日本スターバックス物語

200円以上するコーヒーなんて売れない? 『日本スターバックス物語』第3回


第1回はこちらから

「サザビーこそ、唯一にして最良のパートナーだ」
 アフタヌーンティーを気に入り、鈴木陸三さんや角田雄二さんをはじめとするサザビーの幹部との交流でも、価値観とセンスを共有し意気投合したハワード・ビーハーは、上機嫌で帰国していきました。雄二さんがロサンゼルスのスターバックスに入った瞬間に感じ取ったことを、今度はビーハーが大宮のアフタヌーンティーで直感しました。サザビーがスターバックスにほれ込みリーダーに選んだように、スターバックスはサザビーを最良のフォロワーと認めました。あっという間の出来事でした。まさに一目ぼれを間近で見る思いでした。
 ところが、ここからしんどいプロセスが始まりました。スターバックスは巨大なチェーンビジネスであり、いざ事業をやるとなれば、投下する資本も人的資源も半端ではありません。いっぽうのササビーは、多店舗展開をしているとはいえ、一つひとつの事業がニッチマーケットを掘り起こすタイプで、個性と手づくり感を大事にするビジネススタイルです。日本の市場は熟知していますが、一気に多店舗展開するノウハウも経験もありません。
 何よりもアメリカ発のコーヒーが果たして日本で成功する可能性はあるのか。日本で「アメリカン」と呼ばれる、浅煎りの豆に多めのお湯で淹れたコーヒーは、まずいコーヒーの代名詞のように言われていました。「日本のコーヒーの方が断然おいしい」。これが当時の日本人の「常識」でした。

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 日本には、明治維新からずっと続く喫茶店文化があります。喫茶店の数は、1981年に15万軒を超えたあと、減少の一途をたどったものの、90年代中盤でもまだ10万軒ほどありました。
 日本の喫茶店文化がピークに向けて最後の盛り上がりを見せていた時期は、ちょうど僕の高校時代と大学時代に重なっています。当時、喫茶店は、繁華街になくてはならないインフラのような存在でした。渋谷や新宿には、名曲喫茶やロック喫茶、ジャズ喫茶などがありました。喫茶店に行っては議論に熱中し、いったい何をそんなに話していたのかと思うぐらいの長い時間を過ごしていたものです。
 こうした喫茶店文化は日本独特のものと思っていましたが、コーヒーの世界史を記した本を読むと、喫茶店の歴史は実に古いということがわかります。アラビアの彼方(かなた)から欧州にもたらされたこの新種の黒い飲み物は、その独特のアロマと覚醒効果によって、たちまち男性たちの心をとらえました。
 世界で初めての喫茶店(コーヒー・ハウス)は、16世紀にオスマン帝国(トルコ)のイスタンブールで生まれたようです。約1世紀後の1652年に、レヴァントから戻った商人がロンドンの片隅でコーヒー・ハウスを開店しました。毎朝コーヒーを飲むという新奇な習慣を目にしたロンドンっ子たちは、たちまちコーヒーに夢中になりました。
 ロンドンの最初のコーヒー・ハウス誕生から約60年後の1714年には、ロンドンに8000店舗以上のコーヒー・ハウスが存在したと記録されています。当時のロンドンの人口は60万人程度と推定されるので、これは大変な数です。単純比較はできませんが、1人あたりの喫茶店の数で見ると日本の喫茶店のピーク時の10倍の数に匹敵します。客層はもっぱら男性たちでした。酒を飲む代わりに1杯のコーヒーで何時間も粘り、男たちはコーヒー・ハウスで情報交換をし、仕事を片付け、そして大いに議論しました。時あたかも市民社会が興隆し、コーヒー・ハウスは「公的世論形成の場」にもなりました。
 コーヒーの魅力と一体になったコーヒー・ハウスは、ロンドンに続いてパリに、そして欧州各地に広がっていきました。そして明治維新後の1888年には、日本初の喫茶店が東京・下谷に開店し、明治末期から大正にかけて最初の喫茶店ブームがやってきました。
 こうして見ると、日本の喫茶店は外来文化のコーヒー・ハウスと地続きであったことがわかります。僕が学生時代に通ったいろいろなジャンルの音楽喫茶は、日本独特のスタイルでしたが、音楽よりも社交と議論にうつつを抜かすという意味では、近代市民社会のさきがけとなったロンドンのコーヒー・ハウスやパリのカフェと似ていたのだと思います。
 僕が社会人になった1980年代、東京以外の都市の喫茶店も利用する機会が増えましたが、多くは70年代に増えた純喫茶と呼ばれる店でした。そこは、個人店主それぞれのこだわりで、ていねいに淹れたおいしいコーヒーをゆっくり嗜(たしな)む場でした。店主の趣味を反映した店が多く、ライフスタイルという言葉がまだ広まる前の時代に、僕らが居心地のいい生活様式の一端を体験する場が喫茶店であったと思います。学生もいれば近所の住民もいて、仕事の合間に利用する人もいました。次の訪問先に行くまでの時間つぶしをしている営業マンの隣には競馬新聞を広げている人。談笑する二人連れ、三人連れ、四人連れ。見ると男性ばかりです。そしてみんなタバコを吸っています。当時、多くの男性にとって、コーヒーとタバコはセットで楽しむ嗜好品でした。
 しかし戦後の喫茶店ブームは、統計に見られるように、確かに1980年代には転機を迎えていました。その後、大阪勤務になった僕にとって、喫茶店は昼食後に立ち寄り、当時爆発的ブームになったインベーダーゲームで遊ぶ場所に変貌しました。ピコピコとうるさく電子音が鳴る喫茶店に、かつての趣(おもむき)を期待することはもうできませんでした。
 日本の喫茶店の原点は、ファミリーレストランやファーストフード店が浸透したこと、また缶コーヒーが普及したこと、さらに家庭や職場でも本格的なコーヒーを淹れられる器具が出現したことなどが重なり、失われていきました。根底にある一番大きな原因は、人々が便利さと効率をどんどん求めるようになったことがあると思います。その証拠に、1980年代に入ると、喫茶店と入れ替わるように、ドトールコーヒーに代表されるセルフサービス型のチェーンが急成長していきました。

