見出し画像

「誰かの代わりに本を読む」ことはできるか? 友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』まえがき

数年前、一冊の自主制作本が文芸フリマや全国各地の独立系書店を中心に話題を呼びました。友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』。ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』を、4年かけて読んだ記録。ではあるのですが、本を開いた読者は困惑するかもしれません。だって、その脱線ぶりときたら……。しかしそうすることが著者にとって、『百年の孤独』という作品の、そして「読書」という行為の正体をつかむための、必然的な方法だったのです。

この度、同書が加筆修正の上、ハヤカワ・ノンフィクション文庫より刊行されます。文庫用に書き下ろされた「まえがき」を、発売に先がけ全文公開します。

『『百年の孤独』を代わりに読む』友田とん、ハヤカワ・ノンフィクション文庫(早川書房)
『『百年の孤独』を代わりに読む』

『『百年の孤独』を代わりに読む』まえがき

本書はガブリエル・ガルシア゠マルケスの長編小説『百年の孤独』を、まだ読んでいない友人たちの代わりに読む、という試みを綴ったものである。しかし、「代わりに読む」と言っても、単に小説をあらすじの形に要約したり、作品の背景を解説したりしたわけではない。それでは、代わりに読んだことにはならない。なぜなら、小説を読み進めている時間に読む者の心のなかにだけ立ち上がる驚きやワクワクというものは、要約や解説では伝えられず、そのまま時間が過ぎれば消えてしまうものだからだ。なんとかしてその消えてしまうはずの驚きやワクワクを生のまま伝えたかった。

ガルシア゠マルケスが亡くなった2014年の春、『百年の孤独』を読み返していて、読者をからかう冗談話として書かれていると気づいた私は、そこで読む側もある種の冗談的な方法で受けて立てばいいのではないかと思いついた。とにかく脱線しながら読むことにしたのだ。無数の挿話からなる『百年の孤独』を読み進めながら、連想したドラマや映画、ドリフのコント、Yahoo! 知恵袋の回答に、こんまりの片付け術まで。不思議なことに、こうして関係ないような物事に次々と脱線し、やがてまた『百年の孤独』へと戻る運動を綴ることによって、自分たちからは遠く離れた世界のように思われた『百年の孤独』の舞台・マコンドとそこで暮らす人々が、身近な存在に感じられ、荒唐無稽な物語が途端に腑に落ちたような気がしてくる。

そんな冗談のような読み方を思いついたのにはきっかけがあった。かつてイタリア・ピサに駐在する友人を訪ねた時、古い建物が囲む石畳の円形広場を歩いていると、友人の奥さんが目を輝かせながら、

「友田さん、ここはディズニーシーみたいでしょ!」

と言ったのである。ピサの街の方がずっと古く、歴史的な順序は逆だ。だが、そうであったとしても、友人の奥さんにとっての出会った順序はディズニーシー、ピサの広場である。ピサの広場を見て、ディズニーシーを思い浮かべてしまう、というこの感覚こそが実感なのだ。なるほどと感心した私は、これをずっと覚えていた。そして、『百年の孤独』を代わりに読むことになった時、作品の背景ではなく、読者にとって作品の手前にあるもの、つまりより新しいドラマや映画などに脱線するという方法を思いついたのだ。今になって振り返ってみると、これは手元に、私や友人たちのなかにある様々な記憶を組み合わせることで、身近な場所に自分たちなりの『百年の孤独』のパッチワークを作り出すような試みだったと言えるのかもしれない。こうすることで、誰よりもまず私自身が『百年の孤独』を面白がりながら読み進められるという気がしていたし、これを続けていくと、終いには何が起こるのだろうかという期待があった。

