ファイト_クラブ_新版_

自分の人生を取り戻せ──『ファイト・クラブ』解説(都甲幸治)

映画版公開から20年を経て文庫版の重版が決定したチャック・パラニューク『ファイト・クラブ』。本書の巻末に収録されているアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治氏による解説を公開いたします。

『ファイト・クラブ』
チャック・パラニューク/池田真紀子訳

 最近、君は自分が生きていると心から感じているか。『ファイト・クラブ』でパラニュークが僕たちに突き付けるのはこの問いである。周りの人たちの言うことを聞いて育ち、どうにかありついた仕事に就き、ようやく稼いだ金で物を買う。こうした日々の連続の中で、そもそも自分が何をしたかったのか、何が欲しかったのか、何をしているときが楽しいのか、そして誰を愛しているのかまでがぼんやりとしてくる。そんなとき僕らは、いったい誰の人生を生きているのだろうか。

 パラニュークは言う。「我々は良い人間になるように育てられてきました。だからこそ、僕らの子ども時代のほとんどは周囲の期待に応えることばかりに費やされてしまいます。両親や教師やコーチの期待に応え、そして上司の期待に応える。こうして我々はどうして生きていくかを知るために、自分の外側ばかり見ているんです」(DVD Journal インタビュー)。そんな人の顔色を見るだけの生活が楽しいわけはない。

 ルールを自分で作ること。そして自分の人生の主役になること。確かに第一歩は恐いだろう。でもそれを踏み出したとき、君は今まで感じたことのない喜びの中で生きることができる。パラニュークは続けて語る。「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うんじゃなく、自分でルールを作れるようになったとき、そしてまた、他のみんなの期待に応えるんじゃなく、自分がどうなりたいかを自分で決めるようになれれば、すごく楽しくなるはずです」(同前)。恐怖を乗り越えて自分の頭で考え始め、他人に奪われていた人生を自分の手の中に取り戻す。『ファイト・クラブ』は君に、そうしたきっかけを与えるために書かれている。

 一九九六年に『ファイト・クラブ』が出版されてから、ほぼ二十年の時が過ぎた。本書のイメージを決定的に決めたのは、ブラッド・ピットとエドワード・ノートン主演の映画版(一九九九年)である。引き締まった身体を素手で殴りあう美しい男たちや、崩れ去るビル群は観客に強烈な印象を与えた。その後に発売されたDVD版が世界で大ヒットして、『ファイト・クラブ』はあっと言う間にカルト的な人気作品となる。

 けれども、そのせいで大きな誤解も生じた。『ファイト・クラブ』で重要なのは、暴力でも派手なスペクタクルでもない。そしてまた、『ファイト・クラブ』はただの、人気映画の原作でもない。『ファイト・クラブ』とは、生きることの意味とは何か、人生で大切なものとは何かを正面から考える、ひたすら優れているだけの、アメリカ文学の新しい古典だ。二十年の時を経て、今なお、いやむしろ、書かれた当時よりも新鮮に読めるということそのものが、『ファイト・クラブ』という作品の力を証明している。

 僕がパラニュークの作家としての実力を思い知ったのは数年前、偶然彼の「付き添い」という短篇を手にしたときだ。『フィクションより奇なり──本当の物語たち』(未訳)に収録された、わずか五ページのこの作品でパラニュークは、HIVや癌を患った貧しい末期患者たちの暮らすホスピスについて語る。二五歳の主人公は、ひょんなことからホスピスでボランティアを始める。医師や看護師の資格を持たない彼は、互助グループに参加したり数少ない外出をしたりする患者を、車で送り迎えする付き添いの仕事をするしかない。

 極端な貧困地区にあるこのホスピスは、医療保険のない若者も受け入れる。ゲイだろうがストレートだろうが、苦しんでいる者すべてに手をさしのべるのだ。「少なくとも患者の半分はエイズだったが、このホスピスは差別しなかった。誰でもここに来て、どんな理由でも死ねたのだ」。主人公は患者たちを海に連れて行き、まだ人生の時間が残っている間に、山の上から世界を眺めさせる。付き添いでやってきた患者の母親が、自分の息子について、すでに過去形で話す言葉に耳を傾ける。

 彼は思う。「今や自分が抱えている問題なんて大したことないように思えてきた。自分の手足を見るだけで、自分が驚くほど重いものを持ち上げられるというだけで、職場でトラックが立てる轟音に負けないように叫び声を上げられるというだけで、自分の人生が何かの間違いなんかじゃなくて、奇跡のように思えた」。だがやがて、親しくなった患者の死に直面し続けるうちに、彼はボランティアを続けられなくなる。しかしそれでも、患者の母たちから送られてきたアフガン織りの毛布はどうしても捨てられない。

