
『スマートシティはなぜ失敗するのか 都市の人類学』松村圭一郎さん解説試し読み
ハヤカワ新書『スマートシティはなぜ失敗するのか――都市の人類学』(シャノン・マターン、依田光江訳)が10月23日に発売になります。「都市のAI化」「デジタル行政」といった言葉を見かけることが多くなりましたが、本書は、人類にとって真に「賢い」都市とは? と問いかけ、都市に生きる私たちにさまざまな新たな視点を提供してくれます。
文化人類学者の松村圭一郎さんによる本書の解説を、特別に試し読み公開します!

解説 都市をつくりだす複数の知性
松村圭一郎(文化人類学者)
本書は、シャノン・マターンが2021年にプリンストン大学出版会(Princeton
University Press)より刊行したA City Is Not a Computer: Other Urban Intelligences(『都市はコンピューターではない そのほかの都市の知性』)の邦訳である。
シャノン・マターンは、現在、米国ペンシルベニア大学・芸術史学部の映画メディア研究部門で学長特命教授(The Penn Presidential Compact Professor)を務める。本書の刊行当時は、ニューヨーク市にあるニュースクール大学・人類学部の教授だった。都市論やメディア論、デザイン人類学などを専門とし、本書でも幅広い分野の研究を参照している。
まず本書の概要を整理しておこう。
序章「都市とツリーとアルゴリズム」では、都市を階層的で秩序だった「ツリー状構造」としてとらえる視点が批判される。スマートシティ構想をはじめ、これまでの都市計画では、都市全体を制御可能な階層構造として一元的にデザインする「ツリー」のロジックが優勢だった。だがマターンは、そこでは計算不可能な要素が排除されていると指摘する。彼女が提起するのが「接ぎ木」という発想だ。都市では、古い制度の「台木」に次々と新しい異なる仕組みが接ぎ木されていく。その営みには、古代から人類が培ってきた知性や創造性がある。「スマート」に最初からあらたに都市をデザインしようとすると、それまで蓄積されてきた知が根こそぎ放棄される危険性がある。むしろその場所の歴史や経験に根ざし、都市という生態系の「強靭さ」を可能にしてきた「台木」を護る必要がある。
第一章「都市のコンソール」では、ツリー状構造の典型である都市の「オペレーションセンター」が検討される。都市で起きるさまざまな出来事をデータ化し、巨大なディスプレイやダッシュボードに表示する。そこには、情報を集中的に管理しさえすればうまくいくという「ダッシュボードの夢」があった。だが表示される情報は、どんなに論理性があるように見えても、都合のよい取捨選択がなされている。偏見や差別にもとづく可能性もある。ダッシュボードのデータは、現実の正確な反映ではない。むしろその部分的で縮約された情報が、利用者やコミュニティのものの見方を構築してしまう。たとえば、警察のコントロールセンターは、根強い人種差別的な固定観念を強化してきた。利用者が物事の理解の仕方の多様性を体験し、根底にある知識論や政治力学(情報がどのような方法で収集され、誰の利益のために利用されるのか)を認識できる装置をいかにつくりだすか。マターンは、既存のダッシュボードの背後に隠された政治性を利用者自身が把握し、別の価値観にもとづくあらたなプラットフォームを考案していく可能性を探る。
第二章「都市はコンピューターではない」は、パンデミックの最中に起きたスマートシティ計画の頓挫の話からはじまる。インターネットから都市をつくる、と提唱したトロントのキーサイド地区の開発プロジェクトは、2020年5月に中止となった。ほかにも過去数年間に、アメリカの複数の都市をはじめ、韓国やアラブ首長国連邦など、いくつものスマートシティ構想が中断や中止を余儀なくされた。このコンピューティングの新技術から都市を構想する「コンピューター都市」の発想は、都市を知識の保管庫や情報の処理装置と考える、何千年も前から存在するイメージにまで遡る。だがその情報処理には、人間が織りなす複雑な秩序が含まれており、歴史や偶然性に富んだ奥深いプロセスがある。それは、そもそも一元的に管理可能なものではない。簡単に収蔵できない「情報」もある。たとえば、ダンスや儀式、食、スポーツ、口承文化など、パフォーマンスをともなう知識形態は、人の心身やコミュニティに息づく都市の不可欠な知性の一部だ。都市の知性は「情報」という枠に収まらず、簡単に処理や計算されるものではない。私たちには、コンピューターではない都市について考える新しいモデルや用語が必要である。
