ヒトのヒトたるゆえんは、「先見性」にある——『「未来」を発明したサル』試し読み
太古の昔、サルとヒトとを分けた最大のファクター「先見性」。過去を回顧し、未来を予測することを可能にするこの力は、実はこの地球で人類だけが大きく発達させてきたもの。その秘密を進化人類学、認知心理学、神経科学、考古学、歴史学の成果を縦横無尽に駆使して解き明かす壮大なる一書、『「未来」を発明したサル——記憶と予測の人類史』(トーマス・スーデンドルフ、ジョナサン・レッドショウ、アダム・ブリー著、波多野理彩子訳)が本日発売しました。今回の記事では刊行を記念し、本書の冒頭を特別公開します。
人類がその進化の早い段階で高度な先見性を身に付けていた証拠は、5000年以上前にアルプスの氷河で死亡したある一人の男性のミイラがもたらしたものでした。彼の亡骸と遺品が我々に語りかけること、それは、ヒトがその精神のなかに「タイムマシン」を有している、という事実だったのです。
第一章 あなただけのタイムマシン
1991年、凍結してミイラ化したこの男の遺体が、おびただしい数の所持品とともにアルプスの氷河で見つかった。彼は発見されたエッツタール・アルプスにちなんで「エッツィ」、またはシンプルに「アイスマン」と呼ばれるようになった【1】。エッツィの入念な旅支度は、過去にうまくいったことを思い出し、明日必要になるものをあらかじめ考える人類の普遍的な能力を表すいい例だ。
人間の思考は仮想のタイムマシンだ。私たちはそれに乗って過去の出来事を追体験し、似たような経験がなくとも未来の状況を想像する。いつも夏休みのことを空想し、これから行くディナーデートにわくわくし、テストの結果をあれこれ考える。心のタイムトラベラーである人間は、エッツィのようにこれから来るチャンスやピンチに備えて、思い描いた未来を実現しようとする。先見性とは、未来の出来事を予測して備える能力のことであり、私たちが自由自在に使える最強のツールなのだ。本書では、先見性がどういうもので、それがどう進化してきたか、そして人類の歴史にどのような役割を果たしてきたかを述べていこう。
もちろん、未来を想像できるからといって、未来に起こることを正確に把握できるわけではない。エッツィも、飛んできた矢が自分の背中に刺さって5000年も氷河に閉じこめられるとは思いもしなかったはずだ。未来に起こることの大半は予測していなかったことだし、これから起こると予測していることの大半は、実際には起こらない。株式仲買人や気象学者など、未来の予測に長けていそうな専門家も、次の四半期の金相場や次の火曜日の天気の予測に四苦八苦している。それに、先見性がまるでうまく働かないこともある。椅子にヘリウム入り風船の「ロケット」をくくりつけて空高く飛ぼうとした素人エンジニアが、急に墜落する時のことは深く考えなかった話を耳にしたことはないだろうか【2】。
心のタイムマシンの操縦の仕方に不満が出るのは、それなりの理由がある。私たちは長い目で物事を考えるのが大の苦手で、目先の利益に目がくらんだり、日々のニュースやソーシャルメディアの「いいね!」数に振り回されたりする。楽観的な見通しが外れた経験が何度もあるのに、今度の計画は予算内で収まるし、スケジュール通りに進むはずだと性懲りもなく考える。あるいは梯子から落ちるといった不幸な出来事が自分の身に起こる確率を、実際より低く見積もる。人類史には、不十分な計画が悲劇を招いたエピソードが溢れている。たとえばオーストラリアのクイーンズランド州政府は、サトウキビを食い荒らすカブトムシを駆除するためにオオヒキガエルを国内に持ちこんだが、それが爆発的に増えて既存の生態系を破壊してしまった。本書では、人間の先見性には多くの限界があり、それに対して人々がどう対処しているかについても述べていこう。
有史以来、人類は未来を垣間見る手段として斬新な占いを考案してきた。その種類たるや、土や砂、煙、灰が描く模様から未来を読みとるアバコマンシー(Abacomancy)から、鳥やアリ、ヤギ、ロバの行動から未来を読みとるズーマンシー(Zoomancy)まで、占い名の頭文字を並べるとアルファベットのAからZを網羅するほどだ。もちろん「~占い」と呼ばれるものは、触れ込みほどには当たらない。とはいえ、不確かな未来に立ち向かい、最善の道を模索しようとする人間の生来の探究心の産物でもあるのだ。
