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【オーガニックゆうき】第8回アガサ・クリスティー賞受賞作『入れ子の水は月に轢かれ』冒頭公開【11/20発売】

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「一九四八年、アイロン、ソバ代、十一円だった……
 一九四九年、レーラ、十二円に値上げしたさ。
 その年にはゼーリスも暴れたねぇ……
 一九五〇年、十三円、ジェーン……
 一九五一年のドゥースの時は値上げして十四円……
 一九五三年、ヘデンは相当強かったね、思い切って十五円、
 一九五四年はシンシーア、十六……」
「オバア、もういいよ」
「アイ、何でよぉ。『鶴食堂』が繁盛した頃までいってないよぉ。一九六〇年、抱っこちゃん人形が流行ってたさぁ」

第一章 鉄砲水

一話
二〇一七年六月二四日(大潮・新月)

 午前十一時。岡本駿は部屋で一息入れていた。高身長で細身の青年。色白の肌と、細い腕が、黒いシャツから覗いている。穏やかな眼差しが丸い眼鏡の奥に光っていた。
 駿はちゃぶ台に置かれた手挽きミルで豆を挽いていた。出来るだけゆっくりと、時間をかけてコーヒーを淹れるのが彼のこだわりだ。狭い借間の床には掃除道具が並べられている。午後から自分の店の大掃除を始めるのだ。来月オープン予定の『水上ラーメン』。むつみ橋から南に走る『ガーブ川中央商店街』──通称『水上店舗通り』──、そのほぼ中間に位置する間口一間の小さな店だ。オープンに向けての準備のなか、毎朝の日課である農連市場での買い出しを済ませると、店の三階にあるこの部屋で優雅な時を過ごすのである。
 ミルが立てる心地よい音を楽しみながら、駿は窓の外の商店街を眺めていた。すぐ下には、水上店舗の二階に架かる商店街のアーケードがある。眼下の半透明の天井からは、店が立ち並ぶ様子がよく見えるのだ。お隣の平和通りに比べ見劣りがする水上店舗通りは、どこに看板があるのかすら分からないほど雑然としている。きっと表向きの看板よりも、店主の存在こそが売りなのだろう。相対売りのスタイルで商売をする店が多い。
 それぞれの二階スペースはまとめて貸すためだろうか、ほとんどが空き室になっているようだ。だが、比較的むつみ橋に近い北側の店舗は、個性的なテナントで埋まっている。ブティック、骨董屋、画廊、リサイクルショップ……。窓一枚、ドア一枚にも、借り手がいるらしい。雑多に貼られた広告やポスターやアート作品などが、店舗の内外を彩っている。
 商店街は、平和通りの西側に並行して作られている。国際通りに遠いほど客は少なくなり、通りはすっかり寂れている。『水上ラーメン』の建つ場所まで来ると、ぐっと客足が減る。時折見かける通行人は、気まぐれに散歩をする物好きな観光客くらいだ。駿が自分の店の将来を案じながら、ポットに溜まったコーヒーを注ごうとした時だった。
「おっ! グッドタイミング!」
 相部屋の「健さん」の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。部屋から漏れたコーヒーの香りを嗅ぎつけたのだろう、ドタバタと足を速める音が聞こえたかと思うと、ガチャリと扉が開いた。
「おーい、駿くん。俺の分」
 肩幅の広い、切れ長の目のオジサンだ。顎髭をたくわえ、黒のスウェットに黒のニットキャップを被った強面。武骨な印象のせいで初対面の人間からは敬遠されがちだが、底抜けに明るい性格で、愛嬌のある笑顔が特徴的な男である。
 健はワハハと笑いながら部屋に上がると、床にクーラーボックスと釣り竿をどかっと下ろした。健は日がな一日、釣りに通っている。図々しい高齢者で、人の懐に平気で飛び込む節があるが、その人懐っこさからか、彼の言動を不快に思う人はそうそういないという不思議な魅力を持った人物だ。快活なキャラクターから、ここら一帯で彼はちょっとした人気者だった。「健さん」という名前を聞けば、商店街の店主や女将、なじみの客など、みんなが彼のことだと分かるほどだった。
「今日の釣りは、もうおしまいですか?」駿にとってはこの部屋の大先輩、健へのサービスは毎度のことなので、こうした突然の登場には慣れっこだった。健の愛用している水色の大きなマグカップは、すでにちゃぶ台の上に用意されている。随分使い込まれたマグカップで、いくつもの亀裂が入っている。駿は、まず先に淹れたてのコーヒーを真向かいに座る健に差し出すと、残りを自分のコーヒーカップに注いだ。これが二人の流儀だった。
「雲行きが怪しくなったと思ったら、大雨洪水警報が出ていた。雷は命取りになるからね」健はコーヒーをがぶりと一口飲むと、そう説明した。
「そういえば、陽射しが無くなってますね」駿は窓から空を見上げた。さっきまで晴れていた空が黒い入道雲に覆われている。商店街のアーケードは薄墨を流したような色に変わっていた。そのうち降りますね、と言いかけたその時だった。
 いきなり激しい雨が降り始めた。アーケードの天井を打つ雨音が商店街中に響く。あまりの勢いに恐怖を感じ、駿は思わず窓を閉めた。
「うわぁー、こんな凄まじい雨、初めてですよ」
「大雨、というより……こりゃまた鉄砲水と言ったとこだな。引き潮の力が加わると川のゴミが海に流れ出るね。明日の川はキレイになってるよ」濡れずに帰還できた余裕なのだろう、健は満足気な顔でコーヒーをガブガブと飲んでいた。
「釣り師はニュースより、まず天候の確認だな、うんうん。便利だねぇ、衛星ってやつは。浜の仲間が帰り支度を始めるから何事かと聞いたら、大雨、雷、竜巻、災害の警報が次々入るんだってね、その、スマホってやつに。俺もガラケーをやめようかな。あ、ミルクもね」健は笑いながら空のカップを駿に差し出した。二杯目をねだっているのだ。注文に応じて、お代わりのコーヒーをテーブルに置いた、その時だった。
 雨音を破り、けたたましいサイレンが鳴り響いた。警察、消防の両方が競いながら、人工的な遠雷を通りにどっと溢れさせている。その大音響はしだいに近くまで迫ってきた。やがてサイレンの代わりに、かなりの人数が駆け回るドッ、ドッ、ドッという人工的な地響きになった。明らかに異常事態を告げている。
 駿は急いで窓を開けた。健も身を乗り出し、三階から商店街を見下ろした。アーケードを打つ雨音に加え、商店街の喧騒が聞こえる。いつの間にか野次馬が集まっていた。みなが遠巻きに、警察や消防隊員が駆けていく商店街中央のマンホール点検口を見守っている。
「農連市場から人が流されたってよ!」
「作業員が川に落ちたって、何人も」
「どうやって助けるのねぇ」
「なんで、こんな雨の中で仕事するのよぉ」
「ゲリラ豪雨さ、急に増水したって」
「ウートートゥ、ウートートゥ……」群集の後ろで必死に手を合わせる見知らぬ老婆の姿が、その場の空気の重さを物語っていた。

