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傑作パンデミック小説の50年後を描く『アンドロメダ病原体―変異―』刊行! 幹細胞生物学者・八代嘉美氏が今読むべき理由を語る「解説」を全文公開

『ジュラシック・パーク』で現代に恐竜を蘇らせた、テクノスリラーの巨匠マイクル・クライトンが没したのは2008年。昨年2019年は、クライトンの出世作であるパンデミック小説の金字塔たる『アンドロメダ病原体』の原書が刊行されて50周年でした。

クライトンの遺族に認められ、『アンドロメダ病原体』の遺族公認の続篇を書くことになったのは、カーネギーメロン大学でロボティクスの博士号を取得した若きクライトンファンのSF作家ダニエル・H・ウィルソン。
『アンドロメダ病原体』の50年後の世界を描いた本作は、新型コロナウィルスが猛威を振るうこのタイミングでの刊行となってしまいました。

幹細胞生物学者・科学技術社会論研究者の八代嘉美氏による渾身の解説は、このコロナ禍において今我々が本作品と向き合う理由を余すことなく説明しきっており、あまりにも時宜にかなう内容なので、noteにて全文公開します。

アンドロメダ病原体_変異_上_帯

アンドロメダ病原体_変異_下_帯

『アンドロメダ病原体―変異―』(上・下)
マイクル・クライトン ダニエル・H・ウィルソン/酒井昭伸訳
四六判上製 5月26日刊/定価:各1,800円(税別)早川書房装幀室 解説/八代嘉美