このように本書は『百年の孤独』を代わりに読むという試みであると同時に、そもそも「代わりに読む」とはどういうことで、いかにしてそれが可能であるかを考え続けた本でもある。やがてその思考は、より一般に、人の「代わりに」何かをすることの可能性や限界を考えることへと至った。言うまでもなく、独りで生きている者などおらず、わざわざ「代わりに」などと言わないだけで、世界は誰かの代わりに何かをすることだらけなのだ。例えば食事を作る、物を運ぶ、布団を敷くといったことを、誰かにしてもらったり、誰かの代わりにしてあげた経験が、あなたもきっとあるだろう。さらに、代わりにできることの中には、例えば、自身の背中を見る、手術する、見取る、弔うというような当の本人にはできず、代わりにしてもらうより方法のないものもある。一方で代わりにできないことも存在する。食べるなどの行動自体に意味があるものである。それらの区別は人々の間で暗黙のうちに共有されており、だからこそ、原理的には代わりにできないはずのことを「代わりにする」と言う時、それは冗談として受け止められるのだ。忙しそうにしている人に、しばしば発せられる「代わりにトイレに行ってくる」とか、「代わりにご馳走を食べておく」などといった表現のことである。

では、「小説を人の代わりに読む」はどうか。やはり、これも冗談に過ぎないのかもしれない。ただ、冗談をなんとか現実にできないかと試みることはできる。まるで本当のことのように振る舞ってみる。そうすることには、いくらかの価値があるように思う。少なくとも、それによって、代わりにはできないかもしれない「読む」という行為とは何であるのか、そしてそこに私が何を期待しているのかを照らし出すことはできるだろう。

私自身、まさか四年も掛けて読むことになるとは思わなかった。せいぜい一年あれば、読み通せるだろうという軽い気持ちで始めた脱線だったのである。ところが事はそう簡単には進まなかった。だが、途中で投げ出すこともできなかった。何やら、可笑しな事態が生じつつあるという、よくわからない手ごたえを感じていたからだ。そして、最後まで読み終えた時、『百年の孤独』と「代わりに読む」という組み合わせが、実は切っても切れない必然であったと知った。私はこれに気づいた時、驚きのあまり、涙してしまった。

とは言え、元は冗談話として読むという冗談である。ふざけていたのだ。だから気楽に読んでほしい。まどろっこしく感じたら、本書を投げ出して、直に『百年の孤独』を読んでもらってもいい。なぜなら、私の願いはこれを読んだ読者が『百年の孤独』の続きが気になって自力で読んでしまうということだけだからだ。


目次
まえがき  
第0章 明日から「『百年の孤独』を代わりに読む」をはじめます   
第1章 引越し小説としての『百年の孤独』  
第2章 彼らが村を出る理由  
第3章 来る者拒まず、去る者ちょっと追う『百年の孤独』のひとびと  
第4章 リズムに乗れるか、代わりになれないか  
第5章 空中浮揚に気をつけろ  
第6章 乱暴者、粗忽者ども、偏愛せよ  
第7章 いつもリンパ腺は腫れている──大人のための童話  
第8章 パパはアウレリャノ・ブエンディア大佐  
第9章 マコンドいちの無責任男  
第10章 NYのガイドブックで京都を旅したことがあるか?
第11章 ふりだし
第12章 レメディオスの昇天で使ったシーツは返してください 
第13章 物語を変えることはできない  
第14章 メメに何が起こったか  
第15章 ビンゴ  
第16章 どうして僕らはコピーしたいのか?  
第17章 如何にして岡八郎は空手を通信教育で学んだのか?  
第18章 スーパー記憶術  
第19章 思い出すことでしか成し得ないものごとについて  
第20章 代わりに読む人  
あとがき──代わりに読むことはできないという希望  
文庫版あとがき  
初出一覧 

著者紹介:友田とん
作家・編集者。京都府生まれ。ひとり出版社「代わりに読む人」代表。大学で経済学、大学院で数学(位相幾何学)を研究し 2007 年に博士(理学)を取得。企業でコンピュータサイエンスの研究者・技術者として勤務するかたわら、『『百年の孤独』を代わりに読む』を自主制作し発表。同書を書店に置いてもらうため営業(行商)しながら全国を巡る。その後「代わりに読む人」を立ち上げ、独立。他の著書に『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』『ナンセンスな問い』などがある。