 健は飲みかけのコーヒーを置くと、すぐさま部屋を飛び出した。駿も異変に対処すべく、健の後を追っていた。二人は三階から一階の通りに出ると、大勢の人だかりを押しのけ前に出た。マンホールを中心に規制線が張られている。消防隊員と警察官たちがマンホールを囲みながら、必死の形相で喚き散らしていた。
「ダメです、開きません!」
「コンクリートで塞がれています!」
「マンホールの蓋が開かないはずはないだろ!」
「ツルハシを持って来い!」
「削岩機が無いと無理です!」
「コンクリートブレーカーだ!」
「点検口も開きません!」
「おい! もうそっちへ流れてるぞ!」
 隊員の声はほとんど怒声に近いものだった。騒然とした現場にもう一度、サイレンが鳴り響いた。野次馬の群れが左右に分かれる。掘削機械を運ぶ消防車が健と駿の居る場所に近づいてきた。
「水上店舗のマンホール。半世紀以上前に米軍が造ったものだ……。だれも開け方を分からんよ。ただでさえ老朽化しているし、しかも接着剤でコーティングしてあるんだ。こういう緊急事態に対応不可能……」低い声で健がつぶやいた。それは駿に説明しているようにも聞こえたが、知りうる限りの知識で自分自身を納得させているようにも見えた。
「米軍のマンホール……」真っ青な顔になった駿は、ふらりと建物の壁にもたれかかり、そのままずるりとその場にへたり込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」驚いた健が慌てて声をかけてきた。
 駿は口を手で押さえ顔を横に振った。
「そうか、お前、マンホール恐怖症だもんな」困った顔をして、健は熊のような身体をかがめた。
「刺激が強すぎる。部屋に戻ろう」健が脇から背中に腕を回してくる。助け起こそうとしてくれているらしい。
「大丈夫ですよ」駿は健の肩を借りてやっと立ち上がったが、気丈に振る舞おうとした。「何ですか? マンホール恐怖症って、そんな病気って聞いたことありませんよ」不満気な口ぶりで文句を言い、必死に平静を装った。ふらつく脚を必死に動かす。
「お前みたいにマンホールの夢にうなされたり、マンホールを怖がっている人間、そんなやつが世の中にはたくさんいるらしいよ」
「本当ですか、ソレ」駿は吐き気を堪えるように口元を押さえながら、もと来た道を歩いた。
「おや、あれ見ろよ」健がある方向を注視する。駿もつられてそこに視線を向けた。自分の店である水上ラーメンの横の路地に、数名の消防隊員が集まっている。大家の宮里夫婦の自宅前である。隊員たちは、全員で足元を確認していた。家の中から、主人の宮里亀吉が現れた。松葉杖をつきながら裏庭を指差して何かを喚いている。どうやら鉢をどけろと指示しているようだった。隊員の一人が庭のプランターを移動させる。
「ん? あそこにもマンホールがあったのか……なんであんなところに?」健は事態の推移を見守っている。
 店の前にトレーラーが止まった。ヘルメットを被った作業員が慌しく足音を響かせ、狭い路地へ駆けていった。後陣だろう、十人は超える屈強な男たちがぞろぞろと大型機械を抱え、宮里家まで運び込もうとしている。
「この通りは消防法違反ばかりのところだから。骨を折るよな……」健は唇を噛んでいる。
 ダ、ダ、ダ、ダ、ダとコンクリートブレーカーの掘削音が唸りをあげ、あたりに細かな破片が飛び散った。そこらじゅうにもうもうと粉塵が舞い上がり、灰色の煙幕となって視界を遮断してしまった。
「あそこで一体、何をしているのですか?」駿は、自分の仕事場の真後ろの騒ぎが気になって仕方がなかった。
「滑り止めのタールと、膠着化している接着剤を剥がしているのだろう。米軍が設置した古い型だし、鋳物マンホールの周りは塞がれているからね」健が説明するのだが、駿にはさっぱり理解できなかった。
「ここら辺の商店街はガーブ川の上に建てられている水上店舗だろう。だから裏庭の、あのマンホールを壊して、川に降りようとしているんだ。どうやら、あそこにヒューム管の出入り口があるらしい」
「ヒューム管って何です?」駿の声はすっかり怯えていた。庭へ出るとマンホールがあるという状況を想像するだけで、彼には耐えられない恐怖だった。
「簡単に言うと、大きなパイプだよ。マンホールと川を繋ぐ水路だ……」作業を見守っている健は、そこで口をつぐんだ。事態の推移を黙って見守るつもりらしい。
 消防隊員たちはマンホールの周辺を砕き、なんとしてでも蓋を開けようとしている。彼らの格闘する姿は、機械の唸り音、コンクリートの粉塵、土煙、灰色と茶褐色に被われた空気の中で、影となってかすかに確認出来る程度だった。
「開いたぞ!」作業員の一声が、鳴り止んだ機械音の代わりに空気を突き破る。その声は埃まみれの隊員たちへの号砲となった。
「蓋が取れました!」
「ヒューム管に貫通しましたぁ!」
「ロープを降ろせぇ!」
「ライト! 発光器だ!」
 潜水服姿の救助隊員が次々と宮里家前に到着し、マンホールからガーブ川の中へと滑り降りて行った。
「なんと……あんなに大きなマンホールがあそこにあったとはな」健は蓋の開いたマンホールを見つめていた。開いた穴は、大人が潜り込むには充分な広さがあった。
「確か農連から美栄橋まで一キロの長さ……暗渠はずっと開かずの川……水の流れるトンネル、ボックスカルバートのはずだ……でも開けられる場所があった……しかも、人が出入りできる大きさの構造になっていたとは……」
「健さん、何をぶつぶつ言っているんですか、もう戻りましょうよ」駿はマンホールから川に飛び込んでいった隊員を見てしまい、恐怖の限界に来ていた。
 潜水服を着た男たちがガーブ川に降りてほんの二、三分後、マンホールに続くヒューム管から一人の隊員の声が響いた。
「生存者がいたぞーう!」
「ウォウ!」地下から、川底から、力の漲る声が円い空洞をつき抜け響いてきた。
 救急車のサイレンが近づいてきた。数名の救急隊員が肩に装備品を担ぎ、足早に宮里家へ向かっていく。生存者の救出部隊だった。



