テッド・チャン『あなたの人生の物語』13万部突破&映画「メッセージ」大ヒット記念! 山岸真さんの巻末解説を特別公開! 天才テッド・チャンとは何者なのか?
『あなたの人生の物語』
テッド・チャン/浅倉久志・他訳(ハヤカワ文庫)
解説
山岸 真(SF翻訳業)
この本を読み終えたあなたが思い浮かぶ。SF的想像力にあふれる粒よりの8作品の充実した読後感で、あなたの心は満たされていることでしょう。だから本屋でこの本を手にしたとき、SFってむずかしいのかもとか、短篇なんて読みにくそうとか、巻末の解説(この文章のことだ)が要領をえないだとか、そんな内心の声にまどわされないでレジに直行したあなたの判断は、大正解だったわけ。そして、ここで描かれた物語のいくつかは、忘れられない感動をあなたの中に残すことになるの。
──と思わず本書表題作の文体模写もどきをやってしまったが、それほどに「あなたの人生の物語」という中篇のインパクトは強烈だ。この傑作を筆頭に、本書Stories of Your Life and Others(Tor刊,2002)に収録されているのは、平均のはるか上をいくレベルの作品ばかりである。しかもこの8つの中短篇が、1990年のデビューから現在までにテッド・チャンが発表した作品のすべてなのだから、驚いてしまう。
なにが驚くといって、寡作とはいえ水準作以下にとどまる作品が皆無なこともだが、長篇がひとつもない(つまりふつうなら知名度が低いので商売にならない)作家の短篇集が、しかもトーというSF最大手の版元から出るなどという事態は、現在のアメリカSF出版界では常識破りもいいところなのだ。これは、チャンという俊英がたいへんな注目と期待を集めている証拠であると同時に、各作品がいかに大きな反響を呼び、高く評価されてきたかを物語っている。
以下、本書収録作品の初出と受賞情報(順位のあるものは10位まで)などを記す。
「バビロンの塔」“Tower of Babylon”(〈オムニ〉1990年11月号/初訳)
*ネビュラ賞受賞、ヒューゴー賞第3位、ローカス賞第4位、〈SFクロニクル〉読者賞第2位、年間SF傑作選収録
「理解」“Understand”(〈アシモフ〉1991年8月号/〈SFマガジン〉1994年7月号訳載、『90年代SF傑作選(下)』〔本文庫・2002年〕所収)
*ヒューゴー賞第5位、〈アシモフ〉読者賞受賞、星雲賞候補、〈SFマガジン〉読者賞受賞
「ゼロで割る」“Division by Zero”(オリジナル・アンソロジーFull Spectrum 3、1991年/初訳)
*ローカス賞第7位
「あなたの人生の物語」“Story of Your Life”(オリジナル・アンソロジーStarlight 2、一九九八年/〈SFマガジン〉2001年9月号訳載)
*ネビュラ賞受賞、ヒューゴー賞第3位、ローカス賞第10位、スタージョン賞受賞、ティプトリー賞候補、ホーマー賞候補、星雲賞受賞、〈SFマガジン〉読者賞受賞、二種類の年間SF傑作選に収録
「七十二文字」“Seventy-Two Letters”(オリジナル・アンソロジーVanishing Acts、2000年/〈SFマガジン〉2002年3月号訳載)
*ヒューゴー賞第5位、ローカス賞第4位、世界幻想文学大賞候補、スタージョン賞候補、サイドワイズ賞受賞(改変歴史SFを対象とする賞)、星雲賞候補、〈SFマガジン〉読者賞受賞、年間SF傑作選収録
「人類科学(ヒューマン・サイエンス)の進化」“The Evolution of Human Science”(〈ネイチャー〉2000年6月1日号、“Catching Crumbs from the Table”改題/初訳)
「地獄とは神の不在なり」“Hell Is the Absence of God”(オリジナル・アンソロジーStarlight 3、2001年/〈SFマガジン〉2003年3月号訳載)
