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陰謀論、宗教、自由とは不幸になる権利、そしておわりに……『ユービック』『あなたの人生の物語』『すばらしい新世界』#闇のSF読書会④

闇の自己啓発会による #闇のSF読書会 。最終回となる第4回は、フィリップ・K・ディック『ユービック』、テッド・チャン『あなたの人生の物語』、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界〔新訳版〕』を取り上げます。そして、闇の自己啓発会が見出した、いまSFを改めて読む意義とは……?

*前回はこちら

■『ユービック』

ニューロ

ディックと陰謀論

木澤 『ユービック』を読んでいていかにもディックらしいなと思ったのは、作中の近未来世界(1992年)ではテレパシー能力がすでに商業化されていて、企業は精神感応者(テレパス)を雇って競争相手の企業秘密を盗聴している。一方で競争相手はテレパスによるスパイ活動から身を守るため、そうしたテレパシー能力を打ち消す不活性者(イナーシャル)の力を借りて対抗しようとする、という世界設定です。

ひで テレパスや不活性者を時間決めで貸し出す企業まで現れている、という話ですね。

木澤 要はテレパシーで思考盗聴をするけしからん奴らがいるから、それに対抗するカウンターエスパーを派遣するビジネスが普通に成り立っているという世界観。不謹慎めいた物言いになりますが、どこか現代における集団ストーカー被害案件などを思わず想起してしまいました。

ひで 本当に思考盗聴はあるのか、実はただダマされているだけじゃないのかという書かれ方になってました。

 集団ストーカー妄想に悩まされている統合失調症の人は、悪徳興信所のカモにされやすいというニュースを見たことがあります。あんまりひどいので、そういう人が利用されないように活動している興信所の人もいるという話を、以前記事で読みました。

ひで “光の側”の人たちもいるんですね。

木澤 最初にこの世界設定に触れたとき、ウォーターゲート事件をどこかで意識したのかなと思ったのですが、ウォーターゲート事件は1972年、『ユービック』の初版は1969年なので小説のほうが早いんですね。ある意味で予言的というか、時代精神とも絶妙にシンクロナイズするような形でこの作品が書かれ受容された、ということが言えるのではないでしょうか。
 もっとも、ディック自身にパラノイア気質みたいなところがあったとも言われていて、たとえばポール・ウィリアムズによるロング・インタビューをまとめた『フィリップ・K・ディックの世界』などを読むと、それがとりわけ感じられます。インタビューのなかで、1971年11月17日に起きた住居侵入窃盗事件についてディックの口から語られているのですが、それによれば、問題の日の夜、カリフォルニア州はサンラフェルにあるディック宅に何者かが侵入しました(ディック本人はそのとき在宅していなかった)。重さ500キロの耐火性ファイル・キャビネットはC4プラスティック爆弾で爆破され、保管されていた業務上の文書類や原稿、それと拳銃、他にもステレオアンプなどの貴重品類が部屋から盗み出されていたといいます。なぜ拳銃を保有していたかというと、ディックは住居に侵入されることを、その事件が起きる前から予感していたというんです。これを果たしてパラノイア的と言って良いのかどうか、しかし実際に事件は起こっていて、しかもその犯人はいまだに捕まっていない。いったい誰が犯人なのか、ディックはあらゆる可能性や説を列挙していきます。ブラックパンサー説、地元警察あるいは麻薬取締官説、麻薬中毒者説、ミリシア(民兵)説、CIAやFBIなどの連邦政府機関説、宗教グループ説、さらに反共極右政治団体ジョン・バーチ協会説から極右過激派組織ミニットマン説、果ては空軍説(!)まで。まるで当時の陰謀論を総覧したカタログのような趣で目眩すら覚えるのですが、この、さながらミステリ小説における多重解決的(!)な状況において、あり得る可能性をすべて列挙した後、ディックは次のように述べます。「もっとも、誰がやったのかはわからない。この事件については、あらゆる推測がどれも等しく成り立つんだ。われわれが検討してきた可能性は、どれも同じようにもっともらしく思えるんだ。」(小川隆訳、137頁)
 この事件が起きたのは1971年で、やはりウォーターゲート事件よりやや以前のことですが、それでもその共時(シンクロニシティ)性についてはディック自身が指摘しています。つまり、自宅侵入事件から二ヶ月も経たないうちにフィールディング襲撃事件(ウォーターゲート事件で摘発された、ホワイトハウスに操られた強奪グループが精神科医フィールディングのオフィスに侵入し、政敵のダニエル・エルスバーグのカルテを複写した事件)が起きていた、というシンクロニシティです。
 以上の話にはさらに後日談があって、インタビュアーはディックの話を聞いた後、侵入事件についてさらに調査するべく、図書館や警察署で当時の新聞や警察の調書に当たるのですが、そこでディックが語っていたこととは食い違う現実が見えてきたりして、文字通りディック作品のような現実崩壊感覚を味わうことになるという。付言しておけば、事件自体がディックによる自作自演という可能性ももちろんあって、事件を調べた警察もその可能性を仄めかしていたといいます。結局なにがリアルでなにが虚構なのか、なにが真実でなにが嘘なのか、どこまでもわからない。要するに、ディック自身がまさしくディック的な世界に生きていたことがわかるという、非常に貴重なインタビューになってるんですね。