「おい、駿、どうした?」健は、半ば意識を失った駿が、今にも白目を剥きそうになっているのに気づいた。
「駿!」健はぐったりとした駿の顔を数回叩いたが、呼びかけに応じなかった。
「どうしたのですか?」救急隊員の一人が声をかけてきた。
「いえ、騒ぎでショックを受けてしまったようです」健の説明に、相手は駿の顔色を見て、
「そうですか、では体位を楽にして足を少し上げ、呼吸を楽にさせて、様子を見ていて下さい」アドバイスめいたことを伝えるとさっさと行ってしまった。
「はあ、どうも」健は取りあえず頷くと、駿を通りに寝かせ水上ラーメンへ向かった。シャッターを上げ、店内に入る。客席の椅子を数脚引きずって戻ると、急いで駿を抱える。駿の両足が少しでも高くなるように横倒しの椅子に乗せた。そして駿の尻をやっと抱き上げると、自分の脚で支えた。両腕の中に駿の上半身を包み込むことにもなんとか成功した。自分と変わらぬ大きさの若者なので、抱くというよりも、その肉体の下敷きになっているようなものだった。真後ろの電柱に身体を預けると、健自身は、電柱と駿の間で、はみ出したサンドイッチの具材のようになってしまった。
 汗だくになりながら駿を抱えていると、その荒い息が駿の顔にかかった効果なのか、それとも健の体温が伝わり血流が良くなったからか、半ば白目のままの瞼がピクッと痙攣し、駿が目を開けた。
「ううっ」駿がうめき声をもらした。自分を覗いている健に驚くと、目をぱちくりさせている。
「おい、駿、しっかりしろよ」
「すみません…あの擬似癲癇なんです……大丈夫です」地面に手をつきながら、健の抱擁を滑りぬけ、立ち上がろうとした。
「いいからまだ立ち上がるな。またぶっ倒れるよ。なんせ騒ぎはまだ続いているんだ」健は駿の背中に手を廻し、身体をピッタリとくっつけたままにしていた。
「はあ……」言われるままに駿はその場にうずくまっていた。
 その時だ。東側ほんの二、三メートル先のマンホールの開口部から、どす黒く汚れた人の両腕が地面に伸びてきた。わあわあと隊員たちの声が響く。数人で現れた腕を引き上げようとしていた。やがて真っ黒い塊──しばらくしてそれが人の頭部であると駿と健は理解した──が、マンホールの穴から出てきた。
「大丈夫ですか! 自分で這い上がれますか?」隊員の一人が叫んだ。
 泥水からやっと地上に出た男は、濡れて光る頭でこっくりと頷いてみせたものの、安堵のために力尽きたのか、両腕の先の手指は震え出していた。隊員の一人がその手を握り、必死に声をかけた。
「もう大丈夫だ!」隊員たちが男の脇や腰に両手を伸ばし、そして後方からもう一人の隊員が背中越しに支え、やっとのことでびしょ濡れの男が引き上げられた。
「おーい、運ぶぞ!」すぐさま男は担架に乗せられると、駿と健の前を通り過ぎて行った。
「少なくとも、一人は救出されたな」健が駿にそう言うと、真っ青な顔が頷き返していた。駿は歯をガチガチ鳴らし始めている。視線はすぐ先のマンホールに釘付けのままだった。唇の色も黒ずんでいる。
「おい、また擬似癲癇かい」健はこのままこの水難事故現場に留まっていると、駿がたった今引き上げられた作業員の男と同じように、救急車に運ばれる羽目になると判断した。
「部屋に戻ろう。歩けるかい?」
 健の呼びかけに、駿は身体の震えを必死にこらえ頷いてみせた。たった今引き上げられた事故の当事者のように、体力を消耗しきっていた。
 水上店舗の三階の部屋に戻っても駿の顔色は青白いままだった。ベッドに倒れこむように横になった駿に、健は黒糖を溶かした泡盛を温めてくれた。
「ほら、気つけ薬だ」駿は素直にそれを飲み干し、そして目を閉じ寝入ってしまった。
(落ち着いたな)健はその寝顔を見てほっとした。駿には黙っていたが、与えた酒に睡眠導入剤を入れたのだ。それは彼自身がかつて医師に処方してもらったもので、冷蔵庫に保管してあった。黒糖は薬の味を消すために混ぜたのだった。
「お前さ、人に言えない事情を抱えているんだろ」健は、駿の寝顔に話しかけた。「なぜ、マンホールの悪夢なんだい?」
 
