少女ふたり、夢の中で恋人として出逢う。『そいねドリーマー』冒頭お試し版
文庫版1月7日(木)発売、宮澤伊織『そいねドリーマー』の冒頭お試し版。夢と現実の混ざり合う「添い寝SF」の世界をお楽しみください。
1
うららかな午後の日差しに温められた教室を、定年間際の女性教師がだらだらと垂れ流す現代文のお題目が呪文のように支配していた。
昼休みの後、腹もくちくなった女子高生たちの脳には充分な血液が届いていない。いちばん後ろの机に座っていると、あちこちでこっくりこっくり船を漕ぐ頭が、いやでも視界に入ってくる。
見ているだけで眠気を誘われる光景だが、しかし、帆影沙耶が眠りに落ちることはなかった。
教室の最後方、しかも窓際の席である。本来であれば、授業中の安眠が約束されたポジションのはずだろう。
ただしそれは、眠ることができる人間にとっての話だ。
沙耶は頬杖を突いて、ぼうっと黒板に目をやっている。居眠りこそしていなかったが、その思考はきわめてぼんやりとしたものだった。目はただ虚ろに開かれているだけ。耳から入ってくる教師の声も、環境音としての役割しか果たしていない。
「……ほかげ。帆影!」
名前を呼ばれていたことにようやく気付いて、沙耶は目をしばたたいた。よく見ると教師がこちらを睨んでいる。
「目が覚めた?」
「……寝てないっす」
かすれた声で沙耶は答える。
「じゃあ次の文章、頭から読みなさい」
次の文章と言われても、今までどこを読んでいたのかすら見当がつかない。教科書のページを手元で無為に弄んでから、やむなく沙耶は言った。
「……わかりません。どこっすか」
教師は呆れたようにため息をついた。
「もう結構です」
別の生徒が指名されて、教科書を読み上げる。
「〈夜寝る時、灯りを消さないと寝つかれないと云う人の方が多い様だが、私は真暗では息苦しくて眠る事が出来ない〉……」
沙耶は俯いて、机の上に視線を落とした。
ここしばらく、同じようなことが何度も続いている。クラス全員の前で失態を演じる気まずさにはいっこうに慣れないし、自分を置き去りにして授業が進んでいくことにもひどく焦燥感がつのる。
しかし、どうしようもないのだ。
帆影沙耶は眠れない。
夜も、昼も、家でも、学校でも。
いつでも、どこでも、何をしていても。
これが眠くないというならまだいい。頭がはっきりしていれば、他人が寝ている時間も有効に使えるだろう。ところが沙耶の場合、眠気はしっかりあって、しかも解消されないのだ。
眠いのに眠れない。最悪である。
思いつく手段はすべて試した。よく食べてから寝る。風呂で身体を温めてから寝る。ストレッチしてから寝る。疲れ切るまで運動してから寝る。布団を変えた。枕も変えた。寝る場所を変えた。朝昼夜と、時間帯も変えてみた。安眠用の催眠音声まで試してみた。睡眠外来でカウンセリングも受けた。睡眠導入剤だってもらってきた。
何一つ、効果はなかった。
とにかく眠りたい、一瞬でも意識を失いたいという切実な欲求を抱いたまま、沙耶は何日も朦朧と起き続けている。
おかげで成績は最底辺、学校でも家でも肩身が狭い。目の下にはひどいクマができて取れないし、眉間の皺で目つきが怖い。いつもイライラしていて、話しかけられてもまともな受け答えができないので、クラスメイトにも敬遠されるようになってしまった。周りから見れば、せいぜい頭の悪いヤンキーもどきというところなのだろう。
やがてチャイムが授業の終わりを告げた。
教師が去り、教室は生徒たちのざわめきに包まれる。誰も沙耶に話しかけてはこない。次が六時間目の数学、それが終われば帰れるのだが──。
──ここにいる意味があるだろうか。
