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中国の作家たちは、地球について、そして人類全体について、言葉を発している――編者ケン・リュウによる『折りたたみ北京 中国SFアンソロジー』序文「中国の夢」公開!

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』
ケン・リュウ編/中原尚哉・ほか訳/新☆ハヤカワ・SF・シリーズ

いま最注目の中国SF、その最先端を奔る作家たちの作品をあつめたアンソロジー『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』が刊行されました。編集は紙の動物園のケン・リュウ。本書の刊行を記念して、リュウによる序文を公開いたします。

序文「中国の夢〈チャイナ・ドリームズ〉」
ケン・リュウ
古沢嘉通訳

 本アンソロジーは、わたしが何年かにわたって翻訳してきた中国のスペキュレイティヴ・フィクション短篇から選び、一巻にまとめたものです。アメリカ合衆国で賞を取った作品もあれば、さまざまないわゆる年刊傑作選に選ばれたものもあり、また、評論家や読者に高く評価されたものや、たんにわたし自身が個人的に気に入ったものもあります。
 中国は、刺激的で多様なSF文化を持っていますが、英語に翻訳された作品がほとんどなく、中国人以外の読者が中国SFを堪能する機会がありません。本アンソロジーが英語圏の読者にとって、きっかけとして役立つことを願うものです。
“中国の夢(チャイナ・ドリームズ)”という語句は、習近平総書記が中国の発展のスローガンとして掲げた“中国の夢(チャイニーズ・ドリーム)”にかけたものです。SFは夢の文学であり、夢に関するテキストは、夢見る者について、夢を解釈する者について、そしてテキストの読み手についてかならずなにか語るものです。
 中国SFの話題が持ち上がるといつも、英語圏の読者は、「中国SFは、英語で書かれたSFとどう違うの?」と訊ねます。
 たいていの場合、その質問は曖昧ですね……それに気の利いた回答はありません、と答えて、わたしは質問者を失望させてしまいます。文化に──とりわけ、現代中国文化のように流動的で、激変している文化に──結びつけた大雑把な文学上の分類は、当該文化の複雑さや矛盾をすべてひっくるめて矮小化したものになってしまいます。適切な回答を提供しようとすれば、まったく無価値な、あるいは既存の偏見を再確認するステレオタイプな見方である大雑把な一般化にしかなりません。
 そもそも、“英語で書かれたSF”というのが、比較対象に役立つカテゴリーだと、わたしは思っていません(シンガポールで書かれたフィクション、あるいは英国や米国のものは、みなそれぞれとても異なっており、そのような地理上の境界の内部で、また、境界を越えて、さらなる区分けがあり)、そのため“中国SF”をどんな基準で区別しなければならないのかすらわたしにはわかりません。
 さらに言うなら、100人のさまざまなアメリカ人作家や批評家に、“アメリカSF”の特徴を挙げるよう頼むところを想像してみてください──100の異なる回答を耳にするでしょう。おなじことが中国人作家や批評家、そして中国SFについて当てはまります。
 本アンソロジーの限られた選択のなかですら、読者は、陳楸帆〈チェン・チウファン〉の“SFリアリズム”、夏笳〈シア・ジア〉の“ポリッジ(おかゆ)SF”、馬伯庸〈マー・ボーヨン〉の赤裸々でひねくれた政治的メタファー、糖匪〈タン・フェイ〉のシュールな心象表現とメタファー主導のロジック、程婧波〈チョン・ジンボー〉が描く濃密で豊穣な言語絵図、郝景芳〈ハオ・ジンファン〉のファビュリズムと社会学的スペキュレーション、劉慈欣〈リウ・ツーシン〉の壮大なハードSF的想像力に出会うでしょう。このことは中国で書かれたSFの広範さを示唆するはずです。このような多様さに直面して、これらの作家たちを個々に研究し、その作品を単独で扱ったほうが、たまたま中国のものであるからという理由で先入観に基づく期待をかけるより、はるかに有益で興味深いとわたしは考えます。
 これは、かなりまわりくどい言い方をするなら、”中国SF”の特徴を自信たっぷりに断言する人間は、(a)話題にしているものについてなにも知らない部外者であるか、(b)なにがしかは知っているものの、対象物の議論の余地のある性質を意図的に無視し、自分の意見を事実として表明する人間であるかのどちらかであるとわたしが考えているということです。
 つまり、わたしは自分を中国SFの専門家とみなしているのではない、ときっぱり言い切ります。自分がろくにわかっていないことをわかっている程度にわかっています。自分がもっと学ぶ必要がある──もっともっと学ぶ必要があるとわかっている程度にわかっています。そして、世の中には単純な答えなどないことをわかっている程度にわかっています(注)。
 中国は、多様な民族や文化や階級を持ち、さまざまなイデオロギーを支持する十億人以上の国民を巻きこんだ、大規模な社会的・文化的・テクノロジー的な変貌を味わっているところで、全体像を把握していると主張するのは、だれであっても──たとえそうした大変動を実体験している人々ですら──無理です。中国に関する知識が西側メディアの記事や、旅行者あるいは駐在員としての経験に限られている場合に、中国を“理解している”と主張するのは、ストローを覗いて不明瞭な箇所をかいま見た人間が、豹がどんなものなのか知っていると主張するようなものなのです。中国で生み出されるフィクションは、中国の環境の複雑さを反映しています。
 中国の政治の現実と西側との不安定な関係を考慮すると、中国SFと出会う西側の読者にとって、中国の政治に関する西側の夢や希望やおとぎ話でできたレンズを通して見ようとするのは自然なことです。西側寄りの感覚での“政府転覆”を解釈上の支えにするかもしれません。たとえば、馬伯庸の「沈黙都市」を中国の検閲機関に対するそのものずばりの攻撃として見たり、陳楸帆の「鼠年」を中国の教育制度と労働市場への批判としてだけ読んだり、夏笳の「百鬼夜行街」を国家主導の開発事業における中国の土地収用政策への婉曲的なメタファーにまで貶めたりしそうになります。
 読者には、そのような誘惑に抵抗していただきたいのです。中国の作家の政治的関心が西側の読者の期待するものとおなじだと想像するのは、よく言って傲慢であり、悪く言えば危険なのです。中国の作家たちは、地球について、たんに中国だけではなく人類全体について、言葉を発しており、その観点から彼らの作品を理解しようとするほうがはるかに実りの多いアプローチである、とわたしは思います。
 文学的メタファーを使用することで、異議や批判を言葉にするのは、中国の長い伝統であるのは確かです。しかしながら、それは作家たちが文章を著し、読者が読む目的のひとつに過ぎません。世界中の作家と同様、今日の中国の作家たちはヒューマニズムに関心を抱いています。グローバリゼーションに、テクノロジーの発展に、伝統と現代性に、富と権利の格差に、発展と環境保全に、歴史と権利と自由と正義に、家族と愛情に、言葉を通して気持ちを表明する美しさに、言語遊戯に、科学の深遠さに、発見の感動に、生の究極の意味に関心を抱いています。こうしたことを無視し、地政学にだけ焦点を当てると、作品を大きく毀損することになります。
 アプローチ方法や題材やスタイルは多様ですが、本アンソロジーに収録した作家と作品は、現代中国SFのランドスケープの一断片を表しているにすぎません。様々な視点を反映すべく作品選択のバランスを取ろうとしたものの、視野の狭さを編者であるわたしは自覚しています。ここに収録した作家の大半は〈劉慈欣を例外として〉、劉慈欣や韓松〈ハン・ソン〉や王晋康〈ワン・ジンカン〉のような地位を確立した著名作家の世代よりも若い“新星”世代に属しています。彼らの大半は、中国の最優秀大学の卒業生であり、高く評価されている職業に就いています。さらに、ウェブで発表された大衆小説よりも賞を受賞している作家や作品に焦点を当て、中国文化と歴史にかなり深い理解を要する作品よりも、翻訳して内容が伝わりやすいと思う作品を優先させました。そうしたえり好み(バイアス)と切り捨ては必要なものですが、最善の策ではありません──それゆえに読者は、本書収録の作品が代表的なものである”という結論を下すやもしれませんが、それには用心していただきたいのです。本書の個々の作品が、これまでとは異なる文学的伝統を読者が理解し、認識するうえで少しでも役に立てばいいというのがわたしの心からの願いです。
 本アンソロジーの内容を深め、中国SFのより広範な概観を提供するため、中国人作家と研究者による三本のエッセイを巻末に添えました。劉慈欣のエッセイ、「ありとあらゆる可能性の中で最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF」は、中国でのSFジャンルの歴史的概観を述べ、最高の中国人SF作家という文脈のなかで、世に知られるようになった自身の経歴を語っています。陳楸帆の「引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF」は、自分たちのまわりでの嵐のような変容と折り合いをつけようとしている、若い世代の作家たちを紹介するものです。最後に、中国SF研究を専門にしてはじめて博士号を取得した人物である夏笳のエッセイ、「中国SFを中国たらしめているものは何か?」では、中国SF作品のアカデミックな分析の出発点を提示しています。
 