 ビーハーが意気揚々と帰国してから1週間後、僕はスターバックスの出店場所のイメージを描くために、ファッションのメッカである東京・表参道の交差点に立ちました。近くにはドトールとプロントがあり、どちらも大勢の客でにぎわっていました。こんな市場にあとから参入して、果たしてやっていけるのだろうか。まったく無名のスターバックスなど見向きもされないのではないか。不安がよぎりました。
 案ずるより産むがやすし。僕らはスターバックスをやるという大前提で、さっそく調査を開始しました。ドトールの事業採算性はどうなっているのか。公(おおやけ)に手に入る資料では限られたことしかわかりません。そこで実際に店舗に行って入店客数を数え、レジでオーダーするメニューを横でずっと観察し、店内にとどまる平均時間を計算しました。
 都内の異なった立地の店舗を選び、いろいろなパターンを分析していきました。ドトールに代表されるコーヒーチェーンは、多忙な人々が気楽に使えることを優先していました。良質なコーヒーを安価で提供するために、セルフサービスにしたことが一番大きなポイントでした。そこで調査対象店舗も、人口密度が高く、昼間に勤め人や買い物客が多く集う場所を優先的に選びました。僕らは最初に東京のファッションの中心街である表参道界隈と銀座4丁目交差点の周辺エリアから始めて、一大商業地である新宿、渋谷、池袋にある店舗を調査しました。さらに、小田急線や東急線などの沿線にある住宅と商業地が混在するエリアも調べました。
 表参道なら20代から30代の女性が多く、銀座では買い物客は男女ともに40代以上が多いといった地域差はあったものの、平日はどの地域でも男性サラリーマンの比率が高い傾向に変わりはありませんでした。この層はファッションやライフスタイルよりも値段や利便性を優先する傾向があり、サザビーにとってはターゲットとしたことのない顧客層でした。果たして僕らのノウハウは通用するのか、疑問符が心の中に浮かんできましたが、とにかく実態を見なければと思い直し、調査を続けました。
 飲み物と食べ物の組み合わせ、平均客単価、コーヒー豆などの物販の比率は、米国のスターバックスのデータとはずいぶん違いました。スターバックスでは、大きなカップサイズのラテ系のドリンクにスイーツ系のパンやクッキーを一緒に買う客が、男女を問わずいました。
 それに対し、ドトールを使うサラリーマンは、ドリップコーヒーだけを頼みタバコをふかしたり、食べ物を頼むとしても定番のホットドッグを注文する程度でした。こうした違いのため、客単価はスターバックスがドトールを上回っていました。また、コーヒー豆については、スターバックスでは飲食系メニューにはおよばずとも定番商品として売れていたものの、調査したドトールの店舗ではほとんど売れていませんでした。
 店内の平均滞留時間も、日本は米国より短く、全体として高効率な運営です。ただ、ここには両ブランドのコンセプトの違いが如実に表れていました。ドトールは狭い店舗内に小さな椅子とテーブルを詰めて配置していたので、居心地はそれほど良くありません。しかし典型的な客は、15分程度しか滞留しないので、特に不満の原因にはならない様子でした。いっぽうスターバックスは店装に凝り、BGMはジャズにこだわり、ソファーなどもあえて入れて居心地の良さを売りにしていました。当然ながら平均滞留時間もドトールの2倍以上でした。
 これだけ見ると、スターバックスの店舗は効率の悪さが目立つ印象です。ただ、両ブランドではテイクアウトの比率が決定的に違いました。テイクアウトはドトールではほとんど見られません。ところが、スターバックスの店舗では時間帯によっては大半がテイクアウトということも珍しくありませんでした。
 テイクアウトが日本で成功するかどうかは、店舗の効率と利益に決定的に影響するだろうことは、この調査でも予想できました。果たして日本人は米国人のような消費行動を取るようになるのか。ドトールの店舗を見ている限り、難しそうな印象でした。僕らは突破口を必要としていました。
 調査からいろいろと興味深い結果が出てきましたが、僕らにとって一番重要な発見は、「店前交通量の多い優良立地ほど入店客数が多い」という当たり前の法則性でした。銀座や青山の一等地は、人通りも多く、カフェ需要も旺盛です。いっぽう住宅街と商業施設が混在するエリアでは、カフェ需要は下がり、さらに店内の滞留時間も長くなる傾向がありました。こういうところで高い家賃を払い、店舗インテリアや設備に過大に投資をすれば、赤字店になるのは必至です。チェーンオペレーションでは、メニューの値段は一律、店舗規模もだいたい同じ、店装や什器(じゅうき)備品も標準化され、投資額も大差ない。ということは、家賃と客数の相関関係をうまくつかめば、さまざまな立地条件の違いを、基本的に家賃と客数の2変数だけで判断できることになります。
 大きな問題はコーヒーの単価でした。当時、ドトールはコーヒー1杯180円、プロントは160円でした。コーヒー業界の専門家に聞くと、みな一様に「日本のコーヒーチェーンでは、1杯200円が限度」という意見でした。オペレーションを標準化し、人手をかけないマシーンを導入し、コーヒーも食べ物も低コストで調達し、店装や什器備品を大量発注すれば、確かにコーヒー単価200円以下でも採算を取れる計算になります。しかし、それではスターバックスにはなりません。
 シュルツがミラノで体験したエスプレッソ・バーは、バリスタが中心となって、客との絆を築いているものです。スターバックスのコーヒーもバリスタが1杯ずつ手作業でていねいに淹れる。コーヒー豆は最高のアラビカ種を使い、自社工場で熟練工が深煎りのノウハウを駆使して焙煎する。店舗スタッフは客とのコミュニケーションを大切にし、店装や什器備品も、スターバックスの雰囲気を演出する凝ったものにする。こういうコンセプトの店舗は、1杯200円ではペイしません。
 スターバックスはやりたい。それは陸三さんや雄二さんの気持ちと同じ。かといって、できないものをできると偽ることもできない。サザビーのスターバックス・プロジェクトチームは、日本市場の厳しい調査結果を報告するため、シアトルに向かいました。

