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三秋縋、最新作『君の話』「02 蛍の光」公開


02 蛍の光

 もし僕のようなからっぽの人間に友達ができるとしたら、それはやはり僕と同じようにからっぽの人間なのだろうな、と少年時代の僕は漠然と想像していた。友達も恋人もいなくて、優れた資質も誇れる経歴もなくて、心温まる思い出なんて一つも持っていない、そんな絵に描いたような「持たざる者」と出会ったとき、僕に初めて友達と呼べるような相手ができるのではないかと。
 江森(えもり)さんは僕にとって最初の友人(そして今のところ最後の友人)だったが、僕の想定していた空虚さとは無縁の「持てる者」だった。友達は大勢いたし、恋人は取っ替え引っ替えだったし、三ヶ国語を自由に操れたし、僕と知りあった時点で超大手企業への就職が決まっていた。要するに、僕とは正反対の人間だった。
 江森さんと親しくなったのは十九の夏だった。当時、僕たちは同じ大学に在籍していて、同じアパートに住んでいた。僕が二〇一で彼が二〇三と二つ隣の部屋だったので、彼が女の子を連れ込むところを頻繁に目にしたものだ。相手は毎月のように変わり、しかも揃いも揃って桁外れの美人だった。キャンパスでもたびたび彼の姿を見かけたが、いつもたくさんの友人に囲まれて幸せそうに笑っていた。大学で何かしらのイベントがあると、大抵その中心に彼がいた。彼がステージに姿を現すだけでそこら中から黄色い歓声が上がった。
 なるほど、そういう人生もあるのか、と僕は感心しきりだった。それは僕の想像がまったく及ばない世界だった。
 人から好かれるのが当たり前というのは、一体どんな気分なのだろうな。
 そんな江森さんがどうして僕のような日陰者と親しくする気になったのか、今もってわからない。あるいはそれは異文化交流みたいなものだったのかもしれない。彼もまた僕の中に自分の想像の及ばない世界を見出して、それを一種の社会勉強として間近で観察しようと目論んでいたのかもしれない。
 もしくは、絶対に秘密の洩れない話し相手として重宝されていたという可能性もある。多くの人が彼に好意を持っていたが、それだけに、彼を目の敵にしている人間だって少なからずいた。そういう人々の耳に届いたらまずい秘密を打ち明ける相手として、僕は最適だったのかもしれない。
 とにかく僕たちは友達になった。それがすべてだ。江森さんからのアプローチの結果だった。彼は自分が拒絶されるなんて万に一つもあり得ないという態度で僕に接してきて、そういう態度を取られると、僕も自分が彼を拒絶するのは正しくないことだという風にしか考えられなくなった。そうか、愛されて育った人間はこうしてさらに愛されるようになっていくのだな、と思った。
 他人と共有できる話題を僕はまるで持ちあわせていなかったから、二人でいるときは彼が一方的に喋るのが常だった。僕はその話にただなんとなく耳を傾け、ときおり気まぐれに見当違いなコメントを返した。そのうち僕の中身のなさに失望して勝手に離れていくだろうと思ったが、結局その関係は彼が大学を卒業して遠くにいった今でも続いている。

