グッド_フライト_グッド_ナイト

空には空の国境がある?極上の空エッセイ『グッド・フライト、グッド・ナイト』(ハヤカワ文庫NF)本文特別抜粋

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ブリティッシュ・エアウェイズ社の現役パイロットにしてエッセイストの著者が空の世界の魅力を語りつくすエッセイ、『グッド・フライト、グッド・ナイト』。「Wayfinding:進む方向を決めること」の章から一部を抜粋して公開いたします。

 空には空の領域があり、ひとつひとつの領域が歴史を持った空の国だ。たとえば日本はすべてひとつの領域に含まれるが、その名は日本ではなく福岡だ。航空図の上の福岡空国で、私たちは札幌コントロールから東京コントロールまで、さまざまな管制官と交信する。アメリカ上空は情け容赦ない州間戦争でもあったのか、いくつもの州が統合されている。ソルトレイクシティ(短縮してソルトレイクと呼ばれる。管制官は「コンタクト・ナウ・ソルトレイク・オン・フリーケンシー一三五ポイント七七五」などと指示する)には九つの州が含まれ、ネバダ州の南からグレートソルト湖を越えて、ソルトレイクシティ、さらにカナダ国境に至る。そこでシアトルとミネアポリスの空国に接する。イリノイ州南部はシカゴ空国ではなく、カンザスシティとインディアナポリス(インディ・センターとも呼ばれる)とメンフィスに分割されている。ニューヨークという空国もあるが、ニューヨーク州の大部分はボストン空国に属していて、ボストン空国にはニューイングランド地方全体が含まれる。

 統合傾向にあるアメリカの空国とは対照的に、ヨーロッパには独自の空域を守っているところが多い。スイスもそのひとつで、空域名はスイス連邦だが、呼びだすときはスイスかスイス・レーダーと言う。たとえば私なら「グッド・イブニング、スイス」と言ったあとに自分の機のコールサインをつける。スイスの空域はとても狭く、旅客機は高速なので、わずか数分で通過してしまう。ギリシャの管制官を呼びだすときはアテネ・コントロールと言うが、航空図にはヘラス〔訳注/古代ギリシャ人が使った名称でギリシャ全土を意味する〕と書いてある。アドリア海沿岸の混雑する空域にはベオグラードと呼ばれる空国があり、これも数分で通過できる。管制官は「ハロー」と言うやいなや、今は空にしかないユーゴスラビア国の管制官に私たちを引きわたすのだ。
 
このような細かい空国とは対照的に、マーストリヒトと呼ばれるゆったりした空国もある。マーストリヒトはヨーロッパ統一という崇高な夢の原形であり〝シングル・ヨーロピアン・スカイ〟などと呼ばれることもある。ヨーロッパを飛ぶパイロットにとってはもっともなじみの深い空国だ。ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ドイツ北西部とその付近の高高度の空域がここに含まれていて、ヨーロッパ大陸の血塗られた国境をひとまとめにしたおだやかさを保っている。地上のマーストリヒトにも行ったことがあるが、私がマーストリヒトと聞いてまず思い出すのはオランダの町ではなく、空のマーストリヒトだ。目に見えない空国が、ばらばらになったヨーロッパ大陸の北西端の上空にある。空のマーストリヒトはベルギーでもルクセンブルクでもオランダでもない。冷たい空気の多面体として幻想のように周辺国一帯を覆っている。ヨーロッパ上空の、実現しない夢の名を冠した空の国なのである。
 
私にはあまりなじみのない地名のついた空国もある。テュルクメナバートとその妹分のトルクメンバシ、ヴィエンチャン、武漢とコタキナバル、ペトロパブロフスク・カムチャツキー、ノリリスクとポリャールヌイなどがそうだ。空が編んだ詩か、はたまた彼方から聞こえるドラムビートのような心地よい響きだ。古い伝説に由来する空国もある。アルハンゲリスクにドゥシャンベ、そしてサマルカンド……マルコ・ポーロとイブン・バットゥータが記録に残し、アレクサンダー大王とチンギス・ハンが征服した都である。
 
 このように日常とはかけ離れた響きの国名を耳にすると、マーストリヒト(Maastricht)という名を、たとえばウズベク人や中国人パイロットが聞いたらどんな印象を持つのか知りたくなる。連続したaa やcht などという綴りは、何年英語を勉強したところでお目にかからないだろう。きっと海から遠く離れた内陸の、由緒ある町を連想するのではないだろうか。いや、マーストリヒトというオランダの地名も、異国の人の耳には英語と変わらないのかもしれない。現にオランダとイギリス南東部のちがいは、わずかな文法規則と排水事業の規模くらいだ。遠くの地名がどんな響きを持つかを判定するのに、あらゆる場所から来たパイロットが自由に行き交う空の国は理想的だと、私は思う。
 
