彼らはゆく、希望の光の差す方へ──スティーヴン・キング絶賛『夕陽の道を北へゆけ』
メキシコ・アカプルコで書店を営む女性の幸せな日常は、カルテルの凶弾によって、一瞬にして奪われた──。
家族16人を殺されたリディアと8歳の息子のルカが、カルテルの魔の手から逃れるためメキシコを縦断してアメリカを目指すロードノヴェル、『夕陽の道を北へゆけ』。
原書出版国アメリカでは、名司会者オプラ・ウィンフリーや書店〈バーンズ&ノーブル〉のブッククラブに選出されるなど高評価を得ると同時に、メキシコにルーツをもたず、移民たちが抱える問題の当事者ではない著者が執筆した物語であることなどが盛んに議論されています。
理不尽で圧倒的な暴力に立ち向かう手段として「明日も生きのびる」ことを選び続ける人々を描くこの物語そのものが持っている、読者の想像力をかきたて、心を揺さぶる力に少しでも触れていただきたく、翻訳者の宇佐川晶子さんによるあとがきを公開いたします。
訳者あとがき
本書『夕陽の道を北へゆけ』(原題『American Dirt』)は2020年1月にアメリカで出版されたばかりである。日本のみなさんにも、このできたてほやほやの作品を間を置かずにご紹介できることになった。アメリカでは出版前から評判となり、現役作家からは賞賛の声が多数寄せられている。その一部をあげてみよう。
「我々の時代の『怒りの葡萄』だ」──ドン・ウィンズロウ
「久々にページをめくる手が止まらない小説に出会った」──ジョン・グリシャム
「愛と恐怖の絶妙なバランスの上に成り立った傑作。冒頭の7ページを読んだら、最後まで読まずにはいられない」──スティーヴン・キング
本書はメキシコ人である母親と息子が命がけでアメリカを目指す逃避行を描いた、ノンフィクション顔負けの、迫力に満ちた物語である。
移民社会のアメリカでは、移民に関するニュースは日常茶飯事だろう。なにしろ、アメリカとメキシコの国境には中南米からの移民を阻む壁が今も建設中だし、これは昨日今日始まったことではないからだ。ざっと40年も前の1981年に公開されたアメリカ映画「ボーダー」は、ジャック・ニコルソン演じるアメリカ国境警備隊員が、メキシコからの密入国者を取り締まる姿を描いたものだった。以来、状況はほとんど変化していない、というより、むしろ、激化しているかもしれない。つい昨年の2019年には、メキシコの麻薬王である通称エルチャポが麻薬密売などの罪で逮捕され、アメリカの刑務所での終身刑を言い渡されるという報道があった。中南米の麻薬密売組織(カルテル)や警察組織に材をとった小説や映画も多い。
そんななか、本書の大きな特徴は、主人公を加害者側ではなく、平凡な被害者に据えた点にある。
舞台はメキシコのゲレーロ州の街アカプルコからはじまる。メキシコは三十二の州を持つ合衆国で、ゲレーロ州はかなり南の方にある。アカプルコは州都ではないが(州都はチルパンシンゴ)観光都市として有名で、アメリカからの観光客も多い。主人公のリディアはそのアカプルコに暮らす32歳の女性だ。新聞記者の夫セバスチャンと八歳の息子ルカとの3人暮らしで、ごくあたりまえの一家である。ちょっと珍しいのは、本空きが高じて、市内で書店を経営しているということで、これがストーリーの上で重要な要素になっている。愛情深い母親であり、良き妻でもある。だが、比較的平穏だったアカプルコでもカルテルの動きが活発になり、暗い影が街を覆いはじめる。ジャーナリストが相次いでカルテルによって殺害されるようになり、リディアは夫の身を案じるようになる。
一方、彼女にはこの頃、大切な友人ができる。ある日、書店にあらわれた男性客がリディアの愛する書籍を買い求めたことから、急速に親しくなったのだ。本について、詩について熱く語り合える理想の友人を得て、リディアは大きな充実感を味わっていた。
ところが、平凡だった彼女の人生が劇変する出来事が起きた。夫の書いた新聞記事をきっかけに、一族全員がカルテルによって皆殺しにされたのだ。生き残ったのは、たまたまバスルームにいた息子のルカとリディアだけ。ここからリディアとルカの逃走がはじまる。