 プロジェクトチームは、冬の早朝にシアトル空港に降り立ちました。それまで僕たちは、スターバックスについて知識は持っていたものの、実際にそのコーヒーを自分の舌で味わい、店舗を自分の目で見るのは初めてのことでした。雄二さんは「スターバックス、なんか持ってるんだよ」と言っていたが、それってなんだろう。そもそも、コーヒー大国の日本でも通用するほどのものなのか。
「サポートセンター」と呼ばれる本社に向かう前に、僕たちはスターバックスの店舗を探しだし、観察することにしました。確かに店舗に入るなり、コーヒーの「いいにおい」がします。店の外見や内装の雰囲気も良く、バリスタたちも気さくでいい感じです。何よりコーヒーがおいしい。スイーツとのマッチングもなかなかのもの。それにもまして、僕らが驚いたのは、出勤途中の人々が列をなしてスターバックスのコーヒーを求めていること。一人ひとりが自分の好みにカスタマイズしたコーヒーをオーダーしています。カップサイズも大きいのが出ていく。
 思わず日本での競合調査のときのように、テイクアウトする客数をカウントしはじめました。外を見れば、たくさんのビジネスマンが、スターバックスのペーパーカップを手に歩道を闊歩しています。
 これがスターバックス現象か。日本とはずいぶん違う。チームは新鮮な印象を心に刻み、港に隣接する倉庫を改造したスターバックス本社に入りました。
 僕らを迎えてくれたのは、スターバックスのコーヒースペシャリストたちでした。コーヒー豆の調達から焙煎、そしてブレンディングまでの責任を負う彼らに、日本から持ち込んだコーヒー豆を手渡しました。それは、日本のメーカーやコーヒーチェーンのオリジナル製品です。袋を開け、豆をテーブルに出したところ、スターバックスの豆と比べ、色艶(いろつや)がなく、地味な感じです。スタッフが豆を割って見せると、もう一目瞭然。日本から持ち込んだ豆はどれも中心まで火が十分に通っていない「生焼け」の状態でした。いっぽう、スターバックスの豆はきれいに均等に火が通っています。これがダークロースト(深煎り)というものか。
 ダークローストは、深い香りと味わいをもたらしますが、その分コーヒーとしては「濃い」ものになります。当時の一般の日本人は、そこまで深い味わいのコーヒーを求めてはいないと考えられていました。そもそもダークローストの味わいを引き出すエスプレッソコーヒーを体験したことのある人はほとんどいなかったのです。紙や布で濾(こ)すドリップコーヒーや、気圧の差を利用して湯を移動させる仕組みのサイフォンコーヒーは、簡便な器具でコーヒーを淹れられるためかなり普及していました。しかし強い蒸気圧をかけコーヒーを一気に淹れる業務用のエスプレッソマシーンは高価であり、よほどのこだわりがない限り設置されることはありませんでした。
 ダークローストの豆で淹れたエスプレッソの濃さと絶妙なバランスをとるフォームドミルク(泡立てた牛乳)を使用したのがラテですが、日本ではこうした飲み方が珍しかったこともダークローストが広まっていなかった一因です。何より品質の劣る豆をダークローストにすると焦げ臭い苦味だけになってしまう問題がありました。日本のコーヒー会社は、豆のコストと需要の有無を勘案し、焙煎レベルを抑えていたのです。
 僕らはスターバックスのコーヒースペシャリストたちに促(うなが)され、テイスティングを始めました。日本ではおいしいと思っていたコーヒーはどれも、スターバックスのコーヒーに比べると中途半端な味と言わざるをえません。スターバックスのコーヒーはコクがあり、苦みと酸味のバランスが良く、深い。種類によっては口中にほのかな甘みやフルーティーな香りが立つ。コーヒーのテイスティングとレクチャーにより、僕らは確信しました。「スターバックスはほんものだ」と。
 さらに焙煎工場の設備やオペレーションを特別に見学させてもらい、また店舗のバックヤードに設置された高額な浄水器などを目にして、その感覚は一層強いものとなりました。コーヒーマイスターが世界中の産地に行き、直接調達する最高品質の豆。こだわりの焙煎技術。新鮮な状態のコーヒーをていねいに挽き、気温や湿度などをおり込んで最適の時間で抽出するエスプレッソ技術。これを、磨きをかけた水で提供するスターバックスは、間違いなく「ほんもの」のコーヒーを提供していました。

