2017年最注目のSFアニメ『ID-0』小説版、冒頭特別公開!
遙かな未来。
人類は、ある鉱物を利用して太陽系を越え、版図を広げようとしていた。
鉱物の名は、オリハルト。
特異空間を介して時空転移する性質を持つオリハルトは、流通や通信を支える社会的基盤ネットワークとなった。
遠宇宙への進出、タイムラグなしの情報交換、ロボットへの意識転移、これらはみなオリハルトの偉大な力のお蔭である。
反面、オリハルトの近くでは、まだ人類にはコントロールできない重力異常と空間歪曲の激しい嵐が吹き荒れることもあり、かつては軽率な使用に警鐘を鳴らす学説もあったという。
未知に対する恐怖が脳裏をよぎるたび、人々はこう自己暗示をかける。
人体の謎がひとつ残らず解明されたわけでもないのに、我々は生きているじゃないか、と。
Alea jacta est.
賽は投げられた
はくちょう座の嘴(くちばし)にあたるアルビレオ二重連星系は、オレンジ色の死にかけた星と青い燃えさかる星が、寄り添ってベールにくるまっているように見える。
若者から鋭気を奪い、年寄りから知恵を奪うがごとく、二つの恒星が激しく成分をやりとりする周囲は、目立った惑星もなく、流れ着いた幾つかの小惑星がおろおろと周囲を巡るのみだった。
そのひとつ、長径百十キロメートルのオメガ3は、ショートブーツそっくりの形をしている。
いま、ブーツの甲のあたりに無人掘削機が降り立とうとしていた。
小惑星の資源掘削には幾つかの方法があるが、オメガ3は、ネットや構造物で全体を固定するほど小さくないので、掘削機(リグ)の脚を岩盤にがっちりロックするという方法が採用されている。
掘削するためには、固定が何よりも大切だ。支えのない宇宙空間においては、ボウリングの打ち込みは作用反作用の法則にしたがって即座に惑星を動かし、力が逃げてしまうからだ。
アカデミー学術調査用試験掘削機は、放射状に撃ち出したワイヤーと脚部でオメガ3に取り付いた。
「ロッキング作業完了。固定化問題なし」
上空から掘削機を遠隔操作するアカデミー調査船の中で、宇宙服を着た准教授のロマノフがモニターを見ながら報告する。
横に座す学生、ミクリ・マヤも続いた。
「ライザーパイプ設置確認。自転・公転軌道は、ヤルコフスキー効果以上の変化は見られません。掘削作業可能な数値を維持しています」
「微小重力掘削、安全基準遵守されています」
ロマノフが続けると、司令席の教授アットミー・キンズバーグの白鬚顔がヘルメットの中で頬笑んだ。
「では、試掘を開始しましょう」
ドリルストリングスが地中に送り込まれ、掘削機の尖端(ビット)が回転する。
マヤは、ビットから噴き出される泥水が岩屑と一緒に吸い上げられているのを確認した。水は岩屑を上方で濾(こ)してから、またビットの摩擦低減のために循環していく。
「内部の空隙率、四十%前後。予想範囲内です」
マヤが言うと、キンズバーグ教授は優しい声で言った。
「予算的にこれが最後の試掘です。マヤ君の地質予測、期待していますよ」
マヤは身体ごと振り返り、一段高いところにいる教授に顔を向けた。
「それでしたら、やはり第一試掘候補地のデルタ9のほうが……」
教授は、駄々っ子を諭すような顔をする。
「デルタ9は、レベル4の天使擾乱(ミゲル・ストーム)に覆われた天体です。マヤ君たちを危険な目に遭わせるわけにはいきませんよ」
ミゲル・ストームは、オリハルト鉱石の持つ莫大な力が引き起こす重力異常と空間転移の嵐のこと。巻き込まれたらどうなるか判ったものではない。
マヤはほっとした。自分なんかの身を案じてくれる人が、ここにいるんだ、と。
教授はいつも優しい。たとえ奨学金目当てだとはいえ、勉学に励む姿を褒めてくれ、今回だって「試掘調査に同行すると評価が上がり、貸与額も増えるんじゃないかな」と誘ってくれた。
デルタ9に行ってもらえないのは、自分の事前レポートに不備があったからではないかと気が気ではなかったけれど、試掘の結果よりも安全を優先してくれているということなのだろう。
もう今回の予算は枠いっぱいに使ってしまっていた。後はない。なんとしてもこのオメガ3でいい値を出して、もっと教授に認めてもらわなければ。
決意の息を吐き出したマヤがモニターに向き直った瞬間。
「オレンジアラート!」ロマノフの鋭い声が響いた。「ドリルパイプ、ビット、緊急停止」
マヤの身体がびくっと跳ね上がる。
モニターの掘削機模式図が、先端部分を激しく点滅させている。
場慣れしているのか、教授はいつもの声でロマノフに訊いた。
「岩盤ですか。Iマシンで現地へ行って、確認作業を行いましょう」
「判りました」
ロマノフはヘルメットを遮光モードに曇らせながら、船内の無重力空間に身を浮かべる。
「マヤ君」
と、彼が促す。
「え、私も行くんですか?」
「当たり前だろう」
驚くマヤに、やはりすでに浮き上がっていた教授は穏やかな声をかける。
「マヤ君にとっては初めての試掘とはいえ、君もこのチームの一員なのですからね」
チームの一員。仲間として扱われているのなら、期待は裏切れない。
マヤは泣き笑いの表情を浮かべて、仕方なくふたりの後を追った。
オリハルト鉱石には、まだまだ謎が多い。
発見当初、小惑星帯に長径約三十キロメートルの岩石が突如として出現したのも理解できなければ、その中から出てきた発光する未知の鉱石があらゆる分析装置にかけてもまともな値を返さないことも信じがたかった。
