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パンデミックは人災か?——池上彰によるマイケル・ルイス『最悪の予感』巻末解説を特別公開!

死者100万人、世界最大の「コロナ敗戦国」となったアメリカ。そのウイルス発生初期、パンデミックの襲来を的確に予感した人々の苦闘と挫折を描く世界的ベストセラー、『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(マイケル・ルイス【著】、中山宥【訳】、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)が本日発売されました。

本記事では、綿密な取材と巧みな構成で「失敗の本質」を暴き出す本書の魅力、そしてアメリカのみならず日本の「失敗」についても論じた池上彰さんによる解説を特別公開いたします。

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解説

「失敗」の物語ではあるのだが


ジャーナリスト
池上 彰

 新型コロナウイルスによるアメリカ国内の死亡者は、2021年6月15日、ジョンズ・ホプキンス大学の集計で60万人を超えた。累計感染者数は約3350万人で、死者数も感染者数もアメリカが世界最多となった。

 この死者数は、第一次世界大戦や第二次世界大戦でのアメリカ人の死亡者を合わせたよりも遥かに多い数だ。まさにアメリカは「コロナ敗戦」となってしまった。

 アメリカで新型コロナの感染が始まったとき、当時のドナルド・トランプ大統領は、「ウイルスはまもなく消える」などと発言し、真剣な対応を取ろうとしなかった。2月10日には「ウイルスは四月までに、奇跡的に消えるだろう」と述べ、2月27日にも「ウイルスはある日、突然奇跡のように消え去るだろう」と主張した。その後も感染者数も死者数も増え続けたが、7月19日に放送された、トランプ大統領お気に入りのテレビFOXニュースでのインタビューでも「私が正しかったことがわかるだろう」と言い続けた。

 これを信じたトランプ支持者たちのうち、どれだけが感染したり死亡したりしたことだろうか。

 この点に関し、「ワシントン・ポスト」のボブ・ウッドワード記者は、著作『RAGE 怒り』の中でのトランプ大統領へのインタビューで、「国民に不安を与えたくなかった」という趣旨の弁解を紹介している。自らは危険性を認識していたというのだ。

 しかし、実際には連日の記者会見で、紫外線がウイルスを不活化するという専門家の発表を受け、「体内に紫外線を当てたらどうか」と発言したり、「消毒液を注射したらどうか」などと言ってしまったりして、これを真に受けた人たちが家庭用の消毒液を飲んで救急車で運ばれるという騒動に発展した。

 こんなニュースを見聞きしていた者としては、アメリカは新しい感染症によるパンデミックへの備えが全くできていなかったという印象を受けていたのだが、本書によって、そうではなかったことを認識した。アメリカには、以前から来るべきパンデミックに備えようとしていた人たちがいたのだ。

 マイケル・ルイスは、そんな人たちの人生を一幕のドラマとして私たちに読ませてくれる。「はじめに」でルイスは、「わたしはふだん、題材のなかに物語を見いだすことが自分の仕事だと考えている」と書いている。その通り、ここには実に多くの物語が詰まっている。

 こういうノンフィクションを書く場合、アメリカで新型コロナウイルスの患者が発見されたところから書き起こすのが定番ではないだろうか。私なら、そうする。ところがルイスは、そうではない。2003年のある日、ニューメキシコ州アルバカーキの13歳の少女の発見から話が始まる。

 読者は戸惑うだろう。このエピソードが、どうしてコロナ禍との戦いにつながっていくのか、と。

 次に登場するのはカリフォルニア州サンタバーバラ郡の保健衛生官の医師だ。彼女の奮闘ぶりを描くことで、読者は地方の保健衛生官の仕事を理解する。これが伏線となって、やがてアメリカという大国の保健衛生システムが機能していない実態を理解することができるのだ。

 この本の終盤になって、コロナ禍を終息させるための戦略として、アルバカーキの13歳の少女の好奇心が役立つことになった顛末が語られる。優れた推理小説は、巧みに張り巡らされた伏線を、どうやって回収していくかという手腕にかかっている。この書は、そんな推理ドキュメントとして読むことも可能だろう。

 アメリカのコロナ対策は失敗した。将来の危機に備えることがいかに想像力を必要とすることか、わかろうというものだ。それでも全米各所に想像力に富み、行動力のある人材がいることが、アメリカという国家の強みであることを知る。

 しかし、にもかかわらず、そうした備えが、次の世代に継承されていないこと。ここにアメリカの弱点がある。政権が交代すると、アメリカのホワイトハウスのスタッフは総入れ替えになるからだ。

 未知の感染症が拡大することになる場合に備え、アメリカでは共和党のジョージ・W・ブッシュ(息子)大統領のときに生物学的な脅威に対処するチームが結成された。政権が民主党のバラク・オバマ大統領になっても存続していたが、共和党のドナルド・トランプ大統領になって、チームメンバーは全員が解雇あるいは降格処分となったという。