 確かにスターバックスのコーヒーは素晴らしい。店舗も実に魅力的。米国の消費者はスターバックスを歓迎し、新しいコーヒー文化を作っている。しかしそれは米国だからではないか……。いよいよビーハーたちとビジネスについて打ち合わせをするときがやってきました。
 場所はスターバックス本社の最上階、幹部用の会議室。窓からは海や港湾のクレーンなどが一望できる明るい部屋です。スターバックスは、サザビーが経験してきたこともない大きな事業規模をめざしていました。そんな大冒険に安直に乗ってしまうと、大やけどをしかねません。僕らは、「絶対に失敗できない」という緊迫感をもって作ったシミュレーション結果を説明しはじめました。
 シアトルの店舗を案内してくれたときのビーハーは、終始笑顔で僕らを歓待し、店舗スタッフともフレンドリーに接していました。ところが、僕らの厳しい報告を聞いているうちに、その顔はみるみるけわしくなります。「今のままでは、日本でのビジネスは収益を上げられない」という僕らの結論を聞き終えると、ビーハーは怒りで顔を真っ赤にし、立ち上がりました。
 赤鬼のようになったビーハーは、ホワイトボードにスターバックスの典型的な店舗レイアウトを描き、大声でまくしたてました。
「ここにエスプレッソマシーンがあり、バリスタはこうやって客と話すんだ。1杯のコーヒーを持った客は次にソファーに腰掛け、サードプレイスとしてのスターバックスを楽しむ。この場の雰囲気、ジャズの音色、ほんもののコーヒー、パートナーたちの存在。そのすべてが特別なんだ。これはコーヒービジネスじゃない。ピープルビジネスだ。おれたちはスターバックス体験を提供しているライフスタイルショップなんだ!」
「サードプレイス」はもともと社会学の言葉で、自宅(ファーストプレイス)と職場(セカンドプレイス)を往復する現代人にとって、そのいずれとも異なる心地よい第三の居場所という意味です。シュルツは、「(サードプレイスは)自宅と職場のあいだにあり、公共性と個人性を併せ持つ環境、ほかの誰かとつながり、自分自身を再発見する場」と定義しています。スターバックスが広まる以前は、米国にはそのようなサードプレイスは、「食堂(ダイナー)や数少ない地元のコーヒーショップやレストランや図書館しかなかった」と言われます。
 家庭における夫婦や親子などの分かちがたい人間関係ではなく、義務を果たし役割を演じる仕事の関係とも異なり、サードプレイスにおけるコミュニティーは、もっとゆるい関係です。ただ集まり社交を楽しむ場であり、またひとりで静かなときを過ごし、自分自身を取り戻す場でもあります。コーヒーの世界史で、ロンドンのコーヒー・ハウスが果たした役割や、日本の伝統的な喫茶店にもあったサードプレイス的な価値は、米国や日本など、経済が高度に発展した変化の激しい社会では、顧みられなくなっていました。伝統的なサードプレイスが持っていた、ある種なつかしい心地良さを、スターバックスは洗練された現代的な装いとともに復活させた。ビーハーが言いたかったことは、まさにその点でした。
 ビーハーは、スターバックスのコーヒーや会社のことを顧客や友人に熱く語る情熱的なフォロワーをたくさん育ててきた人です。何よりも、本人が一番会社を愛し、会社が提供する商品とサービスに愛着を持ち、誇りにしています。
「ピープルビジネスの伝道師」たるビーハーの気持ちは十分に伝わりました。僕らもまた、アフタヌーンティーに自信と誇りを持ち、特別な体験を提供するライフスタイルショップだと確信してきました。シアトルで見たスターバックスの店舗。本社で体験したコーヒー豆や設備へのこだわり。ビーハーの魂のこもったメッセージ。全部よくわかります。でも、僕らは「イエス」とは言えない。日本市場の固い殻を破るには、まだ何かが足りない。その何かが見つかるまでは首を縦に振れない。
 とにかくリサーチを続け、スターバックスが日本で成功するためのカギを見つけよう。ビーハーが次に来日するときまであきらめずに待っていてほしい。僕らはそう言い残して帰国の途につきました。

