ひとの気持ちが聴こえたら

岡田斗司夫ゼミで紹介されました。『ひとの気持ちが聴こえたら』、冒頭試し読み

「まるで『アルジャーノンに花束を』が現実になったような話」と岡田斗司夫ゼミでも詳細に紹介されているノンフィクション、『ひとの気持ちが聴こえたら』の、冒頭部分の抜粋を公開します。『アルジャーノンに花束を』は傑作小説ですが、本書は小説ではなく、事実を本人が綴ったものです。


『ひとの気持ちが聴こえたら』冒頭抜粋(高橋知子訳)

 マサチューセッツ・ターンパイクの左車線を、時速一二〇キロで走っていた。突然、それこそ何の前ぶれもなく、私は一九八四年ごろのボストンのナイトクラブに舞いもどった。二〇〇八年四月一五日、午後八時。カーステレオのスイッチを入れた瞬間、すべてが変わった。

 年齢は五〇歳、若いころロック・バンドと行動をともにしていたせいで耳が遠くなっていたし、その日は何時間も車相手に仕事をしていたので疲れていた。おまけに、ボストンのベス・イスラエル病院を出発したところだった。この日、ハーバード大学の神経科学者チームは、高性能の磁場を利用して私の脳を再配線し、情動知能を変化させるという実験をおこなった。私は自閉症なので、子どものころから感情に関わる事柄が苦手だった。自閉症者のなかには、話をしたり言葉を理解したりするのが苦手な人がいる。いっぽう、私のようにおおかたにおいて問題なく話ができ、まずまず人の話に耳をかたむけることもできるが、人との会話で重要な役割を果たす非言語のシグナル──ボディランゲージ、口調、言葉の綾──をうまく読みとれない人もいる。私は言外の意味がくみとれずに、つらい思いをしてきた。幸いにも、社交能力の欠如は技術力でいくぶんかは補うことができた。現在、生まれもった才能のおかげで生計を立て、自立もできているが、子どものころは孤独にさいなまれ、打ちひしがれていた。そのとき負った心の傷のいくつかは、いまも癒えていない。だから、とんでもない試みだと言う友人もいたが、科学者たちがおこなっている研究に参加することにしたのだ。

 奇想天外な新しい療法で私を治すという考えは、理論的にはすばらしいことに思えたが、それまでのところなんら効果はなかった。科学者によると、電磁石を用いて私の脳内回路の接続を変えるとのことだった。SFのような話だし、おそらくそんなものなのだろう。あの夜、病院で四時間過ごしたあと車に乗ったとき、来たときよりも疲労感をおぼえ、困惑していた。しかし私からすれば、あれがなければ変化は何ひとつ起きなかった。

 ボストンまでは車で二時間。そしていままた、二時間かけて自宅に戻ろうとしていた。私はあそこで何をしていたんだ? とみずからに問いかけた。だが、答えはわかっていた──あの調査研究に志願して参加したのだ。なぜなら、科学者が成人の自閉症者を必要としていたからだ。それに、なんだかよくわからないが興味はそそられる方法で〝自分を改良〟したかった。

 そういった思いや、数えきれないほどのさまざまな思いが頭のなかを駆けめぐるのを感じながらiPodのプラグを差しこむと、車内が音楽で満たされた。それまでにも同じことを幾度となくしていた。そうするとカーステレオから鳴り響く音楽以外は何も聞こえず、前方の道路以外は何も見えなくなっていた。が、このときはまったく違った。一瞬にして、私は車にいなくなった。体のなかにさえいなかった。あらゆる感覚が時をさかのぼり、私は煙たいクラブのバックステージで、兄弟グループのタヴァレスがソウルミュージックを歌うのを聴いていた。

 何年もまえ、音響エンジニアとしてそういったコンサートで使う装置の整備を手がけ、ステージにも立ちあっていた。そのかたわら、パートタイムのカメラマンとしてステージまわりをうろつき、これぞという瞬間をとらえようと、カメラのレンズでミュージシャンたちを追っていた。この仕事は音響エンジニアのそれとは別物だった。ロックンロールのステージのエンジニアを務めているときは、見るもの聞くものすべてが、万事順調か否かを伝えてくれるちょっとした手がかりになった。しかしカメラマンの仕事をしているときは、被写体に集中するあまり、ステージの音さえ耳にはいらない。その夜、車のなかで私は録音された音楽に捕らえられ、それまで一度も経験したことのない方法で、昔のステージの世界に引き戻された。