鉱石は仮扱いとして無機質結晶質物質に分類されたが、安定した状態でも周辺に微小な重力異常が観測され、密閉容器の中で増減し、ある時は容器をすり抜けて移動する。「そもそも鉱物ではない」という主張も多い。
炎のように輝くことから、アトランティス伝説のオレイカルコスに因んでオリハルトと命名されたそれは、量子論的な特徴を一般的な物理学が扱えるサイズで体現しているように思えた。EPR(アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン)チャンネルと呼ばれる量子テレポーテーションによる情報伝達すら人々はまだ実現できていないというのに、オリハルトが行う重力異常を伴う増減や移動は、EPRでできることを遙かに超えた量子もつれによる物理的テレポーテーションを実現している可能性があった。
地球の科学者たちは熱心に研究し、やがて、なんとかその力を封じ込める特殊な電磁場の開発に成功する。
ある程度制御可能になると、学者たちは、複数のオリハルトが天使行路(ミゲル・ライン)と命名された特殊空間によってn次元的に結ばれることに気が付いた。それは、宇宙空間をショートカットして移動する手段に用いられ、天使跳躍(ミゲル・ジャンプ)は宇宙開発を大きく躍進させた。
相変わらずオリハルトの根本的な原理は不明である。しかし、犬の遺伝子構造を見極めなくても、人間は牧羊犬を便利に使役してきた。自分自身においても、心というものの正体が判らないというのに、確かに感情は存在する。オリハルトは人類にとってブラックボックスのまま、なくてはならない物質となった。
そして、オリハルトが人類史を大きく発展させたもう一つの利用法が、いま、マヤの前に姿を現している。
教授と准教授は、壁を蹴ってうまく空中遊泳していくが、マヤはそうはいかない。じたばたしながらなんとかついていく先には、直径八メートルの球形マシンが五機並んでいた。
「あ、あの、私、地質調査が専門なので、現地での作業とかは……」
「MTの二種免許、持ってるんだろ」
マシンに身体を滑り込ませながら、ロマノフが呆れた声を出した。
「実習でシミュレーションを二百時間こなしただけなんです」
「同調率のアベレージは」
「八十六ですけど」
「優秀じゃないか」
普通なら、恐れ入ります、とか、いやそんな、とか、謙遜を表さなければならないところだが、マヤに余裕はなかった。
奨学金。奨学金のため。
呪文のように唱えながら、球形マシンに転がり込む。
奨学金のためなら、魂の転送なんてどうってことない……ということにしておこう。
心の片隅で、このシステムを開発した人物を恨みながら、マヤは自分に言い聞かせた。
丸い機械は、MTシステム、という。マインドトランス、即ち意識を転送するためのものだ。
マシンによって解析され仮定義された意識は、オリハルトの空間転移能力を利用して外部領域に転送される。これにより、充分な精神再構築容量を持たせたロボットに、いわば憑依(ひょうい)することができ、ロボットの身体を自分のもののように扱えるのだ。
しかし、高度な量子神経学を用いているため、これを開発した三人の天才科学者以外、システムの全容はやはりブラックボックス的で、マヤはその信用ならなさが恐ろしいのだった。
自分の精神状態をすべて把握できる人なんかいないのに、機械やオリハルトにそれを取り出せるといわれても、鵜呑みにする以外に受け入れる方法はない。
脅えているのを察したのか、教授が声をかけてくれた。
「安心したまえ、マヤ君。Iマシンじゃないか。マシンが死んでもバックアップで肉体は生き返る」
そんなこと言われましても。
と、口を開く間もなく、マヤが横たわると同時にハッチ状の扉が二重に閉まり、MTシステムが涼やかな合成音声を流した。
「MTシステム起動。意識データのバックアップ作成後、Iマシンへの転送を開始します」
やめてえ、と叫びたかったが、もう取り返しがつかない。
暗黒、放電のような光。
仮定義されたマヤの意識データが渦巻く。
上下左右がなくなり、光も闇もなくなり、過去も未来も感じられない一瞬。
たぶん、死の淵を覗き込むというのはこういうことなのだろう。
「バックアップ完了。転送開始」
どくん、と鼓動が一度大きく響いた気がした。
次の瞬間、目はもはやMTシステムの中ではなく、Iマシンの格納庫を捉えていた。
殺風景な視界に、データレイヤーが表示される。
「同調の具合は?」
ロマノフが訊いた。
「数値的には大丈夫みたいですが」
データとは別に、自分の身体が五階建てのビルの真ん中に塗り籠められたような圧迫感があった。
「感覚データを身長十八メートルに設定、最適化しろ」
「あ、そうか」
Iマシンのサイズにバイオフィードバックを設定すると、ようやく〈身体〉が意識できた。
初心者を表す黄色に塗られたロボットの手を、マヤは自分の目の前で握ってみる。
「これが本物のIマシン……」
動きは自分の手と同じ感覚だった。まだ、大きなロボットに自分の知覚が内在している(インドウェリング)というのはピンとこないけれど。
「あとは慣れだ」
声の方を見ると、ハッチを出ようとするオリーブドラブ色のIマシンの上に、ロマノフの顔写真と名前データがレイヤー表示されていた。