第三章「公共の知」では、都市における図書館の役割というユニークな視点が提起される。そこにはシアトル公立図書館を対象とした博士論文研究以来のマターンの問題意識が貫かれている。図書館は、スマートシティ構想でも、市民がデジタル技術を学び、自動化サービスに慣れるためのプラットフォームとして期待されてきた。だが彼女は、スマートシティでは無視され、差別や偏見の対象となりがちな、社会的弱者を包摂する知識/社会インフラとして、図書館を再構築する方向性を目指す。ニューヨーク市のショーンバーグ黒人文化研究センターは、アフリカ系アメリカ人などの歴史経験に関する資料や作品を収蔵して、都市形成に寄与してきた多様な知識を蓄積している。まさに商業主義とも国家の思惑とも異なる知の拠点だ。図書館員は情報を批判的に吟味する情報リテラシーを身につけてきた。利用者が図書館の資料にアクセスする際も、この批判的な目線からガイド役となれる。図書館は、都市やコミュニティが自ら定義したいと望む価値観を具現化できる場所である。多くの課題はあるものの、図書館にはすべての人に開かれた公共インフラとしての潜在性がある。
第四章「メンテナンス作法」では、都市は設計・建築されるというより、メンテナンスされるものだ、という議論が展開される。政治家や企業家が「イノベーション」や「破壊と創造」を訴えるなかで、メンテナンスという概念が、さまざまな学問分野で注目されてきた。マターンは、とりわけ女性の仕事の伝統や黒人フェミニズム思想、家事や生殖労働など、これまで価値が認められてこなかった営みに目を向けるよう促す。そこには、物理的な修繕だけでなく、人間の感情と身体のケアが含まれる。ケアとは個人的なだけではなく、構造的で政治的な資源でもある。だがケアする存在はときに悪条件で過剰な負担を強いられる。しかも人間世界のケアが自然の生態系のケアと相反する場合もある。メンテナーへのケアを考え、大量生産・大量消費ではなく、修理やリサイクルの価値をとり戻していく。デジタル化された世界のアプリやデータのメンテナンスも欠かせない。真に公平で社会的弱者や環境に配慮した責任あるシステムを構築するためにも、メンテナンスの視点が重要になる。
終章「プラットフォームと接ぎ木と樹上の知性」では、アメリカ史上最大規模の民間不動産開発プロジェクト〈ハドソン・ヤード〉の話からはじまる。ニューヨーク市をブランド価値のある「企業都市」にし、エリート主義で実力主義的な「高級な成果物」にすることが目指された。まさに未来の都市をまっさらなプラットフォーム上に築き上げようとするツリー都市の典型だ。だが景観デザインを担当した企業は、浅い土壌に生命を接ぎ木し、人工的な景観をケアするための「スマートソイル」を導入した。この土壌を収益性ではなく、栄養を届け、水を貯え、植物間のコミュニケーションネットワークを形成する知的な存在としてとらえる視点が、いかに環境正義と社会正義の関係を考えさせる「接ぎ木」になりうるのか。マターンはこの終章で、さまざまな事例をあげながら思考をめぐらせる。背景には、パンデミックの最中、世界中の人びとが都市の緑地空間を、人間の知性を超えた、心身の健康に欠かせない知性が体現される場として感じるようになった経験がある。環境や社会的弱者を包摂する土地に根ざした知見を、公共図書館やコミュニティに蓄えられた知識実践をもとに活用する。生態系の流れへの感性を高めるデザインを考案し、反ダッシュボード的なさまざまな要素の絡まり合いを可視化する。植樹がもつ多様な価値をとらえ、その不公平な配分につながる政治文化を把握する野生の地図帳を作成する。それらの試みは、どんな都市もスーパーコンピューターよりはるかに賢明な別の知性へと接ぎ木されうることを示している。
さて、ここまでのマターンの議論への理解を深めるために、その基盤にある現代人類学の二つの潮流を紹介しておこう。本書でも言及されている、アナ・チンとアルトゥーロ・エスコバルがその代表的な人類学者の二人だ。
アナ・チンは、『マツタケ』(赤嶺淳訳、みすず書房)で、世界が複数種によって「制作」されていると論じ、その複雑な営みの連関から資本主義が駆動されている状況を描き出した。これまで人間の文化を研究してきた文化人類学が、人間と人間以外の複数種の絡まりとして世界をとらえる。それが「マルチスピーシーズ民族誌」という潮流である。人間が文化や社会を創造する。このあたりまえに思える理解には、人間中心主義的な前提がある。現代の人類学は、人間だけではないものたちが世界を構築していることをあきらかにして、人間中心主義(とその背後にある西洋中心主義)を脱却しようとしてきた。この視点は、本書の終章で提示される、土壌や樹木が体現する別の知性から都市を考える議論につながっている。
