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あなたは直観型? 熟慮型? 「知ってるつもり」を暴く認知反射テストに挑戦!【『知ってるつもり』本文試し読み】

 見慣れた自転車や水洗トイレの仕組みを説明できると思いこむ、政治について極端な意見を持つ人ほど政策の中身を理解していない――私たちはなぜ自分の知識を過大評価してしまうのか?
 私たちの知性の本質に迫り、「知ってるつもり」の錯覚に切り込む話題の書がついに文庫化! 『知ってるつもり 無知の科学』(スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック:著、土方奈美:訳、山本貴光:解説/ハヤカワノンフィクション文庫/2021年9月2日発売)から、あなたの認知タイプを見分ける簡単な「なぞなぞ」をご紹介します。

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直観、熟慮、説明深度の錯覚

 説明深度の錯覚〔編集部注:説明できる知識を思っていたほど持ち合わせていないこと〕を思い出してほしい。私たちは因果システムを自分が思っているほど理解していないという研究成果だ。この錯覚は、直観的思考の産物である。私たちは物事の仕組みを、労力をかけずに自然と思い浮かべる。しかし自分の知識について改めて考えてみると、錯覚は崩れる。万人がこの錯覚に陥るわけではない理由はここにある。イェール大学でマーケティング論を教えるシェーン・フレデリック教授は、被験者が直観型か熟慮型かを見分ける「CRT(認知反射テスト)」という簡単なテストを考案した。テストは3つの単純な問題で構成される。その一つはなぞなぞの本で見つけた。

〔問1〕
バットとボールで合計1ドル10セントである。バットはボールより一ドル高い。ボールはいくらか。

 答えは10セントと思っただろうか。そう思う人はたくさんいる。たいていの人は10セントと回答する(「アイビーリーグ」と呼ばれる名門大学の学生の多くも含めて)。「10セント」という答えが、ぱっと浮かぶのだ。重要なのは、あなたがこの直観的反応をそのまま受け入れるのか、あるいは確認するかだ。確認すれば、ボールが10セントで、バットがそれより一ドル高ければ、バットの金額は1ドル10セントとなり、両者の合計は1ドル20セントだとわかる。だから正解は10セントではない。

 直観的回答を確認する人は少ないながらも存在し、彼らは10セントは誤りだと気づく。そして正解にたどり着く〔編集部注:答えは記事の下に〕。フレデリックは後者を「内省的」と呼ぶ。直観的反応を抑制し、回答する前に熟慮する傾向があるという意味だ。

 このバットとボールの問題には、CRTで出題される他の二つの問題と共通点がある。二つ目は次のようなものだ。

〔問2〕
湖面にスイレンの葉が並んでいる。その面積は毎日2倍になる。48日で湖面全体がスイレンの葉で覆われるとすると、湖の半分が覆われるまでには何日かかるか。

「24日」という回答がぱっと頭に浮かんだだろうか? 大多数の人はそうで、「24日」と回答する。だが本当にそうだろうか? 面積が毎日倍増するなら、24日目に湖の半分が覆われていれば、25日目には湖全体がスイレンの葉で覆われているはずである。しかし問題文には湖全体が覆われるのは48日目だと言っている。だから24日が正解ということはあり得ない。正解は湖全体が覆われる1日前なので、47日である。

 最後の問題はこれだ。

〔問3〕
5台の機械を五分間動かすと、製品が5つできる。100台の機械で100個の製品を作るには、何分かかるか。

 ヒントを差し上げよう。正解は100分ではない 〔編集部注:こちらの答えも記事下を参照〕。

 CRTの三つの質問に共通するのは、誤った答えがぱっと頭に浮かぶという点だ。正解を導き出すには、直観的回答を抑制し、少し計算してみる必要がある。だがたいていの人はそんな手間をかけない。誤った直観的回答を脇に置き、正解を出すためにほんの少し考えてみることをせず、たいていの人はぱっと頭に浮かんだ直観的答えをそのまま口に出す。CRTの三つの問題を正答するのは、アメリカ国民の20%に満たない。数学者や技術者の正答率は詩人や画家をやや上回るが、大幅に高くはない。フレデリックがテストしたところ、MIT(マサチューセッツ工科大学)の学生の正答率は約48%だったが、プリンストン大学の学生は約26%だった。