卵形の頭部をほぼ骨格構造のみで支える汎用Iマシンは、いつ見ても骸骨に蟻の頭が載せられているように思える。機動性は充分なのだろうが、転送された身としてはもうちょっと安心感が欲しくなる。
「行きますよ、マヤ君」
「は、はい……」
教授に言われて、マヤはおそるおそる足底のロックを外した。
宇宙には上下がない。けれど、直立していた姿勢が崩れると、どうしても方向感覚が混乱する。
教授と准教授は、さっさとIマシン格納庫を出て、頼るもののない宇宙空間を進んでいる。
マヤは、やっとのことでハッチの縁にしがみついた。
前方には、オメガ3の向こうにごうごうと燃えさかるアルビレオ二重連星系。
恒星に吸い寄せられそうな気がして、足がすくんでしまう。
「あの……。正直に言いまして、とても怖いのですが」
ロマノフのIマシンが、くるりと振り向いて、言い放った。
「奨学金、止められてもいいのか?」
ひゅっ、とマヤの喉が鳴った。
「い、行きます。行きますから……うわわわわ」
バランス制御がうまくできず不格好に足掻(あが)きながら、マヤは慌てて二人を追った。
ワイヤーで固定された掘削機に近付くと、マヤはドリルパイプを安全基準までリフトアップさせた。
目の前に広げた仮想マップを眺めながら、教授は、
「該当箇所は金属含有率が高く硬いのですね。やはり石質と金属質の集積層ですか」
と呟いた。
教授の不満をロマノフが代弁する。
「マヤ君、なぜ予測できなかった」
指摘されたマヤはしどろもどろだ。
「試掘候補地はデルタ9だとうかがっていたので……。オメガ3の物理調査に時間をかけられませんでした。すみません」
教授はマヤをなじることなく、仮想マップを見つめている。
「ビットで金属層を掘り進められないとすると、坑内爆破で破砕するしかありませんね。マヤ君、影響を最小限にする破砕ポイントは?」
「はい。視界をドリルパイプの尖端センサーと同期させます」
そう答えながら、マヤはシミュレーションを思い出して、左手首のリングを操作した。視界に透過ウィンドウが三つ、重ねられる。尖端センサーが捉えた地層の映像と分析データだ。
それを丁寧に見比べてから、マヤは教授の仮想マップに歩み寄った。
「情報から推察すると、破砕ポイントはここだと思われます」
ドリルの尖端が固い岩盤に突き当たっているすぐ横を指さす。
「さすがですね。私の予測と一致しています」
マヤはその一言でほっとした。
落ちかけていたであろう評価を、これで少しはリカバリーできただろうか。
ロマノフはさっそく、指向性爆弾を遠隔操作でポイントに仕掛け始めた。
「衝撃が来るから、足底をロックして」
言われるままに足の裏で岩盤を掴む。
軽い地響きと共に、岩盤からIマシンの身体に低い音が伝導された。
「ドリルパイプ、掘削再開を確認」
マヤは再び胸を撫で下ろす。自分がしっかり下調べをしておけば、こんな手間をかけずにすんだのに。本当に申し訳ない。
「マヤ君、破砕した金属層を回収し、化学分析を行ってください」
「いま、回収した掘削泥水から成分を分離しています」
「ほう、手際がいいね。ああ、そうだ。分析自体はあそこの岩陰でね」
「は?」
マヤは教授のIマシンが指さす方向に目をやった。
「掘削機からは案外ノイズが出るものなんですよ。私には、あまりミスを見せないで欲しいからね」
「あ、はい。判りました」
本当に教授は心配りが行き届いている。研究に対しても、人に対しても。なのに自分はなかなかそれに応えられなくて。
よし、と気合を入れたマヤが、ドリルの潤滑剤として循環させている泥水サンプルを持ち、岩陰に進んだ時。
「レッドアラート!」
ロマノフの声が突き立った。
仮想マップが真っ赤に染まっている。
「ドリルパイプ尖端の圧力センサーが上昇!」
マヤの血の気が引いた。
「もしかして、オリハルト鉱石に直接ぶつかったんじゃ……」
最後まで言えなかった。
掘削機が大きく傾(かし)いだかと思うと、雷電を交えた土砂が垂直に噴き上がった。
咄嗟に脚部をロックしたが、激しい地面の揺れにすぐ外れ、マヤは簡単に浮き上がってしまう。
ミゲル・ストーム。オリハルト鉱石が巻き起こす異常重力が周囲の土塊(つちくれ)を弄び、不規則な空間転移は岩石をとんでもないところに出現させる。
石つぶてを浴びながら、マヤはキンズバーグ教授のIマシンが脚を残してばらばらになるのを見た。
「教授!」
と叫んだのが、果たして自分なのかロマノフなのか判らない。
一抱えもある岩石が突如として胸の前に姿を現し、マヤを虚空へ跳ね飛ばした。
「マヤく──」
ロマノフの声が途切れる。
手近なワイヤーに足底と掌底をロックさせていた彼のIマシンの腹を目がけ、地中から噴出した岩がぶち当たる。刹那、くの字になったロマノフは、胴体を突き破られて四散した。
「教授! ロマノフさん! 助けてください!」
姿勢制御できずに、おびただしい岩石と共にくるくる宇宙空間を回り続けるマヤ。
ようやくスラスターの使い方を思い出して体勢を立て直した時には、もうオメガ3は遙か遠くにあり、オリーブドラブのIマシンは二機とも見当たらなかった。
ふたりのIマシンが破壊されたのは、幻じゃなかった。本当のことなのだ。
「誰かーっ!」
石が来る。休まずぶつかってくる。豪雨に遭った蟻はこんな気分なのだろうか。
どこまで飛ばされるのだろう。調査船はどこ? 二人はもうマインドアウトして自分の身体に戻っちゃったの?