 米国のスターバックスで調査報告を終えて帰国したサザビーのプロジェクトチームは、社長の鈴木陸三さんと専務の森正督(もり まさ とく)さんにシアトルでのやりとりを報告しました。じっと聞いていた陸三さんは、強い光を放つ両目で僕を見つめながら立ち上がりました。そして、スターバックスのペーパーカップを手に持ち、僕の顔の前にぐっと突き出し、言いました。
「これがかっこいいんだよ。このロゴとペーパーカップが」
 20年以上経った今も、このときの光景はよく覚えています。雷に打たれた感じだったからです。その瞬間まで僕はずっと、シアトルで見たもの、聞いたこと、味わったものを、頭で理解し、あれこれと分析していました。陸三さんは、そんなことはどうでもいいというように、ハートでとらえた感覚をストレートに表現したのです。
「かっこいい」。確かに!
 日本のコーヒーチェーンの合成素材のカップと違い、スターバックスの白いペーパーカップはナチュラルで清潔感があります。大きさや形もバランスがいい。持ち運びながら飲めるように工夫されたプラスチックのフタも新鮮でクール。そして何より、カップの真ん中にプリントされた緑色のロゴが粋(いき)です。
 シアトルのダウンタウンにそびえる高層ビルの1階にあるスターバックスの店舗に掲げられた大きなロゴ。その店から次々と出てくる客はみな、同じロゴがついたペーパーカップを手に持ち、オフィスに向かって闊歩していく。その姿は実におしゃれで、新しいライフスタイルを感じさせる光景でした。シアトル視察でずっと無意識的に感じていたことの本質を、陸三さんは一言で言い切ったのです。それは僕のハートに刺さりました。重く立ち込める雨雲を破り、太陽が現れた感じでした。重要な経営判断をする局面で、「かっこいい」と断じる陸三さん自身が、実にかっこいいと思いました。
 僕はこの瞬間、陸三さんをリーダーに選びました。
 すでにサザビーの一員になっていましたが、それは会社の置かれた状況と、僕が果たすミッションに面白さとやりがいを感じたからで、「職場」を選んだ感覚でした。しかし、この日を境に、僕は陸三さんのことを、ほんとうの意味で「リーダー」に選びました。自らの意志で「最初のフォロワー」になる。それはまったく新しい旅の始まりでした。