 半年ぶりの再会だった。江森さんは電話をかけて予定を聞くなどという悠長なことはせず、いきなり僕の部屋を訪ねてきた。ドアを開けて応じると、彼は「よう」と持っていた袋を掲げて見せた。袋には缶ビールの六缶パックが二つ入っていた。何もかもがあの頃のままだった。その一瞬で半年分のブランクが埋まった。
 僕はつまみになりそうなものを適当に選ぶと、部屋着のままサンダルをつっかけて外に出た。江森さんは無言で肯いて歩き出し、僕はそれについていった。
 言われなくてもわかっている。行き先は近所の児童公園だ。
 寂れた公園だった。背の高い雑草が生い茂っていて、遠目にはただの空き地にしか見えない。遊具はどれも赤錆塗れで、触れるだけでよくわからない病気に罹ってしまいそうだ。そんな子供の夢の終わりみたいな場所で酒を飲むのが僕たちの流儀だった。
 月の綺麗な夜だった。木立に囲まれた狭い園内はブランコの前にポールライトが一つあるきりで、そのライトも電球が切れてしまっていたが、月明かりのおかげでなんとか遊具の形が判別できた。
 草むらを掻き分けて中に入っていく。示しあわせたように、江森さんはパンダに、僕はコアラに腰かけた。隅にあるベンチは雑草に埋もれて使いものにならなかったので、僕たちはスプリング遊具を椅子代わりにしていた。ひどく不安定で座り心地も悪いけれど、地面に直接座るよりはましだ。
 缶ビールのプルトップを開けると、僕たちは乾杯もせずそれを飲み始めた。買ってから大分時間が経っていたのか、ビールは既に温くなっていた。それでも野外で飲むビールは美味かった。
 僕たちが公園で酒を飲むようになったのにはちょっとした事情がある。僕が入学する前の年に、大学で急性アルコール中毒による死者が出た。その死者が未成年だったために、近隣の店では年齢確認をやたら厳しく行うようになった。だから江森さんが酒を買い、僕がつまみを用意し、公園で二人で飲むというスタイルが定着したのだ。
 同じアパートに住んでいるのだしどちらかの部屋で飲んでもよかったのだけれど、「酒は家から離れれば離れるほどおいしくなる」というのが江森さんの持論だった。そういうわけで、歩いて行ける距離で人目を気にせず酒を飲める場所として僕たちが探し当てたのが、この児童公園だったのだ。
「どうだ。最近、何か面白いことあったか?」江森さんが大して期待もしていない様子で訊いた。
「いいえ。相変わらず独居老人みたいな生活を送ってますよ」と僕は答えた。「江森さんはどうです? 何か面白いことはありましたか?」
 彼は夜空を仰ぎ、四十秒ばかり考え込んだ。
「知人が詐欺に遭った」
「詐欺?」
 彼は肯いた。「いわゆるデート商法ってやつだな。恋愛感情を利用して、絵画を売りつけたり、マンションを買わせたり。詐欺の手口としてはありふれていて面白くもなんともないんだが、その騙された知人の証言がちょっと面白くてな」
 被害者は岡野(おかの)という男性で、詐欺師は池田(いけだ)と名乗る女性だったらしい。
 話はこうだ。ある日、岡野のもとにSNSを通じてメッセージが届いた。送信者は池田という女性で、メッセージの内容は「自分はあなたの小学時代のクラスメイトなのだが、覚えているだろうか」というものだった。
 彼は記憶を遡ったが、池田という名前の女の子には心当たりがない。悪徳商法の類(たぐい)かもしれないと思って無視を決め込むと、一日置いてまたメッセージが届いた。いきなり妙なメッセージを送ってしまって申し訳ない、最近ずっと一人きりだったせいで少しおかしくなっていた、同じ町に昔の知りあいが住んでいると知って嬉しくなりついあんなことをしてしまった、返信は不要。
 それを読んだ岡野は急に不安になってきた。ひょっとしたら自分が忘れてしまっているだけで、池田という女の子は本当に知りあいだったのではないか。メッセージを無視することで、自分は彼女を傷つけてしまったのではないか。孤独に耐えかねて藁にもすがる思いで連絡を取ってきた彼女を、より深い暗闇に突き落としてしまったのではないか。
 悩みに悩んだ挙げ句、彼は池田と名乗る女にメッセージを返した。そこから二人の関係が始まった。池田はとても感じのよい女の子で、岡野はあっという間に恋に落ちた。
 二ヶ月後、彼はまんまと高価な絵画を売りつけられ、翌日池田と名乗る女の子は彼の前から姿を眩ませた。
「念のために言っておくと、その岡野っていう男は、決して頭は悪くないんだ」と江森さんは補足した。「かなりいい大学を出てるし、本もたくさん読む。頭の回転は速い方で、人一倍用心深い。なのに、そんな古くさい手口に騙された。なぜだと思う?」
「人がよすぎたから、でしょうか」
 江森さんは頭を振った。
「寂しかったからさ」
 なるほど、と僕は少し考えてから相槌を打った。
 彼は続けた。「興味深いのは、池田がSNSアカウントを削除して消えたあとも、岡野が彼女を小学時代のクラスメイトだと頑なに信じ込んでいたことだ。あいつの頭の中には、確かに記憶があった。少女時代の池田と同じ教室で過ごした過去をありありと思い出すことができた。実際にはそんなクラスメイトは存在していなかったにもかかわらず」
「それは……知らないうちに義憶を植えつけられたということですか?」
「いや。それじゃあコストが高すぎて、詐欺として割に合わない」
「なら、どうして?」
「自分自身で無意識のうちに記憶を書き換えたんだろうな」と江森さんはおかしそうに言った。「記憶なんて、気分次第で簡単にねじ曲がっちまうんだよ。ナノロボットの力なんて借りなくても、人は日常的に自分の記憶を改竄してる。天谷(あまがい)は〈フェルスエーカーズ事件〉って知ってるか?」
 聞き覚えのない言葉だった。
「簡単に言えば、犯罪の証言がいかに当てにならないかって話の典型例だ。『あなたはこんな被害に遭ったんじゃないか』と何度も言われるうちに、本当にそんな被害に遭った気がしてくる。岡野も、池田って女に『あなたは私の同級生だった』って何度も言われるうちに、そう信じ込んじまったんだろう。『彼女の言うことが本当であってほしい』っていう願望が、記憶の変性を後押ししたんじゃないか。卒業アルバムを見るだけで池田なんてクラスメイトがいなかったことは確認できたはずなのに、岡野はそれをしなかった。要するにやつは、騙されたくて騙されたのさ」
 江森さんはポケットから煙草を引っ張り出して火をつけ、おいしそうに吸った。出会った当初から変わらない銘柄で、その甘ったるい香りで僕は今さらのように再会を実感した。
「最近、この手の古典的な詐欺が流行してるそうだ。なんでも孤独な若者が狙われやすいらしい。天谷もそのうち標的にされるかもな」
「僕は大丈夫だと思いますよ」
「なぜそう言える?」
「子供の頃、僕には友達なんて一人もいませんでした。いい思い出なんて一つもありません。だから、昔の同級生から連絡があったとしても期待のしようがない」
 すると江森さんはゆっくりと首を振った。
「違うんだよ、天谷。やつらは思い出につけ込むんじゃない。思い出のなさにつけ込むんだ」