江永 人生が物語になっていますね。その事件から3年後の1974年にディックはFBI宛の手紙を書いていたそうで、そこではアメリカSFに東側諸国の魔の手が、みたいな陰謀論が展開されているようで、スタニスワフ・レムが実在の個人ではなくて複数人による集団ではないかと書かれていたりする模様です。レムのほかには、SF批評の書き手であった人々、ピーター・フィッティングやフランツ・ロッテンシュタイナー、ダルコ・スーヴィンそしてフレドリック・ジェイムソンと、様々な(ディック作品を評価してもいたはずの)名前が並んでいます。こんなことってあるんだなと思った。

木澤 まさかそんなところでディックとジェイムソンのつながりが出てくるとは。

江永 ジェイムソンには"陰謀"映画などを論じた著作もありますよね。陰謀やパラノイアは、アメリカ文学・文化の研究だと、けっこう蓄積あるみたいですね(例えばレオ・ベルサーニも「ピンチョン、パラノイア、文学」という論文を1989年に書いていました)。しかし、ただ論じるだけではなく、ジェイムソン自身が"陰謀"話に巻き込まれているのは、なんとも(当人が知っていたのかを私は詳らかにしないのですが)。

木澤 当時のアメリカ自体が、そういうパラノイアックな空気に支配されていたという影響もあるでしょう。ウォーターゲートだけでなく、たとえばMKウルトラ計画に象徴されるように、CIAやFBIが積極的に(対外的にも対内的にも)工作活動を"実際に"行っていたわけですから。

江永 それこそウォーターゲート事件など"陰謀"っぽい話が皆無じゃないから難しい。

ひで 今の中国もそういう流れにありますよね。監視カメラを町中につけ、通信を監視し、お金の流れも全部管理できるようなシステムが作られている。なのに『折りたたみ北京』の短篇集でそんなパラノイアックな物語は収録されていなかったです。表題作では、政府側――もともと第三スぺースにいた人間が今は政府側の役人として働いているんだけども、違法行為を働いた主人公の隠蔽工作に協力してくれるわけです。役人が主人公にニセの身分証バッジをくれる。そんな緩んだ雰囲気ってアリなんだと思って、びっくりしました。

江永 "陰謀"というほどではないですけど、道路に片方だけ靴下が落ちていたり、一人二役で会話している人とすれ違ったり、ちょっとした不穏はそこここに見つかりますよね。

ひで 怖いわ(笑)。

 『折りたたみ北京』では選者がそういうパラノイア的なチョイスをしたくなかったという可能性もありますね。

江永 パラノイア関連の話だと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のアンドロイド、というか『ブレードランナー』のレプリカントみたいな、"人間のようだが人間じゃない"というモチーフって、SFめいたりオカルトめいたりする意匠で色々ありますよね。私は小さい頃に見たディノサウロイドのイラスト(もし恐竜が絶滅しなかったら今日の人間のような生物になっていたのではないかという想像図)の影響もあって、いわゆる爬虫類人とかが気になってしまうことが時々あります(映画『スピーシーズ』に登場するH.R.ギーガーのデザインした宇宙人、映画『アライバル/侵略者』に登場する地球温暖化を加速させる宇宙人などのビジュアルイメージも記憶に残っています)。爬虫類人が世界を支配しているという陰謀説は、いわゆる窮民革命論を唱えていたことで知られる太田竜が後年に紹介してもいます。

木澤 レプティリアン(爬虫類型異星人)陰謀論ですね。プロサッカー選手や緑の党を経て、神秘体験を得たのをきっかけに、英国王室やロスチャイルドを牛耳るレプティリアンが人類を奴隷化しようとしている云々といったことを言い出したデヴィッド・アイクに端を発する陰謀論。

