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「お前をそんな子に育てた覚えはない」なんて、そんなの当たり前。好評発売中『子育ての大誤解〔新版〕』より冒頭部分を特別公開!

 第1章 「育ち」は「環境」ではない 

遺伝と環境。中国思想の陰と陽、人類にとってのアダムとイヴ、そして大衆向けの心理学ではママとパパといったところだろうか。高校生当時の私ですらその話題については、親に怒鳴られたときに、私の育ち方が気に入らないのなら、それはほかでもない、あなた方の責任なのだと教えてあげられるだけの知識はもっていた。彼らは私に遺伝と環境、その両方を与えたのだから。 

「遺伝と環境」──昔はそう呼んでいた。今日ではむしろ「生まれ(nature)と育ち(nurture)」と表現することが多くなった。従来の用語もかなり強力だったが、慣用句的に使われるこの表現はさらに強烈なインパクトを与える。生まれと育ちによって支配されている。それは周知の事実であり、疑う者は誰一人いない。生まれと育ちによって、人間は駆り立てられ、形づくられる。生まれと育ちが今日の私たちをつくり、子どもたちの明日を決定するのだ。

 《ワイアード》誌の1998年1月号に掲載された記事の中で、ある科学ジャーナリストが将来を思いめぐらしていた。20年後、50年後、もしくは100年後かはわからないが、まるで今日ジーンズを選ぶようにいとも簡単に親が自分の子どもの遺伝子(ジーンズ)を選べるようになったらどうなるか、と。「遺伝子型の選択」とそのジャーナリストは呼んでいる。男の子がいいか、女の子がいいか。髪質はカーリーヘアか、それともストレートか。数学の天才、もしくは書きとりテストのチャンピオンがいいか。「子どもがどのような人間に育つのか、それを実際に左右する力は親がもつことになる」と彼は言う。そしてさらに次のようにつけ加えている。「だが、親はすでにその力を、そのかなりの部分もっている」と。

親は子どもがどのような人間になるのかを左右する力をもっている、とそのジャーナリストは言う。彼いわく、なぜなら親が子どもに環境を与えているからだ。それすなわち育ちだ。 

これは自明の理のようであり、疑う者はいない。子どもたちがどのような人間になるのか、それを決定する要因は二つ、「生まれ」すなわちその子がもって生まれた遺伝子、それと「育ち」すなわち親の育て方だ。これは一般的な考え方でもあるし、心理学の専門家とも意見が一致する。喜ばしいことだが、これはまれに見る意見の一致だ。というのも科学の世界では専門家の見解と一般市民、いわゆる「世間の人々」との見解は違って当然という風潮があるからだ。しかしこの話題となると、専門家であろうとレジであなたの前に並んでいる人であろうと、意見は一致する。生まれと育ちが決め手であると。生まれとは、親が子を授かることだ。それがどのような結果を迎えるかは、親の育て方次第だ。理想的な育て方をすれば、いくつもの遺伝子的なハンディキャップを補うことができる。逆に育ちに欠ければ豊かな才能を台無しにしてしまいかねない。 

私もそう思っていた。考え方を変えるまでは。 

私が考え方を変えたのは育ちという点に関してであって、環境に関してではない。本書は遺伝子が全てを決めると主張するものではない。環境も遺伝子同様に重要だ。成長過程での経験は、生得的にもち合わせているもの同様に重要であることに変わりはない。私が考え方を変えたのは、「育ち」という言葉が「環境」の同義語としてふさわしいかという点だ。「育ち」を「環境」の同義語とすることが問題の発端だったのだ。「nurture」には深い意味と歴史があり、辞書的には「養う」とか「育てる」を意味する。語源は nourish(育む、養う)や nurse(育てる、授乳する)と同じラテン語だ。「養育」を「環境」の同義語として扱うようになったのは、遺伝子以外で子どもの成長に影響を及ぼすのは親の育て方であるという仮説に基づいている。それを私は「子育て神話」と呼んでいる。私自身子どもを二人育て、また子どもの発達に関する大学の教科書の著者や共著者として三冊の執筆に携わり、はじめてこの神話はおかしいと思うようになった。そして、ついにそれが間違っているという結論に達したのは最近のことである。 

仮説を否定することは難しい。仮説とは元来証拠を必要としないからだ。本書で私がまずすべきことは、子育て神話がそれ以上のものではない、それが単なる仮説にすぎないことを示すこと。第二にそれは立証されていないということを理解してもらうこと。そして第三にその代替となる見解を提供すること。私が提供する考え方は、従来のものに劣らず強力なものだ。子どもがどのような人間へと育つのか、それを説明する新たな見解だ。私たちが私たちであるのはなぜかという根本的な問いかけへの新たな解答案だ。私の答えは、子どもにはどのような心が備わっているのか深く考えた結果に基づいているのだが、それは同時に私たち人類の進化について再考するきっかけにもなった。本書では別の時代、別の社会への旅にも──チンパンジー社会にまでも──おつきあいいただきたい。 