 結局、公園に持ってきた分だけでは飲み足りず、そのあと僕たちは駅前まで行って居酒屋に入った。そこで取るに足らないことを語りあい、九時前に別れた。
 商店街を一人歩いていると、また例の発作が始まった。
 今回のトリガーは、営業時間の終了を知らせる『蛍の光』だった。

「遅かったね」
 部活を終えて教室に戻ると、灯花はむすっとした顔でそう言った。
「ミーティングが長引いたんだ」と僕は弁解した。「今年の三年、すごく気合いが入ってるみたいでさ」
「ふうん」
「先に帰っててもよかったのに」
 彼女は不服そうにじっと僕を見つめた。
「違うよ千尋くん。こういうときは、『待たせてごめん』って言うの」
「……待たせてごめん。それと、待っていてくれてありがとう」
「よろしい」灯花は微笑み、鞄を手に取った。「じゃ、帰ろっか」
 教室に残っているのは僕たちが最後だった。窓の施錠を確認し、照明を消して廊下に出る。運動部の連中が使った制汗スプレーのつんとした匂いが鼻につく。灯花が口元を押さえ、小さく咳をする。喉が弱い彼女は、煙草の副流煙やエアコンの冷気みたいなちょっとした刺激でも咳が出るらしい。
 玄関で靴を履き替えながら、灯花は下校時間を知らせる『蛍の光』の旋律に合わせて自作の歌詞を口ずさんでいた。

 ほたるのひかり
 やみよにきえて
 はかなきわたしの
 こいごころよ

 もの悲しい歌詞だった。
「そういえば、『蛍の光』のちゃんとした歌詞って聞いたことないな」
「私も。『ほたるのひかり』ってとこまでしか知らない」
「だからって、勝手に失恋の歌にするのはどうかと思うけど」
「でも、千尋くんもこの歌詞で覚えちゃったでしょう?」
「うん。今から本来の歌詞を覚えても、いざ曲が流れると、灯花のつくった歌詞を先に思い出すと思う」
「そして同時に、私の顔も思い浮かべるんじゃないかな」
「そうだろうね」
 きっと今日のことも思い出すのだろう、と僕は秘かに思う。心温まる思い出として。
「私ね、こういうのって、一種の呪いだと思うの」
「……どういう意味?」
「川端康成はこう書いています。『別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます』」
 灯花は人差し指を立てて得意気に言った。
「千尋くんはこれから一生、『蛍の光』を聞くたびに、私のつくった歌詞と、私のことを思い出すんだよ」
「確かに呪いだ」僕は笑う。
「まあ、私は千尋くんと別れないけど」彼女も笑う。