頭の中も嵐のようだった。
「教授、教授! 助けてください、教授!」
その時、三十メートル級のごつごつした岩が、マヤの方へ向かってきた。
あっと思ったが、素速く逃げられるほどIマシンに慣れていない。
激しい衝撃。
マヤも飛ばされているので、相対速度的にたいした損傷はなかった。
しかし、右手の先が岩の切れ込みに挟まってしまう。
その向こうからは、マヤへ向けて一直線に飛んでくるもう一つの岩石が……。
「右手、右手が」
引き抜こうとしても、暴れても、Iマシンの手先はがっちり岩にくわえ込まれている。
次の岩石がみるみる迫る。
「いけない。誰か、誰かーっ」
喉が張り裂けんばかりに叫んだ瞬間。
視界の片隅に青いものが流れた。
サファイア色のそれは、流星のように飛来する。
腕の付け根に、人生最大の痛みが爆発し、マヤは「ぎゃあああ」と大声を出した。
「痛い痛い痛い痛い」
何者かに乱暴に抱きかかえられて岩から引き剥がされる感覚があったが、痛みでなにがどうなっているのか理解できない。
思わず左手で痛みを押さえようとすると、なんと右腕がなかった。Iマシンのジョイント部分から、すっぱりと切断されている。
「痛い痛い痛い痛い」
叫ぶのをやめられないマヤの背中に、今度はドンと鋭いショック。
「あああああ」
岩の間を回りながら、マヤは別の方向に飛ばされていく。
「右腕の痛覚を切って」
女性の声がしたかと思うと、今度は少し丁寧に抱き止められた。
「右腕の痛覚データ」
念押しをされて、マヤはようやく自分が生身でないことを思い出す。
「あ、そっか」
Iマシンの右腕のデータを遮断すると、痛みは嘘のように消える。
ようやく、安堵の息が漏れた。
目の前には、自分を停止させてくれた女性型のIマシンがいる。ガーネット色の細面に両目の発光だけが目立つシンプルな顔。アメジスト色のボディは胸と腰のラインがしなやかさを表し、両肩にはケープのようなパーツが付いていた。
「ありがとう……ございます」
「お礼なんていいのよ」
女性型Iマシンは、お姉さんぽい雰囲気の声をしていた。
「ごめんね、ウチのは荒っぽくて。背中を蹴ったのは、あなたが三つ目の岩に気が付かなかったから」
「そ、そうなんですか」
どうやら、蹴り飛ばすことで岩にぶつからないようにしてくれたらしい。
マヤは、興奮の余韻でまだじいんとする頭を周囲へ巡らせた。
女性型の後ろを、サファイアの機体がクナイ状のものを腰のバインダーに収めながら浮遊していく。バインダーは、ジグザグに分割した盾のような形。
そのIマシンは、全身が青と白とで構成されて爽やかな印象なのに、首と左の二の腕にボロボロの赤い布を巻いているのがやけに目立った。
なんだかアウトローっぽい。
マヤはとても役に立ちそうにない赤いマフラーと腕章から、そんな印象を受けた。
「あの、あなた方は」
「エスカベイターよ」
「掘削業者さんですか」
オリハルトを求めて宇宙を渡り歩く掘削業者は、荒くれ者が多いと聞く。だったら、アウトローの印象も、なまじ外れていないのかもしれない。
落ち着きを取り戻したマヤのセンサーが、背後からものすごいスピードで近付くもう一機のIマシンを捉えた。
「ヒャッホー」
カーネリアン石のような朱を帯びた赤というスポーツカー的な色をしたそれは、ボブスレーや競艇のボートみたいな格好をしていて、おそろしく機動性が高かった。
スラスターを閃かせて急旋回し、瞬く間にマヤと女性型の近くへやってくる。
目の前でスチャッと人型に変形され、マヤは目を丸くした。
それは、耳に手をやって、元気のいい青年の声でいずこかへ通信をした。
「おやっさん、学生さんは無事だけど、そっちはどんな感じぃ?」
どうして私が学生だと知っているんだろう、とマヤは軽く首を捻(ひね)った。
通信相手は、「おやっさん」という呼びかけが似合う声をしていた。
「ファルザがな、アカデミーの先生方がトンズラこいてんのを確認した」
マヤはカーネリアン色のIマシンに身を乗り出した。
「トンズラって……。調査船、行っちゃったんですか?」
「そうみたいだねえええ」
カーネリアン色はおどけた調子で答える。
「そんな──。私、どうすれば」
「置いていくわけにゃいかないから、ま、ちっとそこで待っててくれ」
「は?」
続きは「おやっさん」の声がせわしなく説明した。
「いただいちまうんだよ、オメガ3のオリハルトをな。早え話が、あとは俺たちが好きにしていいってことだろ」
「はあああああ?」
と、思わず漏らしたマヤの声を、「ヒャッハーッ!」という歓声がかき消した。