一年まではそんなに苦手というわけでもなかった数学だが、今の状態で論理的な思考をするのは難度が高すぎる。実際、不眠に陥ってからというもの、数学の授業はただ座って意味を成さない数式を眺めるだけの時間に成り果てていた。それを言ったら他の授業だってだいたいそうなのだが。
椅子を引いて、沙耶は立ち上がった。
ふらふらと教室を出る沙耶に目を留める者は誰もいない。次の授業をサボっても、誰も困りはしないはずだ。
不眠という悩みはあまり深刻に受け取ってもらえないことに、沙耶は早い段階で気付かされていた。
焦らなくてもそのうち眠れるよ、という無責任な気休めを吐かれるくらいならまだいい方で、規則正しい生活をしていないからだと説教をされることすらあった。しかし、周囲の無理解に憤慨する段階も、沙耶は通り越していた。
寝たい。ただただ、寝たい。
それが無理なら、せめて横になりたい。
休み時間のざわつく廊下を、沙耶はよろめき歩き、おぼつかない足取りで階段を下りた。
一階は薄暗く、ひと気がなかった。保健室のドアを開けて足を踏み入れると、机に着いていた保健医が顔を上げた。
「帆影さん」
「ちょっと休ませてもらってもいいっすか」
「やっぱり、まだ眠れないの?」
「ぜんぜん……」
保健医は立ち上がり、カーテンで仕切られたベッドの方へと沙耶を促した。
「どうぞ、ベッド使って。少しでも楽になるといいんだけど」
沙耶はぼそぼそと礼を言って、二つあるベッドの一方に腰掛け、上履きを脱いで布団に潜り込んだ。
「いつでも来ていいんだからね」
そう言いながら、保健医がベッド側の蛍光灯を消して席に戻っていった。
保健医はこの学校で、沙耶の不眠をまともに心配してくれる数少ない人物だった。いつでも来ていいというのはありがたい申し出ではあったが、沙耶はなるべく通い詰めないように自制していた。なにしろ、保健室に来たってどうせ眠れないのだ。
目を閉じる。
布団の暖かさを感じながら、ゆっくりと呼吸する。
吸って……、
吐いて……。
吸って……、
吐いて……。
……………………。
眠れない。
寝返りを打つ。壁に掛かった時計の音が意識に上る。チッ、チッ、チッ、チッ、規則正しく進んでいく秒針の音を数えてみる。
一、二、三、四……、
……………………、
五百六十五、五百六十六、五百六十七……、
カーテンの向こうで、保健医が書き物の手を止めた。背もたれが軋む。伸びをしたような気配。ふうと息をつく、声ともつかない声。
椅子のキャスターが動いて、保健医が立ち上がった。
カッ、カッと踵が鳴って、遠ざかり、保健室の引き戸がスライドして開き、ふたたびぴたりと閉ざされた。
足音が廊下を歩み去っていく。
自分以外の気配がなくなって、部屋がしんと静かになる。
やっぱり、眠れない。
仰向けになって、瞼を開いた。
明かりが消されて薄暗い天井を見上げていると、どんどんつらさが増してきた。
このぼんやりとした苦しみは、いつまで続くのだろう。
もう、一生このままなのだろうか。
眠れないという悩みを口にすると、しばしば言われる気休めがある。
曰く、〈眠れなくて死んだ人はいない〉。
言われるたびに腹が立つのだが、沙耶は一応自分でも調べてみた。本当に、眠れなくて死んだ人間はいないのかどうか。
実際にはいた。致死性家族性不眠症という病気で、完全な不眠に陥り、二年ほどで死に至るという症例が見つかった。ただ、これはかなりレアな症例で、しかも遺伝病だった。両親に訊ねてみたが、どちらの家の親族にも、そんな病気を持つ者は誰もいなかった。