拭いきれない疑惑 

証拠が多く揃っている事象の信憑性を問うことなどできるのだろうか。親は子どもに影響を及ぼす──それは一目瞭然だ。虐待を経験した子どもは親の前ではすっかり怯えてしまう。親が気弱であれば、その子どもは親に対して好き勝手に振る舞う。親から道徳心を教わらなかった子どもは不道徳な行動に走る。親が自分の子どもはたいして成功しないだろうと思えば、その子どもはさほど成功しない。

論より証拠と考える疑い深い人々は実際に印刷された書物で確認しないと納得しないだろう。その人たちには証拠が凝縮されたような数千冊の本が出版されている。たとえば「毒親」による破壊的で永続的な影響を語るスーザン・フォワードなどの臨床心理学者による本。「毒親」とは過剰なまでに批判的であり、支配的で、愛情が足りず、また予期せぬ行動に出る人々で、自分の子どもの自尊心や自立心を軽視する、もしくは早すぎる自立を強要する親を指す。フォワード博士は、そのような親によって傷つけられ崩壊していった子どもたちを目の当たりにしてきた。患者は心理的に追いつめられているがその責任はすべて親にあり、子どもたちが回復するためには親たちが、フォワード博士に対しても自分自身に対しても、「すべては私の責任であった」と認めることが必要なのだそうだ。

もっとも疑い深い人々の中には、臨床心理学者は自分で患者を選び、その患者との対話を基に仮説を立てるので、それは証拠とはみなさないという人もいるだろう。そういう人にはより科学的な証拠が残されている。いわゆる一般的な親子を対象として注意深く企画実施された調査で得た証拠だ。その調査に参加した親子の心理状態は、フォワード博士の待合室で見かける親子のものよりもはるかに広範囲にわたる。

ヒラリー・ロダム・クリントンはアメリカ大統領夫人時代に書いた自著『村中みんなで』の中で、発達心理学者の詳しい調査研究によって明らかになった結果をまとめている。親が愛情をたっぷり注ぎ、常に向かい合いながら育てた赤ちゃんは親にしっかりと愛着をもち、自信溢れる愛らしい子どもへと成長する。子どもとの会話を大切にし、また本の読み聞かせを習慣とした親は、快活で学業の成績も優秀な子どもをもつ。親に物事の善悪をしっかりと(厳しくではなく)教えられた子どもは問題を起こす可能性が低い。子どもに粗暴な態度をとる親は、攻撃的もしくは怯えるような、場合によってはその両方を兼ね備えた子どもをもつようになる。親が子どもに対して正直で、やさしく、誠実であれば、その子どもも正直でやさしく、誠実な人間になる。さらに親の都合で両親の揃った家庭を与えられなかった子どもは、大人になってからなんらかの挫折を経験する可能性が高い。 

こうした内容は、他の似た内容のものも含めて、どれも単なる臆測ではない。膨大な調査結果に裏づけられているのだ。私が執筆した大学用の発達心理学の参考書も同じ調査結果を根拠としていた。講義を担当する教授もそれらを信じきっていた。ジャーナリストもそうだ。時折新聞や雑誌に調査結果に関する記事が掲載されるが、それらも同じ調査結果を根拠としていた。親の相談にのる小児科医の助言も多くがそれらに根ざしていた。本を書き、新聞の相談コーナーに登場する育児アドバイザーたちもその結果をそっくり鵜呑みにしている。発達心理学者の行なった調査研究は私たちの文化の中でじわじわと広がり、浸透していくのだ。 

私も教科書を執筆していた頃はそれらの「証拠」を信じていた。しかし、突き詰めて考えてみると、これは私自身驚いたことに、その証拠は私の手中でばらばらと壊れてしまったのだ。発達心理学者が子育て神話の裏づけとしていた証拠はそのとおりではなかったのだ。立証すべきものを立証していなかった。そして今、この子育て神話を否定する論拠が少しずつ明らかになってきた。 

子育て神話は自明の理ではない。ましてや万人が認める真実などでもない。これは私たちの文化がつくりだしたもの、社会によって大事に育まれたものだ。本章ではなぜこのような神話が生まれたのか、そして私がこの神話の信憑性を疑うようになったいきさつを述べようと思う。 

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ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解〔新版〕――重要なのは親じゃない(上・下)』(石田理恵訳、上下各840円+税、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は、早川書房より好評発売中です。 

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・橘玲さんによる文庫版解説はこちら(HONZ)