 短く首を振り、僕は回想を打ち切った。
 ここ数日で、夏凪灯花のことを思い出す頻度が激増した。
 原因はわかりきっている。神社での一件のせいだ。
 あれは一体なんだったのだろう?
 浴衣も、髪飾りも、髪型も、背格好も、顔の造作も、全部同じだった。
 唯一異なるのは、年の頃だった。義憶の夏凪灯花は十五歳までの姿しか設定されていないが、あの日すれ違った彼女はそれよりもいくらか大人びて見えた。
 まるで、義憶の中の幼馴染が僕と足並みを揃えて育ち、目の前に現れたかのようだった。
 考える。大前提として、義憶の登場人物のモデルに実在人物を用いるのは禁じられている。現実と義憶の混同によるトラブルを防ぐためだ。だから、あの日僕が見たのは夏凪灯花のモデルとなった人物だったという仮説は真っ先に棄却される。彼女が夏凪灯花本人であるなどという戯言(ざれ ごと)は検討にも値しない。
 他人の空似で片づけることも、決して不可能ではないだろう。あの日は県の内外から大勢の人が祭りを観にきていた。その中に、夏凪灯花にそっくりな女の子が偶然混じっていたという可能性はゼロではない。浴衣や髪飾りだって、考えてみればありふれたデザインだ。
 しかし、それでは彼女の反応をどう説明するのか。僕と目が合ったとき、彼女は僕と同じかそれ以上に動揺していた。こんなことがあるはずがない、きっと何かの間違いだ、という顔をしていた。そして人波を掻き分けて僕のもとへ向かおうとしていた。あれも人違いで片づけるのか? 僕はたまたま彼女とよく似た人間を知っていて、彼女もたまたま僕とよく似た人間を知っていた。そこまで都合のよい偶然が生じうるものなのだろうか?
 もっと簡単な説明がある。あの日すれ違ったのは、アルコールと孤独と祭りの熱気が生みだした夏の幻だった、というものだ。自分の正気を疑わなければならないという一点を除けば、この仮説は完璧だ。
 いや、そもそも深く考える必要はないのかもしれない。人違いにせよ幻覚にせよ、結局のところ僕が取るべき対応は一つしかない。
 義憶を消してしまうことだ。
 そうすれば、もう二度と人違いをしたり幻覚を見たりすることはなくなる。
 折に触れて、ありもしない記憶を想起して心を惑わされることもなくなる。
 部屋に着いた。チェストの奥にしまった二つの〈レーテ〉の一方を取り出す。少年時代の記憶を消す方ではなく、夏凪灯花に関する記憶を消す方だ。グラスに水を注ぎ、〈レーテ〉とともに座卓の上に並べる。
 準備は整った。あとは分包紙を破り、中身を水に溶いて飲むだけだ。
 手を伸ばす。
 指先が震える。
 別に痛みを伴うわけではない。強烈な苦みがあるわけでもない。意識を失うわけでもない。何を恐れる必要がある? 誤って書き込まれた記憶が消えて元通りになるだけだ。〈レーテ〉の安全性は保証されている。
 第一、仮に何かあったところで、お前には失って困る記憶なんてないじゃないか。
 分包紙を手に取る。
 脇の下を冷たい汗が流れる。
 生理的な恐怖を理性的に乗り越えようとするのが間違いなのかもしれない。考え方を変えよう。ほんの十秒間、頭をからっぽにするだけでいい。そのあいだにすべて終わる。自分を百パーセント納得させる必要はない。何も考えず無責任に飛んで、後始末は未来のお前に任せればいい。からっぽになること。それはお前の得意分野じゃないか。
 しかし、頭を空にしようとすればするほど、かえってその隙間に思考が流れ込んでくる。レンズについた指紋を拭き取ろうとして余計に汚してしまうみたいに、どんどん事態は悪化していく。
 長い自問自答が続いた。
 ふと、僕は思った。場所が悪い。
 この部屋には、あの日僕が感じた生々しい恐怖がまだ色濃く残っている。畳、壁紙、天井、布団、カーテン、至るところに僕の恐れがべったりと染みついてしまっている。古い建物にこびりついた煙草の脂のように。
 何を行うにも相応しい場所があるのだ。〈レーテ〉を飲むにも相応しい舞台を用意する必要がある。どこがそれに最適だろう?
 答えはすぐに出た。

 翌日、アルバイトが終わると、僕はアパートとは反対方向のバスに乗った。ポケットには〈夏凪灯花〉の記憶を消去するための〈レーテ〉が入っていた。いささか冷房の効きすぎた車内で、僕はそれを取り出して意味もなく色んな角度から眺めた。
 ほどなくバスが目的地に到着し、僕は〈レーテ〉をポケットに戻してバスを降りた。停留所の目と鼻の先に、例の神社があった。
 鳥居を潜り、境内に足を踏み入れる。夏祭りの夜とは打って変わって、人一人見当たらなかった。曇り空を夕闇と取り違えたひぐらしの鳴き声が辺り一帯に響いていた。
 自販機でミネラルウォーターを買い、石段に腰を下ろした。ポケットの上から〈レーテ〉の感触を確かめた後、まず気分を落ち着けようと思い煙草に火をつけた。
 吸い終えた煙草を靴底で踏み消したそのとき、遠くから救急車のサイレンが聞こえた。まずいと思ったときには、もう手遅れだった。サイレンの音をトリガーに、僕は思い出の渦に飲み込まれた。

