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薬の開発は月面着陸や原子爆弾の設計より難しい!?『新薬の狩人たち』冒頭公開②

新薬の狩人たち[イントロダクション] バベルの図書館を探索する
(第1回はこちら

私に薬理学を教えてくれた教授は、医師でもあった。教授からこんな話を聞いたことがある。患者が医師を受診する機会の95パーセントで、患者は実際には医師に助けてもらうわけではない。ほとんどの場合は、医師が介入する必要もなく患者の体がひとりでに治るか、病気が治療不可能で医師にはなすすべもないかのどちらかだというのだ。教授の見方では、医師は患者の訪問を受けた機会のわずか5パーセントでしか、有意義な変化をもたらせない。この数値は低いように思われるが、ドラッグハンターが直面する数値に比べれば夢のように高い。

まず、科学者が立案する創薬プロジェクト構想のうち、経営陣から資金を提供されるのは約5パーセントしかない。そのなかで、FDAに承認される医薬品につながるのはわずか2パーセント。つまり、ドラッグハンターがなんらかの変化をもたらせる見込みは、0.1パーセントほどの確率しかない。新薬を見つけるのは非常に難しく、現にそれが製薬業界を危機に導いている。新薬の開発費は平均で15億ドルにのぼり、FDAの承認を得るまでに1品目あたり14年かかる。それで大手製薬企業は、新薬を見つけ出すために巨額の研究費が必要なことや、ほとんどの努力が空振りになって有用な薬が生み出されないという歯がゆい事実に苛立ちを募らせている。最近、ファイザー社の役員たちから、創薬事業から完全に手を引くことを考えていると聞いた。代わりに彼らは、導入事業を手がけたがっている。いいかえれば、他社がつくり出した薬を単に買いたいわけだ。ちょっと考えてみてほしい。新薬の探索はとてつもなく困難だという理由で、優秀な科学者のそろった特に裕福な老舗製薬企業の一つ──はっきりいえば世界最大手──が、創薬の問題を他社に任せたほうがよいと考えているのだ。

では、なぜ新薬の探索は、たとえば有人月面着陸や原子爆弾の設計よりもはるかに「難易度」が高いのだろう? アポロ計画やマンハッタン計画では、すでに確立した科学方程式や工学原理や数式が利用された。もちろん、どちらの計画も大変で厳しい挑戦だったが、少なくとも研究者たちのもとには、指針となる明確な科学的ロードマップや数学的コンパスがあった。アポロ計画に携わった技術者たちは、地球から月までの距離や、月に到着するのに必要な燃料の量をはっきりと知っていた。マンハッタン計画の科学者たちは、アインシュタインの公式「E゠m×(cの2乗)」に基づいて、物質を、都市を壊滅させるエネルギーに変換できることを知っていた。

それとは対照的に、新薬設計の核心的な試練──膨大な数の候補化合物の試行錯誤によるスクリーニング──は、既知の方程式や公式による手引きがないなかで取り組む仕事だ。技術者は、橋桁を設置する前に橋脚がその重みに耐えられるかどうかを知っているが、ドラッグハンターには、お目当ての薬がどのように作用するかについて、人間の臨床試験参加者が実際にそれを摂取するまでよくわからない

19世紀なかばに、チバガイギー社(現在は合併によりノバルティス社となっている)の化学者たちが、この宇宙のなかで薬になるかもしれない化合物の総数を計算した。その数なんと、3 × (10の62乗) 種類。数の大きさを表現するときには、大きな数、膨大な数、そして理解不能な信じられないほど大きな数、つまり無限ともいえるほどの数といった三段階くらいに分けられる。3 × (10の62乗) という数は、三番めのカテゴリーに入る。仮に、なにかの病気──たとえば乳ガン──に対する有効な治療薬としての可能性を探るために毎秒1000個の化合物を試せるとした場合、太陽が燃え尽きるまで作業しても、乳ガン治療候補化合物の総数のほとんどが片づいていないことになる

こうした新薬探索の核心をなす試練を見事にとらえていると、私が思っている物語がある。アルゼンチンの盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いた「バベルの図書館」だ。ボルヘスはその物語で宇宙を図書館に見立て、無数の六角形の部屋があらゆる方向に無限に連なっていると想像する。各部屋の本棚には本がぎっしりと詰めこまれている。各本の中身はランダムな文字の並びで、二冊として同じものはない。たまに、単なる偶然で、たとえば「その山には金がある」のように、文として読める一文が本に書かれていることがある。だがボルヘスが語るように、「筋の通った行や率直な表現が一つ出てきたかと思えば、文字の無意味な羅列、意味をなさない言葉、支離滅裂な言葉がずらずらと並んでいる」。

それでもその図書館には、まったくの偶然で、判読できて人生を変える叡智に満ちた本が所蔵されているにちがいない。そのような本は『弁明の書』と呼ばれる。ボルヘスの幻想物語では、「司書」として知られる孤独な調査官たちが、このような『弁明の書』が見つかることを願いながら図書館じゅうを延々とさまよい歩く。ほとんどの司書は果てしない六角形の連なりをむなしくさすらい、ナンセンスな本に出会うのみで一生を過ごす。しかしボルヘスは、運のよさか不屈の意志力によって『弁明の書』をうまく発見できた司書がいると記している。

