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新生活に疲れたら読みたい、”無敵になれる”哲学!『迷いを断つためのストア哲学』試し読み

新年度が始まり、就職、異動、進学、進級等々、これまでとは違う環境で生活を始めた方も多いことと思います。新生活には、楽しさと同じくらい、不安がつきものですよね。新しく出会った人たちに自分がどう見られているのかな、自分はこの先うまくやっていけるのかな、、、

こんなときは、古代ローマ時代のストア哲学者、エピクテトスの言葉に耳を傾けてみましょう。

無敵なのは誰か? 理性で選びようのない物事には、一切動じない人である」(『語録』)

周囲の環境は自分にコントロールできないので、最初から気にしなければもはや敵なし、ということ。この「コントロールできることとできないことの区別」は、ストア哲学の最も基本となる重要な教えです。新刊『迷いを断つためのストア哲学』より、それを解説した第3章「わたしたちの力が及ぶもの、及ばないもの」を抜粋してお届けします。

■変えられるものを変える勇気

わたしは1990年からアメリカで暮らすようになった(編注:著者はローマ出身)。当時はアメリカの文化についてほとんど知らず、せいぜい子どもの頃から見てきたハリウッド映画やイタリア語に吹き替えたテレビ番組で得た知識しか持っていなかった。そこで、親しい友人が、カート・ヴォネガットの小説を読んで学んだらどうか、と勧めてくれた。

1969年に出版された『スローターハウス5』(ハヤカワ文庫SF)は変わった小説だった。主人公のビリー・ピルグリムはトラルファマドール星人に誘拐され(あるいは誘拐されたと思い込み)、同じように捕らえられた地球人でポルノ映画スターのモンタナ・ワイルドハックとともに動物園の檻おりに入れられる。トラルファマドールの人々は四次元──三次元プラス時間──を移動する能力を持つので、一生のうちのどの瞬間をも、好きなだけ訪れることができる。同じ力を与えられたビリーは、大事な瞬間について物語る。たとえば、賛否が分かれる第二次大戦終盤の連合国軍によるドレスデン爆撃についてなどだ。

『スローターハウス5』を読んでいるとき、わたしは次の祈りの言葉に出会った。地球にあるビリーの検眼室の額に入っていただけでなく、モンタナが身に着けているペンダントにも刻まれていた。

主よ
変えられないものを受け入れる心の平静と
変えられるものを変える勇気と
そのふたつを見分ける知恵をわたしに与えたまえ。

これは「平静の祈り」と呼ばれ、ビリーの冒険の旅を要約したものだ。ビリーは心の平静を欲していた。そして、過去は変えられず、影響を及ぼすことができるのは今このときだけだと認めることで心の平静が得られる、と考えた。認めるのは勇気がいる。戦場で求められるような勇気ではない。もっととらえにくく、おそらくもっと大事で、最良の人生を送るのに必要なものだ。

この現代的な祈りは、アメリカの神学者であるラインホールド・ニーバーの作とされ、1934年には説教に用いられているようだ。現在はアルコール依存者の自助グループであるAA(アルコホリクス・アノニマス)の会合をはじめ、問題行動から回復するための12ステッププログラムを実施する多くの団体で使われている。

だが、同じような考え方は、何世紀も前から、また、異なる文化においても見られる。11世紀のユダヤ人哲学者であるソロモン・イブン・ガビーロールは次のように述べた。「そして彼らは言った。すべての理解は──現状のまま変わらないものと望んでも叶わないものがあること、わたしたちの力では変えられないものがあるという慰めを知ることから始まる」8世紀の仏教学者、寂天も同様のことを述べている。「もしも治療法があるならば、憂鬱が何の役に立つだろうか。/またもしも治療法がないならば、憂鬱が何の役に立つだろうか」(『現代語訳大乗仏典7 論書・他』東京書籍、中村元訳)

さらに時代を遡ればこんな記述もある。「わたしたちの力が及ぶものは最大限に生かし、そうでないものは、なりゆきにまかせるのがいい。わたしたちの思うままになるものも、そうでないものもある。どんな意見を述べるかはわたしたち次第だし、衝動、欲求、回避──すなわち、わたしたちの行ないはみな、わたしたち次第だ。身体はわたしたちの思い通りにはならない。財産、評判、公職、すなわち、わたしたちの行ないでないものは思い通りにはならない」エピクテトスの『提要』の初めに出てくるこの考え方は、エピクテトスの教えの基礎であり、ゼノンにまで遡るストア哲学の全体系にとってきわめて重要である。これについて考えてみることからストア哲学の探究を始めよう。

■西風はいつ吹くか?