 パジャマ姿の灯花を見るのは久しぶりだった。昔は日常的に互いの家に寝泊まりしていたので彼女の寝巻き姿も寝癖のついた髪も飽きるほど目にしていたのだが、十一歳を過ぎた辺りからどちらからともなく過干渉を控えるようになり、ぽつぽつと互いに関する知識に穴が開き始めていた。
 一年ぶりに見る彼女のパジャマ姿は、ひどく脆弱に見えた。生地の薄い白無地のパジャマだからというのもあるけれど、襟元から覗く鎖骨や半袖から伸びる細い腕はちょっとでも粗雑に扱ったら簡単に折れてしまいそうだった。
 僕は自分の手足に目をやり、その差異をしみじみと再確認した。少し前まで同じくらいの身長だったのに、いつの間にか僕の方が彼女より十センチ以上高くなっていた。おかげで近頃は、手を繋いだり寄りかかられたりするたびに嫌でも体格差を意識してしまう。自分たちの肉体がどうしようもなく別々の方向に向かい始めたことを、彼女の細い脚や華奢な背中を通じて、僕は強く実感していた。
 そしてその実感は、僕を少なからず居心地の悪い気持ちにさせた。たとえ中身は変わらなくても、容れ物のかたちが変わってしまえば、それが意味するところも変わってしまう。以前と同じやりとりを交わしているだけなのに、何かが過剰に感じられたり、何かが過少に感じられたりする。だからといってその感覚に合わせてふるまいを変えると、それはそれで別種の気まずさを覚えるのだった。
 その日の灯花のパジャマ姿も、僕をなんとなく落ち着かなくさせた。見舞いのために病室を訪れてからしばらくのあいだ、僕は彼女とうまく目を合わせることができなかった。緊張が解けるまで、病室の内装や見舞いの品に興味を示すふりをして彼女から視線を逃がしていた。
 もっともそこには取り立ててめずらしいものは見当たらなかった。平凡な病室だ。白い壁紙、色褪せたカーテン、薄緑色のリノリウムの床、簡素なベッド。四人部屋だが、灯花以外の入院患者はいない。入口から見て右奥の、一番日当りのいいベッドが彼女にあてがわれていた。
「先生はね、気圧の変化のせいじゃないかって」
 彼女は空模様を確かめるように窓の外を眺めやった。
「ほら、台風が近づいてたでしょう? それで気圧が急激に低下したから、発作が起きちゃったみたい」
 僕は昨日の出来事を回想する。
 灯花が倒れているのを発見したのは午後四時過ぎだった。いつもなら彼女が宿題を持って部屋に上がり込んでくる頃合いなのに、その日はいつまで経っても姿を見せなかった。嫌な予感がして向こうの部屋を訪ねてみたら、床に蹲って動けなくなっている彼女がいた。チアノーゼの症状が出ており、一目で喘息の発作だとわかった。近くには吸入器が転がっていたが、見たところ薬はほとんど効果を示していない。これまで耳にしたことのないような激しい喘鳴を聞いて、僕は即座にリビングに行って救急車を呼んだ。
 呼吸不全寸前の大発作だったらしい。
「息、もう苦しくないの?」と僕は尋ねた。
「うん、もう大丈夫。ひょっとしたらまた発作が起きるかもしれないから入院して様子を見てるだけで、別に具合が悪いわけじゃないの」
 快活そうにふるまっていたけれど、その声はか細く、弱々しかった。本当に、もう喋っても平気なのだろうか。僕の前だからと無理をしているのではないか。でもそれを尋ねてみたところで、彼女はより巧みな演技を自身に要求するだけだろう。
 せめて彼女が声を張らなくても済むように、僕は椅子をできるだけベッドに近づけ、僕自身も小声で喋るように心がけた。
「本当に、今回ばかりは死ぬんじゃないかと思ったよ」
「私も死ぬかと思った」灯花は他人事のように笑った。「でもね、あのとき千尋くんの判断が遅れてたら、もっとひどいことになってたみたい。先生が褒めてたよ。迷わず救急車を呼んだのは英断だったって」
「灯花の発作には慣れてるからね」と僕はぶっきらぼうに言った。
「助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
 短い沈黙が生じた。
 僕は思い切って尋ねてみた。
「……それ、治らないの?」
 彼女は唇を結んで首を傾げた。
「わかんない。成長の過程で治る人が多いらしいけど、大人になっても治らない人もいるみたい」
「そっか」
「それにしても」彼女はわざとらしく話題を切り替えた。「千尋くん、よく笛声喘鳴とか陥没呼吸とか知ってたね。お医者さんみたい」
「たまたま本で読んだんだ」
「私のために調べてくれてたんでしょう?」
 彼女は僕を下から覗き込むように首を傾げた。
 長い髪が、その動きに合わせて揺れた。
「うん。目の前で死なれると困るから」
「あはは。それもそうだね」
 彼女は困り顔で笑った。
 今の言い方はちょっと冷たかったかな、と内心後悔した。
「それにしても、千尋くんに抱っこされるなんて、ずいぶん久しぶりだったなあ」からかい気味に灯花は言った。「ひょいって軽々と持ち上げるから、びっくりしたよ」
「ほかに運び方を思いつかなかったんだよ」
「いいよ、別に。毎回ああしてもらえるなら、発作も悪くないかもなあ」
 いたずらっぽくそう言った灯花を、僕は軽く小突いた。灯花は「いたい」と大袈裟に頭を抱えた。
「あんなのは二度とごめんだよ。心配で心配で、こっちまで息が止まるかと思った」
 奇妙な間があった。灯花は虚を衝かれた様子で口をぽかんと開けて僕を見つめていた。その表情は、しかし少しずつ、こそばゆそうな笑顔へと変わっていった。
「ごめんごめん。言い直します」と彼女は訂正した。「発作はいやです。私はただ千尋くんと触れあえて嬉しかっただけです」
「じゃあ、早くよくなりなよ」
「うん」彼女は素直に肯いた。「心配かけてごめんね」
「いいよ、別に」と僕は素っ気なく返した。今になって自分の発言が恥ずかしくなってきて、顔が熱くなるのがわかった。