逆に、何年にもわたって眠っていない人がいるという話がいくつか見つかったが、情報の出所が怪しげなまとめサイトだったり、海外のニュースからの翻訳だったりで、どこまで信憑性があるのか見当がつかなかった。
一方で、人間を眠らせないようにする拷問は多くの国で実用化されていたという話もあった。ナチスドイツが開発した断眠法、アメリカのCIAが中東で効果的に使用した百八十時間断眠、中国当局がウイグル族拘留者に対して実行した十五分ごとの睡眠中断……そうした文献では、犠牲者が心身に異常を来したと記されているのが常だった。
犠牲者に心底同情しつつ、沙耶は思った──じゃあ、今の私は、二十四時間拷問されているようなものじゃないか。
私も異常を来すのだろうか。
というかもう、そうなっているのだろうか……。
たかが眠れないというだけのことで人生を左右されるのは、考えれば考えるほど理不尽で、納得できないことに思われた。
曇った思考の底で沸々と怒りをたぎらせていると、廊下の方から、また足音が近付いてきた。
保健医が戻ってきたのかと思ったが、音が違う。パンプスのヒールではなく、平べったい上履きの靴音。教師ではなく、沙耶と同じ生徒のようだ。
ぺったらぺったらと廊下を歩いてきた何者かが、ノックもせずに、がらりと保健室のドアを開けた。保健医の不在に気付いたからか、一瞬足を止めたものの、引き返さずそのまま室内に入ってくる。
「ふわあ」
気の抜けるような女の子のあくびが聞こえた。
「……はふ。ねむねむ」
呟く声が近付いてきたかと思うと、いきなりカーテンがめくられた。
「へ」
びっくりするべきところだが、こちらもぼんやりした反応しかできない。かろうじて上体を起こしたところへ、声の主が倒れ込んできた。
「……うわ?」
掛け布団の上に、なんだかふわふわしたやつが寝ていた。
癖のある柔らかそうな髪がブレザーの背中に広がっている。沙耶よりも小柄で、こちらの両脚の上に遠慮なく身体を預けているのに重さをほとんど感じない。
「なんだこいつ」
思わず独り言が口からこぼれた。四六時中眠くて言動が雑になっているため、頭に浮かんだことがダダ漏れになる傾向がある。
「あの、ちょっと」
「うーん? んむん」
頭が物憂げに動いて、髪の間から横顔が覗いた。目は閉じていて、口元がなんとなく微笑んでいるように見える。
「ねえ。おい。なんなの」
口調を強くして呼びかけると、唇がかすかに動いた。
「…………さい」
「え? なに?」
聞き取ろうと顔を近付けた沙耶の耳に、呟きが忍び込んできた。
「────おやすみなさい」
ぐらっ、と視界が揺れた。
頭の中に渦が生まれたような感覚だった。
頭蓋骨の中をひたひたに満たした眠気の溜まり水に、唐突な流れが生まれた。まるで満水のダムがいきなり決壊したかのように、あるいは浴槽の栓を抜いたかのように。
「え、え、え」
混乱している余裕すらほとんどなかった。意識が眠気の濁流に放り出されて、真っ暗な渦の中へと吸い込まれていく。
「なにこれ、やだ、こわい──」
突然の感覚に恐怖が湧き上がるが、抵抗しようがなかった。
あっという間に意識が暗闇にみ込まれていく。
──ああ、これは。
忘れていた。
沙耶はこれを、知っている。
久しぶりのこの感覚は──。
眠りだ。
ZZZ
故郷を出て以来久しぶりに通る道を歩いていると、そこかしこに黄色のカラーコーンが立っていて邪魔だ。何度も躓くので腹が立って、これはなんですかと通りすがりの人に訊ねると、その人が舌打ちをして私を睨む。
「いつまでもそんなことを言っているから、おまえは駄目なんだ。それだからこの町をあんな風に出ていかなくてはならなくなった。どういうつもりで帰ってきたのか気が知れない」
