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文庫版『ザリガニの鳴くところ』発売即重版! コラムニスト・山崎まどかさんによる解説全文

全世界で2200万部を突破し、2019年・2020年と2年連続でアメリカで一番売れた本でもある大ベストセラー小説『ザリガニの鳴くところ』(原題:Where the Crawdads Sing)。

日本でも2020年3月の刊行以来人気を博し、2021年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞! 昨年11月には映画化もされた話題作の文庫版がついに刊行され、発売後即重版となりました。

今回は、そんな文庫版に収録されている山崎まどかさんの解説全文です。

装画:しらこ 装幀:早川書房デザイン室

『ザリガニの鳴くところ』解説

山崎まどか(コラムニスト) 

『ザリガニの鳴くところ』は、様々な要素が絡み合う小説だ。まず、その自然描写に圧倒される。殺人事件らしきものの謎を追うミステリーの要素がある。貧困と差別の問題を扱う社会派小説の側面もある。そして何よりも、鮮烈なヒロイン像がある。その吸引力はすごい。最初に読んだ時は、彼女の行く末が気になって、ページをめくる手が止まらなかった。本国で大ベストセラーになったのも納得である。


舞台は1950年代から60年代にかけてのノース・カロライナ州近辺だが、この物語における湿地帯の森はどこか異世界のようだ。潟湖を取り囲むパルメットヤシの木や、そこに集まるシラサギ、オオアオサギ、ハチドリといった鳥の数々、水分を含んだ大気。ムッとするような気温。泥の匂いと感触。アメリカ南部の自然は、こんなにも神秘的で、官能と驚きに満ちているものなのか。元々は自然や動物を題材とするノンフィクション・ライターだったという著者のディーリア・オーエンズの描写力には感服するしかない。


この自然の描写はただ美しいだけではなく、切ない。それらが、この土地に抱かれた過酷なヒロインの運命と相まって読者の五感へと入り込んでくるからだ。湿地は未知なる自然と共に、少女の孤独を内包している。彼女は6歳で両親やきょうだいに去られ、たった一人で森の掘立小屋に暮らしている。近隣の町の人々から「湿地の少女」と呼ばれ、奇異な目で見られているそのヒロインの名前はカイア。本来の名前はキャサリンだが、カイアという名前の響きはギリシア神話の地母神ガイアを思わせるところがある。ひとりぼっちで湿地帯の森で暮らし、学校に通うことも叶わず、自然が与えてくれるもので自活していく彼女に相応しい名前かもしれない。

カイアの暮らす湿地帯の近くには小さなコミュニティもある。しかしその共同体は密であるのと同時に排他的でもあり、自分たちよりも貧しい者や人種が違う人々を見下して受け付けない。普通ならば教会や行政などがセーフティネットになるはずだが、こうした小さな町ではそれらは逆に異物を排除するシステムとして働く。アメリカ社会の残酷さだ。カイアのような少女を助けてくれる人はいないのである。

過酷な話だが、悪条件を生き抜いていく少女のサバイバルの物語としても楽しめる。カイアはムール貝や魚を収獲して、それを黒人夫婦が営む店に卸して生活費を稼ぐ。自然から知恵を授かった少女はたくましい。この展開は1909年にジーン・ポーターが発表した少女小説『リンバロストの乙女』を彷彿させるところがある。あの小説の舞台は中西部インディアナ州で、ヒロインのエルノラはやはり沼地に近い森に住んでいた。カイアと違って彼女は母親と二人で暮らしているが、とある理由によってこの母は自分の娘を憎んでいる。ネグレクトされたエルノラは森で珍しい蝶を採集して、学費を捻出する。最終的に鳥の分類スケッチが仕事となるカイアと重なるところもある。彼女はアメリカの少女小説の正統的なヒロインなのだ。

しかし、主人公が最終的に名家の青年と結ばれ、社会的な地位を築くという『リンバロストの乙女』のような幸せな筋書きは、この小説にはない。女性として花開いていく過程で、野生の官能を漂わせた少女は二度までも男性に裏切られ、更に追い詰められていく。これは社会の周縁にいた少女がロマンティックな恋愛を通して、コミュニティに参入にしていく物語ではないのだ。むしろ彼女の恋愛は悲劇を生む。一人の青年が謎の死を遂げ、カイアは町の人々から殺害犯だと決めつけられて、糾弾される。ミステリーの要素が物語に加わって、よりヒロインの神秘性が強調される形になっている。事件が解決しても、彼女がコミュニティに迎え入れられることはない。シビアだ。しかし、そこがより今日的であるとも言える。

カイアは切ない少女だ。人を寄せつけず、一人で生きていくことに慣れているが、同時に人恋しく、愛されることを熱望もしている。そんな彼女に、二人の青年が恋をする。彼女に読み書きを教えてくれるテイトと、町の有力者の息子であるチェイス。テイトにとってカイアはイノセントと独立心の象徴で、大切に守るべきもの。ただ、彼はカイアの美質は湿地と切り離せないことも分かっている。自分が住む人間社会に彼女を連れてきたら、都会の空気に触れた野生の植物のようにあっという間に息絶えてしまうかもしれない。知性を足がかりに、これから社会で地位を築いていこうとする若者にとって、普通の人間からかけ離れた彼女はあまりに重荷だったのだろう。結果的に、テイトはカイアの保護をあきらめて、彼女を湿地に置き去りにしていくことになる。一方、チェイスにとっての彼女は征服すべき獲物である。野原で見つけた花を手折るように、何の躊躇もなくカイアの純潔を奪っていく。カイアは搾取し、破壊しても構わない存在として彼にいいように扱われ、愛は憎しみへと転じていく。

二人の男性とカイアとの関わりの中から、だんだんと彼女が象徴するものが見えてくる。自然や動物の生態系を追ってきた著者にとって、この主人公は自然そのもののシンボルなのだ。人間は自然を、自分たちが好きなようにできる無限のリソースとして利用し尽くしてきた。しかし傷ついた自然は人間に報復する。異常気象を始めとする現在の様々な災害に感じる、蹂躙されてきた自然の側の正当な”怒り”。それがカイアの根底にも隠されている。


ずっとカイアに寄り添い、彼女の幸せを願ってきた読者は、もしかしてラストで突き放されたようにも感じるかもしれない。彼女は自分を譲り渡すような人ではなかった。彼女を支えてきた数少ない人々にとっても、一番近くで寄り添ってきたテイトにも、カイアは本当の意味では知り得ぬ存在だったのだ。それは自然の本質でもある。どんなに深く探ろうとしても、本当の彼女は不可侵な存在なのだ。幼い頃のカイアは、誰かが孤独から自分を救い出して、人々の温もりを感じる場所に連れて行って欲しいと願っていたかもしれない。しかし彼女の幸福は、湿地と潟湖が育んだ孤独の中にあった。私たちは「湿地の少女」を再びそこに送り出すしかないのだ。

『ザリガニの鳴くところ』は2022年、女優リース・ウィザースプーンのプロデュース、オリヴィア・ニューマン監督で映画化されている。主演を務めたデイジー・エドガー゠ジョーンズの儚げで神秘的な風情と強い眼差しは、私の考えるカイア像にマッチしていた。原作に惚れ込んだテイラー・スウィフトが書き下ろした暗く哀切な主題歌が幕切れにかかり、胸を締めつける。エンディング近くには老境のカイアが「私は湿地となった」と宣言するモノローグがあり、このストーリーの本質を物語っている。(2023年11月)

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『ザリガニの鳴くところ』はハヤカワNV文庫より好評発売中です。

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