 鈴木陸三さんは、太平洋戦争中の陸軍記念日に生まれた三男坊だったため「陸三」と名づけられました。しかし、命名の由来とは正反対のイメージの人で、戦後の平和で自由な気風を全身で吸収した、実に明るく前向きな性格です。逗子の老舗スーパーマーケットを営む家に生まれた陸三さんは、比較的裕福な家庭環境の中で育ち、時代を読む商売感覚を自然に身につけていきました。
 それ以上に陸三さんの価値観を決定づけたのが、当時の湘南文化でした。陸三さんは学生時代に、ヨット仲間だった石原裕次郎さんたちと奔放に遊んでいました。その様子を裕次郎さんの兄の石原慎太郎さんが若者の風俗として記録し小説にしたのが、のちに芥川賞を取り、一世を風靡することになる『太陽の季節』でした。戦後10年を経て突然現れた奔放な若者に人々は驚き、「太陽族」という時代の言葉も生まれました。
 陸三さんの親友だった裕次郎さんは、映画化された『太陽の季節』で俳優デビューを果たし、たちまちスターとなりました。陸三さんも映画は好きだったけれど、スポットライトを浴びるのは性にあわない。裕次郎は裕次郎の道を行く。自分には別の道があるはず。大学を卒業した陸三さんは、定職に就きたくありませんでした。そもそもサラリーマン生活ができるとも思えない。さりとて何かをしたいという明確な目標も見えない。
 そんなおり、小説家として大成することよりも、政治の世界に打って出ることに関心を持つようになった慎太郎さんが、陸三さんに声をかけました。
「参議院選挙に立候補する。助けてもらえないか」
 陸三さんは、政治にまったく興味はありませんでした。ただ、「全国区」で政治の素人を当選させることには興味を持ちました。参議院全国区は、1947年から1980年まであったユニークな選挙制度で、全国を一選挙区とみなし個人名で投票しました。建前としては「全国的に有名有為で優れた学識経験を持つ人材」を抜擢することでした。特定の政党に有利な形で選挙区が割り振られたり、一票の格差が生じる余地がないのがメリットでしたが、全国を回るのはお金も時間もかかり大変な労力を要するので、大きな組織(労働組合、業界団体、宗教団体など)のバックアップがある候補や有名タレントが有利と言われました。全国47都道府県すべてを対象にする選挙とはどのようなものなのか。陸三さんのプロデューサー魂に火がつきました。
 慎太郎さんが陸三さんに目をつけた理由は、太平洋を横断する過酷なヨットレース、「トランスパック」のクルーの中で、学生で一番若手の陸三さんが只者ではないと見抜いていたからでした。陸三さんは、下働きをいとわず、誰にでも対等に接する。言いたいことははっきり言うが、嫌われることはない。それどころか、同世代だけでなく、年上の人やひとかどの人物からもなぜか好かれる。慎太郎さんにしてみれば、全国区のかばん持ち兼選挙参謀になってもらうのに、これほどふさわしい人はいませんでした。事実、陸三さんはまったくの素人にもかかわらず、「選挙とはマーケティング」という本質をいち早く見抜き、慎太郎さんの売り込み活動は大成功。史上初の300万票を得てトップ当選を果たしました。1968年のことでした。
 慎太郎さんの秘書として活動した陸三さんは、思わぬ「選挙の報酬」を体験します。大学を出たあと、まともに仕事をしたことがない若者には分不相応な「地位」と「肩書」と「収入」が保障されたのです。「これが政治というものか」。社会の規範に縛られない生き方をしてきた陸三さんは、心は常に自由で純粋です。政治というシステムにからみとられるのは、本望ではありませんでした。
 陸三さんが、ヨーロッパ放浪の旅に出たのはこのときでした。長旅の道中で、親しくなった人々の家に招待された陸三さんは、普通の生活者がそれぞれに自分のライフスタイルを楽しむ等身大の姿を発見し、うれしくなりました。そこには、使い込まれた味わいのある家具やカトラリーや食器類などがありました。
 政治のしがらみから逃れて旅をしたその数年間は、いろいろな意味で陸三さんの原点となりました。帰国して、さて何で生計を立てるかと考えた陸三さんは、欧州から中古家具を輸入し販売する商売を始めました。それがサザビーの創業事業となりました。時代は高度成長期の終盤。日本の社会を大きく変えることになる1973年のオイルショックの1年前でした。