本書冒頭の緊迫感のみなぎる数ページに、まず読者は背筋の凍る思いをする。そして、普通に暮らしていた人間が、ある日突然、着の身着のままで自宅を捨て、逃げなくてはならなくなるというのがどういうものなのか、リディアの目を通してつぶさに知ることになる。警察組織にも、自警団にも、バスの運転手にも、ホテルマンにも、カルテルのメンバーが入りこんでいるという異常な社会。頼る者もなく、孤立無援となったリディアの絶望と恐怖がページからひしひしと伝わってくる。彼女を支えるのは、息子ルカへの深い愛情と、彼を守らなくてはならないという壮絶な覚悟だ。
それにしても、若い母親とその幼い息子が、カルテルのボスがメキシコ全土に放った殺し屋たちの目をどうやって逃れるのだろう? アカプルコから国境地帯の街ノガレスまでの数千マイルをどうやって踏破するのだろう? 全篇に溢れる緊迫感と恐怖は実にリアルで、フィクションであるはずなのに、まるで現実の出来事を読んでいるような気にさせられる。でも、それもそのはず、資料によれば、本作を書くにあたって、著者は相当に突っこんだリサーチを数年間おこなっている。アメリカとメキシコの国境地帯に滞在して、アメリカ人とメキシコ人だけでなく、移民である人びとにもインタビューし、さまざまな意見や訴えに耳を傾けた。そのときの経験がぎっしりストーリーに詰めこまれているのだ。
著者のジャニーン・カミンズはスペイン生まれ。メリーランド州タウソン大学で創作を学んだ。卒業後、北アイルランドのベルファストで数年間暮らす。1997年にニューヨークシティに移り住み、出版業界で十年働いたのち、専業作家としてデビューした。4作めにあたる本作が日本では初の紹介となる。家族は夫と子供ふたり。なお、カミンズは移民ではない。ラテン系のアメリカ市民である。
中南米からアメリカを目指して旅をする人びとの理由はさまざまだ。より良い暮らしを求める人もいれば、出稼ぎの場合もある。逃げなければ殺されるから、という本書の主人公リディアのような究極の理由から行動する人びともいるだろう。著者は複数の旅の同行者を登場させて、ひとくくりにされがちな移民の人びとの多様な事情を伝えている。先住民族でホンデュラスから逃げてきた美しい姉妹、カルテルの元メンバーと称する若者、アメリカで暮らしていたが強制送還された大学院生と透析技術者、国境地帯ティファナで生まれた天涯孤独の少年、最後まで謎めいたままの若い男ふたり、ベラクルス出身のふた組の大男の親子、全員が独自の理由を抱えてアメリカを目指す人びとだ。
徒歩や貨物列車による十数日に及ぶ逃走劇が単調にならずにすんでいるのは、手に汗握るシーンが多いからだが、エンターテインメント作品とは違って、限りなく現実に近いストーリーであるだけに、楽しんでばかりもいられない。悲惨な出来事や目をそむけたくなる状況も次々にはっせいする。それでもページをめくらずにいられないのは、常に希望の光が差しているからで、これにはリディアの息子ルカの存在が大きく貢献している。英語が達者で世界地図が頭にはいっているこの8歳児は、子供らしい正義感と勇気にあふれた愛すべき人柄によって、母親だけでなく、読者の心までなごませてくれる。
巻末の「著者の覚え書き」にもあるように、「多様な人々の声に耳を傾け、たどり着いた結論は、“移民は褐色の集団ではなく、独自の背景を持つ個人”である、ということだった」と語る著者は、書籍紹介サイトのBookBrowseのインタビューでこんなことも言っている。「ルカとリディアはたまたまメキシコ人だけれど、誰ででもあり得る。シリア人でも、ロヒンギャでも、ハイチ人であってもおかしくない」
世界中に散らばる、不当な理由から命を危険にさらされている人びとを描きたい、との強い思いが結実した作品である。島国日本に暮らすわたしたちにとっても、アメリカを目指す中南米の人びとの実情を知ることのできる意義深い1冊だ。
翻訳・宇佐川晶子
立教大学英米文学科卒、英米文学翻訳家 訳書『ウルフ・ホール』マンテル、『ありふれた祈り』クルーガー、『蛇の書』コーンウェル、『夜のサーカス』モーゲンスターン、『モスクワの伯爵』トールズ(以上早川書房刊)他多数