アルトゥーロ・エスコバルの『多元世界に向けたデザイン』(水野大二郎ほか監訳、BNN)は、デザイン人類学の画期的な著作として注目されてきた。エスコバルは、近代デザインが持続不可能な地球規模の危機を生み出してきたことを批判し、それとは異なる複数の世界創造の実践としてデザインをとらえなおした。彼は、従来の建築家やデザイナーによるトップダウン型の近代デザインから、その土地に根ざした知識を取り込む参加型で自治的/自律的なデザインへの移行を提案する。このマターンの議論にも通じる問題意識の根底には、一元的な価値軸(家父長制資本主義や植民地主義)に収斂する「ひとつの世界」からなる近代主義/西洋中心主義をのりこえようとする意図がある。それが「存在論的転回」という、異なる存在論で構成された多元世界を前提にする人類学の潮流だ。
本書でもたびたび「存在論」が言及されている。たとえば、都市をダッシュボードでモニタリングすることは、都市の状況をいかに把握するか、という「認識論」の次元にとどまらない。その行為は、そもそも都市とは何であり、何でないのか、という「存在論」の次元にあり、私たちがどういう世界に生きているか自体を変えてしまう。デザインも、たんに商品や建築物の意匠を変えているだけではない。人間のあり方、世界のあり方そのものを一変させているのだ。
人間と自然の二分法を前提とする近代主義は、ひとつの自然と多様な文化という枠組みに依拠してきた。単一の「自然」は科学によって解明され、操作される対象物であり、それとは異なる人間の創造性の領域に「文化」が位置する。この近代主義の観点では、「文化」はあくまで自然をどう認識するかという「認識論」に還元され、もっとも正確な「認識」を科学が担うことになる。だが、アナ・チンが描いたように、複数種がこの世界をともに「制作」しているとしたら、人間と自然(非人間)の二分法が成り立たないばかりか、ひとつの自然と多様な文化という構図も成り立たなくなる。そもそも科学は、科学にもとづくひとつの世界をつくりだしており、「異文化」とされてきた場所には、また違う世界が制作されている。これまで価値を認められてこなかった別の知性から都市をとらえなおそうとするマターンの視点にも、この存在論的転回といわれる潮流が大きく関わっている。
マターンは、本書で一貫して「スマートシティ」のような、都市をまっさらなプラットフォーム上に一元的な構造をもつ構築物としてデザインしていく設計主義の限界を指摘している。計算可能なアルゴリズムにもとづくコンピューター的な知性とは異なる知があり、人間だけではない複数種が暮らす都市は、そういう複数の異なる(人間だけに担われているわけではない)知性で維持されてきた。この彼女の斬新な都市論は、科学やテクノロジーが何よりも正確に世界を把握できるのだという過信を戒め、その視点に潜む社会的弱者への差別や偏見、自然の生態系への無理解を克服しようとしている。
本書で提示された「接ぎ木」は、人類学者のクロード・レヴィ゠ストロースが『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房)で言及している「ブリコラージュ」(あり合わせのものを組み合わせる「器用仕事」)とつながっている。レヴィ゠ストロースは「未開社会」とされてきた人びとに、西洋科学とは異なる「具体の科学」という別の知性があると指摘し、西洋中心主義への明確なアンチテーゼを突きつけた。本書は、かならずしも人類学者による人類学の都市論ではない。だが、その思考の根底には、人類学がのりこえようと長年にわたって格闘してきた西洋中心主義/人間中心主義への挑戦の歴史が織り込まれている。
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■著者略歴
シャノン・マターン Shannon Mattern
1976年生まれ。ニューヨーク大学博士課程修了(文化・コミュニケーション学)。ニュースクール大学教授(人類学・メディア研究)などを経て、現在はペンシルベニア大学学長特命教授(メディア研究・美術史)。専門分野はメディア・アーキテクチャー、情報インフラストラクチャー、都市技術など。図書館、空間認識、建築、アーバニズム、ランドスケープなどに関する記事を多数寄稿。ニューヨーク在住。
■訳者紹介
依田光江(よだ みつえ)
外資系IT企業勤務を経て、翻訳業を開始。訳書に、グリーン『一流投資家が人生で一番大切にしていること』、ロス『99パーセントのための社会契約』(以上早川書房刊)、クリステンセン他『イノベーションの経済学』『ジョブ理論』、ジェリッシュ『スマートマシンはこうして思考する』など多数。
【本書内容より】
序章 都市とツリーとアルゴリズム
第一章 都市のコンソール
第二章 都市はコンピューターではない
第三章 公共の知
第四章 メンテナンス作法
終章 プラットフォームと接ぎ木と樹上の知性
【本書の概要】
『スマートシティはなぜ失敗するのか――都市の人類学』
著者:シャノン・マターン
訳者:依田光江
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年10月23日
本体価格:1,260円(税抜)