 爬虫類人以外にも、何か任意のものを当てはめられる感じがしますね。

江永 おそらくディックが読み継がれるSFを創り出すときに働かせていたのも、不穏なインタビューなどを創り出してしまうときに働かせていたのも、同じような思考なのではないか。そして、"悪人"より"ひとでなし"という呼称の方がインパクトを感じさせてしまうような言語環境であるとすれば、今日のネット上の悪いミームもまた、そうしたタイプの思考と無縁ではないでしょう。

 『裏世界ピクニック』はネットロア(インターネット上の都市伝説)をめぐる物語ですが、闇の自己啓発はネットの悪いミームを見つけてくる営為なのかもしれない。

江永 悪いミームが何をしていたか、何をなしうるものだったかなどは(同時代の文脈を含めて、また当時の文脈と離れる場合込みで、可能な限りの善用可能性も含めて)考えられるべきだろうと思います。仮に本などでの記録が消えても、人伝てに記憶が残ったりするし、その意味では歴史は削除できないので。

 歴史を削除するという発想の出てくるSFゲームをちょうど最近やっていました。「Summertime」という同人サークルがつくっているサウンドノベルの「CODA」です。最近話題になったノベルゲーム「真昼の暗黒」の作者の作品ですね。近未来ディストピアを舞台に、エリートコースである歴史修正課に配属されたい女と、体制への違和感を感じつつ適当に生きている女、周囲から浮いてて明らかにヤバい女など、いろいろな登場人物がいるんですが、彼女たちが徹底した管理社会で生き抜いたり殺されたりする話です。『1984年』『すばらしい新世界』『ハーモニー』といった作品をリスペクトしているような世界観でとても好みでした。無料でプレイできるのでぜひやってみてほしいです。
 ところで先ほどのレプリカントの話に戻りますが、陰謀論では、レプリカントのほうが人を支配しているんだと言っているんですか。

江永 ある面ではそうです。ただ、どこかにいる真の黒幕に操られている、みたいな発想とか、実は見知っているはずの人が別人ないし別物になっている、みたいな発想とかが、混ざり合っています。『ブレードランナー』のレプリカントみたいな意匠、あるいはロボットやゴーレムみたいなものには、人間が自分たちのつくった人型の何かを制御できなくなる、という支配隷従関係を転倒させる要素も入っていますが、必ずしもそういう陰謀論ばかりではないみたいです。ただ、少なくとも、人間そっくりの何かが人間を支配しているというテーマは、パラノイア的な陰謀論のなかにも見出されると思います。

木澤 ディックの短篇「父さんもどき」(『人間以前』所収)も、父親にそっくりだけど中身は別の「何か」になり変わっている、という話でしたね。個人的にディックで一番ヤバいと思った短篇は、短篇集『人間以前』に収録されている「妖精の王」です。【以下ネタバレあり】これは、ガソリンスタンドで働いている主人公が、ある日小さな妖精の兵士たちの集団に出会って、「あなたが妖精の王になってください」と懇願され、言われるまま妖精の王に就任することからはじまります。主人公がこのことを周りの友人たちに話すと、友人たちは彼の頭がおかしくなったのではないかと心配したりする。さてそんなある日、妖精の兵士たちに、トロールの集団と戦争をするので参加してほしいと言われ、主人公の親友宅の敷地内にあるオークの大木の下で落ち合うことになる。戦争当日の夜、親友宅の農地に無断侵入して大木の下で待っていると、不審に思った親友が家から出てきて主人公を説得しようとしていると、徐々に親友の顔が月光の下でトロールの顔に見えてきて、結局主人公は親友をその場で撲殺してしまうんです。すると妖精の兵士たちが現れ、親友の死体を見て「よくやりました! こいつこそがトロールの首魁です」と言われる。ここから大どんでん返しや人を食ったオチが特に待っているわけでもなく、「おれたちの戦いはこれからだ!」みたいなノリでそのまま終わってしまう。

