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タフな交渉事で賢く振る舞うには?『パイを賢く分ける』訳者あとがき試し読み

タフなビジネス交渉はもちろんのこと、プライベートの買い物、経費の割り勘、家賃交渉など、私たちの周囲にあふれるさまざまな「交渉」の場面で役に立つ、シンプルかつ実践的な方法を伝授するのが、バリー・ネイルバフ『パイを賢く分ける――イェール大学式交渉術』(千葉敏生訳、早川書房)
話題の新刊から、訳者・千葉敏生さんによる「訳者あとがき」を特別公開します。

『パイを賢く分ける』バリー・ネイルバフ、千葉敏生訳、早川書房
『パイを賢く分ける』早川書房

『パイを賢く分ける』訳者あとがき/千葉敏生

交渉と聞いて、どんなイメージを抱くだろう? それぞれが利己的な要求や価格を提示し、少しでも希望条件に近い最終成果を勝ち取ろうとする“戦い”のようなイメージだろうか?

藤子・F・不二雄のマンガ『ドラえもん』(てんとう虫コミックス第2巻「タタミの田んぼ」)に、こんなシーンがある。主人公のドラえもんとのび太が部屋でおやつのお餅を食べているのだが、あいにくお餅は9個と半端な数しかなく、最後のひとつをどちらが食べるかで大ゲンカになってしまう。そこで、ふたりはドラえもんの道具を使い、一からお餅をつくることにした。タタミの上に田んぼをつくり、ときには害虫のイナゴと格闘しながら餅米を栽培し、収穫した餅米でお餅をつく。完成したお餅は259個。結局、130個目をどちらがもらうかでまた取っ組み合いのケンカが始まり、お餅があたり一面に散らばってしまう――そんなストーリーだ。

すごく面白い。食べられるお餅の数は元の何十倍にも増えたはずなのに、たったひとつ、相手よりも取り分が少なくなることが許せなくて大ゲンカになり、それまでの苦労が水の泡になってしまう。いかにもマンガチックな結末だ。

しかし、それはマンガの世界だけの話ではない。実際、名門イェール大学の学生たちでさえふたりと五十歩百歩のようだ。著者が教鞭をとる交渉術講座の受講生たちは、ふだんは頭脳明晰で共感力が高いのに、いざ授業のなかで交渉を実践してもらうと、最悪の人間性を露呈させるという。相手より少しでも優位に立とうとか、タフな交渉者(トランプ元大統領のようなイメージだろうか?)を演じようとして、誰も交渉したがらない人物に豹変してしまうというのだ。

それぞれが勝手気ままな要求をし、自分の利得をなるべく高めようとすれば、折り合いはいっこうにつかず、交渉は決裂するか、強情な側の主張が通ってしまう。そうなれば、たとえ一時的に得をしたとしても、遺恨が残り、相手から今後いっさい協力を引き出せなくなることもあるだろう。

そんな従来の交渉スタイルに疑問を投げかけ、お互いが公平に扱われていると感じられる原理的で一貫した交渉のフレームワークを提唱しているのが、本書『パイを賢く分ける――イェール大学式交渉術』(原題Split the Pie: A Radical New Way to Negotiate)だ。原題は、直訳すれば「パイを山分けせよ――過激な新交渉術」といったところだろう。イェール大学経営大学院で交渉術の必修科目を受け持つ著者のバリー・ネイルバフは、〈オネストティー〉という紅茶メーカーの共同創設者として、天下のコカ・コーラを相手に対等な契約を勝ち取った経験をもとに、新たな交渉術を提唱している実践家だ。反面、経済学者のアビナッシュ・ディキシットと共同でゲーム理論のベストセラー書『戦略的思考とは何か』を著わした理論家としての顔も持つ。

その新しい交渉術の中心となるのが「パイ」という概念だ。パイとは、経済学では分け合うべき総量や利益全体を表わす用語としてすっかり定着しているが、著者のいうパイとは、当事者どうしが協力することによって生じる追加●●の価値のことだ。本書の第1章冒頭で登場するピザの分け前の例がわかりやすい。アリスとボブは、ピザの分け方で合意すれば、12枚切りのピザをまるまるもらえる。ただし、合意に失敗すれば、取り分はそれぞれ4枚と2枚に減らされてしまう。合意した場合にもらえる余分な6枚が、ふたりが協力することによって生じる追加の価値なので、パイというわけだ。