 パラニュークの実体験に基づいた「付き添い」のトーンは静かだ。レイモンド・カーヴァーなどのミニマリズム作品に学んだ彼の文章は簡潔で、時に患者との外出を「デート」と呼ぶなど、ちょっとしたユーモアに満ちている。けれどもだからこそ、主人公の悲しみが読者の心の底まで沁みる。社会からクズ扱いされている人々の命に向けるパラニュークの視線の優しさを見れば、彼が本物の作家であることがわかる。そこにはいわゆるパラニュークらしいとされている、派手でどぎつい表現などまるでない。

「付き添い」はパラニュークの実体験に基づいている。一九六二年、ウクライナ系の家族に生れた彼は、ワシントン州バーバンクのトレーラーハウスで育った。オレゴン大学でジャーナリズムを専攻するも、卒業後は主に、大型トラックの製造で知られるフレイトライナーで自動車工やマニュアルの執筆係として働いていた。「付き添い」で彼が描いたようなボランティアをしたのは、ちょうどその頃である。

 パラニュークは語る。「以前ホスピスでボランティアとして働いていました。でも看護も料理もなにもできなかったから、付き添いと呼ばれる役目につきました。僕は患者たちを毎晩互助グループに連れて行き、会が終ると彼らを連れて帰れるように、隅で坐ってなきゃならないんです。何グループも坐って見ていると、こんな健康なやつがわきで坐って見てるってことに、本当に罪の意識を感じ始めました。これじゃまるで観光客ですよ。だから僕はこう考え始めたんです。もし誰かが病気のふりをしているだけだったら、って。他の患者たちが与えてくれる親密さや正直さがほしい、それから、感情をぶちまけてすっきりしたい、って理由でね。こんなふうにして『ファイト・クラブ』のアイディアが生れてきたんです」(DVD Talk インタビュー)。

 死を前にしたとき、日頃社会で大切だと思われていることの多くは価値を失う。金があっても、物があっても、地位も名声も、もはや何の意味もない。逆に、人との嘘のない繋がりや温かみ、あるいはちょっとした思いやりが、いつもより大きな意味を持って迫ってくる。パラニュークの魅力とはこうした、社会から一歩距離を取って物事を捉え直す視線だろう。そしてまた、不要な物に囲まれ、孤独に苛まれている僕らの感情を的確に掴んで、それを剥き出しに表現する勇気だろう。パラニューク自身ゲイであり、フレイトライナー時代から二十年以上連れ添った男性と住んでいることを公言している。貧しく、社会の片隅に追いやられた人々への共感が彼の文学の根底にはあるのだ。

『ファイト・クラブ』を書くにあたって、既成の文学は彼の役には立たなかった。だから自分や周囲の仲間たちが体験したことのあるエピソードを集め、友人たちから聞いた話を作品に折り込んでいった。「何かを読もうとしても、いつも失望していました。図書館に行き、本棚から五十冊の本を引き抜いても、読みたい本は一冊もありません。だから、もっとましなやり方があるんじゃないかな、と思いました。周りのみんなから本当に面白い話を聞いて、いつも笑っていたんです。みんな素晴らしく楽しい話を知っていました。だからそうした話を無駄にして、宙に消えるにまかせるんじゃなくて、集めてみたらどうだろうと思ったんです」(Beatrice インタビュー)。

 自分が日々の生活で感じている怒りや不満、孤独を表現してくれる本なんてない。だから自分で書こう、というパラニュークの決断は僕には、とても正しいものに思える。なんでも、『ファイト・クラブ』の八〇パーセントまではこうして集めた話だという。だがそれは、パラニュークが他の文学作品を知らなかったことを意味しない。彼は古典ではフィッツジェラルドやポーに影響を受けたし、現代作家で好きなのはジュノ・ディアスやデニス・ジョンソン、トム・ジョーンズで、エイミー・ヘンペルには深い敬意を抱いている。こうした文学的な素養に現実の人々の声をぶつけることで、『ファイト・クラブ』という画期的な作品は生まれた。

『ファイト・クラブ』の主人公は人生に飽き飽きしている。仕事に恵まれ、おしゃれなマンションで独身生活を楽しんでいるものの、こんな生活を自分で望んでいたのかどうかさえわからない。やがて彼は極度の不眠に陥る。医者に行っても、どんなに薬を飲んでも、まったく症状は改善しない。そこで彼が見つけたのが難病患者の互助グループだった。自分も患者だと嘘をついた彼は、参加者と苦しみを分かち合い、感情を吐き出し、抱き合って泣く。互助グループに参加した日だけは彼は安らかに眠れた。しかし同じく患者を騙る女性マーラが出現したおかげで、彼はこの喜びを奪われてしまう。

 だが主人公はタイラーとの偶然の出会いを通じて、誰にもじゃまされない、自分たちだけの互助グループを作ることになる。それがファイト・クラブだ。男たちは素手でひたすら殴り合い、傷つき、自己を破壊し、時には死に近付くことで強烈な生の感覚を味わう。「ファイト・クラブを知ったあとでは、テレビのフットボール中継など、最高のセックスを楽しめばいいのにわざわざポルノ映画を鑑賞するみたいなものだ」(68頁)。この喜びを知った主人公はやがて、現実社会のルールを無視し始める。彼にとっては仕事も、家も、何もかもが無価値な、過去の遺物でしかない。

