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【『レッド・メタル作戦発動』刊行記念・連続エッセイ/冒険・スパイ小説の時代】冒険小説は人生の指南書です(福田和代)

冒険アクション大作『レッド・メタル作戦発動』(マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリングス四世、伏見威蕃訳)刊行を記念し、1970~80年代の冒険・スパイ小説ブームについて作家・書評家・翻訳家が語る連続エッセイ企画を行います。
第8回は作家・福田和代さんです

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 私の人生にもし、冒険小説がなかったら。
 それはもう、ずいぶん味気ない、無彩色の世界になっていただろう。
 十代の頃、酒は冒険小説(とハードボイルド)で覚えた。ジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』を読み、アイリッシュ・ウイスキーの味に対する妄想をふくらませた。ブッシュミルズのボトルを見て、「これはみんな俺のものだ」と大喜びするリーアム・デヴリンを、気のおけない友達のように感じ、どんなに美味しい飲み物なのだろうと想像した。
汚れた英雄』か『蘇る金狼』だと思うが、大藪春彦の小説で、ニコラシカというカクテルを覚えた。口の中で混ぜるカクテルなんてものがあるのかと、まだ見ぬ世界の広さを想像し感銘を受けた。
 バーボンとショットバーの雰囲気に憧れたのは、北方謙三の〈ブラディ・ドール〉シリーズのおかげだった。ジャック・ダニエルのボトルを抱えた弁護士のキドニーが、隣に座ってウイスキーを舐めているような気がした。
 ボブ・ラングレーの『北壁の死闘』を読むと、女性が医師などの知的な職業につくのはふつうのことだと思えたし、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』には、経済活動に明るい、戦う女がごく自然に登場した。私が生まれる前の1965年に刊行された作品だ。ただ守られるだけのお姫様や、搾取されるだけのか弱い女性キャラクターは、当時から冒険小説では、あまり見かけなかったように思う。命懸けの冒険のさなかに、ただ仲間の足を引っ張るだけの人物など、生き残れないのだ。冒険小説は、中学、高校時代の女子読者にも精神的、経済的な自立をうながした。
 神戸に住んでいると、自然に海と船が好きになるのだが、セシル・スコット・フォレスターの〈ホーンブロワー〉シリーズや、アレグザンダー・ケントの〈海の勇士/ボライソー〉シリーズなどの海洋冒険小説がその傾向に拍車をかけ、「船に乗ると、どんな状況でも気分が晴れる」という、自分の性格を形成した。今はなき書店〈海文堂〉の二階で、海事関連の書籍を漁ったのも当時の良い思い出だ。
 スパイ小説なら、ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』などの〈スマイリー〉シリーズは、石畳を這う冷たい霧のような、静かな暗さが魅力だった。呼吸するように謀略する英国のイメージを、私に植え付けた。対照的に、米国のトム・クランシーは、活劇に近い冒険スパイ小説の〈ジャック・ライアン〉シリーズで、血を沸かせた。いかにも若い国アメリカらしかった。
 SFも好きだったが、中でもC・J・チェリイの『色褪せた太陽』三部作は冒険要素が強く、自分好みだった。円陣を組んで座り、手裏剣のような刃物を投げ合うという、失敗すれば大怪我するのは確実なゲームを、宇宙船のなかで延々と続ける登場人物たちの、個人の命を超越したような死生観に惹かれた。
 エリザベス・A・リンのファンタジー〈アラン史略〉シリーズや、オースン・スコット・カードの『ソングマスター』なども、冒険小説の一種として読んでいたように思う。
 新宿ゴールデン街に、〈深夜+1〉という冒険小説のメッカがあることも、内藤陳さんの『読まずに死ねるか!』を読んで知った。冒険小説の指南書だった。冒険小説は、読者も熱くするのだと悟った。ひとたび冒険小説の炎に焼かれると、わが身のみならず、周囲をも巻き込んで燃やさずにはいられない。そんな延焼傾向がある。
 私にとって、冒険小説とは何なのだろう。
 あらためて考えてみれば、自分の人生には山と谷が存在するものの(谷のほうが深くて長いけど)、冒険と呼べるほどの激しさはない。もちろん、死の危険と隣り合わせになったことも、あまりない。だいたい、ごく一般的な現代人は、医療機関に勤務したり警察官や消防職員だったりという特定の仕事に就かない限り、日常的に〈死〉を意識することはない。
 冒険小説の〈死〉は、あらゆる場所に存在した。銃弾の飛び交う戦場、疾駆する列車、嵐に揉まれる帆船、アルプスの北壁、いつでも、ありとあらゆる場所に。
〈死〉を身近に感じるゆえに、〈生〉がいとおしくなった。冒険小説に、「生き抜け」と言われているようだった。それが自分のためにせよ、大切な誰かのためにせよ、かんたんに白旗を上げるのは許されなかった。敗北は〈死〉に直結するからだ。知力、体力の限りを尽くし、勝利を模索しなければならない。
 だからだろうか。身近な冒険小説好きに、サバイバルに長けた人が多い。
 新型コロナウイルスが登場する前から、現代社会には不穏な影が落ちていた。喜べることではないが、今こそ、冒険小説が必要とされている気がする。
 漠然とした不安に満ちた現代を生き抜く、時代のバイブルが必要だ。
(福田和代)

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2020年、早川書房では、セシル・スコット・フォレスター『駆逐艦キーリング〔新訳版〕』、夏に巨匠ジョン・ル・カレの最新作『Agent Running in the Field(原題)』、潜水艦の乗組員の闘いを描く人気作『ハンターキラー』の前日譚『Final Bearing(原題)』、冬には『暗殺者グレイマン』シリーズ新作など、優れた冒険小説・スパイ小説の刊行を予定しています。どうぞお楽しみに。

レッド・メタル作戦発動(上下)』
マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリングス四世
伏見威蕃訳
ハヤカワ文庫NVより4月16日発売
本体価格各980円

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『レッド・メタル作戦発動』刊行記念・連続エッセイ 一覧

【第1回】「あのころは愉しかった・80年代回顧」(北上次郎)

【第2回】「回顧と展望、そして我が情熱」(荒山徹)

【第3回】「冒険小説ブームとわたし」(香山二三郎)

【第4回】「冒険・スパイ小説とともに50年」(伏見威蕃)

【第5回】「冒険小説、この不滅のエクスペリエンス」(霜月蒼)

【第6回】「燃える男の時代」(月村了衛)

【第7回】「宴の後に来た男」(古山裕樹)

【第8回】「冒険小説は人生の指南書です」(福田和代)

【第9回】「蜜月の果て、次へ」(川出正樹)

【第10回】「人生最良の1990年」(塩澤快浩)

【第11回】「気品あふれるロマンティシズム」(池上冬樹)


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