ふたりはピザ全体をどう分け合うべきか? 交渉決裂時の取り分に比例する形で8枚と4枚に分けるとか(本書ではこの分け方を「比例分配」と訳した)、全体を6枚ずつ等分する方法が考えられるが、著者はどちらも公平とはいえない、と主張する。追加の6枚をもらうためには、アリスとボブの存在が等しく不可欠なので、ふたりは等しい取り分を要求する権利を持つ。そのため、パイに相当する6枚については3枚ずつ山分けし、全体を決裂時の取り分と合わせてそれぞれ7枚と5枚に分けるのが正しい、と著者は考える。これがパイ・フレームワークだ。

両者が協力して生み出したパイを等しく分け合うことで、お互いを公平に扱うことができる。公平に扱われているという安心感があれば、こんどはふたり協力してパイを最大限に広げるインセンティブが働きやすくなり、ウィン・ウィンの成果が期待できるというわけだ。冒頭の『ドラえもん』の例でいうなら、道具を出してくれた対価として、余ったお餅はドラえもんにあげる、と事前に約束していれば、ケンカは起こらなかったかもしれない。そうすれば、あとはなるべく多くのお餅をつくることだけに専念できる。

等分する対象は、ふたりで協力して生み出した追加の価値だけなので、このフレームワークは両者のもともとの力関係や規模にどれだけ差があったとしても変わらず成り立つ。どちらが欠けても追加の価値が生まれなかったという点では、両者の存在が等しく重要だからだ。

確かに、「過激」な新交渉術という看板に偽りなしだ。果たして、大企業や格上の相手との交渉がそんなにうまくいくものだろうか、という疑問は残る。しかし、本書の最大の貢献は、「パイ」という視点にこそあるように思う。パイの視点がなければ、相手と協力して生み出した価値をどう分けるのが公平なのかが判断できないし、自分が煮え湯を飲まされそうになっても気づかないかもしれない。その一貫した指針のひとつを与えてくれるのがパイの視点だ。

また、パイの視点は説得の武器のひとつにもなりうる。交渉のパイを正しく計算し、そのパイを等分することがなぜ公平なのかを理路整然と説明できるようになれば、説得力をもって自分の要求を伝え、望みどおりの結果を引き出しやすくなるだろう。気まぐれな要求ではそうはいかない。要求の根拠となる原理原則がないからだ。従来の交渉術が自分の利得を最大化するための戦略なのに対し、パイ・フレームワークはお互いの公平性を最大化し、その結果としてウィン・ウィンの成果を引き出すための考え方なのだ、と感じた。本書をきっかけに、交渉を上手に運べる人が少しでも増えてくれればうれしい。

ちなみに、冒頭でマンガの一場面を参照したのにはわけがある。著者も(きっと)マンガ好きだと思ったのだ。オネストティーの創作秘話をつづったセス・ゴールドマンとネイルバフの共著書『夢はボトルの中に――「世界一正直な紅茶」のスタートアップ物語』は、なんと全篇マンガ形式で描かれている。ネイルバフがこんな苦労人だったとは……。百聞は一見にしかず。興味のある方は、ぜひそちらにも目を通してみてほしい。


本書概要

『パイを賢く分ける――イェール大学式交渉術』
著者:バリー・ネイルバフ
訳者: 千葉敏生
本体価格: 2,600円(税込2,860円)
発売日: 2023年9月20日(早川書房)

著者紹介: バリー・ネイルバフ (Barry Nalebuff)
イェール大学経営大学院ミルトン・スタインバック記念教授。ゲーム理論の専門家として知られ、『戦略的思考とは何か』『ライフサイクル投資術』(ともに共著)など著書多数。グローバル企業への豊富なコンサルティング経験を持つほか、全米バスケットボール協会(NBA)に選手会との交渉における助言を行なうなど、幅広い分野でビジネス交渉のエキスパートとして活躍している。
訳者略歴:千葉敏生(Toshio Chiba)
翻訳家。1979年神奈川県生まれ。早稲田大学理工学部数理科学科卒。訳書にバーネット&エヴァンス『スタンフォード式 人生デザイン講座』、ブラウン『デザイン思考が世界を変える〔アップデート版〕』、ガネット『クリエイティブ・スイッチ』、ベンソン『会議を上手に終わらせるには』(以上早川書房刊)ほか多数。

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