ひで ファンタジー的には大円満ですけど……。

 男の頭がおかしくなってしまった可能性もありますよね。

木澤 この小説を、いわゆる「信用できない語り手」系列の作品として読むか、すべてが本当に起こった、純粋なファンタジー作品として読むかで解釈が180度変わってくる。しかしディックはそのための手がかりや答えをどこにも提示していない。読者は宙吊りにされたまま話が一方的に閉じてしまう。しかし、このいわば「決定不能性」は、考えてみれば『ユービック』の作品構造にもほとんどそのまま当てはめることができるのではないでしょうか。東浩紀は2002年のディック論「神はどこにいるのか:断章」(『フィリップ・K・ディック・リポート』所収)のなかで、ディック的な悪夢の特徴として、メタレベルの審級の不在を指摘しています。現実か虚構か、オリジナルかコピーか、それらを判断するための指標となる最終審級など存在しない。結果、読者も作中人物も、ディックの描く出口のない悪夢の中を延々と彷徨し続けるしかない……。他にも、たとえばスタニスワフ・レムはディック論「にせ物たちに取り巻かれた幻視者」(『高い城・文学エッセイ (スタニスワフ・レム コレクション)』所収)の中で、ディックの作品世界を「予定不調和の世界」と簡潔に表現してみせています。並立する複数の世界は、文字通り並行世界(パラレルワールド)のようにそれぞれが自律的な存在を主張しているようでもあり、決してひとつに収斂したり調和したりすることはありえない。まさしく、ディックが住居侵入事件に際してインタビュアーに語っていたように、「あらゆる推測がどれも等しく成り立つ」というわけなのです。そう、ある意味でディックにとってはすべてがパラレルワールド(!)なのです。

江永 宙づり感で言うと、『ユービック』で主人公のジョー・チップが映像を見る場面のこのセリフが印象に残っています。「ユービックは、全地球の家庭技術ストアで販売されています。内服しないでください。火に近づけないでください。ラベルに印刷されている使用上の注意をお守りください。さあ、それを探すんだ、ジョー。そこにぼんやり坐ってるんじゃない。外へ出てユービックを一缶買い、夜も昼も自分のまわりにそれをスプレーしたまえ」。商品セールスの紋切型から個人への呼びかけに唐突に切り替わる。このあと、ジョーが、この台詞が録画映像だったのか、録画映像の振りをした中継映像だったのか、などと疑う描写が挟まれていくのですが、こうした、地続きにならないはずのところが地続きになっているかのような感じを与える描写にも、物語と現実の溶けつながりという妖しい魅力の、文体的なあらわれを感じました。
 そういえば、ディック作品で見つかるような、見知った人物が偽物に入れ替わっている、みたいな確信に囚われる事態に関しては、精神医学でカプグラ症候群(カプグラは20世紀フランスの精神科医)と呼ばれている症状が近いとされるようです。

ひで そういった妄想を抱く精神疾患があるんですね。脳の誤動作が原因で疑心暗鬼を抱くようになるのこわいです。

木澤 たとえば映画『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)もまさにそうした想像力に貫かれている作品でしたね。当時は赤狩りもあったし、余計そうした不安なイマジネーションが受容される下地が存在していた。この作品がその後何度もリメイクされた辺りにも、アメリカの特異な(?)精神風土がそこから伺えるような気がします。

江永 そうしたテーマが人類の表現に繰り返し出てくること自体は、人体(例えば脳)の構造や働き方である程度の説明がつきそうな気もします。他方で、ある地域や時代において、然々の人々の表現に、どのような形でそうしたテーマが現れたか、どういうディティールがそうした考えなり思いを託す受け皿になったかは、文化史の話なのだろうなと思います。ちょっと違う話かもしれませんが、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』では、超自然的な観念や種々の儀式に関して、認知科学や進化生物学の知見を踏まえて説明する一方、それはいかにしてあるひとが然々の宗教を信じるのかといった解釈にはつながらないことも論じられていました。

■『あなたの人生の物語』

ニューロ

チャンの宗教性

ひで 表題作がすごくおもしろかったです。ある言語の習得体験によって、いわゆる決定論的な世界の理解の仕方に触れてしまい、今後の自分の人生のイメージが降ってくるという話。そして将来起こる幸福な出来事も、悲しい出来事も、決定論的世界だからそれ以外の選択をすることはできない。幻想小説じゃなくても、ありえないことが起こるような世界を書けるんだなと。しかも書き方が読ませる。映画はどうでしたか。

 映画もよかったです。僕の場合は映画の後に小説を読みましたが、よく映像化されていたのだなと思いました。自分は『あなたの人生の物語』のなかでは短篇「理解」が好きですね。脳を損傷して死にかけた男が新薬を投与されて劇的に回復するんですが、副作用で異常に頭が良くなってしまい、頭が良くなりすぎると国家に利用されてしまうと気づいて逃げ出し、逆に世界を支配してやろうと目論む。同じような被検者は他にもいて、その中に自分と同じくらい知能が高まった人間がもう一人いるんです。やがてその人間との一騎打ちになる。主人公は最終的には敗れてしまうのだけど、同じだけの理解力を持っている人間と戦って、理解しあえずに消えていく。両者が並び立たないその苦しさの描写が好みでした。強い相手と全力で戦えると、勝っても負けても嬉しいじゃないですか。