 これまでも、健は駿の寝言に、ただならぬものを感じていた。
「マンホール……」と夜中に何度も口にするのだ。その苦しげな声が気になり始め、ある日、その理由を聞いてみた。
「以前テレビでモンゴルのマンホールチルドレンのドキュメンタリーを見て、ショックを受けてしまったんです。なんだか自分と重ねてしまうんですよ……あれ以来あの飢えた顔が忘れられなくて」駿は苦笑いしながらため息をついていた。
「俺にはシリア難民の方が身につまされるのに、どうしてお前にとってはその子たちなんだ? トラウマになるくらい感情移入しちゃう理由ってのはなんだ?」健には理解できなかった。
「さあ、顔が似ているからですかね」駿はそう答えて誤魔化しているようだった。
「ふーん、まあ、そう言われるとそうかもしれないな」
 その日の健は駿の説明に半ば納得したのだが、今日のパニック症状には正直、戸惑いを感じていた。
(マンホールに対しての反応、異常だな……。きっと何か理由があるのだろう。よりによって店の近くにあんなどでかいマンホールがあるとはな。今夜、駿は絶対、悪夢にうなされるだろうな……。それにしても、川に落ちた作業員は全員救出されただろうか……)健は駿のおだやかな寝顔にひとまず安心したが、今度は、ガーブ川の水難事故が心配になった。
(そういえば、珍しく亀吉オジイが姿を現していたな。よっぽど事故が気になったのか……)
 豪雨は相変わらず、止む様子はなかった。


二話
二〇一七年六月二五日(大潮)