「グレイマン、ストームレベルは」
少し陰のある青年の声がした。サファイア色のマシンからだ。
「レベル3だ」
見ると、オメガ3の三ヵ所から、ピジョンブラッド・ルビーが燃え立っているかのようなミゲル・ストームが激しく噴出していた。
カーネリアン色のIマシンは再びボブスレー型に変形し、同じく横臥の姿勢をとった青いマシンを掴んで「イヤッハーッ!」とすっ飛んでいく。
「ちょ、なに。危ない」
マヤはじたばたしてしまっている。ミゲル・ストームを器用に縫って、二体はオメガ3へ突き進んでいるのだ。
「リック、射出領域に突入した」
サファイアが言うと、
「判った」
と、リックというらしいカーネリアンが、青いのをオメガ3へ向けて投げ飛ばす。
「行けーっ、イド!」
イド。イドっていうんだ、私を助けてくれた人は。
「……って、あっ、無茶です。むちゃくちゃです」
イドはキックのポーズで、マヤたちが設置した掘削穴へ飛び込んでいった。
「大丈夫、大丈夫。いつものことよ」
アメジストのお姉さんは、言いながら、仮想スクリーンを展開した。
イドの視点だ。
掘削機が穿った穴の中を制動もかけずに落下している。
彼は、先ほどのクナイ状のものを取り出した。クナイは尖端をコの字に開きざま、ビームで黄色く発光する。
イドは両手でクナイを岩に打ち込み、ぐっと力んだ。
楔を打ち込まれたわけだから、岩盤はさほど苦もなく割れた。
岩にくるまれるようにして、ピジョンブラッドが輝きを放つ。
うるうると不思議な照りを見せる結晶柱に視点を固定したまま、イドが言う。
「カーラ、原石を見つけた。ミゲル・ジャンプで戻りたいが」
「いつでもどうぞ」
アメジスト色が、空間に、ぽい、と三メートル級のオリハルト鉱石を放した。
イドが同じような大きさのオリハルト鉱石を目の前に掲げる。
と。
女性が放ったオリハルト鉱石の周囲がぐらりと歪み、二十メートルはあろうかという岩の塊とイドのIマシンが出現した。
女性のオリハルトと、イドのそれとが端を触れあわせ、細かく震えている。
「うあ、うわあああ。こんなところでミゲル・ジャンプするなんて」
オリハルト鉱石はお互いを呼び合う。量子もつれの性質を持つと考えられている所以だ。
それくらいの知識はある。
けれど、マヤが知っているミゲル・ジャンプというのは、鉱石を緻密にコントロールできる規模の宇宙船が、それもブリッジから遠隔で操作するものであり、Iマシンが気軽に、しかも裸のオリハルトを指で摘まんでするものではないのだ。
さきほどカーラと呼ばれていたアメジストの女性が、そっけなくマヤから身を離し、岩石に埋もれている掘削したばかりのオリハルトを値踏みした。
「あらあ、お宝、ちょっと小さくない?」
カーネリアンのリックも、しゅっとやってきて肩をすくめる。
「おいおい、アカデミーの見立てもたいしたことないな」
その一言で、マヤははっとした。
「あの、そのオリハルト原石は私たちが掘り出す予定だったんです。返していただけないでしょうか」
イドが鋭い視線を向けてきた。
「アカデミーは掘削権を放棄して逃げ出している」
「でも、結果を残さないと、私、奨学金がもらえません。アカデミーにいられなくなったら──」
「あのさ」
リックが岩の向こうからひょいと顔を出した。
「早く逃げたら?」
「え?」
「炸裂波(ストーム・バースト)が来る」
「えええ?」
慌てて振り返ったオメガ3からは、暴れまくるミゲル・ストームの噴流が。
悲鳴を上げて姿勢を丸くしたマヤは、全身を同時に殴られたように感じ、そのまま何も判らなくなってしまった。
あの日も、四方八方から見えない力で打ち付けられたような気持ちがしていた。
初めて訪れた街の繁華街だった。
自分ひとりが、楽しげに流れゆく雑踏の中で立ちすくんでいた。
ざわめきがびりびりと皮膚に刺さる。
笑い声がきりきりと耳に刺さる。
店頭の華やかな照明が目に刺さる。
睦まじい親子の姿が心に刺さる。
「独りで行ってちょうだい」
施設のシスターは冷たく言ったのだった。
「あなたなら大丈夫でしょ」
大丈夫じゃない。
大丈夫なんかじゃない。
その証拠に、マヤは道に迷ってしまっていた。
いや、アカデミーへの道筋なんか、いくらでも調べられる。
誰かに訊いてもいいし、公衆検索ボックスへ駆け込んでもいい。
けれど、マヤは棒立ちになっている。
大丈夫じゃない。
自分はこれからどうなるんだろう。
どうやって暮らしていくんだろう。
アカデミーへ入って、奨学金をもらえるように勉強して、それから?