つい最近、ヴォネガットの小説を読み直し、フォロロマーノ(訳注:古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名)を歩きながらエピクテトスの言葉について考えているときに、ある問題に気づいた。エピクテトスは譲歩をしすぎていると同時に、譲歩が足りないのではないか。意見、衝動、欲求、回避の行動は「わたしたち次第」であるのに対して、身体の状態、財産、評判、公職は思い通りにならない、とエピクテトスは言う。

そんなはずはない、とわたしは思った。わたしの意見は、他者の考え方を本で読んだり、聞いたり、他者と話をしたりすることに影響を受けている。衝動や欲望や回避の行動の多くは自然で本能的なものであり、わたしができるのは、そうした考えを行動に移すのを拒否することだけだ(そのときわたしは店の窓から見えるおいしそうなジェラートに目を奪われたが、食べる必要に迫られていなかったし、腹回りにも良くないから買うのをやめた。ほら、わたしの考えが裏づけられた)。

その一方、たとえば、ジムに通い、健康的な食事をして身体を気遣うことはできるし、財政的な状況が許す範囲で何を手に入れるかを決めることもできる。また、同僚や学生や友人や家族からの評判は努力によって変えることができる。さらに、わたしは公職にはついていないが、公職を得るために選挙に立候補して、票集めをしようと努力することはできる。決めるのはわたしだ。

そんな反論を考えているうちに、ふと、それは21世紀という時代に生きるわたしが、したり顔で語っているにすぎないのではないかと思うようになった。賢明なエピクテトスなら、そんなことはわかっていたはずだ。言葉に字義を越えた意味を込めたはずである。テクストはすべてその背景を考えて解釈するべきなのだから、何を今さらと言うところだろう。だが、そうした背景を知るには助けが必要である。フォロロマーノを歩くわたしには、幸運にも、最高の助言者であるエピクテトスがついていた。わたしは問いかけた。

「わたしの反論についてどう思う?」エピクテトスは、たとえ話で答える。「船旅に出たときのようなものだ。船旅では何ができるだろうか。船頭や船員や出発日や時間を選ぶことはできる。さて、嵐がやってきた。何を心配するべきだろうか? わたしはやるべきことはやった。あとは、ほかの人、つまり船頭にまかせるしかない。天候が航海に不都合なものになれば、やきもきしながら海を眺め、たえず尋ねるだけである。『風はどちらから吹いている?』『北からです』わたしたちには何もできない。『西風はいつ吹くのか
な?』『西風が吹こうと思ったときですよ、だんな』


このたとえ話からわかるように、コントロールできるものとできないもの、というストア哲学の二分法は、わたしたちが世界にどのような影響を及ぼすことができるかを、三つに分けて述べている。第一に選択である。目的(船旅)と、それを達成するための最良の手段と思われるもの(経験豊富な船員)を選ぶ。第二に、選択をしただけでは、期待通りの行動が得られるとは限らないことを認識する。たとえば、希望した船頭がその日に病気になるとか、料金が高すぎて雇えないとかいったことがあるかもしれない。第三は、なんの影響も及ぼすことができない要因だ。風の方向や強さなどは、わたしたちにはまったくコントロールができない。

本書の執筆中に、わたしは、エピクテトスのたとえ話が痛いほどの現実になる経験をした。兄弟のひとりと一緒に音楽と哲学のフェスティバルに参加しようと、ローマからロンドンに向かったときのことだ。その旅に関しては、旅行の申し込みをし、主催者が選んだ航空会社を受け入れる(つまり、特定の航空機と「船頭」を手配した)など、多くのことがコントロール下にあった。

コントロールできなかったのは、ロンドンのガトウィック空港着陸寸前に起こった出来事だ。滑走路がはっきり見えるくらい地面に近づいたとき、突然、エンジンが轟音を立て、急に加速をしたのがわかった。エアバスが下降を止め、再び高度を上げたらしい。不吉なサインである。だが、パイロットは冷静だった。スピーカーを通して、「滑走路が混んでいる」ため旋回して着陸をやり直す、と言った。「本機が使うはずだった滑走路にほかの航空機がぐずぐずと残っていて、その上に着陸しそうになった」とやんわりと告げたのである。管制塔からも知らされていなかったのだろう。パイロットの反射神経とエアバスの強力なエンジンによって、乗客の命がからくも救われた。