*ネビュラ賞受賞、ヒューゴー賞受賞、ローカス賞受賞、スタージョン賞候補、星雲賞受賞、〈SFマガジン〉読者賞第2位、二種類の年間ファンタジイ傑作選に収録
「顔の美醜について──ドキュメンタリー」“Liking What You See : A Documentary(本書に書き下ろし、2002年/初訳)
*ローカス賞第2位、スタージョン賞候補、星雲賞候補、年間SF傑作選収録
作家が選ぶネビュラ賞、ファン投票で決まるヒューゴー賞というアメリカの二大SF賞に加え、短篇を対象に審査員団が選ぶスタージョン賞を繰りかえし受賞したり候補になったりしていることは、チャンの支持者層の幅広さを示している。ちなみにデビュー作でネビュラ賞を受賞した作家はこれまでにチャンが唯一であり、これは同賞の最年少受賞記録でもある(中短篇を8つ発表しただけでネビュラ賞を3回も受賞した作家もほかにいない)。日本の星雲賞や〈SFマガジン〉読者賞での高評価もごらんのとおり。このほか、1992年には作者が最優秀新人賞であるジョン・W・キャンベル賞を受賞し、本書も今年のローカス賞短篇集部門を受賞した。
賞なんてあてにならないと思っているかたも、今回ばかりはこの錚々たる結果を鵜呑みにしたほうがいい。チャンは、ロジャー・ゼラズニイやジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、ジョン・ヴァーリイ、ウィリアム・ギブスン、グレッグ・イーガンら、短篇でSFに一時代を画してきた作家の系譜につらなる一員であり(もっともチャンの作家歴はイーガンと重なるが)、本書はこうした作家たちの短篇集と並んでSF史に刻まれることになる一冊なのだ。短篇作家としてのチャンの力量を、シオドア・スタージョンやアーシュラ・K・ル・グィンと並び称する人もいる。ともかく、グレッグ・ベアが本書に寄せた、「チャンを読まずしてSFを語るなかれ」という最大級の賛辞は、決して大げさではないのである。
本書の収録作品については、巻末の「作品覚え書き」でそれぞれの発想の源が明かされている。いくつかあるインタビュウでも、チャンはこれ以上のことをほとんど語っていないに等しい。(チャンの作品は、古代バビロンとか言語学とか、関心のある人にとっては深読みしたくなる題材を多々あつかっているが、そのへんのことをきかれても、チャンは「作品に必要なので勉強しただけ」みたいな返事しかしていない)
そうしたインタビュウで決まって話題になるのが、SFとファンタジイの違いについてである。たとえば「地獄とは神の不在なり」は、天使降臨などのキリスト教的世界観が自然環境の一部として具現化していること以外は、われわれの世界と変わらない世界を描く。その神をめぐる現象の背後にあるのは、客観的・機械的な法則ではなく、なんらかの存在の意志であり、それは個々人に私的な反応をする。ゆえに、主人公が科学的視点をもってはいても、この作品の舞台はファンタジイ的世界だというのが作者自身の見かただ。なお、チャンは宗教的背景をもたずに育ち、宗教については個人的に思うところはとくにないとのこと。だからこれは、キリスト教の深い知識がなくとも、物語と議論を虚心に楽しめる作品といっていいのではなかろうか。
一方、文字どおり天まで届く塔を築く「バビロンの塔」は、この世界とは構造が異なる世界の物語だし、「七十二文字」は改変世界のヴィクトリア朝が舞台だが、そこではオカルトの体系が一部の科学の代役をつとめている。しかしチャンはこの二作をファンタジイではなくSF的だという。たしかにここでは、科学的問題が科学的手続きであつかわれ、科学的方法論に従って思考が展開される。また「バビロンの塔」でいえば、塔を建設するシステマティックな手順や、塔の途中に作られた社会、塔から見える光景など、科学的世界観を背景とする記述が異様な世界に顔をのぞかせて読者に認識の変容を体験させるし、やがて主人公も世界観の変容をせまられる(そうやって読者はセンス・オブ・ワンダーを喚起される──とこれは作者自身の言葉)。