 翌朝、ニュースはガーブ川水難事故で持ちきりだった。新聞の一面には、こう書かれていた。
「二四日午前十一時二〇分頃、那覇市樋川の農連市場付近で橋の耐震調査をしていた作業員五人がガーブ川に転落。作業員らは農連市場から水上店舗通り下を通る暗渠へと流された。二人は一時間後に消防に救出されたが、残る三人は美栄橋駅付近の潮渡り橋で遺体となって発見された。沖縄気象台は午前九時三〇分大雨洪水警報を発表していた」
 早朝の海岸、健の釣り仲間たちはもっぱらこの話題で持ちきりだった。
「昼にはもうワイドショーで大騒ぎだったな」
「潮渡り橋にヘルメットが流れ着いたってさ、農連から美栄橋まで一時間で流れてくるって、おかしいだろ。そんなにゆっくり流れるのかね」
「美栄橋じゃないよ。潮渡り橋は若狭なんだから、あり得るんじゃないか」
「待て、潮渡り橋って五八号線じゃないか?」
「いや、潮渡り橋は三つある。一つ目は美栄橋、二つ目は西の五八号線、そしてもう一つはさらに西、ヘルメットが流されてきた若狭の船着場だ。これは最近造ったものだ」健が説明すると、釣り仲間の男たちは最年長のその男の話を黙って聞き始めた。誰もが彼に一目置いているのだ。
「昔、首里のお侍が潮の引いたカタバル……干潟を歩いて、浮島の遊郭、遊女のもとに歩いて通ったのさ。だから、西那覇の辻町までに架かっているのは、ぜーんぶ、潮渡り橋って名前なんだよ。美栄橋駅の潮渡り橋から松山の潮渡り橋までさ。ご苦労なことに、みんなそこを歩いて女の元に通ったんだ。潮が満ちるまでに橋を渡って、次の引き潮のタイミングの十二時間後に首里の本宅にご帰還って手はずでね」健は釣り竿の先を見ながら話した。
「潮渡り橋にはもう一つの説もある。こっちは潮が引いたカタバルではなく、潮が満ちた海のケースだ。中国からの使節団を首里城まで歩かせるわけにはいかない。だから、満潮の時に、渡し舟で崇元寺まで渡ったそうだ。その際、舟の浮かぶ深さを示すポイントが必要になる。その目安として海路の数箇所に潮渡り橋を渡したっていう説だ。色と権力、首里のお侍と中国の使節、どっちの解釈の潮渡り橋なのか、歴史のロマンってやつかな」
「健さん、歴史のうんちくと事件は全然関係ねぇじゃねーか」若い釣り師が茶々を入れた。
「うーむ。そうだな、これから警察、司法、行政、労働基準局、元請け、下請け、孫請け業者にわたって、この水難事故の責任の所在が争われるんだ。自然災害、人災の両方から物議を醸すね。だからしばらくはこの話題、世間を騒がすだろう。事故がどう起こったのか、きちんと調査してほしいね」健はその場にいる釣り仲間にテレビのコメンテーターのような解説をしてみせた。
「さすがぁ、もと行政マン、物言いが違うねぇ」
「しかも、県庁の土木課だしね」
「毎日、ご意見を拝聴しなくちゃぁ」
 その場に集う仲間たちは、しばらくの談笑を終えそれぞれの持ち場に戻った。みんながポツポツと釣り糸を垂らしていく。しかし、健は険しい表情で水面(みな も)を見つめていた。
「本当に。どういう経路でヘルメットが若狭の潮渡り川下流まで流れ着いたのか……農連市場の工事現場……水上店舗……。遺体は暗渠に留まっていた……しかし、ヘルメットはまっすぐ一番目の潮渡り橋、美栄橋駅までたどり着き、若狭の潮渡り川に向かった……浮力の問題か? 引き潮と豪雨が合体したエネルギーとはどのくらいのものだろう?」
 健は、今回のガーブ川の事故が気になって仕方がなかった。暗渠になる前のガーブ川は、川平健にとっての心象風景そのものだったからだ。彼の人生で思い出せる最初期の記憶は、ガーブ川での泥遊びだった。近所の子どもたちと川幅を飛び越える肝試しをしたことは、ガキ大将だった彼にとってのアイデンティティーとなっていた。泥だらけになりながら遊んでいた川の支流が、段々とその水量を減らして本流だけになり、やがて暗渠になっていく様子を、彼はつぶさに覚えていた。