どちらの要因についても、わたしたちの力が及ぶすべがないのは言うまでもない。隣に座っていた窓側の席の乗客がリアルタイムで一部始終を話してくれたので、事実がわかったまでのことだ。わたしは不思議にも平静でいられた。旅に出たときは、今にも危険なことが起こるのではないか、といつも心配していたのに。西風は西風が吹こうと思ったときに吹くエピクテトスの言う通りである。

エピクテトスの教えは、わたしたちには、自分がコントロールできないことを心配し、それにばかりエネルギーを向けるという奇妙な傾向があるのを示している。そんなことはやめて、自分がコントロールできること、あるいは影響を及ぼすことができる要因に注意を向けるべきだと考えるのがストア哲学だ。この旅には正当な理由があるのか、本当に行きたいのかを確かめ、最良の船(航空機)や船員(航空会社)を時間をかけて調べたり、ほかの準備をしたりするべきだ。すなわち、ストア哲学の最初のレッスンのひとつは、わたしたちの力が及ぶところに意識と努力を集中させ、あとは世界のあるがままにまかせる、ということ。そうすればエネルギーを節約できるし、大きな不安を抱かずにすむ。

■結果を冷静に受け入れる

キケロのたとえ話も理解に役立つだろう。的まとを狙う弓の射手がいるとする。キケロによると、射手は多くのことをコントロールしている。どれだけ厳しく、どれだけ多くの練習をするかを決め、的の種類や的からの距離に応じて弓と矢を選び、できる限り正確に狙いを定め、矢を放つ瞬間を決める。つまり、真剣に的を狙い、弓から矢を放つ瞬間まで最善を尽くすのである。さて、問題。矢は的に当たるだろうか。それは、射手にはどうにもできないことだ。

結局は、突風のせいで矢の飛ぶ方向が変わり、的を完全にそれてしまうこともあるだろう。たとえば、台車が通りかかるなど、射手から的を遮さえぎるものが現れるかもしれない。的が、飛んできた矢をかわそうと動く可能性もある。とくに的が敵の兵士ならそうなる。よって、キケロはこう結論づけた。「的を実際に射当てることは選択されるべきものだが、追求されるべきものではない」一見不可解な主張だが、今ならその意味も理解できる。射手は的に当てようとするのを意識的に選択し、その目標を達成するためにできることをすべてやった。しかし、失敗という結果も覚悟している。結果がどうなるかは自分ではコントロールできない。何かやろうと決めたとしても、他の要因が入り込む可能性はままあるからだ。

エピクテトスと対話をしながら、わたしは彼の教えを人生のあらゆる面に用いることができるのに気づいた。たとえば、自分自身の身体はどれくらい「コントロール」できるだろうか。わたしは子どもの頃から、体重で苦労してきた。ぽっちゃりと太っていたので、よくあるように、学校ではからかわれた。十代になると、人間関係にいささか臆病になり、とくに女の子とはうまくいかなかった。時がたつにつれてましになったが、体重の問題は今でも引きずっていて、これからも悩みの種になりそうだ。それでも、ストア哲学の考え方には大いに助けられている。まず、自分の遺伝子の構造(父の精子と母の卵子が無作為に結合した結果)も、幼少時の環境も、わたしにはコントロールできなかった。わたしは祖父母に育てられ、与えられたものはなんでも食べた。量も頻度も、適切かどうかは祖父母が判断した。「生まれか育ちか」を専門的に研究する生物学者として、遺伝子と幼い頃の環境の相互作用が習慣の形成にどれだけ大きな影響を及ぼすかは、いくら強調しても足
りないほどである。

■ダイエット、キャリア、子育て

ただし、これは運命論や無力感に屈する理由にはならない。成長し、大人になるには、何をどれだけ食べるか、運動をするべきか、するならどれだけ熱心にするかなどの選択を含めて、自分の生活をコントロールすることも重要である。そこで、わたしは、遅すぎるかもしれないが断固たる決意をもって、筋肉の働きと肺活量を維持するために、15年以上前に適度な運動を始めた。また、ほぼ同時期に、栄養学の基礎に関する本を読み、食品ラベルに注意を払い、適切な食事をきちんととる努力をするようになった。今でも、認めたくないほど頻繁にこの習慣を破ってはいるが、良い結果が出ているのは確かだ。以前より健康になったし、見た目もましになったおかげで、自信も持てるようになった。とはいえ、ほかの人が生まれつき、あるいは(遺伝子や幼少時の環境によって身についた)努力によって手に入れた、スリムで筋肉質な身体ではないし、これからもそうはならないだろう。そのことにずっと悩まされ、苛立ちもした。