 サザビーはのちに、世界中どこにもない、ユニークな企業集団に成長することになりますが、創業当時の陸三さんに何か大きな志やビジョンがあったわけではありません。ただ、幼少時からの感性を形にしていった結果、数十年を経て「半歩先のライフスタイル提案」を推進する異業種複合型の事業形態ができあがっていました。
 のちに陸三さんは、サザビーの1970年代を「試行錯誤の時代」と呼ぶようになりました。中古家具は、ファッションブティックのインテリアなどとして売れましたが、それだけでは本業になりません。VAN(株式会社ヴァンヂャケット)とともに若者ファッションの双璧といわれたアパレルメーカーJUN(株式会社ジュン)の下請け仕事も手掛けました。
 戦後の復興とともに登場したVANとJUNは、1960年代から70年代にかけて高度経済成長の波に乗り、若者たちのファッションセンスを磨く先導役となりました。米国東海岸のアイビーリーグではやったトラッドな装いを打ち出したVANに対し、JUNはよりヨーロピアンなテイストで対抗していました。80年代に一世を風靡したDCブランド(デザイナーズ・ブランド=デザイナーが経営まで一貫して行うブランドと、キャラクターズ・ブランド=企業が特定のイメージを鮮明に打ち出したブランド)が花開く基盤も作りました。
 サザビーは、表には出ない形でJUNのデザイン企画やイメージ戦略を具体化していきました。これは食いぶちを稼ぐための活動でしたが、陸三さんは天性のセンスを生かし、サザビーはたちまちのうちに、JUNの成功を支える影のスター集団となりました。
「白いTシャツはただの下着だけど、そこに気の利いたプリントを入れたら、とたんにファッションになるんだよ」
 僕が創業秘話として聞いた陸三語録のひとつです。1000円の白いTシャツにしゃれたプリントを施した瞬間に、それは3000円の価値を持ったファッションアイテムに変化します。時代の雰囲気をつかみ、上手に表現するセンスと商売勘があれば、資本力のない若者でも勝負ができることを陸三さんは体感しました。
 思えばこの言葉は、「これがかっこいいんだよ。このスターバックスのロゴとペーパーカップが」というセリフと本質的に同じものでした。
 白いペーパーカップは、ただのコモディティー(個性のない工業製品)ですが、そこにスターバックスのロゴマークがプリントされると、とたんにブランドになります。もちろん、スターバックスのコーヒーが「ほんもの」であり、パートナーたち(スターバックスでは従業員のことをそう呼びます)が提供するサービスに心がこもっているからこそ、スターバックスのブランドは輝きます。コーヒーや人は、ブランドの必要条件です。ただ、それだけでは不十分です。ブランドが真に輝き、多くの人々に共感され、顧客の心の中に常に存在するようになるためには、魅力的なロゴマークや、洗練された店舗デザインによって、ブランドを象徴させる必要があります。

 アフタヌーンティーをオープンさせ、アニエスベーと合弁会社を設立し、キハチを誕生させた1980年代は、「サザビーらしさが開花した時代」でした。その中で、陸三さんの一貫したスタイルは、「仕掛けて任せる」というものです。サザビーがアニエスベーを日本で展開することになったのは、陸三さんがデザイナーのアニエス・トゥルーブレと意気投合したからですが、実際にビジネスとして育てたのは、サザビー創業間もない頃から陸三さんのパートナーとして二人三脚で会社経営をしてきた森正督さん(現サザビーリーグ取締役会長)でした。
 森さんは生地屋出身で、ファッションの知識においては右に出る者はいません。ファッションブティックに入り、吊るされた洋服の裾をちょっとつまみ、生地を確認するだけで、そのブランドがどれぐらいのグレードのものか、たちどころに判断してしまう人です。欧米のライフスタイルの魅力を卓越した感性で理解する陸三さんは、ファッションビジネスについては素人です。陸三さんの感性を誰よりも理解し、その思いを商売として成り立つ形に具体化してきたのが森さんです。
 海外にいることが多かった陸三さんは、社員が相談をもちかけたいと思っても、そもそもなかなか会えません。そんなとき、森さんは陸三さんの「思い」を伝え、社員の声をじっくり聞き、からみ合った問題をほぐす調整役になりました。
 陸三さんは、サザビーを大成功させた今でも、「自分は何者でもない、何も成し遂げていない」という思いを持っています。それは、何かの専門家であったことがなく、自分が中心になって事業をぐいぐい引っ張ったという感覚がないからです。
 しかし僕は、そんな陸三さんの自己認識こそ、プロデューサー鈴木陸三の真骨頂であると思っています。陸三さんは常に、生産者ではなく消費者の目線で商売を見ていました。「時代のこれから」を鋭く読み取るその目線の背景にあるのは、「プロの否定」という姿勢です。
 スターバックスを日本に持ってくることを検討していたとき、コーヒーのプロは一様に否定的でした。これを聞いた陸三さんは、逆に行けると感じたのです。同じように、洋服のプロは、アニエスベーの本質を見抜けませんでした。飲食のプロは、堅苦しいフランス料理の王道にこだわり、ジャンルにこだわらない創造的なメニューを出すキハチの斬新さを思いつくことができませんでした。グラスや食器類のメーカーや生活雑貨品の小売業者は、家の中を演出するライフスタイル提案というアフタヌーンティーの発想に、度肝を抜かれました。
 陸三さんは、プロとはまったく異なる商売勘を持っていたのです。