 空を飛ぶ前からおなじみの名前もある。ロンドン、デリー、バンコクなど大都市の上空には同じ名前の空国がある。それらの空域に入ると、まるで都市の影響力が空中までおよんでいるかのような印象を受ける。都市の引力に引き寄せられ、その都市の輝き(夜は文字どおりの輝き)にからめとられそうになる。空域名のあとに〝センター〟をつけると大都市の権威がさらに強調される。これはアメリカ人の管制官がよくやるのだが、彼らは名前の前に冠詞(the)を配するのも大好きだ。単に「コンタクト・ナウ・ニューヨーク」と言われるよりも「コンタクト・ナウ・ザ・ニューヨーク・センター」と言われるほうが、ものものしい感じがする。指示を受けた瞬間に、ニューヨークの放つ光が夜空を照らす映像が頭に浮かぶ。
 
 西アフリカの端にはロバーツと呼ばれる空国がある。最初に航空図で見たときはロバート・フィッツロイを連想した。気象学者で、ダーウィンの船だった〈ビーグル〉号の艦長を務めた海軍軍人だ。BBCの『シッピング・フォーキャスト』で、彼にちなんだフィッツロイという海域名をよく耳にするからだろう。エアバスの早朝便を担当していたときは、まだ太陽も顔を出さない時刻に、コーヒーを飲みながら、ヒースロー空港に向けて車を走らせることがよくあった。そのときラジオから流れていたのがこの海峡予報だ。空の国があるのだから、海の国があってもおかしくない。実際のところ、ロバーツという空国は、リベリアの初代大統領ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツにちなんでいるそうだ。ロバーツはアメリカ生まれで、二〇歳のときにリベリアへ渡った。アフリカの広大な空の一角が、永遠に彼の名を留めている。
 
 イギリスの空国では、ロンドンという名詞の北側が、なぜか形容詞のスコティッシュだ。「コンタクト・ナウ・スコティッシュ」ロンドンの管制官が北へ向かう航空機に別れを告げる。一方、スコティッシュの管制官は南へ向かう航空機に「コール・ロンドン」と指示する。私はこれを聞くといつも、かつてBBCワールド・サービスの始まりを告げた「ディス・イズ・ロンドン」や「ディス・イズ・ロンドン・コーリング」という決まり文句を思い出す。地名や海や川の名前にちなんだものもたくさんある。たとえば南アメリカ大陸の上空にはアマゾニカという空域がある。また、管制官に「コンタクト・ナウ・ライン」と指示されたとき、眼下にライン川を望むのはいい気分だ。果てしない海の上に広がる空域は、やはり海にちなんだ名前を持つ。アトランティコという空域は大西洋(アトランティック)の中央から南側に至る。またアンカレッジ・オーシャニックとアンカレッジ・アークティックは、アラスカ付近の灰色と白が織りなす荒々しい海域を覆う空の国だ。太平洋上の広大な一角は、航空図によるとオークランド・オーシャニックだが、対空無線に出てくる管制官はサンフランシスコと答える。サンフランシスコ湾を挟んだオークランドとサンフランシスコの勢力争いが、太平洋のど真ん中まで持ちこされているわけだ。管制官がどんなコールサインで応じようとも、空域名はオークランドだ。オークランドの人々も、空に自分たちの町の名前を冠した大帝国があると知ったらさぞ驚くだろう。しかも空のオークランド帝国は、マニラ、ウジュンパンダン、ニュージーランドのオークランド、タヒチと境界を接しているのだから。
 
 キプロスの北にふたつの空域が重複する部分があり、ここを通過する際は別々の周波数でそれぞれの管制官と交信しなければならない。逆にノルウェー沿岸にはどこの空国にも属さない細長い空域がある。誰のものでもない空域は、ノルウェーのボードーとロシアのムルマンスクをナイフのように切り裂いており、海底火山の噴火によって空にできた新しい島のようにも見える。ほかにも太平洋には名なしの空域がある。ガラパゴス島の西にある、空国イスラ・デ・パスクア(イースター島)の北側の空域だ。世界のすみずみまで探検されつくした現代に、空とはいえ空白地帯が残っているというのは意外な感じがする。
 
 アフリカでは、ブラザヴィルの上空にブラザと呼ばれる空域がある。対空無線が通じにくいことで有名で、パイロットも管制官も、何を言うにも二度、大きな声で繰り返す。長距離線のパイロットに向かって、はっきりした大きな声で「ブラザ、ブラザ!」と呼びかけたら、きっと相手は顔をほころばせるだろう。夜もまだ早い時間に、赤道付近の星空の下を飛んだときのことを思い出すにちがいない。西アフリカには、おそらく世界でもっとも優美な名前を与えられた姉妹のような空域がある。ダカール・テレストルとダカール・オセアニックだ。テレストルの境で陸は海に場所を譲る。ダカールの大地(テラ)の空と海(オーシャン)の空である。
 
 空の国にもしかるべき管轄権があり、私たちパイロットは境界に来ると次の空国の管制官へ引きわたされる。航空用語でこれを〝ハンド・オーバー〟という。ひとつの空国から次の空国へ、そうやって世界はつながっていく。境界線までまだ数マイルあるのに、次の管制官に引き継がれることも少なくない。「コール・ナウ・ジッダ(ジッダを呼びだしなさい)。ユー・アー・リリースド(あなたを解放します)」

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グッド・フライト、グッド・ナイト
マーク・ヴァンホーナッカー/岡本由香子訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫 好評発売中

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