だが、今は違う。コントロールできること(何を食べるか、運動をするかどうか)がある反面、コントロールできないこと(遺伝子、幼少時の体験、運動の効果などの多くの外的要因)があるというストア哲学的姿勢を身につけたからだ。その結果──現在の体型や健康──は、冷静に受け入れるべきだ。それは、キケロが言うように「選択されるべきものだが、追求されるべきものではない」。結果はどうあれ、自分が最善を尽くしているのを知ることで満足が得られるのである。

コントロールできるもの、できないものを分けるというストア哲学の考え方は、人生のあらゆる出来事に用いることができる。たとえば、職場で昇進の候補になったとする。在職年数、勤務評価、同僚や上司とうまくやっていることを考えれば、昇進は当然かもしれない。結果は、明日わかる。そんなときは、ストア哲学の考え方に従えば、前夜は心安らかに眠り、翌朝は、どんな結果になったとしても、あきらめではなく自信を持ってそれに対応すればいい。自信は結果によるものではない。結果はコントロールできないものであり、職場内の駆け引きや、上司のあなたに対する好感あるいは反感、同僚との競争など、多くの要因に左右される。自信は、自分ができることはなんでもやった、ということを知っているからこそ生まれるのだ。コントロールできるのは、自分ができることだけ。世界は自分の望み通りに動いているのではない。動くがままに動いている。上司、同僚、株主、顧客など多くの要因から成り立つ世界が、自分の望み通りに動くと期待するほうがおかしい。

あるいは、あなたに十代の娘がいて、その子が突然、反抗するようになったとしよう。娘が幼い頃は幸せで、親子関係は申し分ないと思っていたのに……。たいがいの人は、娘がまだ幼いうちにもっとやれることがあったのではないかと後悔する。では、何がやれたかというと、何も思いつかない。また、状況をコントロールできないと感じ、かつては幸せそうだった子から口もきいてもらえず、(少なくとも一時的に)軽蔑さえされているような気がすることもやりきれない。エピクテトスは、後悔は感情的エネルギーの浪費だと言った。過去は変えられない。コントロールできない。過去から学ぶことはできるし、学ぶべきだが、何かができるのは今、この場で起こっていることだけだ。だから、一生懸命に娘を育てたということを認めて、そこから慰めを得るのが正しい姿勢である。現に今も、難しい時期にある娘の助けになろうと最善を尽くしているではないか。うまくいくか、いかないかはともかく、結果を冷静に受け入れるのが一番だ。

あきらめたほうがいい、と言っているのではない。ストア哲学は受け身の哲学だとよく誤解されるが、ストア派の哲学者たちが説いたことはまさにその逆だし、さらに重要なことに、実践したこともそれとは正反対だ。教師、政治家、軍の大将、皇帝など、著名なストア主義者たちは、運命を無気力に受け入れはしなかった。むしろ、自分がコントロールできる内なる目標と、影響を与えることはできるがコントロールはできない外的な結果とを、賢明にも区別した。「平静の祈り」が伝えているように、その違いを認識できるのが成熟した賢い人である。

■冤罪にさえ動じない

困難な状況に陥ったとき、わたしがいつも思い出す話がもうひとつある。幸運にも、その話の主人公が直面する状況に比べれば、わたしの苦境などまったくたいしたものではないことが多い。

1世紀のストア哲学者、パコニウス・アグリピヌスの父親は、反逆罪の疑いで皇帝ティベリウスによって死刑に処された。アグリピヌス自身も67年に皇帝ネロによって、反逆罪に問われた(おそらく冤罪である)。エピクテトスは次のように記している。「『元老院ではあなたについて裁判が行なわれています!』と彼にしらせがあった。彼はこう答えた。『うまくいってくれるといいが。だが、もう5時だ』彼は、この時間に、いつも運動をして冷水浴をするのである。『運動をしに行こう』運動を終えたとき、また誰かがやって来て言った。『有罪になりました』彼は尋ねた。『追放か、それとも死刑か』『追放です』『財産はどうなる?』『没収されませんでした』『ではアリキアへ行って、食事をしよう』」