江永 私は「地獄とは神の不在なり」が印象に残っています。「天使」の「降臨」なるものがリアルに起こって、病が癒えもすれば災害を起こしもする。「降臨」に遭遇してしまった人々の自助団体がある世界。「ニールという男がいかにして神を愛するようになったか」の物語だと語られるけど、「しかし、ともかく、神はニールを地獄へ落とした」という話でもある。ニール以外の人物、ジャニスやイーサンの「信仰」像も異様なことになるけれど、何より「降臨」に伴う爆破事故で亡くなった妻セイラと再会したい(天国であれ地獄であれ)と願うニールの「愛」が、作中で言う「神」に向けられた異様な何かになっていく。

木澤 「地獄とは神の不在なり」については、チャン自身が作品覚書のなかで、「ヨブ記」を徹底させた、みたいなことを書いてましたね。ヨブは神にいじめられ、ひたすら苦難に遭うけど、結局は救済されて、失ったものをすべて返されて終わる。ヨブ記のメッセージが「美徳は必ずしも報われるわけではない」だとしたら、このエンディングは余計ではないか。そのような問題意識がチャンの中にあったようです。

江永 例えばゼラズニイ『光の王』みたいな神話とSFの融合とも違う質感でした。ある種の宗教性みたいなものが、通例の経験的な癒しや救いには収まらないけれど、歴史的な思弁や表象の蓄積ともちょっとずれた、何かグロテスクなものとして描かれている感じがしました(私個人の感覚では)。これがSFに含みこまれているというのが面白い。

ひで 宗教性というと、ねこぢるという漫画家がインド旅行記を書いていました。ヒンドゥー教でいうカースト下位の人が道端でいじめられていて可哀想なのだけど、彼らを仏教徒に改宗させる運動は失敗している。ヒンドゥー教を信じるのであれば、輪廻転生によって未来永劫ずっと同じ下位カーストにいて、来世でも再来世でも虐げられることが運命づけられているという理解になる。それでも彼らはヒンドゥーの神々を信じる熱心な信者であることをやめられない。「ヨブ記」では、物語の最後でヨブは皮膚病を治され、息子も返してもらえる。それに対して、チャンの短篇では地獄に落ちて苦しむのだけど最後まで神を信じ続けていて、けなげというか、信仰が深いと言えそうですね。

江永 “可能性っぽいもの”の話として捉えるのと「信仰」の話として捉えるのでも、意味が変わりそうな気がします。宗教一般という形で相対化できないような話になったり、逆に慣習やコミュニティ一般の話になったりする。観念や意匠は特定コミュニティや人物の専有物ではない(現に誰もが「使用」できてしまえる)。終盤のこの一節も記憶に残りました。作中では、奇跡に伴って、身体器官が消失したり付け加えられたりするんですが、ある「降臨」で眼球を消失したジャニスに関する記述。「故郷に戻ると、ジャニスは伝道を再開したが、彼女のスピーチの話題は変わってしまった。[……]目を失ったほかの者たちと同様、神の創造の耐えがたいほどの美しさについて語った。[……]苦難を背負った人間として自分の持っている力について語っていたときのジャニスのメッセージには希少性があったが、目のない人間になったいま、彼女のメッセージはありふれたものになった。とはいえ、聴衆の減少をジャニスは少しも気にしていなかった。なぜなら自分が伝道しているものに心からの確信を抱いているからだった」。

ひで 神がこの世界を作ったという理解をするのなら、神が提示したルールに従って天国へ行くか、それに背いて地獄へ落ちるかの二択なんですよね。現世利益で信じる神を選択するみたいな舐めたことはできないので。

■『すばらしい新世界』

ニューロ

自由とは不幸になる権利

木澤 現状のコロナ禍において、この『すばらしい新世界』がアクチュアルに思えるのは、たとえば次のような支配者と野人による口論のくだりです。

 「でも僕は、楽なんかしたくない。神がほしい、詩がほしい、本物の危険がほしい、自由がほしい、善がほしい。罪がほしい」
 「つまりきみは」とムスタファ・モンドが言う。「不幸になる権利を要求しているんだね」
 「ええ、それでいいですよ」と野人が喧嘩腰で言った。「僕は不幸になる権利を要求する」
 「老いて醜くなり、無力になる権利はもちろん、梅毒や癌にかかる権利、食料不足に陥る権利、虱にたかられる権利、あしたどうなるかわからないという不安をつねに抱えて生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の言語に絶する苦痛に苛まれる権利も」長い沈黙が流れた。
 「そのすべてを要求します」と、ようやく野人が言った。
(大森望訳)

