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11月17日発売。『コロナの時代の僕ら』著者による最新長篇『天に焦がれて』の訳者あとがきを特別公開。

コロナの時代の僕らの著者パオロ・ジョルダーノの待ちに待たれた最新長篇小説天に焦がれての発売が11月17日水曜日に迫りました。イタリア国内で異例のダブルミリオンを達成した素数たちの孤独で衝撃のデビューを果たしてから10年。著者自身が「これは二度目のデビュー作」と認めるほどの圧倒的な筆力と没入感で読ませる天に焦がれてを翻訳した飯田亮介氏の「訳者あとがき」を特別に公開いたします。

天に焦がれて_obi

訳者あとがき

本書はイタリア人作家のパオロ・ジョルダーノ(Paolo Giordano)による小説Divorare il cielo(Einaudi, 2018)の全訳である。原題は「天をむさぼる」という意味だが、邦題は『天に焦がれて』とした。

「思春期の夏に出会い、ひと目で恋に落ちた男女の神話のような愛の行方」この物語をごく簡単にまとめれば、そんなところだろうか。 
 あるいは「世界のすべてを貪欲なまでに愛した少年と、そんな彼を何があろうと崇めるように愛し続けた少女の神話」、そうまとめてみてもいいだろう。
 そしてこれは「自由を追い求め、ユートピアを探し続けた若者たちの熱狂と冒険の物語」でもあり、そんな彼らをはらはらしながら見守り続けた、不器用で、どうしようもなく純真な、ひとりの観察者の長い報告書でもあるようだ。
 物語は一九九〇年代前半の夏のある夜に始まる。
 トリノに暮らす十四歳の少女テレーザは、毎年、夏休みを父親と一緒に南イタリアのプーリア州はサレント地方の農村、スペツィアーレにある祖母の家で過ごす習慣だった。そこはオリーブ畑に囲まれた野中の一軒家で、遊び友だちのひとりもない、代わり映えのしない日々に彼女は退屈していた。
 ある夜、庭のプールから聞こえた物音でテレーザは目を覚ます。窓から見下ろせば、全裸で泳ぐ三人の少年たちのシルエットが見えた。それが、近くの農家(マッセリア)に暮らすベルン、ニコラ、トンマーゾと彼女の出会いだった。
 テレーザとほぼ同年配の三人は実の兄弟ではない。ベルンとトンマーゾは故あってニコラの両親に引き取られ、マッセリアで兄弟同然に育てられていた。
 ニコラの父親チェーザレは、若いころに世界を放浪し、仏教の輪廻転生の思想などの影響も受けた独特なキリスト教を信奉するようになり、マッセリアで妻とともに信仰に基づく生活を実践してきた。そのため三人の子どもたちも学校には通わせずに、彼が自ら宗教色の濃い教育を施し、世間とは隔絶した質素な暮らしを送らせていた。
 三人のなかでもベルンは磁力のようにひとを引きつける強いカリスマのある少年で、テレーザは彼にひと目ぼれをする。次第に彼女はマッセリアの家族の四人目の子ども同様の扱いを受けるようになり、夏休みが来て、トリノから戻ってくるたびにベルンとの関係も深まっていく。
 だが、成長するにつれ、ベルンの運命にはさまざまな波乱が生じる。世界に対する彼の強烈な好奇心と貪欲な知識欲、そして理想を純粋に渇望する飽くなき欲求のせいだ。彼はマッセリアの境界を越え、外の世界をむさぼり始める。
 人間とは「自分にはないもの」「ここではないどこか」を追い求めずにはいられない生き物なのだろう。誰しもそんな経験があるのではないだろうか。特に思春期から青年期にかけては。ベルンは全身全霊をかけて探究を続ける。宗教的生活、アナーキズム、自然農法、環境保護運動、理想の家族、人間の手が入っていない原初の自然……。だが純度の高すぎる純粋さは往々にして危険なものだ。本人にとっても周囲の人間にとっても。
 ベルンははたしてどこかにたどりつけるのだろうか? そして、そんな彼を愛したテレーザは幸せになれるのだろうか? その顛末がこの物語では描かれている。
 