「とてもいい話なのよ」
と、シスターはご満悦だった。
「進路テストで、あなた、いい成績だったの。さすがうちの自慢の子」
シスターの周りには、おやつをちょうだいと叫ぶ三人の幼児。
「規定年齢いっぱいまでここにいても、進路が決まらず、無理矢理追い出すようなことになってしまう子もいるのに、あなたは本当に優秀で助かるわ」
おやつちょうだい、ねえ、もっとおやつ。
幼児たちが必死なのは、施設の経営が苦しくて、どんどん菓子が小さくなっているからだった。
自分がすんなり施設を出ていけば、他の孤児たちの菓子が少し大きくなるだろうか。
「このままずっといい子でね。適性があるんだもの。しかも飛び級ですって。問題を起こさず、一生懸命勉強すれば、きっと奨学金も大丈夫」
大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃない。
だいたい、なぜ自分に宇宙地質学の適性があるのかさっぱり理解できない。
オリハルト鉱石を確保するために、宇宙地質学科はいつも人員が足りないというが、マヤにはちっとも関心がない分野だった。
優秀な人材なら生活費も負担する、と連盟アカデミーは謳っているけれど、実際に行って話してみないと信用できなかった。シスターは、自分を追い出すために体(てい)のいい待遇を口にしたのかもしれないからだ。だっていつもそうだった。マヤは大丈夫。我慢できるわね、頑張れるわね、私が他の子に手を取られても、あなたなら放っておいても安心ね、あなたは本当にいい子だから大丈夫ね、って……。
マヤは迷って動けない。
アカデミーで宇宙地質学を勉強し続ける自分の姿が思い浮かばない。
新交通システムの事故で両親を亡くしてからずっと、未来のビジョンなんかまったく見えなくなっていた。
三歳で施設の門をくぐってからは、毎日の食事がちゃんと与えられることだけを望み続け、明日もここで生きていけますようにと祈ってきた。
いい子でいないと追い出されるかもしれないので、不安はひた隠しにし、明るく振る舞い、勉強に身を入れた。
いくら努力しても「あなたなら当然よね」とだけ言われ、褒められもせず感謝もされなかった。
マヤは必死に頑張っていた。妬みを買ったらふざけて躱(かわ)す処世術も身に着けたし、少しでもいい人に見られるように作り笑いも上手になった。
すべてはその日一日のために。今晩ちゃんと食事ができるように。ちゃんとベッドで眠れるように。
たゆまぬ努力の結果、こうしてたったひとり、未来が見えないまま、知らない街角に立っている。
大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃない。
アカデミーで興味のない学問に取り組んで、奨学金でその日その日をなんとか過ごして、それから? 学者になるの? 就職するの? お嫁さんになるの? それって、楽しいの? したいことが見つかるの? 私のしたいことって?
しなければならないことで手一杯だったから、今さらしたいことなんか思いつきやしない。
私はいったい何のために──。
雑踏がマヤを圧してくる。
人の波が、自分を小さく小さく蟻のように縮めにかかってくる。
大丈夫じゃない。未来が見えないなんて、したいことがないなんて、真の人間じゃない。
何かを成し遂げれば、誰かの役に立つの? その人は、よく頑張ったね、と褒めてくれるの? 私はウレシイという気持ちを取り戻せるの?
生き続けるためだけに生きるなんて、そんなことは──。
「マヤ、マヤさん。大丈夫? ねえ?」
滑らかなアルトの声がして、マヤは気を取り戻した。
大丈夫じゃな……あれ、大丈夫なのかも。
「あは、気が付いた? うなされてたわよ」
アメジスト色の仮面が自分を覗き込んでいる。
「あ、助けていただいたんですね。ありがとうございます。と……ところで、ここは?」
マヤは広々と前方が開けたデッキのようなところにいた。その先の光景は、まだ宇宙空間。
「俺らの根城だよ、お嬢さん」
左側、赤いIマシンの足先を固定バーにひっかけた、そう、確かリックと呼ばれていた機体が答えてくれた。
「根城?」
改めて見回すと、右側にはイドのサファイア色のIマシンが腕を組んで悠然と浮いている。
アメジスト色のカーラが補足した。
「我がエスカベイト社が誇る掘削作業専用航宙船、ストゥルティー号よ」
ストゥルティー。確かラテン語で「愚か者」とかなんとか。
しかし、マヤは賢く口をつぐんでいた。
これが航宙船だとすると、ここは発着デッキなのだろう。
リックが軽く両手を広げる。
「見た目はボロだが中身はすごいよ」
「Iマシン専用の居住区もあるの」
「へえ、Iマシンの……あ!」
マヤはバネ仕掛けのように立ち上がった。
「私、Iマシンのまま!」
慣れない身体が、弾みでへんてこな方向へ滑る。
「いけない。規定時間過ぎてる。ごめんなさい、皆さん。私、ひとまず自分の身体に戻ります」
生体は常にバイオフィードバックによって自我を確認している。いくらIマシンに五感が宿っているように思えても、身体のスケールも違えば、能力も違う。
肉体から長く離れていると、感覚が混乱し、ひどい場合は身体に戻っても後遺症が出ると習った。
マヤは焦ってMTシステムの肉体へ精神を送り返そうとした。