動物の腸や茶葉で未来は読めないが、自然界には、未来を予測して備える上で有用な法則が存在する。古代ギリシア人は、何か大きなことを始める前には神託所に詣でるのが習わしだったが、きわめて革新的で有効な未来予測ツールも編み出していた。アテネ国立考古学博物館は、その摩訶不思議な遺物だけに展示室をまるまる一つ割いているほどだ。1901年、エーゲ海に浮かぶアンティキティラ島沖で海綿を採っていた潜水夫が引き上げた、木片と腐食した金属からなる謎の物体は、数十年後に世界最古のアナログコンピューターであることがわかった。その「アンティキティラ島の機械」は2000年以上前に作られたものである。
判読が困難な消えかけの文字が刻まれたこの機械は、数十の青銅の歯車が連動し、驚くほど複雑な構造をしている。手動の取っ手を回して一番上の目盛り盤で日付を選ぶと、惑星の動きや月の満ち欠け、日食の様子など、その日の天体の動きが予測できる仕組みだ。古代ローマの政治家キケロは、天体の動きを予測し、その規則性について深く考えることで「人間の知性は神々の知恵を入手する」と熱く語っていた。
現代人は、自然界とその動きを予測する方法について、さらに多くの知識を入手している。独力では無理でも、ポケットサイズの検索装置で調べれば、満潮時間も天体ショーの移り変わりも正確に予測できる。「ウィキペディア」をざっと見れば、西暦22万4508年の3月27日に金星が太陽面を通過したあと、同日中に火星も通過するとわかる。もっと身近な例を挙げれば、今の私たちの日常生活は、お互いに協力できるように、それぞれのスケジュールと未来図を共有することで成り立っている。9時から5時まで働き、週1回読書会に参加し、大事な締め切りに間に合うようにしゃかりきになって働いている。
にもかかわらず、何が起こるかわかっていても適切に行動できない時があるのは、まぎれもない事実だ。2019年のクリスマスイブに、ニューヨーク州議会議員のブライアン・コルブは新聞のコラムで飲酒運転の危険性を訴え、「あらかじめ対策しておけば後悔するはめにはならない」と言い切った。だが、当の本人がその一週間後、道路の側溝に脱輪した車の運転席で泥酔状態でいるところを発見された。
こうした偽善的な態度を笑うのは簡単だ。しかし、あなたも我が身を振り返ってみれば、結果は見えていて悪気もなかったのに、軽率なことをしでかした経験が、すぐに思い当たるのではないだろうか。ひどい二日酔いで目を覚まして、もう二度と酒なんか飲まないと誓ったのに、その直後にビールを飲んだりしなかっただろうか? あとで後悔するとわかっているのに、こってりしたハンバーガーと特大サイズのアイスクリームサンデーを頼んだことはないだろうか? そしてやっぱり後悔しなかっただろうか? あるいは、新年の目標を立てたのに数週間後には諦めて、また来年がんばればいいやと思ったことはないだろうか? このように、人間の行動が計画通りで首尾一貫していて合理的な判断に基づいているとは、口が裂けても言えないだろう。
本書では、アフリカの熱帯にいたごく平凡な霊長類の一つにすぎなかった私たちの祖先が、先見性のおかげで地球の運命を握る生物へと大きく変貌していった経緯を述べていこう。とはいえ、先見性の素晴らしさを手放しで讃えているわけでも、私たちの先見性のなさをひたすら嘆いているわけでもない。
人間には「心の目」を使って時代を広く行き来できる素晴らしい能力があるが、その源泉となっているのは、ごく些細なことだ。私たちは未来を正しく知ることはできないことも、未来のためによりよいことができることも知っている。矛盾するようだが、先見性が持つ力の大部分は、私たちがその限界をはっきり認識していることに由来しているのだ。
◆書籍概要
著:トーマス・スーデンドルフ、ジョナサン・レッドショウ、アダム・ブリー
訳:波多野理彩子
出版社:早川書房
発売日:2024年8月5日
本体価格:2600円(税抜)