パンデミック下におけるロックダウンや自粛によって「自由」が著しく切り詰められ、言ってみれば「自由」と「健康/生」がトレードオフのように扱われる状況になっている。こうした「自由か、さもなくば生存か?」という二者択一にも見えてくる昨今において、改めて「不幸になる権利/自由」について考えたくなりました。

江永 第17章ですね。作中の野人(ジョン)は、世界統制官へと、もう(作中で言う)文明世界に身を置きたくないという話をしているようにも映るわけですが、それ以上の話もしている。詩を書きたがる(感情に働きかける言語の塊をハンドメイドで造りたがる)ヘルムホルツは、当人の希望する島に送られれば解決しそうだけど、野人による作中文明の拒絶には、そういうミスマッチの解消とは別の話も含まれている。支配者に「不幸」を「要求」している形になっているんでしょうか。愚行を許可するかしないかの話と、愚行が可能な環境を準備するみたいな話が、ぐじゃっと混合している。言ってみれば、「不幸」になれる環境を整えてほしい、「不幸」に生きられるようにしてあげよう、という(倒錯した?)”福祉”の話なんだろうかという気もします(そういう意味合いで福祉なる語を使っていいのかわかりませんが)。一般に、社会保障というのは成員間での共感できなさや理解できなさとは無関係だ、とは言われる気がしますが……。
 すみません、福祉とかの話題を出すべきではなかったかもしれません。少なくとも、"不健康"になる「権利」は一般に生存権には含まれないだろうし、愚行権(危害原理)の議論におさまるような意味での「不幸」になることが問題なのかも、ちょっとわからなくなってきました。要件を満たすならば何者かや経緯と無関係に保障するべきだという類いの話に、野人のありようがどう組み込めるか。改めて考えると難しく思えてきました。「不幸になる権利」を口にするに至る手前では、野人ジョンはソーマ(夢見心地になれる薬品)の配給を妨害して騒動を起こしている。それは慕っている母の臨終が文明世界で(老いた身体を見慣れぬ不気味なものとして観察し、死別を悲しむ習慣がない)子どもたちの社会科見学(条件づけ)に用いられた後のことでした。そこでジョンはこう言っている。「リンダはソーマの奴隷だった。リンダは死んだ。でも、ほかの人たちは自由であるべきだし、世界は美しくあるべきだ。ひとつの償いとして。義務として」。でも、前後の文章を読んでいると、個人での意思決定を擁護するという話にすらおさまらない感じがする。文明社会ではない保護区で、しかし事故で漂着した文明社会出身の「母」と育った、そのことがシェイクスピアを諳んじるほど読み、親や貞淑にこだわる、いわばどこでも"外れ値"めいたパーソナリティと密接に結びついてしまっている。言ってみれば、自分にとって現行のどの環境にも住まうことができないという怒りのような情念が伏在している気もする。ただ、この怒りが別の世界を求める衝動と混ざっている。野人に対する統制官は「しあわせこそが"絶対善"であるという信念」を擁護する生き方を(科学を考究したい自らの衝動を抑えて)選んでいるとされる。そんな統制官自身、こうも考えている。「どこか遠い彼方に――現在の人間界を超えたところに――ゴールがある[……]生の目的は、幸福を維持することではなく、意識を強化し洗練させること、知識を拡張させることにある[……]この思想が正しい可能性はじゅうぶんにある。しかし、現状では容認できない。[……]しあわせのことを考えずにすんだら、どんなに楽だろう!」。この意味での「しあわせ」への耐えがたさが、野人と統制官を表裏一体であるかのように感じさせもする。

 初読時はあまり野人に共感できなかったんですが、こうして聞いていると野人のパーソナリティは自分と通じる面もあるのかなと思いますね。『すばらしい新世界』を読んで自分が思ったのは、人間って限界な環境にいるから限界な性格になるという要因が大きんじゃないかということでした。すばらしい世界はガチャのレアリティみたいに人間を等級化しているのですが、環境整備もちゃんと行っている。SDGs風にいうと、「誰も置き去りにしない社会」という感じがある(笑)。主人公の、アルファ階級なのに見た目が下の階級に見えてしまう男とか、なんとなく孤独を抱えている人とかが、そういう孤独をこじらせて凶行に走る前に、フリーセックスやドラッグで置き去りにしないようにする。この社会システムはよくできているなと思いました。自分自身も限界環境で限界な性格になっていたのが、環境が変わったことでマシになりましたし。人を取りこぼさない取り組みを突き詰めると『すばらしい新世界』になる、というのはちょっと悪いギャグみたいですが。