解説――来たるべき野火(ワイルドファイア)を生き延びるには

幹細胞生物学者・科学技術社会論研究者    
八代嘉美

 本書『アンドロメダ病原体─変異─』(以下『変異』)がアメリカで出版されたのは2019年の11月。まだ誰もCOVID-19を認知していなかった頃である。だが、日本でこの本が出版されるのは、半年後の2020年5月。つまり、あなたがこの本を手にしている今は、COVID-19の災禍の真っ最中、幸運であればそのあとということになる。そんな中で、タイトルから想像した読後感とは少し異なるものになったかもしれない。その一ページを開く前にあなたが想像したできごとは、まるで起こらなかったかもしれない。しかしこの本は、あなたが生きるこの時代について、もっと深刻なことをつきつけている。
 アメリカで『変異』が出版された2019年は、ハーバードメディカルスクールを卒業した医師だったマイクル・クライトンが医学博士号を取得し、そして彼の声望を確かなものとした『アンドロメダ病原体』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)(以下『病原体』)が出版された1969年から50周年となる年であった。『病原体』は一九七一年に映画化され(日本版タイトル『アンドロメダ…』)、また2008年には『アンドロメダ・ストレイン』としてドラマ化もされている。本書は『病原体』の50周年に出版され、そして巻末の謝辞にある通り、クライトンの家族が認める公式の続篇である。
 前作『病原体』は冷戦下の米ソ対立の中からうまれたものであった。全く新しい生物兵器開発のために人工衛星によって地球外から回収された性状不明の微粒子が、偶発的に外気に暴露したことをきっかけに人類に感染してしまう。極めて致死率が高いその微粒子感染の爆発的な流行と、それによる人類の危機を食い止めようとする科学者たちの戦いを描いた作品だ。クライトンが医師であったというバックグラウンドを反映し、その当時のライフサイエンスの技術や知識が詰め込まれ、要所要所に公式の文書や論文、回収された音声やカルテデータを引用した形式を用いた物語は、ノンフィクションが持つ高い緊張感を備えた作品であった。
 そんなクライトンの遺産を引き継いたのは、ダニエル・H・ウィルソンだった。ウィルソンは日本での邦訳は1冊しかないが、アメリカではテレビ司会者やドキュメンタリー番組のストーリーテラーを担当するなどのほか、プログレッシブロックの5大バンドの一つである、エマーソン・レイク&パーマーの名曲「Karn Evil 9(悪の教典#9)」から着想を得たハリウッド映画の脚本を担当することが報じられるなど、セレブリティを獲得した著者である。
 彼の唯一の邦訳はニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに掲載され、またハリウッドでの映画化リストに名を連ねたことでも有名となった『ロボポカリプス』(鎌田三平訳、角川書店)である。『ロボポカリプス』は暴走した人工知能がロボットを有機物と融合させ、エレベータや家電、車といった日常的に人間と接点の多い電脳化されたホームエレクトロニクスにウイルスを侵入させることで人間への反乱を企てる、という筋書きだ。この作品はウィルソンの経歴と非常に強くリンクした作品ということができる。
 ウィルソンは人工知能研究で有名なカーネギーメロン大学でロボット工学の修士号と、機械学習の修士号と博士号を取得している。とりわけ重要なのは、彼の博士論文は “Assistive Intelligent Environments for Automatic Health Monitoring(インテリジェント環境の支援による自動ヘルスモニタリング)” と題されたもので、家庭内におけるホームセキュリティや家電のスイッチ、スマートフォンといったインターフェイスを介して行動パターンやバイタルサインを入手し、健康の維持・増進をはかるというものであったからだ。このほか、ゼロックスやインテルの研究所でのインターンを経験するなど、人工知能・ロボティクス環境の最前線を経験した人間であった。
 彼の経歴が及ぼした作品への影響は、ロボポカリプスのみではなく、デビュー著作となった How to Survive a Robot Uprising: Tips on Defending Yourself Against the Coming Rebellion(ロボットの蜂起を生き延びるには──あなたが来たるべき反乱を生き延びる秘訣)や、ロマノフ王朝におけるロボット創生から連なる物語である The Clockwork Dynasty(時計じかけの王朝)などにも色濃く現れている。
 これまでに彼が描いてきたロボット・人工知能のような無機的な「モノ」を中心とした作品群からすると、バイオホラー、バイオミステリ色の強かった『病原体』の続篇を担当することに意外な印象をもたれるかもしれない。しかし、今日のわたしたちが、「モノ」から不可分でいることができるだろうか。フランスの人類学・科学社会学者ラトゥールは、近代の科学は、「モノ」と「単なるモノではないもの=人間」と切り離し、純化することによって発展をしてきたという。
 純化とは、言うなれば社会を「自然・モノ・客体」と「社会・人間・主体」のふたつに分離することで現象を客体化し、言語や数式をもちいて記述することを可能としたとするものだ。その上で、この世界の現象は「自然・モノ・客体」と「科学・人間・主体」の二項対立に回収されないものであり、こうした二項対立こそが「近代」という概念装置によって覆いかくされてきたまやかしであり、純化されたもの同士のハイブリッドを生み出しつづけてきたとする。
 そんな「モノ」と「人間」の境界に立つ存在として、言うまでもなく「サイボーグ」をあげることができるだろう。ノーバート・ウィーナーが生物と機械の間での情報交換の可能性を論じ、その発展形としてネイサン・クラインとマンフレッド・クラインズが提唱した、肉体に埋め込まれたマシンに、運動機能から内臓の代謝機能までを自己制御させ器官の代替をさせようとした概念を指す。