 首筋の冷たい感触で我に返った。指先で触れると、かすかに濡れていた。それとほぼ同時に、石段に点々と黒い染みができていることに気づく。境内を強い風が吹き抜けた。
 雨が降り始めていた。
 救われた気分だった。この風雨の中で〈レーテ〉を使用するわけにはいかない。
 このまま何もせず帰宅する口実ができた。
 僕は膝に手をついて立ち上がり、石段を下りた。安堵感で足取りが軽かった。
 ひとまずアパートに戻ろう。あとのことは、それから考えればいい。
 今日は記憶を消すのに良い日ではなかったのだ。
 バスを待っているあいだにも雨脚は強まっていった。僕は停留所近くの店の軒先で雨を凌ぎ、五分後にやってきたバスに乗り込んだ。窓を閉め切った車内はクーラーの吐き出す黴臭い空気が充満し、乗客の傘から滴り落ちた雨水で床のあちこちが濡れていた。
 後方右側の座席に着き、僕はほっと一息ついた。それから何気なく反対車線の停留所に目をやった。今日もどこかで祭りがあるようだ。浴衣を着た女の子が、憂鬱そうに雨雲を見上げていた。この雨はいつまで続くのだろう、おろしたての浴衣なのに、まったくついていない、祭りが中止にならないといいんだけど、なんて考えているのかもしれない。
 バスが出発する。
 やっちまったな、と誰かが言う。
 お前は今とんでもないものを見逃したんだぞ。
 僕は湿気で曇った窓ガラスを手で拭いて、もう一度浴衣の女の子の姿を確認する。
 肩甲骨まで伸びたまっすぐな黒髪。
 花火柄の入った紺色の浴衣。
 人目を惹く白い肌。
 紅菊の髪飾り。
 指が、無意識に降車ボタンを押していた。
 次の停留所までの五分が、永遠のように感じられた。
 バスを降りると、僕は一つ前の停留所まで全速力で走った。次から次へと湧いてくる疑問を一旦すべて飲み込んで、大降りの雨の中を駆け抜けた。道行く人々が何事かと振り返るが、人目を気にする余裕はない。
 今にも破裂しそうな肺を押さえつけて走りながら、一方で僕は悠長に考える。最後に全力で走ったのはいつのことだっけ? 少なくとも大学に入ってからそういう機会は一度もなかった。おそらく高校の授業が最後だろう。いや、高校で徒競走なんてあっただろうか。球技のときも、長距離走のときも、体力測定のときも、疲れが残らないようほどほどに手を抜いていた。となると、中学校まで遡ることになるだろうか。全力で走った記憶……
 真っ先に浮かぶのは、やはり偽りの記憶だ。中学三年生の体育祭の義憶。

 本番の一週間ほど前から、僕はずっと憂鬱だった。運動が苦手だったわけではない。むしろ中途半端に得意だったことが災いした。何かの間違いで、陸上部のクラスメイトを差し置いて800メートルリレーのアンカーに選ばれてしまったのだ。よりによって中学生活最後の体育祭でこんな大役を務めることになるとは思ってもみなかった。逃げ出してしまいたかったが、多数決の結果に逆らい辞退する勇気はなく、かといって腹を括ることもできず、ぐずぐずしているうちに本番当日になっていた。
 普段は灯花の前で愚痴をこぼさないようにしていたが、その日ばかりはつい弱音を吐いてしまった。登校中の出来事だ。正直にいうと今すぐ家に引き返したい、自分の走り次第でクラスメイトの思い出が台なしになるかもしれないと思うと重圧に押し潰されそうになる。そう打ち明けた。
 すると、灯花はじゃれるように僕に肩をぶつけ、無邪気に言った。
「クラスメイトなんてどうでもいいよ。誰かのために走りたいなら、私一人のために走って」
 重い小児喘息を患っていた彼女は、生まれてこの方一度も全力で走ったことがなかった。体育の授業はいつも見学していたし、遠足やスキー教室といった体力を使う行事もほとんど欠席していた。その年の体育祭も、出席はしていたものの、選手としては登録されていなかった。迷惑をかけるといけないから、と彼女の方から辞退したのだ。
「私一人のために走って」という台詞は、そんな彼女の口から発されると、とても特別な意味を帯びて聞こえた。それでいて、押しつけがましいところはまったくなかった。
 そうだ。そもそも僕は何を恐れていたんだろう? 僕にとって一番重要なのは灯花だ。そしてその灯花は、たとえ僕の走りがどんな結果を導こうと僕に失望することはない。むしろ何がなんでも称えてくれるはずだ。
 肩の荷が下りたようだった。
 その日のリレーで、僕は二人の選手を抜いて一位でゴールした。そしてクラスメイトのもとに戻ろうとしたところで倒れて保健室に運ばれた。ベッドに横たわる僕の隣で、灯花が「かっこよかったよ」と何度も褒めてくれたことを覚えている。でも僕は肉体疲労と極度の緊張からの解放で意識が弛緩し切っていて、そのあとすぐに眠りに落ちてしまった(ひょっとすると、彼女の言う「三回目のキス」というのはこのときに行われたのかもしれない)。
 目を覚ますと、とっくに閉会式は終わっていた。窓の外は薄暗くなっていて、灯花がベッドの脇に立って僕の顔を覗き込んでいた。
「帰ろっか」
 そう言って彼女は微笑んだ。