江永 作中の文明社会は、原則的に、各人のできることがはっきりしており、ポジションとタスクをうまく割り振れば誰も困らない、という感じになっていますね。そのような心づくしを施した制度や施設のもとでも、なお生じてしまうアクシデントの意味合いを可能な限りどうでもいいものにするために、しかるべき文化(人間観や社会観など)と嗜好品(映画、薬品、セッションなど)が用意されている。慰謝や安楽を覚えさせるだけなら、わざわざ意味作用に頼るより薬理作用の方が安定する、という感じ。その実際が、作中では「花には電気ショック」ほかの条件づけだったりしてドタバタ感があるのですが。

 家族という枠組みにとらわれてギスギスしたり、養う・養われるの関係でギスギスしたりしなくて済む。そういう意味で、個人的には『すばらしい新世界』はユートピアだなと思いました。さっきSDGsにからめてしゃべったのはツッコミ待ちだったんですが、誰にも突っ込まれませんでしたね……。

江永 その意味だと、置き去りにならないはずの社会でも残っている不具合を生きる、みたいな境遇が語られる物語でもありますね。野人ジョンだけでなく、ジョンを取り巻く人々、バーナードやヘルムホルツ、リンダやレーニナについても。こうした人々はいずれも「自分のことも、自分が住む快適な世界のことも意識せずに、自然にくつろいでいられる人々」から、ちょっとずれている(常にそうであるというより、うまく埋没できない瞬間を持っている)。例えばバーナードは、自己の劣等視と特権視がくるくる回転する卑屈な俗物ですが、何らかのアクシデントで周りと同じように生まれそこなったと噂されたり、「犀に芸は仕込めない」とか「べつだん害はないかもしれないが、いっしょにいると不安になる相手」と評されてもいて、現にほかのひとがしないことをしてしまう(できてしまう)。現行の文明社会が教育で広める価値観の中で”外れ値”の扱いになってしまうことが、自分は馴染めないという自意識の強化と、現に周りと違うことをしてしまう傾向の強化と関連づいている。バーナード以外の人物も、回収されたり落着するか、放逐されたり破滅するかなどは個々に違えど、環境のデフォルトと相容れない、一種の不具合のある生を生きざるを得なくなっている。

 だから人間を無理やり環境に合わせるのではなく、環境ガチャ、環境リセマラ(リセットマラソン)が必要なんだと思います。環境リセマラを繰り返せば『すばらしい新世界』あるいはそれ以上に魅力的な世界になってくれるかもしれない。リセマラを繰り返して環境を変えていきたいと思いました。

ひで 私たちが行える環境リセマラって、具体的にはどんなのがあるんですか。

 きちんと投票をする、トラックにはねられて異世界に転生するとか?

江永 最初期の爆豪勝己(ヒロアカ)みたいな邪悪発言になってしまう。比較的できそうなことで言えば、移動の自由を行使するとかでしょうか。

ひで 確かに、利子率の高い地域に行くとか、賃金の高い地域に行くことはすごく大切かもしれません。

 もうかっている業界に行くとか、それだけでもだいぶ違う感じがします。

ひで 転職もそうですね。職場も賃金も同僚も仕事内容も一新されます。

 そうです。新しい集団を作ったり、別の集団に入ってみるとか。

江永 例えば、言語や国家がなくなったら、今より移動しやすくはなりそうですね。たとえば、統一言語を作って国家を全部解体するとか……でも国家のようなものや各国語のようなものがリバイバルするだけの可能性もある(それだと悲しい)。移動するための情報がなかったり移動が困難な状況も想定しうるし、動きたくない(動かされるのを拒む、むしろ周りを動かしたい)人の「自由」はどうするのか、みたいな話にもなるのでしょう。

 お題目を唱えるだけでなく、誰も置き去りにしないために実際に行動するなら、とにかく今困難を抱えている人、そしてそれをケアするケアワーカーの待遇を良くしていかないといけないと思います。

おわりに――古典SFの読み方

ひで 古典SFは文章が読みづらいし、書かれた当時の社会情勢や価値観ともよくわからないし、楽しんで読むのは難しいという苦手意識を実は持っていました。でもこうやって読んでみると、古典SFも読んでいて合点がいく、腑に落ちるような読書体験がありました。ぼく自身が今の現実のほうに引っ張られすぎていて、古いものに対する忌避感みたいなものがあったんです。過去に書かれたディストピア小説を楽しんで読めなくなっているのって、もったいないですよね。