 昨日の豪雨を忘れたかのように、夏の陽が地上を照らしている。沖縄の六月の空は来るべき猛暑の気配をすでに加え始めたようだ。南風は重苦しい暑さと、うだるような湿気を含んでいる。朝から生暖かい風が頬を撫でた。
(またあの夢を見てしまった……困ったな)駿は憂鬱な気分を抱えながら、店に向かって歩いていた。両手には買った食材が入った袋を持っている。結局、昨日は目を覚ますことなく、丸一日寝続けてしまっていた。起きた頃には正午過ぎになっていた。店の準備をしようにも、気乗りしなかった。昨日のガーブ川の水難事故を引きずっていたのだ。
 商店街をとぼとぼと歩く。思わずハッとし、立ち止まった。少々俯きかげんになっていた。マズイ……兄貴の視線はいつも遠くにある……自分の顔をして歩いていたんじゃダメだ……。
 駿は慌てて顔を上げた。眼鏡を外すとわざと視点の定まらない眼差しを意識する。呆けた顔を作ろうと口を大きく開ける。不自由な右足を意識し大股になると、身体を左右に揺らした。酔っぱらいか、夢遊病者のようにフラフラとした足取りで通りを歩く。
(ゆらゆら、ふわふわ、潤のステップだ)
 店の前に着くと、昨日のマンホールが視野に飛び込んできた。立入禁止のロープ、底なしの闇を湛えるようにパックリと開いた穴。汚水が流れる音が聞こえてきた。駿はマンホールの前で立ち止まってしまっていた。
(マンホール? 家の前にマンホールなんてあったっけ)
 熱い汗が腕を伝った。駿ははっとした。
(そうか……ここは沖縄だった……あの田舎の山道じゃない……だから無理して兄貴の顔をしなくてもいい)
 駿は辺りを見回した。自分の店、宮里家の路地、晴れた青空が透けて見えるアーケード。規制線の張られたマンホール以外は、いつもの商店街だった。
(……誰も、潤のことなんて知らないんだ)駿は胸を撫で下ろした。握っていた眼鏡をかけ直す。俺は駿だ。ここでは駿でいられるんだ、そう自分に言い聞かせると、表情を緩めた。自分の顔でいられることに安堵したのだ。
(家を出て、もう一年が過ぎているのに……)あの夢を見ると、母と暮らしているように錯覚してしまう。
 昨日の豪雨騒ぎで、周辺のマンホールはこじ開けられている。むき出しの配水管が姿を現していた。駿は少し離れた電信柱の近くにあるマンホールの蓋を確認した。大きな雨水用だ。並んでもう一つ、汚水用の蓋がある。暗い川の流れがほんの少し覗けるような気がしたが、意図的に視野から外した。直視することなど到底できなかった。
(昨日のガーブ川の氾濫……可哀想に……濁流に飲み込まれてしまうなんて……あのマンホール……兄貴もあんな流れの中に飲み込まれてしまったのだろうか……)
 かつて見たテレビ番組のナレーションを思い出す。
「……モンゴルのマンホールチルドレンは自分たちで蓋を開け、その中に住んでいる。何人もの子どもたちが一つの穴に入り、互いの身体を寄せ合うように寝ていた。ウランバートルのマンホールは特別大きく、家々の排水が流れているから暖かい……」

 駿はマンホールが恐くて仕方がない。
 忘れもしない、去年まで暮らしていた長野での出来事だ。
 二〇一四年七月九日。真夜中のことだった。突然、家の後ろでドドーンと大きな物音がした。
「潤、駿、起きて!」母の叫び声が聞こえた。「逃げるのよ! 駿、先になって!」
 母は双子の兄の手を引いていた。ところが兄の潤はその場を動こうとしなかった。動けないのだ。潤には半身麻痺があり、さらに知的な障害があった。大きな物音には特に敏感に反応した。音に対する異常な恐怖があるのだ。
 その時がそうだった。兄の身体は硬直し、表情にも恐怖の色が浮かんでいた。パニックを起こしているのだ。母一人で兄を支えようとしていた。母の反対側、兄の右肩を駿は担いだ。痩せて体重の軽い兄は二人に支えられるとようやく安心したのか、麻痺のある右足を引きずるようにして歩き始めた。
 道路はまだ冠水していなかった。雨の向こうに見えた公民館の灯りを目指す。
「もうすぐよ、潤、頑張って!」母は必死に声を出す。
 横殴りの雨が猛烈な勢いで打ちつけてきた。徐々に道路が冠水し、川のように水嵩を増した。一秒ごとにみるみる増水していくのが分かった。水が膝まで届いたと思った次の瞬間、ドーンと激しい流れにぶつかり、三人ともよろめいた。
「駿、早く、急いで! キャー!」母の焦った声が悲鳴に変わった。
「ウワァー!」兄の声はもっと悲痛だった。完全にパニック状態だった。兄は駿の支えをはずし、母にしがみついてしまった。
 三人が水の中に倒れ込んだ時、次の流れが襲った。駿の身体と母の上体が、水の勢いに押し流された倒木に引っ掛かる。その横で、目を剥いた兄が口を開けたまま仰向けに倒れた、瞬きもせず叫びにならない声を発していた。駿はかすかな月明かりのもとでも、兄の悶絶の意味が分かった。癲癇の発作が起きたのだ。母が倒木に?まっているのに対して、どこにも?まるところのない兄が流されずにいたのは……。
 思えば洪水のたびに川が氾濫する地域だった。支流工事が続いていた。当時、レジンマンホールという、従来のマンホールよりも耐久性のある設備の工事が実施されていた。その最中のゲリラ豪雨だった。仮止めの蓋が、激流に晒され半ば開いてしまっていた。
 潤の下半身は、その蓋に挟まれていた。ただでさえ不自由な身体がマンホールの蓋で押さえられてしまったのだ。
「潤!」
 駿は、倒木にしがみついていた母を流れに取られないように抱きかかえていた。三度目の激流が襲って来た。目の前で潤が水に飲まれるのを目撃した。母の叫び声が聞こえた。
 濁流の轟音と水しぶき。思わず閉じた眼を慌てて開くと、泥にまみれた母が見えた。マンホールの蓋に挟まれていたはずの、兄の姿は消えていた。