 高名な翻訳家ウィリアム・ウィーヴァーは、翻訳をパフォーミング・アートになぞらえました。わたしはそのメタファーが好きです。翻訳をしているとき、わたしは文化的かつ言語的パフォーマンスに携わっています。あたらしい媒体で芸術作品を再創造する試みなのです。謙虚な気分になりつつ、わくわくもさせられる体験なのです。
 本アンソロジーに収録した作家たちとともに働く機会を得られたことを大変光栄に思います。多くの場合において、職業人としての共同作業としてはじまったものが、個人的な友情に変わりました。彼らから、わたしは翻訳についてだけではない多くのことを学んだうえに、小説の創作について、また文化および言語の境界を横断して人生を送ることについて学びました。彼らがわたしを信頼してその作品を託して下さったことに感謝しています。
 その結果をみなさんに楽しんでいただければうれしいです。

(注)実を言うと、中国SFには、かなり刺激的な学問研究の実体があり、宋明煒〈ソン・ミンウェイ〉やナサニエル・アイザックスンなどの研究者による示唆に満ち、興味深い解説が出ています。中国SFに関するパネル・ディスカッションは、比較文学やアジア研究の学会で、ごくありふれたものです。しかしながら、わたしの印象では、既存のSFファンダムに所属している多くの(大半の?)ジャンル読者や作家や評論家は、こうした一連の研究結果に詳しくありません。総じて、その手の学究的論文は、わたしが警戒している陥穽を避け、細心の注意を払った慎重な分析をおこなっています。詳しい知見を求める読者にはそうした研究を調べていただきたいものです。

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