 実は、ウィルソンには、そうした概念を中心に据えた Amped(増幅)という作品がある。てんかんや自閉症といった神経疾患に、インプラントが機械的に介入することができる時代が舞台となっている。移植を受けた患者は症状が緩和されるのみならず、かえって未介入の健常人より能力が増幅されてしまい、治療をうけた者が「アンプ」として迫害されることが法的にも正当化される……というものである。
 すでに『変異』を読了された方であれば、Amped での彼の問題意識が、本書でも反復していることがわかるだろう。病気を治療する技術は正しいことである、それに異論を挟む人は多くはない。そして、能力を人為的に高めようとする介入については、否定的に考える人も多いはずだ。だが、「能力を高める」こととはどこまでの範囲を指しているのか。その範囲を誰が決めるのか。かんたんに答えをだすことができるものではない。すなわち、「わたしたちはどこまでやっていいのか?」ということだ。
 ウィルソンはすでに、自らのスペシャリティである人工知能やロボット技術と人間との関係を描いた作品を通じて、人間とはなにか、ということに深い考察を加えてきた。『変異』でも、舞台となったアマゾンでドローンによる地形観測や人工知能による言語学習と通訳機能を駆使する描写をはさみ、その様子を活写した。ラトゥールは、ハイブリッドを私たちの世界を無理やり二つに引き裂いたことによる「不自然」ないびつな状態としたが、私たちはさまざまなモバイルデバイスと不可分であり、ビッグデータを使い使われる日常を生きており、「ハイブリッド」としての生から逃げることはできない。それはブラジルのアマゾンでも、遠く離れた宇宙空間でも同様だ。それが私たちの「自然」であり、ウィルソンこそがクライトンが描いてきたバイオミステリ的世界に、今日的な息吹を吹き込むために最適な人材だったのである。
『変異』をつうじて浮かび上がってくることはもう一つある。科学はつねに全てに正しい答えを与えてくれるわけではない、ということだ。科学はつねに未知の部分を包んでいる。アメリカの核物理学者、アルヴィン・ワインバーグは、1972年に発表した論文の中で、科学技術と社会との間に新たな関係が生まれていることを指摘し、「トランス・サイエンス」と名付けている。原子力発電所の多重防護の安全監視システムについて、すべてが同時に故障する確率はきわめて低いということには、科学者の見解は一致する。しかし、「きわめて低い確率」を、科学的な見地から「事故は起こりえない」と言っていいのか。それとも、低い確率とはいえ、実際に事故が起きれば凄まじい被害が生じるのだから、そこは「事故は起こりうる」と想定し、対応策を考えるべきなのかというリスク評価の点においては、科学者の間でも合意は成立しない。この判断は、科学の論理では解けない、答えが出せないものであり、科学の領域を超えてしまう。つまり「トランス」なのである、と。
 これはエネルギー問題だけではない。2018年、中国・南方科技大学で実施されたヒト胚へのゲノム編集と、その胚が新生児として生まれた、というニュースを記憶している方も多いだろう。研究を主導した賀建奎(ハー・ジェンクイ)はHIVキャリアの出産時に垂直感染を防ぐ予防的な行為であったと主張している。もちろん表向きの理由かもしれない。そもそもこの主張は
もっと安全な手法によって新生児はHIV感染することなく生まれることが知られているため、まともには取り合われてはいない。だが、ゲノム編集によって先天的な疾患を防ぐことができるようになったら、それは許されないことだろうか。
 また、COVID-19以前に大きく注目された強毒性の鳥インフルエンザA(H5N1)に関して、遺伝子の変異が哺乳類への感染性を獲得させることを突き止めた論文を公表しようとする研究者が、アメリカ政府から論文内容の一部削除を求められるということがあった。研究者としては科学の進歩と公益のための論文の公表であっただろう。しかし、悪意をもって論文を眺めれば、バイオテロという形で知識を利用することもできる。感染爆発の抑制とバイオテロの脅威、どちらをえらぶべきだろうか。
 人工知能やビッグデータの活用についても同様である。いま眼前で展開するCOVID-19の最前線では、ウイルスのゲノム変異の解析や、被覆タンパク質の構想解析などこれまでにないスピードで治療のターゲットの探索が行われている。また、感染を防ぐための疫学的な判断については、スマートフォンのGPS機能が大きな役割を果たしている。だが、プライバシーの保護や情報の利活用の範囲といった法的・倫理的な課題の公正性を、何が保証するのだろうか。
 かつてアンドロメダから送り込まれた微粒子は、科学者たち、軍人たちの奮闘によって人々が知ることなくその幕を閉じた。そこには「普通の人」は哀れな犠牲者としてしか存在しなかった。しかし、ウィルソンが新たに描き出した新たな危機は、いったいなぜ、どうしておこったのかを振り返ってみてほしい。そして、その危機を救ったのは、いったい何だっただろうか? 危機の結果を「普通の人」びとが知らずに過ごすことは、おそらくもう不可能であろう。
 COVID-19の問題を見ても、政治・経済の話を抜きにして、科学のみで事態を語ることは不可能だったことは、すでにご存知の通りだろう。なにより、未知の出来事に関して、科学は完全なものではない。検査には限界があり、医療は対症療法しか提供できない。
 方法論の限界は、科学の進展によって拡張することはできる。だが、「拡張中の科学」には限界があることを理解せずに語ることは社会に危機をもたらすのだ。
 わたしたちはこれまでもこれからも、これからはいっそう「モノ」とともに生きなければならない。だがこれまでと異なるのは、科学をおまかせにしておけばよい時代ではない、ということである。大きな科学の進展は、わたしたちが気づかなければ、そしてハンドリングを過てば、恵みだけでなく遥かに大きな厄災を作り出しかねない世界にいることを自覚しなければならない。科学は人々を救う。しかし、科学だけでは救えないことをウィルソンは語っているのだ。
 あなたは、何を選びますか? あなたは、誰と歩みますか? あなたは、どう生き残りますか?