 意識を現実に引き戻す。
 やれやれ、お前には本当に自分の人生というものがないのだな、と自分自身に呆れ果てる。
 この分だと、死に際の走馬灯まで架空の記憶で済ませてしまいそうだ。
 紺色の浴衣が見えた。同時に、停留所にバスが迫るのも見えた。僕は余力を振り絞って彼女のもとへ急いだ。大学に入ってからは運動なんてほとんどしていなかったし、毎日煙草を一箱吸っていたので、肺も心臓も脚もとっくに限界を迎えていた。酸欠で視界の隅が霞み、喉からは自分の呼吸音とは思えない音がした。
 多分、本来なら間にあわないタイミングだったのだと思う。でも傘も差さずびしょ濡れで走ってくる僕を見かねて、運転手が少しだけ発車を待ってくれたようだった。
 バスに乗り込めたはいいものの、すぐには声をかけられなかった。手すりに掴まり、中腰で息切れが収まるのを待った。髪から滴り落ちる雨水が床を濡らしていく。心臓が工事現場みたいにやかましく鼓動を打っている。全身ずぶ濡れなのに、血液が沸騰したかのように身体が火照っている。脚はがくがくと震えて踏ん張りがきかず、バスが揺れるたびに転びそうになった。
 やっとのことで息を整えると、僕は顔を上げた。
 もちろん彼女はまだそこにいた。
 最後部座席の一つ前に座り、物憂げに窓の外を眺めていた。
 落ち着きかけた心臓が再び取り乱す。
 僕はまっすぐ彼女に近づいていった。
 全力疾走した際に分泌された脳内麻薬の影響か、今なら臆せず彼女に声をかけられそうだった。
 話の内容は決めていなかった。でも、何もかも上手くいくという確信があった。ひとたび声をかければ、そこから自然と言葉が湧き出てくるだろう。
 僕の中にはそれだけの蓄えがある。
 彼女の真横で足を止め、手すりを掴む。
 軽く深呼吸する。
「あの」
 その一言がきっかけだった。
 夏の魔法は、あっけなく解けた。
 窓の外を見ていた女が振り向く。
「……なんですか?」
 怪訝な顔で問う。
 似ても似つかなかった。
 辛うじて似ているのは体型と髪質くらいで、それ以外の要素は何もかもが夏凪灯花とはかけ離れていた。まるで僕の早とちりを知っていた誰かが明確な悪意を持ってそこに罠を仕掛けておいたみたいに。
 見れば見るほど似ていなかった。あの日神社で目撃した女の子が漂わせていた繊細さや優美さといったものは、そこからは微塵も感じられない。
 どうしたら、これを彼女と見間違えるのだろう?
「あの、何か用ですか?」
 偽灯花が警戒心に満ちた瞳で再度問う。僕は自分が長いあいだ彼女の顔を無遠慮に眺めていたことに気づく。
 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。この女は何も悪くない。たまたま僕の義憶に登場する幼馴染と似た格好をしていただけで、彼女にはなんの落ち度もない。僕が勝手に人違いをしただけだ。
 そう、悪いのは僕だ。それはわかっている。にもかかわらず、僕は激しい怒りの発作に襲われていた。自分でも信じられないくらい強烈な怒りだった。真っ黒な粘液が胸の中に広がる感覚があった。こんなに誰かに対して腹を立てるのは生まれて初めてかもしれない。
 手すりを掴む指に力がこもる。彼女を罵倒する文句が次々と頭に浮かんでくる。妙な期待を持たせやがって、紛らわしい格好をするな、それはお前みたいな女がしていい格好じゃない、お前なんて夏凪灯花の足下にも及ばない、等々。
 もちろん実際に口には出さなかった。僕は人違いを丁重に謝罪し、次の停留所で逃げるようにバスを降りた。そして雨の中を無心で歩いた。
 雨宿りのために入った居酒屋で安酒を流し込みながら、僕は思った。
 認めよう。
 僕は夏凪灯花に恋をしている。
 似たような格好をしていただけの赤の他人にその面影を見出してしまうくらいに、彼女との出会いを切望している。
 でも、だからなんだというのだろう? 義憶技工士は僕の好みに合わせ、僕が恋をせざるを得ないような人物として夏凪灯花という人物を設計した。それだけの話だ。義憶が正常に機能しているというだけの話。オーダーメイドのスーツが体にフィットするのとなんら変わりない。むしろ恋をしない方がおかしいのだ。
 認めたら、少しだけ楽になった。
 楽になったので、気持ちよく酒が飲めた。
 そして案の定飲み過ぎた。
 食べたものを一通り便器に吐き出して、それでも足りずに胃液を吐き続け、席に戻って水を飲んでテーブルに突っ伏し、またトイレに行って吐くということを繰り返しているうちに閉店時間がきて、僕は店から放り出された。しばらく店の前で蹲っていたが、このまま待っていてもどうせ吐き気も頭痛も治まらないだろうと思い、頭をからっぽにして歩き始めた。終電時刻は少し前に過ぎていたし、タクシーに乗る金もなかった。長い夜になりそうだ。
 どこかの店から『蛍の光』が聞こえてきて、僕は無意識のうちに灯花のつくった歌詞を口ずさんでいた。