 けれども、彼の自由の感覚はそう長くは続かなかった。ファイト・クラブは初め、タイラーと主人公二人だけの探求の場所だった。しかしだんだんと会員が増え続け、クラブはその性格を変えていく。肥満治療で除去された人間の脂肪が材料の石鹸を財源として、ファイト・クラブはタイラーを頂点とする巨大組織にまで膨れ上がる。現在の世の中を破壊し尽くすことでしか良い世の中はやってこない、というタイラーの思想から、誰の自由をも奪うカルト的な組織が生れてしまう。しかも主人公とタイラーとはある思わぬ理由で、強く結びついていた。果たして主人公はファイト・クラブの呪縛から逃れることができるのだろうか。

 主人公が生きているのは、金が優先の堕落した世の中だ。彼は自動車事故の調査員で、全米を飛行機で飛び回り、自社の車の欠陥を探している。もし欠陥が見つかっても、リコールはすぐには行われない。リコールの費用より死者たちの遺族に払う慰謝料が安ければ、会社は欠陥を握りつぶす。リコールを実施するのは、そうしたほうが安上がりな場合だけだ。あるのは経済の法則だけで、死んだ者たちへの尊敬も倫理も何もない。

 これも仕事だと割り切って手に入れた金で、主人公はきれいな家に住む。それでも心は空虚なままだ。彼は思う。「北欧家具からぼくを救い出してくれ。気の利いたアートからぼくを救い出してくれ」(61頁)。だからこそ、おそらくタイラーが主人公のマンションを爆破したとき、彼はとてつもない解放感を感じる。今までは、十分な量の金を稼ぎ、世間で価値が高いと言われている物を手に入れることが成功だと彼は教えられてきた。けれどもそれは、欲しくもない物に、逆に所有されていただけだ。こうして主人公は、物への崇拝から離脱する。

 けれども主人公の心には落とし穴があった。社会の価値観の外には出たものの、誰かに従いたいという気持ちを彼は克服できない。だから鋭い英知に満ちたタイラーと住み始め、彼の言葉に従いながら、ファイト・クラブの拡大に加わる。やがて変質したファイト・クラブが会員の自由を奪うことに主人公が気づいてももう遅い。もはや主人公にも、ひょっとしたらタイラー本人にも止められないほどの速度で組織は暴走するだけだ。

 パラニュークは本書でどうして暴力や混乱を描いたのか。彼は言う。「無秩序で破滅的なものを前にしても、我々は恐れず、むしろ受け入れなければなりません。こうしたものを通じてしか我々は救われないし、変われないのです」(DVD Talk インタビュー)。既成のルールで縛られた都市から荒野に出て行き、身につけた知識を総動員して、体や頭を動かして生きてみる。そうやって、すべて人任せでやってきた自分の人生の主人公になる。こうした考え方は、僕にはとてもアメリカ的なものに思える。かつて十九世紀にソローは大自然の中、たった独りで二年間を自給自足で過ごし、その結果を『森の生活』(一八五四年)にまとめた。貧血した文明を克服したいという感情は、アメリカ文化の遺伝子に明確に書き込まれている。

 僕が『ファイト・クラブ』で好きなのは、終夜営業の商店でバイトを終えた見ず知らずの青年を主人公が銃で脅すシーンだ。主人公は青年に銃口を突き付け、お前の夢は何かと訊ねる。本当は獣医になりたかった、と青年が答えると、主人公は言う。「学校へ行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ」(220頁)。そしてもし今後、君が夢に向かってがんばっていないとわかれば確実に殺す、と宣言する。おそらくこのあと青年は長年の夢をかなえることだろう。

 かつて哲学者の戸田山和久は、名著『論文の教室』(NHK出版)で、この場面でのやりとりを「啓蒙」と呼んだ。そして僕も戸田山に完全に同意する。相手の可能性を信じ、それをはっきりと口に出す教師。今日が命の終る日だと思い、一秒毎に全力を尽くす学生。もちろん『ファイト・クラブ』では、この真に教育的な関係は滑稽なほど極端に誇張されている。だが、遅かれ早かれ死ぬことが確定している我々は、日々、神に銃口を突き付けられているのと同じではないか。自らが死すべき存在であることを知り、常に自らの無知を意識すること。『ファイト・クラブ』で語られる知恵と、ブッダやソクラテスの言葉は案外近い。

『ファイト・クラブ』が映画化されると、パラニュークは突然有名人となり、多くの人々が現代の導師と仰ぎ始めた。この状態を最も不本意に思っているのは当のパラニュークだろう。常に自分の頭で考えろ。社会にも、そして社会を批判する人々にも騙されるな。シンプルなメッセージと巧みな文章、そして奔放な想像力を併せ持つパラニュークはまさに、現代の巨匠である。

(アメリカ文学研究者・翻訳家 都甲幸治) 

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重版までの経緯はこちらです。


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