 マッセリアと呼ばれるイタリア南部の伝統的な農家(屋根が平たく、レンガか石を積んだ二階建てが多く、外壁を漆喰で真っ白に塗ったものもある)は、この物語のもうひとりの主人公だ。そこに暮らす登場人物たちの顔ぶれと生活が時につれて変化するのに対し、マッセリアだけは物語の流れのなかで終始コンパスの軸のように動かない。家なのだから物理的に動かないのは当然だが、やがてベルンに「ここを離れたら、俺は死んでしまう」とまで言わせる、登場人物たちの心のよりどころだ。
 先に「神話」という言葉でこの物語を評したが、それは『天に焦がれて』の筋書きがどこか夢物語的であるためのみならず、マッセリアとその周囲に広がる野畑が俗世とは隔絶した別天地のように描かれているためだ(ただし単なる桃源郷ではない)。
 またマッセリアのあるスペツィアーレという集落はもちろん、彼らがやがて通うようになるオストゥーニや寄港地(スカーロ)を含めた、プーリア州サレント地方の独特な風土もこの物語をどこか神話的にしているようだ。
 サレントには訳者も何度か行ったことがあるが、あの地方の農村部には旅人に「ここはほかの土地と何かが違う」と思わせる不思議な空気が確かに流れている。大げさに聞こえるだろうが、ある種の魔力すら感じてしまう。野に力があるのだ。
 作者もサレントに魅了されたひとりで、イタリアにおける新型コロナウイルスの大流行を受けて彼が二〇二〇年に発表したエッセイ集『コロナの時代の僕ら』(早川書房)にもこんな一節を記している。
「毎年、夏はプーリア州のサレント地方で過ごすことにしている。しばしばあることだが、遠くであの地方のことを考えると、僕の心にまず浮かぶのはオリーブの木だ。オストゥーニから海へと向かう道沿いには、とても古い、見事な樹形(じゅけい)の木々が並んでいる。ぱっと見、それが植物だとは信じられないくらいだ。幹の表情があんまり豊かなので、見ていると、感覚すら持っているのではないかという気がしてくる。僕も何度か、あの魔法めいた衝動に負けて、幹に抱きついて少し力を分けてもらおうとしたことがある」
 どこか神秘的な静けさに包まれたそうしたオリーブ畑は、たいていの場合、サボテンの茂みや素朴な石垣で区切られている。一見、石灰岩の石くれを無造作に積み重ねただけのような、誰がいつ積み上げたとも知れぬ石垣だが、触れてみれば案外と頑丈で、古いものであることに気づいて驚かされる。元々どこを掘っても出てきて、耕作の邪魔にしかならなかった石くれを、古人がモルタルを使うことなく巧みに積み上げたものらしい(同じ工法で造られたトゥルッリと呼ばれる石積みの伝統家屋が建ち並ぶ町並みが世界遺産に登録されたアルベロベッロもプーリア州の町だ)。
 そして、あの大きな空とその下に広がるエメラルドグリーンの海。古代にはギリシア人が渡来して文明をもたらし、中世にはサラセン人がそのかなたより襲来した海だ。
 祭りの夜ともなれば、激しいリズムでタンバリンを叩き、合いの手を入れる男たちの輪のなかで、裸足の女たちが血のように赤いショールを振りかざし、何かに取り憑かれたかのようにぐるぐると回りながら、エキゾチックな伝統舞踊ピッツィカを延々と舞い続ける。
 そんな、一般に知られたイタリアの風景とはまるで異なる、幻のような別天地に憧れて、近年では夏になるたびに、バカンス客が北から大挙をなしてサレントに押し寄せるようになった。

 なお、作中でオリーブの木を枯死させるピアス病菌のキシレラ(キシレラ・ファスティディオーザ、Xylella fastidiosa)による被害の描写があるが、これは、二〇一三年以降、実際にプーリア州、とりわけサレント地方を脅かし続けている深刻な問題だ。老木ほど被害が大きいとされ、二〇一九年のデータで既に二百万本を超えるオリーブの木が枯死したとされる。残念ながらいまだに根本的な治療法は見出されておらず、問題は未解決のままだ。

 本作で初めてジョルダーノの小説世界に触れた読者のために、作者の経歴を簡単に紹介しておこう。
 パオロ・ジョルダーノは一九八二年トリノ生まれ、トリノ大学大学院の博士課程で素粒子物理学の研究をしていた二十五歳の時に小説『素数たちの孤独』(二〇〇八年、早川書房)で文壇デビューを果たし、同作でいきなり、イタリア最高峰の文学賞であるストレーガ賞を受賞しておおいに話題となった。『素数たちの孤独』は世界で二百万部という大ベストセラーとなり、イタリア人監督サヴェリオ・コスタンツォによって映画化もされた(主演アルバ・ロルヴァケル、ルカ・マリネッリ)。
天に焦がれて』はジョルダーノの長篇小説としては『素数たちの孤独』、『兵士たちの肉体』(二〇一二年、早川書房)、Il nero e l’argento(Einaudi, 2014)に続く四作目となるが、作家はあるインタビューに答えて、デビュー作のあまりに大きな成功とその反響のせいで、おびただしい数の異物が自分の身に貼り付いて離れない、そんな違和感にずっと悩まされてきたが、『素数たちの孤独』から十年目に刊行された本作の執筆によって、ようやくそんな苦しみからも解放され、「これは二度目のデビュー作だ」という心境にいたることができたと語っている。
 そんな彼の意気込みが報われたか、刊行直後にイタリアの新聞各紙に掲載された書評は軒並み本作を高く評価しており、一九〇一年創刊の本の情報誌『ラ・レットゥーラ』が選んだ二〇一八年度の良書ランキング(Classifica di Qualità 2018)でも二位(イタリア文学では一位)に選ばれた。二〇二一年現在、イタリアでは通算十六万部を売り上げ、世界二十三カ国での刊行が決まっているそうだ。
 さらに二〇二〇年の『コロナの時代の僕ら』の発表前後からジョルダーノは、新型コロナウイルス感染症についての記事を新聞やニュース雑誌に多数寄稿し、テレビやラジオの番組にもしばしば出演して、高度な科学知識を持った小説家という独自の視点から意見を述べ、議論に参加するようになった。『コロナの時代の僕ら』で彼自身がその必要性を強く訴えていた、科学の世界と大衆の橋渡し役を自ら務めているのだ。
 新たなステージに立ったジョルダーノの今後の創作活動に心から期待したい。
 
 二〇二一年十月
 モントットーネ村にて

                            (飯田亮介)


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