 その夜、駿は母と共に救助された。一時避難場所の公民館に着いた時、母は半狂乱になっていた。豪雨の中、流された息子を探しに行こうと外に出ようとしたところを、数人の大人に取り押さえられた。彼女はひたすら泣き喚いていた。駿はその様子をただ呆然と眺めているしかなかった。混乱が続くなか、ロビーの長椅子に腰掛けた。壁に設けられたテレビ画面に目が行く。そこでマンホールチルドレンのドキュメンタリー番組を見たのだ。何も考えられなくなった頭のなかに、その映像と音声は容赦なくなだれ込んできた。
 その夜の夢で、番組が歪な形で再現された。
 夢の中、駿はマンホールで暮らしていた。モンゴルの子どもたちと寒さに震えながら、臭い洞窟の中で肩を寄せ合っていた。仕事も食べ物も無く、物乞いをする生活。どうあがいても苦境から逃げ出せない。永遠に抜け出せないどん底生活。男子は強盗、女子は売春婦になった。駿も飢えからやむを得ず盗みをしようと外に出た。しかし、大人から物を奪うのは腕力のある者しかできない。結局、臆病者の駿は毎日ゴミを漁り、食べ物を求めて通りを彷徨った。夢のなかの駿少年は、野良犬と同じ鋭い目を持ち、ボロを纏っていた。街を行き交う人々の冷たい視線を浴びながら、ビニール袋をかじった。空腹のまま再び潜り込むマンホールの中で、彼は仲間たちと絶望に打ちひしがれていた。
 目が醒めて涙で濡れた自分の頬に気づき、ぎょっとしたことをはっきりと覚えている。流れ出た涙はブルーシートの上に小さな池を残していた。遠い外国の残酷な現実が、今後の自分の人生を暗示している。なぜだか分からないが、その時の駿はそう直感した。
(明日はわが身だ)駿は息が詰まりそうだった。無くなった家、めちゃくちゃにされた村、そして流された双子の兄のことを考えると、心底、苦しかった。
 それ以来、マンホールチルドレンの悪夢が断続的に続くことになったのだ。

 ゲリラ豪雨に見舞われた翌々日。潤の遺体は遠く離れた町の川で発見された。駿は兄がマンホールから長い行程を辿ったことを想像した。哀しみも怒りも、何の感情も湧いてこない。自分の心が空虚な箱になったようだった。
「これがうち、なの……」呆然自失のまま、焦点の定まらぬ視線を泳がせ、半壊の家、その泥濘に立ちすくむ母・千尋の姿は異様だった。彼女はふらふらとその場にしゃがんだ。素手で泥を掘り始める。わずかに見える赤いプラスチックを掘り出そうとしているらしかった。やがて瓦礫の中から泥にまみれたウルトラマンのフィギュアが出てきた。彼女は黙って次の場所へ移動すると、また泥を掘り始めた。
 千尋はいくつかのフィギュアをかき集めた。ふらついた足取りでそれらを抱きかかえると、駿の目の前に並べた。母は、川にさらわれた我が子の形見を探し求めているものと思った。
 しかし、母はこう宣言した。
「駿、あなたは今日からこの玩具と生きるのよ。お兄ちゃんのお金が無いと生きていけないから……分かってちょうだい」
 あまりの発言に駿は言葉を失った。千尋は背を向け、瓦礫の山を眺めていた。
「玩具だけ残ってしまって……あの子はいないのに……」母は泣いているようだった。「駿、母さんを助けると思って我慢してね」
 ずっと駿に背中を向けたままの言葉は、哀訴そのものだ。彼女は、背後にいる息子に語り続けた。
「私に分かるのはウルトラマンだけ。セブン、タロウとか名前はなんとなくね……どれがどれだか……。怪獣はどうだろう……ゼットン、ゴモラ、ああ、エレキングもあったよね。駿、あなた全部言える? だいたいは分かるのよね……そうね、あなたと潤はいつもいっしょに遊んでいたから、大丈夫ね。……いい? この玩具へのこだわりこそがお兄ちゃんそのものなのよ……。だからこの玩具とさえ遊んでいれば、誰もあなたのことを疑わないから……」
「そっくりの双子だから区別できない、って言うんだね」駿は感情を押し殺した声を母の背中にぶつけた。いつも自分を抑えてしまう彼だが、その日は怒りで身体が震えていた。
「駿!」母は振り向いた。「私が間違えたことあった?」
 その声は抗議ではなかった。ましてや命令でもなかった。千尋は怯えた目をしていた。駿にすがりつきたいのだ。
「わかった……わかってる」駿はただ目の前の母親の姿、その浅はかさ、愚かさ、惨めさから目を逸らしたかった。湧き起った怒りはすぐに萎えた。彼は諦め、自分に言い聞かせた。潤がそうだったように、今日からはウルトラ兄弟の一員として生きていくのだと。なぜなら、兄の潤は自分をウルトラマンだと信じ込んでいたからだ。駿のことをセブンと呼んでいた。眼鏡を掛けているからだ。双子の兄弟の会話は、M78星雲の戦士という設定のなかで行われていた。
(黙っていれば誰も気づかないだろう……)泥のなかの水たまりに映る自分の顔を見た。少し上目遣いで相手の目を見るのが兄の癖だった。眼鏡を取り、兄の顔を真似ようとした。けれど、水面に兄の無垢な目は存在しなかった。
 二〇一四年に駿と潤が成人した月、八万円の障がい者年金が支給された時、千尋は驚いた。
「年金が貰えるなんて福祉って有り難いね。民生委員さんに感謝しなくちゃ」それまでの彼女は、息子の扶養手当に味をしめていた。未成年の障がい者に給付される扶養手当のあとには、障がい者年金という形で金を受け取れる。いざ息子を災害で失った時点で、千尋は恐ろしく図太くなっていた。彼女は今まで受け取っていた金を失いたくないと思ったのだ。
 障がい者年金や扶養手当はいったん受け取ると、その有りがたさが身にしみる。はした金ではない。それがなければ暮らしていけなかった。千尋は、岡本潤の手当を受け取り続けることを当たり前のことだと思っていた。今や彼女にとって大切なものは、潤の障がい者手帳だった。事実、彼女が避難した時に羽織った上着のポケットには、潤の障がい者手帳が入っていた。