 そんなサザビーに初めて参画した「経営のプロ」が僕でした。1980年代に確立され開花したサザビーのビジネスモデルは、90年代前半まで会社を大きく成長させる原動力となりました。ベンチャーキャピタル投資会社のシュローダーPTVパートナーズからサザビーにコンサルタントとして派遣された僕が、最初にサザビーの決算書を見たのは1993年4月。前年度の売上高は145億円でした。
 僕が経営企画室を立ち上げた1993年度の売上高は、200億円に跳ね上がりました。営業利益率も一貫して10%を大きく超えており、高収益高成長の実に活きのいい企業でした。僕は、それまでサザビーの取り扱いブランドのことをほとんど知らず、すべてが新鮮でした。
 サザビーがスターバックスと出会ったのはちょうどその頃でした。日米を代表するライフスタイルカンパニーが互いのブランドや理念に共感し合ったことが、合弁事業を始めるカギとなりましたが、成長著しい新興企業特有のカジュアルでフランクな企業文化を共有していたことも、大きく後押ししました。ただ実態は、サザビーの方がはるかに「やんちゃ」でした。スターバックスはすでに米国ナスダック市場に上場しており、シュルツの株式の持分も経営を支配できるレベルではありませんでした。取締役会は社外取締役が過半を占め、経営陣には外部から財務やマーケティングなどのプロが加わり、経営管理が行き届いていました。対するサザビーは、創業者の陸三さんと右腕の森さんが代表取締役であり、かつ株式の支配権を握る大株主でした。未上場だったこともあり、経営の実態は「鈴森商店」といったところでした。
 半歩先のライフスタイルを提案する感性豊かなクリエイター集団は、経営に関しても「プロの否定」でやってきていました。しかし、売上高が200億円を超える規模になれば、それでは長続きしません。経営管理の手法を導入し、ブランド・ポートフォリオを見すえた論理的な経営戦略を立てる必要があります。
 陸三さんは、スターバックスを日本でやるべきだとも、やるべきでないともいっさい言いませんでした。その代わりに、スターバックスは「かっこいい」とだけ表現しました。これを聞いていたナンバーツーの森正督さんも、首を縦に振りました。陸三さんが雄二さんと一緒にシュルツと会ったあと、森さんもシアトルに飛び、スターバックスの店舗を視察し、本社も訪れていました。さらに、雄二さんと北京、上海、香港を訪ね、スターバックスがこの当時、ホテルにコーヒー豆を実験的に卸している様子も見てきていました。陸三さんのセンスを誰よりも理解し共有してきた森さんは、スターバックスの評価に関しても「以心伝心」の様子でした。
 ここからがスターバックス立ち上げプロジェクトの勝負所です。
 僕は、陸三さんのセンスに感服し、その直感は正しいと納得しました。ただし、それで「わかりました、スターバックスやりましょう」と言ったのでは、ただの「イエスマン」です。シュルツにビーハーがいるように、陸三さんには森さんという「右腕」がいる。しかしシュルツは、財務と管理の責任者であるオーリン・スミスという「左腕」にも恵まれている。陸三さんにとっての「左腕」の役割は僕が担うべきかもしれない。陸三さんの「センス」を「ロジック」に転換するのが経営企画室のミッションであり、スターバックス・プロジェクトチームの役割です。
 ビジュアル的な美しさに関して天才的なセンスを備えた陸三さんは、ビジネスのロジックを組み立ててモデル化するのは、得意ではありません。「スターバックスの『かっこよさ』はビジネスになる」ということを証明するのが、陸三さんの「最初のフォロワー」を自覚した僕の「最初の仕事」です。
 陸三さんのセンスをロジックに転換するには、今までと違うアプローチが必要です。コーヒー市場を分析し、競合他社を調査し、採算性のシミュレーションをする「ハードアプローチ」をいったん脇に置き、僕らは消費者の心理を探る「ソフトアプローチ」に集中しました。

(第4回へつづく)

著者:梅本龍夫
有限会社アイグラム 代表取締役 https://www.igram.co.jp/ 
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 特任教授 https://sds.rikkyo.ac.jp/index.html

スターバックス コーヒー ジャパン株式会社の立ち上げを1995年に行う。サザビーリーグ退職後も、長年の社内教育の経験を活かし、経営者塾にて次世代経営者の育成活動などに従事。現在、経営コンサルタントとしてクライアント企業の経営戦略、新規事業企画、組織開発、人材育成などの支援業務に従事するとともに、立教大学大学院にて社会人教育と社会デザインの研究活動に携わる。また複数企業の社外取締役として、経営支援/統治活動に従事し、今日に至る。著書に『日本スターバックス物語』



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