バベルの図書館と同じく、考えられる限りの薬はすべて、広大な理論上の化合物ライブラリーのどこかに含まれている。人体に害を与えずに卵巣ガンを破壊する分子構造や、アルツハイマー病のじわじわとした進行を食い止める分子構造、エイズを治す分子構造は存在する──いや、そんなものはまったく存在しない可能性もある。いずれにせよ、それを確実に知る手立てはない。現代のドラッグハンターは、ボルヘスが描いたバベルの図書館の司書たちと同類だ。人生を変えるような化合物を永遠に探し求める一方で、『弁明の書』に相当する薬など決して見つからないのではないかという内心の恐怖をつねに押し殺している。

問題は、突きつめれば人間の体にある。私たちの生理的活動は、ロケットの推進や核分裂のような境界の明確な閉鎖系ではない。生理的活動は開放系だ。それは深遠かつ不可解な分子系で、人体の構成要素が境界のあいまいな形で無数の関係をつくっているうえ、体の構造や動態が人によって固有であるためなおさら理解しがたい。私たちはこうした生理学的関係のごく一部しか理解しておらず、体の基本的な分子成分のほとんどについて、実際の機能をまだ解明できていない。事をより複雑にするのは、一人一人の遺伝的・生理学的構造が特異的で、各人の体の機能がわずかに(あるいはおおいに)異なることだ。さらに厄介なことに、細胞や組織や器官についての理解が飛躍的に進んだにもかかわらず、特定の化合物が生体中の特定の分子とどう相互作用するのかを、あらかじめ正確に予測することはまったくできない。結局のところ、特定の病気に対して、薬理学者が「創薬可能(ドラッガブル)なタンパク質」や「創薬可能(ドラッガブル)な標的」と呼ぶもの──病変と関係がある特定のタンパク質で、化学物質が作用を及ぼせるもの──があるかどうかを確実に知ることはできないのだ。

有効な薬を設計するためには、適切な化合物(薬)と適切な標的(ドラッガブルなタンパク質)の2つが必要だ。薬は、タンパク質の錠を開けて生理学的エンジンを始動させる鍵のようなものだ。人間の健康に特定の方法で意図的に影響を与えたい場合、つまり、うつ病の症状を軽くしたり、かゆみを和らげたり、食中毒を治したりするなど、なんらかの健康効果を生み出したければ、まず、問題とされる人体の生理的プロセスに影響を及ぼす標的タンパク質、あるいは逆に、病原体の生理的プロセスを妨げる標的タンパク質を特定しなくてはならない。

たとえば、リピトールという薬はHMG‐CoA還元酵素に作用する。HMG‐CoA還元酵素は、体がコレステロールを合成する速度を調節するタンパク質だ。一方、ペニシリンはペプチドグリカントランスペプチダーゼという酵素を阻害する。ペプチドグリカントランスペプチダーゼは、細菌の(不可欠な)細胞壁を合成するのに必要なタンパク質だ。しかし、タンパク質の錠を開ける薬の鍵を見出すのは……。ハムレットならこう嘆息するだろう。「ああ、それが障害なのだ!」。新薬の探索は、ドラッグハンターをひるませる難題だ。だが可能性は乏しいものの、スレン・セーガルのような一部のドラッグハンターは、揺るぎない決意やありえないほどの幸運によって、そして個人の才能や広範な協力によって、彼らの『弁明の書』にめぐり合った

(第3回に続く)

***

[著者紹介]
ドナルド・R・キルシュ(Donald R. Kirsch)
35年以上の経歴をもつ新薬研究者(ドラッグハンター)。ラトガース大学で生化学の学士号を、プリンストン大学で生物学の修士号と博士号を取得。スクイブ社(現ブリストル・マイヤーズ・スクイブ)、アメリカン・サイアナミッド社、ワイス社(ともに現ファイザー)、カンブリア・ファーマシューティカルズ社で抗感染症薬や抗真菌薬、抗ガン剤の開発や機能ゲノミクス研究に携わる。これまでに医薬品関連の特許を24件取得、50本を超える論文を執筆している。現在はバイオ/製薬業界コンサルタントとして活躍するほか、ハーバード大学エクステンション・スクールで新薬探索の講義を担当する。

オギ・オーガス(Ogi Ogas)
サイエンスライター。《ウォール・ストリート・ジャーナル》紙や《ボストン・グローブ》紙、《ワイアード》誌などに寄稿。著書に『性欲の科学』(サイ・ガダムとの共著)など。

[訳者略歴]
寺町朋子(てらまち・ともこ)
翻訳家。京都大学薬学部卒業。企業で医薬品の研究開発に携わり、科学書出版社勤務を経て現在にいたる。訳書にハート『ドラッグと分断社会アメリカ』、ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(以上早川書房刊)、シルバータウン『なぜ老いるのか、なぜ死ぬのか、進化論でわかる』ほか多数。

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