 岡本駿は、この世に存在しない人間となった。
「潤」、そう母に名前を呼ばれるたびに、いたたまれない思いを抱き続けた。潤として生きるという、母と二人の秘密……。それは駿の心に言い知れぬ苦痛となって襲ってきた。
 八万円のための生活は、次第に駿の精神を蝕(むしば)んでいった。双子の兄とはいえ、別の人格で生きているのだ。ある時から、駿は道端のマンホールを見かけると過呼吸を起こすようになった。潤の癲癇が自分にも降りかかるようにもなった。パニックになると、寝ていなくてもマンホールチルドレンの穴倉に住んでいるような気分になった。悪夢を見た朝は、身体中から汚水の臭いがする錯覚に囚われるようになった。
 悪夢は、 幽霊人間になった自分を暗示していると、駿は薄々感じていた。
(それもこれも、母さんのせいだ……。こんな八万円ごときで、自分の存在を無かったことにされたんだ! こんな人生を歩まされたのは、母さんのせいだ。いや……違うのか? あの時の俺が、悪かったんだ……)
 母の浅はかさ、それ以前に、不正受給を止めさせられなかった自分の不甲斐無さに、ぶつけようの無い怒りがいつも湧き起こってくるのだった。

 駿は父親の事を知らない。母が言うには生まれてすぐに家を出ていったという。
 何度か気になる経験をしたことがある。幼いころ、潤と二人で留守番をしていると、窓の外から、見知らぬ男が家の中を覗いているような気がすることがあった。振り向くと、その人物はスッと姿を消した。ある日は、母と二人、潤の車椅子を押して散歩をしていると、公園の電信柱の陰に隠れる男を見たこともある。痩せた男で、グレーの作業服だった。母は、兄の世話にかかりきりで気づく様子もない。駿は男を無視したまま、砂場で一人遊びに興じるふりをしていた。母の押す車椅子は、公園の木々の木漏れ陽に照らされていた。その男はじっとその場に佇んでいた。どのくらい時間が過ぎただろう。駿の名前を呼ぶ声がして、
「帰るからね、手を洗って」と母が近づくと、電柱の人影は消えていた。
(父さんかも……)駿はその時湧いた疑問を長い間封印してきた。
「あなたは潤の身代わりで生きるのよ」母の言葉の意味も、その男に繋がるのだろう。生活保護費のために離婚したのだ。両親はそれで合意したのだ。駿は、今ではそのことを確信していた。

 家を出よう。潤として生きて二年が過ぎようとしていたある日、駿は、突然決意した。マンホールチルドレンの悪夢も、場所を変えればひょっとすると消えるかもしれない。母と顔を突き合わせることにも、もう耐えられなくなっていた。母との約束、兄の身代わりとして生きることも、もう我慢の限界に達していた。
「家を出て、遠くで名無しの人間として生きる」そう宣言すると、
「そう」母はなぜかほっとした顔になった。そのままあっさり頷くと、「連絡だけはしてね」そう言うだけで、駿の決心に同意した。彼女は、少し厚めの現金入り封筒を手渡してくれた。
 翌日、リュック一つ、着の身着のままで家を出た。

 行く当てがなかったので、しばらく野宿を繰り返した。
 時折、岡本潤名義のまま持たされていた携帯に、千尋からのメールが入った。
「元気?」
 メールにする内容も無かった。
 駿は空メールで返信した。
 以来、それが二人の音信となった。
(その方が向こうも都合がいいだろう)駿は空メールを送信するたび、携帯の扱いを終に会得できなかった兄を思った。

 二〇一六年七月一日。那覇の繁華街に岡本駿は立っていた。
 沖縄に行こうと決めたのは、急な思いつきからだった。

……続きは11月20日発売の本篇でお楽しみください。

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