江永 知識の普及度や覇権的な価値観、諸々の対象の目新しさなどは、人というかコミュニティの状態に伴って、どんどん変容しますからね。

 「攻殻機動隊」もアニメが何作も出ていますが、原作が80年代なので、あのころの想像力に引きずられすぎてしまうと、新しさはどんどん失われていく。古典を古典として読むのも楽しいけど、新しい作品にもどんどん目を向けていかないといけないなと思いました。

ひで あの文章感の『ニューロマンサー』を楽しんで読めているのはすごいなと思います。

江永 翻訳文でもあるので話が重層的ですが、何が書かれているのかとどう書かれているのかで言えば、後者が自分の関心を引いた面もあります。そういう意味では、例えば、『華氏451度』の畳みかけるような名詞や短句の連続や、『すばらしき新世界』のザッピングめいた場面転換の連発なども、書かれた内容と同じように印象に残っています。内容と別にそういう文体の話もあります。他方で、書かれ方を含め、意匠が変われば同じテーマでも受け取り方が変わるし、同じ本でも当該対象をめぐるあれこれ(例えば誰にどう紹介されたか)で、受け取り方が変わったりする。それに、人間はどんどん新生するので、何かのアイディアや表現が元の文脈や暗黙の前提抜きに理解されなおすということも、よくもわるくも頻繁に起こります。

ひで 今読んでいる私は、書かれた当時の意図をそのまま受け取っているわけではない、ということですよね。

江永 古典は、はじめから古典という地位を与えられていたわけではないですからね。その意味では否応なく元とは別の読みが入る余地が広がっている。すでにコメントもたくさんあったりする。本筋より脇道が目立って映ったりする場合もある。ただ、そういう混入も、必ずしもわるくはない、と言えたらと思っています。昔、学校の政経の授業で「相続税と贈与税を100パーセントにして、その代わりに福祉を充実させるとしたら何が問題か」みたいな雑談が始まったことがありました。カリキュラムからすれば、脱線だったのだろうと思います。私的扶養を不要にする(この意味での家族制度を廃止する)みたいな話や、ベーシックインカムみたいな話も出ていた気がします。もちろん、その授業で出た諸々の意見は、今になって考えれば、色々な問題というか、議論の粗がありました。でも、税制や課税の正当性を、現に誰もが想像して話をしてもよい、ということを意識する機会でもあった。そのようにも感じました。自分にとって影響の大きい経験でした。もちろん、課税の歴史や正当性に興味があるならば、例えばケネス・シーヴ、デイヴィッド・スタサヴェージ『金持ち課税』みたいな本を読んだ方がいい気もします。けれど、そもそも自前では税をめぐるボキャブラリすら乏しかった当時の私に、知ろうとする欲望や、立てたい問いのようなものを与えたのは、脱線めいたお話の方だった気もする。自分が自分で求めていると知らない望み、いわばニーズではなくサジェストを志向する際には、目的とかメッセージが事前の予期通りでないものとか、あるいは本筋である目的なりメッセージなりとは別に、様々な揺れや逸れを含むものが役立つ場合もあるのでしょう。

ひで SF小説から知ろうとする欲望や問を得られれば、豊かな読書体験でいいですね。

江永 ナイーブには、自分がピンとくるものを読むのが一番だというのもありますね。同じ話題にどこから辿り着くか、みたいな話も、逆にどうやって違う話題に移るかという話も大事だし、何かが古典であるとは、地域や状況が異なる人々に現に役立ってきたという評判があるとも解せるのではないでしょうか。

 とっかかりとしては、ピンとくることが大事ですね。僕もSFのとっかかりは、アニメや最近の小説、そしてSoG(センス・オブ・ジェンダー)賞でした。そこから古典に行ったりお気に入りの作家を見つけたり。自分の世界を広げていける奥深さが、SFの魅力だと思います。


「自分を変えたい」のなら、人間を超越せよ――。 大人気note連載「闇の自己啓発会」が書籍化 ダークウェブと中国、両極端な二つの社会が人間の作動原理を映し出し、AIや宇宙開発などの先端技術が〈外部〉への扉を開く。反出生主義を経由し、私たちはアンチソーシャルな「自己啓発」の地平に至る――。現代思想やインターネットの最深部を駆けめぐり、未知なる事物に出会うとき、私たちの世界観・人生観は一変する! 話題騒然のnote連載読書会「闇の自己啓発会」、ついに書籍化。

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江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発

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