認識の変容が現実の姿をも変容させ、それは人間の内面世界にも反映される、というのはチャンの作品に共通するモチーフだ。エイリアンとのコンタクトを通じて主人公が異質な認識を獲得していく「あなたの人生の物語」は、その典型。これは、アイデアとスタイルと物語のたぐいまれな結合が生んだ傑作であり、読者の心を深くゆさぶるということでは、オールタイム・ベスト短篇SFの上位に並ぶいわゆる“泣ける”SFをもしのぐものがあると思う。
ナノマシンによる脳神経操作というイーガンを思わせる題材をあつかった「顔の美醜について──ドキュメンタリー」や、知覚力が高まり、あらゆるパターンが統一的全体像(ゲシュタルト)として見てとれるようになった男を描く「理解」も、このモチーフを正面からあつかった作品だ。「理解」でひとつの極限まで追及された超人類という題材は、「人類科学(ヒューマン・サイエンス)の進化」でもまったく別のスタンスでとりあげられている。
ところで「理解」の主人公は、「ひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字」について考察するが、作者はこうした完全言語の探求を自作の主要なテーマのひとつにあげている。「あなたの人生の物語」の異星人ヘプタポッドの文字もその一例だが、「ゼロで割る」では数学がその位置にある。「ゼロで割る」での数学は、天才数学者と夫の関係のメタファーの役も果たしているが、これは先にあげたチャンの作品のモチーフと表裏一体のものだ。科学をそれそのものとして描くと同時に、メタファーに用いてドラマを紡ぐ手法は、「あなたの人生の物語」などでも使われている。
こうして見てくると、チャンがSF的なものの見かた・考えかたをいかに自家薬籠中のものとしているかがわかるだろう。チャンがイーガンと並んで、現役最高のSF作家と呼ばれるゆえんがここにある。
テッド・チャンは1967年10月20日、中国からの移民一世の両親のもと、ニューヨーク州ポート・ジェファーソンに生まれた。中国名は姜峯楠(Chiang Feng-nan)で、子どものころは中国語が話せたが、いまはさっぱりだとか。科学者を志して大学では最初、物理学とコンピュータ・サイエンスを専攻したが、途中で前者を捨て、1989年にロードアイランド州ブラウン大学を卒業。現在はワシントン州シアトル近郊在住で、フリーランスのテクニカルライターのかたわら創作活動をおこなっている。
十代前半、アイザック・アシモフやアーサー・C・クラーク(とくに前者)の作品でSFの刷りこみをうけ、自分でも小説を書きはじめた。大きな影響をうけたのは、大学時代に読んだジョン・クロウリー『エンジン・サマー』(扶桑社)やジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(国書刊行会)。SFを読みはじめたころはアイデアの面白さ自体にセンス・オブ・ワンダーを感じていたが、そのアイデアを語るスタイルや技巧の面白さに開眼したということのようだ。
大学を卒業した年に、伝統と実績を誇るSF創作講座クラリオン・ワークショップに参加。この講座は、合宿制で六週間、週替わりで講師が来るというシステムで、この年の講師は、トーマス・M・ディッシュ、オクテイヴィア・バトラー、カレン・ジョイ・ファウラー、スパイダー・ロビンスン、ケイト・ウィルヘルム、デーモン・ナイト。同期生に『葬儀よ、永久(とわ)につづけ』(東京創元社)のデイヴィッド・プリルがいる。
そして翌年デビューするやネビュラ賞を受賞、つづけて発表した二作品も好評を博したが、そのあと新作が数年間途絶えている。これは、本職が多忙だったせいもあるが、作家としていきなり脚光を浴びたプレッシャーも原因だったという。
「ほかの作家で評価するのは?」という問いに、つねにまっ先にあがるのがイーガンの名前。イーガンの作風は、“形而上学の領域へ科学が手をのばし、人間の問題をハードSFとしてあつかうことを可能にした”と自ら語るSF観を反映したものだが、チャンもまさにこの点への称賛を惜しまない。ほかに評価するのは、ファウラー、ギブスン、ブルース・スターリング、イギリスの新人ケン・マクラウド。