 さらに国土安全保障省には、さまざまな医療上の緊急事態において州政府を支援する任務の人たちが200人近く在籍していたが、トランプ政権はこれを解体したという。

 コロナウイルスがアメリカに侵入してきたとき、アメリカはすっかり無防備になっていたのだ。さらに2020年2月、アメリカ国内でコロナ患者が増えるかどうかが議論されているとき、CDC(疾病対策センター)の担当者は記者会見を開き、コロナ患者について、「この先、同様の症例が発生するかどうかの問題ではなくなりました。いつ発生し、国内でどれだけの人数が重症化するかが問題です」と発言した。すると株式市場が暴落し、トランプ大統領が激怒したという。以後、CDCのスタッフは恐れをなして口をつぐんでしまう。マイク・ペンス副大統領のオフィスからは、「今後、保健福祉省の誰ひとり、国民を不安にさせるような発言をしてはならない」という命令が出されたという。

 今回の感染拡大で、CDCの発表がしばしばニュースになったが、どこか腰が引けた見解が多く、イライラさせられた。本書を読むと、その理由がわかる。CDCは「疾病対策」という名前こそついているが、実際には患者を研究論文の対象としてしか見ていない官僚組織なのだ。

 また、現場で奮闘した各地の保健衛生官たちは、外出禁止令を出したために命を狙われたり、マスク着用命令を出したことで仕事を追われたりしている実態が描かれる。

 しかし、問題はトランプ政権だけではなかった。民主党の知事がいるカリフォルニア州でも、自分の地位が脅かされることを恐れた幹部によって、対策が進まなかったのだ。

 政権が交代したり、担当者が異動したりすることで、後任は前任者とは違うことをしたくなるし、自分の地位を守りたくなる。これは人間組織の宿痾しゅくあであろうか。

 これは決してアメリカだけのことではないだろう。実は日本も、本書にも登場する「新型インフルエンザ」発見の際の混乱を教訓に、民主党政権時代の2010年、厚生労働省が報告書をまとめていた。ここには、たとえば、次のような提言がある。

国家の安全保障という観点からも、可及的速やかに国民全員分のワクチンを確保するため、ワクチン製造業者を支援し、細胞培養ワクチンや経鼻ワクチンなどの開発の推進を行うとともに、ワクチン生産体制を強化すべきである。併せて、輸入ワクチンについても、危機管理の観点から複数の海外メーカーと連携しつつ、ワクチンを確保する方策の一つとして検討していくべきである。

 日本もコロナの感染拡大が始まるより10年も前に、こう提言されていたのだ。さらに報告書は、次のように提言を結んでいる。

新型インフルエンザ発生時の危機管理対策は、発生後に対応すれば良いものではなく、発生前の段階からの準備、とりわけ、新型インフルエンザを含む感染症対策に関わる人員体制や予算の充実なくして、抜本的な改善は実現不可能である。この点は、以前から重ね重ね指摘されている事項であり、今回こそ、発生前の段階からの体制強化の実現を強く要望し、総括に代えたい。

 本書を読んで、「アメリカはダメだなあ」などと他人事のようには言えないことが、ここからわかるだろう。

 本書の中で、ブッシュ大統領が、100年前のスペイン・インフルエンザの流行を描いた本を読んで危機管理体制の不備を悟るというエピソードが出てくる。パンデミックに関する堅苦しい報告書よりは、ノンフィクション作家が優れた作品を残しておくことが、失敗を繰り返さないために効果的であることを、本書は教えてくれる。

 本書はたしかに「失敗」の物語を紡いでいるのだが、ここから得られる教訓は大きいだろう。

 著者のマイケル・ルイスは、1960年ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。プリンストン大学で美術史の学士号を取得した後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学の修士号を得て、投資銀行のソロモン・ブラザーズに入社している。そこでの債券セールスマンとしての経験をもとに執筆した『ライアーズ・ポーカー』が作家デビューとなった。アメリカの投資銀行が、金儲けのためなら手段を選ばない行動をとっていることを描いた赤裸々な作品で、多くの人に衝撃を与えた。

 さらに『マネー・ボール』は、プロ野球大リーグの選手の成績を徹底的にデータで分析することで弱小チームを強豪に仕立て上げていく手法が描かれ、アメリカの野球界に大きな影響を与えた。ブラッド・ピット主演で映画化もされ、見た人も多いことだろう。この本で紹介された統計データの分析手法は、本書の中でも登場する。さすがルイスと唸りたくなる一節だ。

2021年6月


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 2019年末に中国・武漢で感染拡大が確認された新型コロナウイルスは、年が明けるや全世界に感染が拡大し、WHO(世界保健機関)のテドロス事務局長は3月11日になってようやく「パンデミック(感染症の世界的な大流行)とみなすことができる」と表明した。

 あまりに遅い宣言だった。しかもこのときテドロス事務局長は「パンデミックは制御できる」とも発言している。だが、これは制御できなかった。

 当時何が問題だったのかは、いまになれば、いわば後知恵で批判できる。それは必ずしもフェアなことではないだろう。

 しかし、何がうまくいかなかったかを現時点で総括することは、無駄ではない。新しい感染症が世界を席捲することは、いずれまた起きる。そのときに備えて、この3年間の失敗に学ぶことが必要だ。

