書を読む人は、冒頭の人物表は参照しないというのも、いいかもしれません。
〔その2〕前述の書簡集では、ダネイは「(雑誌に連載できるように)かなり注意深く構成を練っておいた。本作は、二回連載、四回連載、六回連載用に分割できるようになっている」と書いています。となると、二回分載の切れ目は、間違いなく第7章の終わりでしょう。つまり、「わが同胞Qよ、おまえはおしまいだ」以降の文は、次号への〝引き〟だったわけです。

そのTV──「エラリイ・クイーン、うしろを見るな」


 本作は一九七一年にTVムービー(TV用映画)として映像化されています。題名はEllery Queen:Donʼt Look Behind You(邦題は「エラリイ・クイーン:青とピンクの紐」)、エラリイ役はピーター・ローフォード、クイーン警視役はハリー・モーガン、監督はバリー・シアー、脚本はテッド・レイトンとレスリー・スティーヴンス。
 注目すべきは脚本家のテッド・レイトンで、これは「刑事コロンボ」や「ジェシカおばさんの事件簿」、そしてTV版「エラリー・クイーン」で知られるウィリアム・リンクとリチャード・レヴィンソンの変名なのです。のちにリンクが語ったところによると、熱烈なクイーン・ファンである彼らが完成させた脚本が、許可なく大幅に変えられたため、変名にしたとのこと。
 その映像化された作品を観るならば、ミステリ部分の骨格は、きちんと原作に沿っています(終盤にはオリジナルの巧妙な手がかりも出て来ます)が、原作とは異なる肉付けがされているために、まるで別物としか思えませんでした。
 最も大きい変更は、エラリイが(『ハートの4』の頃の)プレイボーイ・タイプになっていること。当然のことながら、原作冒頭の苦悩も終盤の救いもカット。さらに、存在自体がカットされたジミーの代わりに、セレストの恋人役もつとめています。
 次に大きい変更は、ニューヨークの混乱がほとんどと言っていいほど描かれていないこと。殺人鬼におびえる市民の姿は描かれず、メトロポル・ホールのパニックもカットされています。かろうじて、エラリイたちが夜に出歩いていると自警団に注意されるシーンは入っていますが……。あと、なぜか殺人鬼が〈猫〉から〈ヒドラ〉に変えられています。
ひょっとして、愛猫家のクレームを恐れたのでしょうか?
 もっとも、このTVムービーはシリーズ化を前提としたパイロット版なので、エラリイの性格を原作通りにしたり、予算をかけて市のパニックを描くことはできなかったのでしょう。ローフォードのミスキャスト以前に、そもそもミス原作だったわけです(ひょっとしたら、最初は単発作品にするつもりだったのかもしれませんね)。それを考えると、脚本の巧さもあり、ファンならば観て損はないでしょう。ただし、日本で放映された版にはミステリ部分のカットがかなりあるので、そこが悩ましいところですが……。

その来日──猫は二つの背を持つ

 本作の初訳は一九五四年のポケミス版(村崎敏郎訳)で、その後、一九七八年にハヤカワ・ミステリ文庫版(大庭忠男訳)が出ています。どちらも当時としてはきちんとした訳ですが、現在の目から見ると、不満がないわけではありません。というのも、一九七八年
以降に発表された研究や評論や資料が、反映されていないからです。
 例えば、クイーン作品における神学的テーマが論じられるようになったのは、一九七六年に『第八の日』が訳されて以降ですし、本作のラストの変奏が描かれる『間違いの悲劇』の邦訳は二〇〇六年でした。本書ではそれを受け、ラストのセリフに出てくる「マイン・ヘル」には、「きみ」だけでなく「わが神」という意味もあることがわかるように訳されたわけです。
 また、前述の書簡集の中でダネイは「本にマンハッタンの地図を入れるように、出版社に指示しようと思っている。殺人の現場にXの印をつけたものだよ」と語っています。文庫旧版ではこの地図は抜けていますが、本書では、ダネイの意図をくみ、原書の初刊本の地図を訳載したわけです。

その評価――殺人鬼と精神分析

 ここでは、アメリカにおける興味深い『九尾の猫』評を紹介しましょう。この作が一九六五年にバンタム・ブックスから出た際に添えられた、アンソニー・バウチャーによる序文の一部です(私による抄訳)

〈連続殺人〉は、謎解き形式の探偵小説において、最も作者が意欲をそそられる技法上の仕掛けの一つである。人物A、B、C、Dが明らかに同一人物によって殺害された。彼らの間にどのような結びつきが存在し得るのか? その死はどのようなパターンを形作るのか?
 こういったパターンを案出するのは、精神分析の存在を知る以前のミステリ小説においては、ずっと簡単だった。ただし、(本作が出た)一九四九年頃には、もはや古めかしい素朴なやり方では読者を迷わせることはできなくなってしまっていた。だがクイーンは、堂々とこの〈作者への挑戦〉を受けて立ち、精神分析の時代においても説得力のある大量殺人のパターンを作り上げたのだ。
 さらに本作は、連続殺人の仕掛けや精神分析(最後の場面におけるエラリーと偉大な精神分析医ベーラ・セリグマンとの間の最終シーンは、おそらく探偵小説史上最も優れた解明の一つであろう)を鮮やかに使っただけではない。一つの都市全体を主人公として描く、という小説上の難問にも取り組み、成功を収めているのだ。


 かくして、バウチャーは本作をクイーンの傑作七選に加えました。それは、以下の七作です。『Yの悲劇』『シャム双生児の秘密』『チャイナ・オレンジの秘密』『災厄の町』『九尾の猫』『悪の起源』『最後の一撃』。



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