 ほたるのひかり
 やみよにきえて
 はかなきわたしの
 こいごころよ

 明日こそ、〈レーテ〉を飲もうと思った。
 実在しない女の子に恋をしたって、虚しいだけだから。

 もっとも、実在する女の子に恋をするのも、それはそれで虚しい。
 ある意味では、僕も実在しない人間の一人だ。これまで出会った女の子たちのほとんどは、僕のことを恋愛対象として意識していなかっただろう。いや、ひょっとしたら名前すら覚えていなかったかもしれない。
 好かれるとか嫌われるとか、それ以前の問題だった。僕は彼女たちの宇宙に属していなかった。同じ時間と空間にいながら、決して交わりあうことはない。彼女たちの目に映る僕は通りすぎる影に過ぎず、僕にとっての彼女たちもまた同様だった。
 実在する人間が実在しない人間に恋をするのも虚しいが、実在しない人間が実在する人間に恋をするのも同様に虚しい。実在しない人間が実在しない人間に恋をするとなると、これはもうまったくの虚無だ。
 恋というのは実在する人間同士でするものだ。

 アパートに着く頃には空が白み始めていた。
 二度と酒なんて飲まないぞと誓いつつ、どうせ二日後にはまた懲りずに飲んでいるんだろうな、とも思う。気持ちよく酔っ払っている僕と二日酔いに悩まされている僕は別人であり、一方の学習結果はもう一方に反映されない。一方の僕は酒の楽しさだけを学び、もう一方の僕は酒の苦しさだけを学ぶ。
 早朝の住宅街に、人の気配はない。近所のスナックの裏に住み着いている野良猫が行く手をのんびりと横切る。こちらが弱っていることを知っているのか、いつもは僕を見かけるとすぐに逃げ出す猫は、今日に限ってまるで警戒する気配を見せない。どこかでカラスが一音節だけ鳴き、それに呼応するように別のどこかでキジバトが一小節だけ鳴く。
 這々の体で階段を上がり、ドアまで辿り着いた。ポケットを探り、キーケースを取り出して複数の鍵から部屋の鍵を見分ける。たったそれだけの作業にもかなりの集中力を要する。金庫破りでもしているのかと錯覚するほど苦労して鍵を開けた。
 ドアノブに手をかけたちょうどそのとき、二〇二号室のドアが開いて住人が顔を出した。僕はドアを開けかけたまま、その隣人に目をやった。隣に誰かが住んでいるなんて知らなかったので、一応顔を確認しておこうと思ったのだ。
 女の子だった。年の頃は十七歳から二十歳といったところ。ちょっとそこまでジュースを買いにいくといったような軽装をしている。薄明に照らされた手足は透き通るように白く、長く柔らかな黒髪が廊下を吹き抜ける風にふわりと膨らみ、
 あの日のように、時が止まる。
 僕はドアを開きかけたままの姿勢で、彼女はドアを後ろ手に閉めかけたままの姿勢で、見えない釘で空間に固定される。
 そこには紺色の浴衣も紅菊の髪飾りも見当たらない。
 けれども、僕にはそれがわかった。
 言葉という概念が一時的に失われてしまったみたいに、僕たちは長いあいだ無言で見つめあっていた。
 最初に動きを取り戻したのは、彼女の唇だった。
「……千尋くん?」
 女の子は僕の名前を呼び、
「……灯花?」
 僕は女の子の名前を呼んだ。

 一度も会ったことのなかった幼馴染がいた。僕は彼女の顔を見たことがなかった。声を聞いたことがなかった。体に触れたことがなかった。にもかかわらず、その顔立ちの愛らしさをよく知っていた。その声音の柔らかさをよく知っていた。その手のひらの温かさをよく知っていた。

 夏の魔法は、まだ続いている。


「03 パーシャルリコール」以降の物語は、絶賛発売中の書籍でお楽しみください。


三秋縋関連作品リンク


原作:三秋縋×漫画:loundraw『あおぞらとくもりぞら1』(8/25発売)

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