機敏にコマンドを出したが、彼女は「あれ」と首を捻る。
「エラー? マインドリロードの同期不能って……」
マヤは再び「あっ!」と叫んだ。
「ちょ、調査船はどこ? 私の身体、どこ?」
リックのIマシンが、呆れたように首を傾げた。
「トンズラこいたの、忘れちゃった?」
マヤは、すうっと血の気が引くのを感じた。Iマシンだから、正確には、精神構造がそのようなイメージを疑似体験させた。
「そ、そんな。私の身体を乗せたまま」
「おそらく、アルビレオの中継ステーションに戻ったんじゃないかしら」
カーラがあまりにものんびりした口調だったので、マヤは慌てて食いついた。
「あのっ、で、できれば私を調査船があるところまで連れて行ってくれると」
言葉の途中で、
「おーおー、助けてもらったってのに、ずいぶん虫のいいこと言ってんな」
と、「おやっさん」の通信が割って入った。
マヤがきょろきょろと周りを見渡しているので、「おやっさん」は名乗ることにしたようだった。
「このストゥルティー号の船長、グレイマンだ」
すぐに、
「娘のクレアです」
と、マヤと同年代であろうかわいい声がする。
「私、ミクリ・マヤといいます。連盟アカデミーの三回生で宇宙地質学を」
ん、とマヤは言葉を切った。
さっき、カーラは自分のことをちゃんと「マヤ」と呼んでいたような気がする。
「ブリッジへ行こう」
唐突にイドがマヤの残った腕を引く。
「話は道々でもできる。お前の機体は汎用だから、ブリッジへ行けば予備パーツがある」
「いやいやいや、そういうことじゃなくて、あの、私の身体」
イドは聞く耳を持たずに、デッキの奥の扉を開き、円筒の通路へマヤを連れて行った。
さすがにIマシンの居住区があるというだけあって、通路は四体で通っても充分余裕がある。
「それにしても、だ、お嬢ちゃん」
グレイマン船長が音声通信で呼びかけた。
「ステーションに送り届けるのに、どれだけ費用がかかると思ってんだ? 諦めな」
「そうね、ま、これも人生よ」
カーラまでのんびりと同調する。
「なに言ってんですか。身体がなくなったら、私、死んじゃいますよ。お礼は必ずしますからあ」
「学生が支払える額じゃないのよ」
「しゅっ、出世払いとか、リボ払いとか」
重力区画に入ったのか、がくんと身体が重くなった。
目の前には大昔のカメラシャッターのように開く扉が立ちふさがっている。
「うちの船長、気が短いからなあ」
リックも、ことのほかのんびりと言った。
「そんなあ」
扉が重々しく開くと同時に、
「だが、条件次第ではあんたの要望に応えてやってもいい」
奥から、いかつい鉄鉱石色のIマシンが喋りかけてきた。
両肩にごつごつしたパーツを付けていて、頭部は緑の野球キャップのような透明パーツに覆われている。顎もがっちりしたデザインなので威圧感がすごい。
あ、そうか。鉄鉱石色は灰色。だからグレイマン。
「……先ほどの船長さんですか?」
マヤは半信半疑だ。
そもそも、初めて見る形のブリッジだった。
普通なら、作業はIマシンがしてもブリッジは人間用サイズ。なのにそこは、直径百メートルはありそうな巨大な半球なのだ。壁際には、Iマシンサイズのデータコンソールがある。中央のドーナツ型の段差は、さっさとリックが腰掛けたところからして、Iマシンのままで休憩するところなのだろう。ドーナツの穴の部分には、おそらく下へ向かうエレベータであろう円形の機構が見える。
ブリッジの一画はバルコニーのように突き出していて、そこが本来の人間用スペースだった。
バルコニーから、眼鏡をかけた若い女性が、何か喋りかけているようだ。
「え? すみません。なんて言われました?」
「音レベルを5に設定してみな」
グレイマンに教えられて手首のリングで操作すると、やっと、
「聞こえますかあ」
という呼びかけが届いた。
この声は、さきほどグレイマンの娘と名乗ったクレアだ。
ズームを使って見ると、予想したとおりマヤと同じくらいの歳格好をしていた。髪をゆるく二つにくくり、ヘッドセットをカチューシャとして使っている。暗い色のジャンパースカートを身に着けているので、眼鏡のフレームと靴のピンクがとても可愛く映えていた。
「あ、聞こえます」
とマヤが答えると、
「よかった」
クレアは丸い顔でにっこりした。
優しそう。
マヤは試掘調査に出てから初めて、安らぎを覚えた。教授や准教授の前では気を抜けなかったし、そのあとはIマシン三体に囲まれてとんでもない目に遭った。なんだか、やっと話が通じる子に出会えた気がしたのだ。
けれど、クレアは柔らかい声のまま、妙なことを言う。
「あのね、私たちはオリハルト専門の発掘業者でね、いつも人手が足りないの」
「は?」
「だからよお」
と、巨大な父親が腰に手を当ててクレアとマヤの間に立つ。グレイマンは、いつの間にか変形していた。肩のいかめしいパーツは折りたたまれた複数の腕だった。生身の時の癖なのか、エネルギーペレットを葉巻のように指に挟んでいる。
「あんたがここで旅費ぶん働いてくれりゃ、中継ステーションだろうが何だろうが送り届
けてやるよ」
「ほんとですか!」
「ホントホント」
横柄に胸を張るグレイマンに近付いて、マヤはぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張ります!」