チャンは自身を、アイデアが次々と湧いてくる作家ではないと分析している。そしてアイデアはじっくり練りこみ、書きだすにあたっては結末がなんらかのかたちで見えている必要がある。結末にむかって話を組みたてるタイプなのだ。執筆にもじっくり時間をかける。長篇を支えられるアイデアが思い浮かべば長篇を書くだろうが、執筆中には作品を短くする衝動に駆られがち。本書収録作を長篇化する気はないし、いまのところ短篇を書くことで満足しているという。
2003年夏現在、チャンの新作に関する情報はない。アイデアを練っているところか、じわじわと執筆中なのかはわからないが、その発表が遠くないことを祈るばかりである。若手作家の解説を締める常套句、「今後いっそうの活躍が大いに期待される」がいまだれよりもふさわしいのは、テッド・チャンなのだから。
〔2010年1月追記〕
本書初刊以降現時点までにチャンが発表した小説は以下のとおり。すべて邦訳ずみ。
「予期される未来」“What's Expected of Us”(〈ネイチャー〉2005年7月7日号/大森望訳、〈SFマガジン〉2008年1月号訳載)
*年間SF傑作選収録
「商人と錬金術師の門」“The Merchant and the Alchemist's Gate”(〈F&SF〉2007年9月号、ほぼ同時に単独で単行本としても発売/大森望訳、〈SFマガジン〉2008年1月号訳載)
*ネビュラ賞受賞、ヒューゴー賞受賞、ローカス賞第2位、スタージョン賞候補、英国SF協会賞候補、星雲賞受賞、〈SFマガジン〉読者賞第2位、年間SF傑作選二種類と年間ファンタジイ&ホラー傑作選に収録
「息吹」“Exhalation”(オリジナル・アンソロジーEclipse 2、2008年/大森望訳、〈SFマガジン〉2010年1月号訳載)
*ヒューゴー賞受賞、ローカス賞受賞、英国SF協会賞受賞、二種類の年間SF傑作選に収録
〈SFマガジン〉2008年1月号はテッド・チャン特集で、ほかにエッセイ「科学と魔法はどう違うか」“The Difference Between Science and Magic”(2007年)が訳載(大森望訳)されているほか、日本で開催された2007年の世界SF大会(ワールドコン)のために来日したチャンが出演したインタビュウ企画が採録されている(インタビュアー・菊池誠/構成・海老原豊)。この企画は開始前に長蛇の列ができたため、企画関係者やスタッフの奔走で当初の予定より数倍広い部屋に変更になるほどの大盛況だった。また同じ号の大森望コラムには、インタビュウ後の即席懇親会でのさらに突っこんだ質疑応答が紹介されている。
チャンは2009年7月にも来日、このときのもようが〈SFマガジン〉2009年10月号の大森望コラムで紹介されている。この来日時におこなわれた大森望・新城カズマ両氏によるインタビュウが〈SFマガジン〉2010年3月号に、藤田直哉・海老原豊両氏によるインタビュウがspeculativejapanのサイトに掲載。
なお本書『あなたの人生の物語』は、年刊のランキング本『SFが読みたい!』(早川書房)の企画である、ベストSF2003、2000年代前期SFベスト、ゼロ年代SFベストのそれぞれで海外篇の1位になっている。
〔編集部付記〕
「あなたの人生の物語」は、2012年に発表されたSF情報誌〈ローカス〉が選ぶ「20世紀のベストSF中篇」第1位、および2014年に発表された〈SFマガジン〉が選ぶ「オールタイム・ベストSF」海外短篇部門第1位に、それぞれ選ばれた。
テッド・チャン/浅倉久志・他訳『あなたの人生の物語』http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11458.html
本書原作映画「メッセージ」公式サイト http://www.message-movie.jp/