そう早口に私を詰って、舌打ちをしながら歩み去っていく。
私はひどく恥ずかしくなって泣いてしまう。
あの人の言うとおりだ。やっぱり戻ってくるべきではなかったのだ。
「仕方ないのよ」
と隣を歩く恋人が言って、背伸びをして私の頬の涙を吸ってくれる。
「スイジュウが出るから。ここにあるのはみんなお墓なの」
そう言われてよく見ると、カラーコーンにはみな人の名前が書かれている。
「もうすぐ来るよ。準備はできてる?」
スイジュウの倒し方ならよく知っているから、私は頷く。恋人は満足そうに微笑んで、私にキスをしようとする。その後ろから、横に何本も並んだ脚が近付いてくるのが見えた。スイジュウだ! 私はそいつを指差して、警告しようと口を開く──。
ZZZ
「はっ……」
急に意識が戻って、沙耶は目を開けた。
何が起こったのか、しばらく把握できない。
薄暗い保健室の天井を呆然と見上げるうちに、じわじわと理解が追いついてくる。
「……寝て、た?」
寝ていた。しかも、夢まで見ていた。
いったい何日ぶりだろうか。もう二度と訪れないのかと諦めかけていた眠りが、ふたたび沙耶の元に返ってきたのだ。
「眠れた。眠れたんだ」
横を見ると、恋人が、いつの間にか沙耶の隣に並んで寝ていた。無事を確認できて、沙耶はほっとため息をつく。
「よかった……間に合った」
スイジュウに襲われていたらただではすまなかったはずだ。すうすうと寝息を立てる安らかな顔を見つめていると、愛しさと安堵がこみ上げてきた。
沙耶は恋人に顔を寄せて、かすかに開いた唇に、そっとキスをした。
柔らかい感触と、甘い匂いに陶然とする。
ああ、そうだ。この感じだ。
……………………。
「……あ?」
この感じ?
この感じとは?
沙耶はぱちぱちと瞬きをして、自分がキスしたばかりの恋人に改めて注意を向けた。
ふわふわした癖っ毛の、柔らかくて、いい匂いの女の子。
「…………は」
はあーーーーッ!?
沙耶はベッドの上に跳ね起きた。
だ、誰だこいつ!?
恋人? なんで? 夢の中では完全にそう認識していて、今の今まで違和感なくそう思っていたが、冷静に考えると全然知らない人だ。
パニック状態で凍り付いていると、〝恋人〟の瞼が開いた。
「ん……」
うつぶせからゆっくりと身を起こし、ぼうっとした視線を沙耶に向ける。薄暗い中、その瞳が鈍く輝いて見えた。人の形をした獣がそこにいるようで、沙耶は我知らずベッドの上で後退ろうとした。
後ろに突こうとした手が空を摑んで、沙耶はそのままベッドから転がり落ちた。
「おあっ、だっ」
背中を打って息を詰まらせる沙耶を、ベッドの上から〝恋人〟が覗き込んできた。
「──大丈夫?」
沙耶は答えることができない。目を丸くして見上げるだけだ。さっきの満ち足りた感覚が怖かった。知らない人間をよりによって恋人だと思い込んだことが、たまらなく恐ろしい。
「ねえ」
〝恋人〟が言いかけて、ふと何かに気付いたように言葉を途切れさせた。顔を俯け、右手を持ち上げ、唇に触れて、首をかしげ──改めて、沙耶の方を見た。
「あなた、いま──」
「ごっ、ごめっ」
沙耶は遮るように大声を出して、足を滑らせながら立ち上がった。
「あっ、ちょっと!」
呼び止められるのを無視して背を向け、カーテンを払ってベッドから離れる。もがくように脚を動かして室内を横切り、勢いよくドアを開けて外に出た。
とっくに放課後になっていた。夕日の残光でかろうじて彩られた廊下を走って、下駄箱で靴を引っかけると、沙耶は学校から逃げ出した。
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