とにかく身体。肉体を取り戻せるなら立派に働いてみせる。
マヤはその一心だった。
情報収集に長けているらしいカーラが、資料を駆使しててきぱきと仕事の手順を説明してくれた。
それを受けて、クレアが球形モニターの前にウィングタイプの仮想コンソールを展開し、パネルに映像を出す。
ターゲットは、アルビレオ二重連星系外縁天体、デルタ9。全長約二十キロメートル、オリハルトの推定埋蔵量はAランク。
小惑星表面のほぼ全域からレベル4クラスのミゲル・ストームが断続的に噴出していて、どの掘削業者も手が出せない。
「うーん、そいつぁ困ったなああああ」
わざとらしく語尾を伸ばしてリックが呟く。
なぜかグレイマンの語尾も伸びている。
「データなしじゃ無理かあああ」
「あ、あのぉ」
マヤはそっと手を挙げた。ミーティングの前に付けてもらった右腕は、きちんと動作している。直してもらったお礼代わりに、ここは協力しなければならないところだ。
「私、この天体知ってます」
「あら、ほんとおお?」
言葉とは裏腹にたいして驚きもせず、カーラがマヤのIマシンを見遣やる。
「はい。ゼミの観測対象でした。本来はこっちを試掘調査する予定だったんですけど、教授がいきなり候補地を変更して」
「へえええ。そいつぁ素敵な偶然だあああ」
リックが親指を立てて見せる。
カーラは猫なで声だった。
「ねええ、マヤさん。試掘しようと考えたくらいなんだから、デルタ9の表面に辿り着く方法があったりしないいいい?」
「えっと……」
出しゃばりすぎないように、マヤはちらりと船長をうかがう。
「おう、何とかなるってんなら教えてくれ」
説明のためにバルコニーへに近付くと、クレアが球体モニターの権限をマヤへ渡してくれた。
「デルタ9の十年分のスペクトラム観測データから判ったんですが」
まん丸いモニターは、クレアにとっては抱えることもできない大きさのバーチャルコンソールだが、Iマシンのマヤにはハンドボールくらいでしかない。慎重に人差し指で突っつく。
モニターの映像が、デルタ9の軌道とそれに交差する曲線に変わった。
「えっと……このルートなら、ミゲル・ストームの影響を受けにくいはずです。あの、それで、ストームが噴出していない穴も見つけました」
え、とその場にいる全員が驚いた。おどおどした説明ぶりと、その内容の価値に面食らっている。
「この穴を利用すれば、比較的楽に掘削できます」
ふむ、とリックが顎に手を当てた。
「これが本当なら、今回の仕事はボロ儲けだけど」
やっぱり私ごときが言うことなんか、信じてもらえないんだ。
マヤが落胆しかけた時、イドが凜と顔を上げた。
「こいつのデータ分析は悪くない。やる価値はある」
一気に場の雰囲気が変わった。
「イドが言うなら、決まりだ」
と、リック。
グレイマンも「ああ」と頷いている。
カーラは親しげに腕を広げた。
「素晴らしいわ、マヤさん。イドが認めるなんて」
一瞬きょとんとしてしまった。
褒められた? 自分は、もしかして、役に立った?
「この掘削がうまくいけば、すぐにでもステーションに戻れると思うわ」
マニキュアのように赤く染めた人差し指の先をぴんと立てて、カーラが、うふ、と笑う。
マヤは身を乗り出した。
「ほんとうですか! 頑張ります!」
「ファウッ!」
「ふぁう? ──わっ」
跳び上がってしまった。変な声の主は誰かと振り返ると、そこには四足歩行型Iマシンがいつの間にか現れていたのだ。
丸い頭に丸い目。ウサギに似た耳と、多関節構造の尻尾がついている。人型Iマシンと同じくボディは脊椎剥き出しのデザインだが、色がピンクなので骸骨の気味悪さは低減されていた。
「その子はね、ファルザ。可愛いでしょ」
クレアはにこにこしている。
「な、中身は人? 犬?」
「どうかな。言葉は判るけど喋れないから。そのタイプだと人間の意識を受け止める容量はないと思う」
「本体が判らないってことは、この子、ずっとIマシンのまま? 動物のIマシンって、お金持ちの道楽なんでしょ。それがどうしてここに」
クレアはぽっちゃりした頬に人差し指をあてた。
「うーん。補給で地球の近くへ行った時に拾ったのよ。誰からも訴えられてないから、きっと野良だったのね」
「野良、Iマシンが野良……」
クレアは天然なところがあるのではないか、とマヤは密かに思った。
赤いリックの手が、ファルザの頭を撫でようと伸ばされる。
「こいつ、見掛けによらず役に立つんだぜ。アカデミーの船が逃げてくのを知らせてくれたくらいで──って、おい、褒めてんのになんで噛もうとするんだよっ」
ファルザは、丸い目に下りる目蓋の機構を斜めにして怖い表情になり、低く唸っていた。
「行こう」
イドがぽつんと言う。
「邪魔が入らないうちに」
マヤはとても悪い予感がした。
教授はいきなり試掘候補地を変えた。イドは、邪魔、という単語でトラブルの予兆を捉えている。
何かあるんだ。自分には知らされていない、何かが。面倒なことはさっさと済ませて、早く身体があるところへ送ってもらわないと。
マヤは、自分を鼓舞するために頷くと、みんなの後に付いていった。
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