 そこで、ここではWHOの失敗と共に、アメリカと日本の失敗についても振り返ってみよう。

 まずはWHOの失敗。これは中国への忖度に尽きる。WHOは2019年12月31日にEIOSで「新型肺炎」の発生を把握している。EIOSとは、新聞記事やネット記事、SNSなどのオープンソース(公開情報)で得られる感染症の流行情報のことだ。WHOは世界中にネットワークを張り巡らせて、早期警戒にあたっている。ここでいち早く発生を把握していたのだ。

 と当時に台湾も大陸での「新型肺炎」の流行を把握し、WHOに通報している。「台湾は中国の一部」という中国政府の主張により、台湾はWHOに加盟できないでいるが、独自に得た情報をWHOに伝達していたのだ。しかもこのとき、「肺炎患者が病院内で隔離されている」という情報もあわせて伝えていたという。「隔離されている」ということは、この肺炎が人から人へと感染するタイプのものであることを示している。

 しかし、WHOは当初、「人から人への感染の証拠および医療従事者への感染は報告されていない」と発表していた。この情報は、世界各国が感染防止策を取ることを遅らせることになってしまった。

 さらにテドロス事務局長は1月28日に中国を訪問し、習近平国家主席ら数名と会談。「中国の透明性と世界の人々を守る姿勢に疑いの余地はない」とまで語っていた。中国への遠慮や忖度が露骨だった。

 そしてアメリカの失敗。当時のトランプ大統領は、WHOが中国寄りだと批判し、4月にWHOへの資金の拠出を停止し、さらに七月、一年後にWHOから脱退すると宣言した。

 アメリカの場合、脱退するには1年前に宣言しなければならず、その手続きをとったのだ。アメリカはWHOへの拠出額が世界最大。アメリカが拠出金を出さなければ、WHOは深刻な資金不足に陥ることは明らかだった。新型コロナの感染防止のために重要な役割を果たすべき組織を機能停止に追い込む暴挙だった。しかし、2021年1月になって、バイデン新大統領がWHO脱退を撤回したことによって、事なきを得た。

 では、日本はどうだったのか。いまになってみると、日本の新型コロナによる死者の数は人口比で低く、それなりに「成功」したと評価できる点はある。しかし、横浜港に感染者を乗せたクルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号が入って来たときの慌てぶりはいまも記憶に新しいところだ。

 そして、感染しているかどうかを確認するためのPCR検査がなかなか受けられないという現実への批判が噴出した。

 さらに安倍内閣による唐突な「全国の小中高校の一斉休校」の要請は、「子どもが家にいることになり、面倒をみなければならないので仕事を休む」という選択をしなければならなくなった働く母親たちの怨嗟えんさの的となった。

 感染防止のためにマスクが必要だと言われたが、日本のマスクの多くは中国製であったため、完成品の多くは中国で消費されることになり、日本にマスクが入って来ないという事態に立ち至った。国民の安全を守るためには、医療品の国産化が必要であることを私たちは思い知った。

 その結果誕生した、いわゆる「アベノマスク」。急激に高まったマスク需要の解消には一定の意義があったという評価もあるが、顔を十分覆うことができない小さな布マスクの生産、配布、および不良品の廃棄に多額の税金が使われたことに批判が集中した。

 その後、岸田政権になって、「ウイズ・コロナ」つまりコロナ対策を継続しつつも経済活動を復活させようという取り組みが行なわれている。

 そして、なにより日本の「敗戦」は、ワクチンと治療薬の開発に決定的に立ち遅れたことだろう。我々は日本の医療は世界トップレベルだと勝手に思い込んでいたが、現実を思い知らされることになった。「コロナ敗戦」から私たちが学ぶことはたくさんある。教訓をしっかりと活かし、次の「最悪」に備えなければならない。

2022年12月

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本書の詳細は▶こちら

◆書籍概要

『最悪の予感 パンデミックとの戦い』
著者: マイケル・ルイス
訳者: 中山宥
出版社:早川書房
本体価格:1,080円
発売日:2023年1月24日

◆著者紹介

マイケル・ルイス(Michael Lewis)
1960年ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。プリンストン大学で美術史の学士号、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学の修士号を得たあと、ソロモン・ブラザーズに入社。債権セールスマンとしての3年間の経験をもとに執筆した『ライアーズ・ポーカー』で作家デビュー。『マネー・ボール〔完全版〕』(以上ハヤカワ・ノンフィクション文庫)をはじめ、『世紀の空売り』『フラッシュ・ボーイズ』『かくて行動経済学は生まれり』など著書多数。累計発行部数は1000万部を超える。

◆訳者紹介

中山宥(なかやま ゆう)
翻訳家。1964年生まれ。訳書にマイケル・ルイス『マネー・ボール〔完全版〕』、馬文彦『14億人のデジタル・エコノミー』、マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号』(以上早川書房刊)、ダニエル・デフォー『新訳 ペスト』、ドン・ウィンズロウ『失踪』など多数。

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