 CRTは答える前に熟慮する人と、思いついた答えをそのまま口に出す人を区別する。内省的傾向の強い人はじっくりと考え、表現する一方、そうした傾向の弱い人は直観に頼る。両者にはたくさんの違いがある。内省的な人は、推論を要する問題を与えられたとき、より慎重に対処する傾向がある。ミスは少なく、内省的ではない人がひっかかりやすい落とし穴にもはまりにくい。

 たとえば、ある文章に深い意味があるのか、あるいは単に言葉を並べただけか(例「隠された意味は比類なき抽象的美を変容させる」)を見分けるのに長けている。またリスクをとることに前向きであり、衝動的ではない。一般的に、リスクをとったり、少し待つことで報酬が増えるのであれば、そうする傾向がある。両者の違いは、嗜好にも表れる。熟慮型は直観型に比べて、ミルクチョコレートよりダークチョコレートを好む傾向がある。そして神を信じない傾向がある。

 本書の議論に関係のあるところでは、熟慮型の人、すなわちCRTのスコアが高い人には、そうではない人ほど「説明深度の錯覚」が見られない。われわれはある研究で被験者に、さまざまなわかりにくい商品のメカニズムについて、自らの理解度を評価してもらった(2週間、植物に自動的に水やりをする「アクア・グローブ」など)。評価は自らの理解している内容を語る前と後に、それぞれ依頼した。CRTのスコアが高い被験者には、錯覚がまったく見られなかった。それとは正反対だったのが、CRTでゼロ点、あるいは一問しか正答しなかった被験者で、かなりの錯覚が見られた。要するに、熟慮型の被験者では説明の前後で自らの理解度に対する評価がまったく変わらなかったのに対し、あまり熟慮しないタイプの被験者は説明した後で自らの当初の判断に疑問を抱くようになっていた。

 直観は単純化された大雑把な、そして必要十分な分析結果を生む。それは何かをそれなりにわかっているという錯覚を抱く原因となる。しかしよく考えると、物事が実際にはどれだけ複雑であるかがわかり、それによって自分の知識がどれほど限られているかがはっきりする。

 CRTで高得点をあげた人々は、なぜ説明深度の錯覚を示さなかったのか。われわれが行った別の研究は、その答えを示唆している。この実験では一般消費者に、それぞれ説明の詳しさが異なるたくさんの製品広告を見せた。それから製品をどれくらい気に入ったかを尋ねた。熟慮型の被験者(CRTのスコアの高い人)は、詳しく説明されている製品を好む傾向があった。この結果は、それほど熟慮型ではない被験者(つまり大多数の人)とは対照的だった。CRTのスコアが低い人は、ほんのわずかしか説明がない製品を好んだのである。説明が詳しすぎる製品にはそっぽを向いた。大方の人とは異なり、熟慮型の人は詳細な情報を求める。物事を説明するのが好きなので、おそらく誰かに頼まれなくてもいちいち説明するのだろう。そういう人は、説明深度の錯覚に陥ることはないはずだ。

 直観は個人的なものだ。それぞれの頭の中にある。一方熟慮には、個人として知っていることだけでなく、ぼんやりとしか知らないことや表面的にしか知らないこと、すなわち他の人々の頭の中にある事実も使われる。たとえばどの候補者に投票しようか考えるときには、尊敬している人のアドバイスに耳を傾けるかもしれない。そういう意味では、熟慮は知識のコミュニティの力を借りていると言える。

 説明深度の錯覚の原因は、私たちの中にある直観システムが、自らの熟慮能力を過大評価しているためと考えることもできる。トイレの仕組みを説明してほしいと言われると、直観システムは「お安い御用だ、トイレのことはよくわかっている。毎日使っているんだから」と反応する。しかし熟慮システムに照会してみると、直観は表面的なものでしかなく、説明に窮することになる。本物の知識は自分自身の頭の中ではなく、別のところにある。次の2章では、それがどこに潜んでいるかを見ていこう。

答1:正解は5セント
答3:正解は5分(1台あたり5分で製品が1個できる)。

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