アグリピヌスの受け答えはふてぶてしく思えるかもしれない。ハリウッド映画に出てくる腹の据すわったヒーロー(ケーリー・グラントやハリソン・フォードが演じるような)ならともかく、現実にはこんなことは言えないだろう。だが、これこそがストア哲学の力なのだ。自分の行動はコントロールできるが、その結果はコントロールできない。もちろん、他人の行動の結果も。その基本的な真理を理解すれば、何が起ころうと落ち着いて受け入れ、与えられた状況において最善を尽くしたと確信できる。

ネロの時代から2000年たった今でも、気まぐれな専制君主は驚くほどたくさんいるが、わたしたちの多くは、ありがたいことに、その支配下にはない。よって大事なのは、コントロールできるものとできないものを区別するという基本的な考え方であり、その意味合いである。取るに足りないことから重要なことまで、たいがいのことはわたしたちにはコントロールできないのがわかる。つまり、物や人に執着してはいけないのだ。

■愛する者も、いつか死ぬということ

こうした教えは仏教をはじめ、他の哲学や宗教にも見られるものの、誤解を招きやすく、ストア哲学が誤って理解される原因にもなっている。エピクテトスがわたしにはっきりと教えてくれたのは次のことだ(突拍子もない話のように感じたが、わたしが心を開き、それまで無縁だった考え方を楽しむことができるよう、あえて言ったのだとあとになってわかった)。

そのためにはどのような訓練をすればいいか。根本的で、もっとも重要で、いわば第一歩となるのは、何かに愛着を抱くとき、すなわち、決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。人間に対しても同じだ。自分自身の子どもや兄弟や友人にキスをするときは……死すべき者を愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。彼らへの愛は一時的に与えられただけであり、永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。1年のうちの決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていないときに息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めているのと同じだと知るべきだ。

先を読み進む前に、もう一度、読み返してみてほしい。多くの人と同じように、あなたもエピクテトスが水差しやガラスの杯さかずきへの愛着について語ったことには賛同できるだろう。当然ながら、物に愛着を抱く必要などない(抱く人は大勢いるが)。結局はただのガラス(あるいは、iPhoneだと考えてもいい)であり、たとえ高価なガラス(安いiPhoneはない)でも、壊れたからといって大きな問題にはならない。だが、子どもや
兄弟や友人の話については、多くの人がぎょっとしたに違いない。大事な人たちを愛するな、とはあまりに冷淡な助言だ。季節はずれであろうがなかろうが、弟をイチジクと比べるなんて、人格に問題があるのではないだろうか、と。

■「自分のもの」として権利を主張できる相手はいない

だが、あるとき、これについて少し考えてみた。すると、エピクテトスは大事な人たちを愛するなとは言っていないこと、さらに、受け入れるのは難しいものの、真実を述べていることがわかった。ストア哲学は政治が不安定な時代に生まれ、発展した。人生が一瞬にしてひっくり返り、死が年齢に関係なく、誰に訪れてもおかしくなかった。エピクテトスの次の世紀、すなわち古代ローマ帝国の最盛期を生き、ギリシャ哲学の影響を強く受けた皇帝マルクス・アウレリウスですら、不幸な出来事に見舞われた。一三人の子どものうち、息子ひとりと娘四人以外が自分よりも早く亡くなったのだ。最高の物質的豊かさや、最良の食べ物や、その時代の最新の医療をわがものにした一族でさえ、そうした状況にあった(アウレリウスのかかりつけ医はガレノスといい、古代のとりわけ有名な医者である)。

さらに大事なことに、実はエピクテトス自身が友人の息子を養子にして、放っておけば死んでしまったであろうところを救った。つまり、エピクテトスは他人を思いやり、血のつながりがない人の面倒さえ見たことになる。エピクテトスが伝えているのは、勇気をもって人生の現実を直視しよう、ということである。誰もが死ぬし、「自分のもの」として権利を主張できる相手などいない。これが現実だ。これを理解すべき理由は、愛する者が死んだり、親しい友人が国を離れたりしたときに正気を保つためだけではない(現代では経済的理由や暴力や社会の混乱から他国に逃れることがあるが、当時は刑罰として国を追放された)。

こうした現実と向き合えば、仲間の愛や、仲間と一緒にいられることを当たり前とは思わずに、そのありがたみを精一杯かみしめるべきだと胸に刻むことができる。いつかは誰もがこの世を去り、楽しむことができる正しい「季節」が終わってしまうからだ。わたしたちは、今、この瞬間を大切に生きるべきなのである。

(『迷いを断つためのストア哲学』より抜粋)

マッシモ・ピリウーチ『迷いを断つためのストア哲学』(月沢李歌子訳、本体2,000円+税)は早川書房より発売中です。

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