 まさに瞬間移動だった。レンジローバーを走らせていたかと思うと、つぎの瞬間、ナイトクラブで五人のシンガーを見つめていた。天井から吊されたフラッドライトがステージを照らし、私はぎりぎり光のあたらない場所に立っていた。左側のステージでは、スポーツジャケットとボウタイを身につけ、バックバンドをしたがえたタヴァレスが歌をうたっていた。フルート奏者がタヴァレスのうしろに立ち、数小節ごとにメロディを奏でていた。タヴァレスは映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で使われた「モア・ザン・ア・ウーマン」で世界的に有名だが、それより何年もまえからニューイングランドで活躍し、歌のレパートリーも豊富だ。三〇年まえ、私は音楽業界に身を置き、音響エンジニア兼特殊効果デザイナーとして働いていた。ボストンにある広い会場の多くは、私が作った音響機器と照明装置を使っていて、私は数えきれないほどのステージに立ちあい、憶えきれないほどのコンサートを見た。私はいずれかのコンサートを再度体験していたのか? それとも想像の産物だったのか? 私にはわからなかったし、いまもわからない。言えるのは、その体験は信じられないほど現実味を帯びていたということだけだ。服についた煙草のにおいもかぎとれるほどだった。そうしながらも、意識の一部は運転をつづけていた。もっとも、そうだとわかったのは、衝突事故を起こさなかったからにすぎない。

 グループのメンバーの声はあまりにも鮮明で、私は自分の意識がさまようにまかせた。目のまえのステージにはミュージシャンが立ち、装置が並んでいた。ステージの袖に目をやると、暗がりにアンプや機材ケースが積み重ねられていた。クラブ内に視線をめぐらすと、キーボード奏者が自分の定位置についていた。ステージにいたシンガーのひとりが私に近づいてきた。彼が手にしているマイクのケーブルがシュッと音を立てた。

 目のまえの光景はきわめて鮮明で、頭のなかは音に満たされ、私には精気がみなぎっていた。iPodから流れる味気ないデジタル化された歌に生命が宿り、感情が一気にこみあげ、涙があふれた。嬉しかったからでも悲しかったからでもない。あまりにも心を揺さぶられたからだ。

 私は音量をあげ、メロディに浸った。タヴァレスは歌いつづけ、車は走りつづけ、涙は私の頬をつたいつづけた。私は全身で曲の美しさを感じていた。押しよせてくる音のひとつひとつが輝かしく、新鮮で生き生きとしていた。まるで三〇年まえに音楽を聴いていたときのようだった。そのころ私はいつも音楽を聴きながら歩き、オシロスコープがスクリーンに描く音声信号を眺め、さまざまな楽器の音を思い浮かべていた。当時、〝聴く〟というのは非常に繊細な体験で、私はステージ上の楽器ひとつひとつの音や、その位置をとらえていた。バックコーラスのシンガーがコーラスをはじめると、そのひとりひとりの声をはっきりと聞きわけた。が、この日はそれよりも音が豊かで、深みも増していて、感情にも新たな層がくわわっていた。

 突然、私は洞察力を得ていた。おそらく自閉症というゆがんだレンズを通さず、音楽を純粋にありのまま聴いていたのだろう。ほかの人たちは、始終このような感情をいだいているのだろうが、私も同じことができたのだ。だから泣けてきたのだろう。音楽を感じることができたからだ。それは自閉症者が、見たり聞いたりするものに対してめったに経験できないことだ。それまでも、耳にした音楽が楽しげか悲しげかは判断することができたが、その夜は、タヴァレスの曲がかつてない力、想像もしていなかった力で私を襲ってきた。

 数時間まえ病院で、ふたりの人が廊下を歩きながら、怒鳴りあっているのを聞いた。彼は激怒している──なんら感情を持たずにそう思った。私の観察力は正確で論理的だ。しかしいま、私はタヴァレスの歌を聴き、「シーズ・ゴーン」や「ワーズ・アンド・ミュージック」、「ペニー・フォー・ユア・ソーツ」の歌詞に込められた思いを感じながら涙を流していた。
 メロディに乗ったその歌詞をそれまでに何度も聴いていたが、このときのような感情を味わったことはなかった。その日のもっと早い時間だったら、歌詞の論理的な意味は理解しても、それだけだっただろう。

 あの瞬間、わかったのだ。「シーズ・ゴーン」のような歌にあるのは、芸術的な正確さでもって聴く者に届けられる言葉とメロディだけではない。実在する人へ愛を伝えるために書かれ、歌われていたのだ。彼女はどんな人だろうか、彼女はどうなったのか、と私は思った。

 その日、夜が深まってから、研究を率いている科学者にメッセージを送った。「研究所にあるのは、とてつもない力を持った魔法です」私たちはまだスタートを切ったばかりだった。


抜粋は以上です。このあとは、早川書房より好評発売中の『ひとの気持ちが聴こえたら』(ジョン・エルダー・ロビソン、高橋知子訳、本体2300円+税)で、ぜひお読みください。

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