【『悲劇喜劇』せつない演劇特集 試し読み】ーーせつないは書けるか 三浦直之(劇団ロロ主宰)
只今発売中の『悲劇喜劇』24年9月号「せつない演劇」特集から、劇団ロロ主宰の三浦直之さんの記事を公開いたします!
何を”せつない”と捉えるのか、十人十色の感覚を、演劇に絡めて教えていただきました!
本誌には、劇団ロロの新作、劇と短歌『飽きてから』(原案=三浦直之、上坂あゆ美、脚本=三浦直之 短歌=上坂あゆ美)の初稿版も掲載しています。
併せてお楽しみください!
せつないは書けるか
三浦直之(劇団ロロ主宰)
せつないシーンを書くぞ! と思って書いたことはないし、そうやって書いたものは、むしろ一番せつなさから遠い気がする。
意気込みとかエクスクラメーションマークって、絶対せつなくない。
それを踏まえた上で、せつないシーンを考えてみる。
そもそも自分がせつないと思う瞬間ってどんなときだろう。
と、これまでをいろいろ振り返ってみたけど上手く思い出せない。
せつないっていうのは、常に現在進行形の感情だ。たとえば「楽しい」だと、「あー楽しかった」みたいに過去形で味わうこともできるけど「あーせつなかった」っておもうことは、まずない。
せつなさは常にいまこの瞬間に胸をせりあがって「せつね~」となる。
そして、いつのまにか自分を通り過ぎてどこかへ消えていく。
だから、「あの頃、せつなかった自分」を思い浮かべようとしてもうまく像を結ばない。どんな質感で、どんな重さでせつなかったのか、取り戻せない。それでも、たしかあのときせつなかったなって記憶はある。
でも、いくらその記憶を呼び覚ましても、それは圧倒的に過去で、その記憶を眺める現在の自分はせつなくない。
何年前だったか、東京から実家の宮城県に帰省したとき、家族で近所の焼き肉屋へいった。
ぼくが大学進学を機に上京して以降、帰省するたびにその焼き肉屋で食事をするのがなんとなく恒例行事になっていた。脂身の多い霜降り肉が名物で、20代のころはバクバク食べていたのだけれど、年を重ねるにつれて、降り注ぐ霜がだんだんスティック糊くらいの塊に感じられるようになってきてきつくなった。焼き肉をかつてのように楽しめないっていうのも、めちゃくちゃせつなくはあるのだけど、ここで書きたいのはそういうことじゃなくて、その食事の最中におこった父との一場面。
胃もたれがピークになっていたぼくの皿に、ほろ酔いの父親が焼かれた肉をトングで掴んでのせようとした。
ぼく「(父をみて)いらないいらない、もう腹いっぱい」
父「(肉を置いてニコニコ)」
ぼく「・・・・・・」
父「(ニコニコ)」
ぼく「なに?」
父「いや、今日はじめて目が合ったなって」
父もぼくも、家ではあまり口数の多い方ではなく、だから会話も少なかった。それがずっと普通のことだとおもっていたけれど、父にとってはそうじゃないんだとこのとき初めて知った。父のこの言葉を聞くまで、生活のなかで家族と目が合ったかどうかなんて気にしたこともなかった。
あのとき、ぼくはせつなかった。
それは父の寂しさみたいなものが自分のなかに流れ込んできたからだとおもう。せつなさっていうのはきっと、自分の中から沸き起こるものじゃなく、誰かの寂しさとか、恋しさとか、哀しさとかにふとした瞬間に触れ、思いがけずそれが自分に流れ込んだときに生まれるものなんだとおもう。
流れなんだから、ずっと留まることはなくて、過ぎ去っていく。
ぼくが父の言葉を聞いて感じたせつなさも、いつのまにかどこかへいって、いまのぼくは、せつなかった記憶の情報だけを覚えている。
せつないシーンは書けるだろうか。
ぼくと父のあの場面を演劇にしたところで(あ、ずっと演劇の前提で考えてました)せつないシーンにはならないだろう。
登場人物から登場人物へと、寂しさ、恋しさ、哀しさが流れ込んだとしても、それは登場人物がせつなくなるだけで、せつないシーンではない。
せつなさが書けるとしたら、舞台上にある寂しさや恋しさや哀しさが、観客へと流れ込んでいかなくちゃいけない。だから、すごく抽象的だけど、父の「今日はじめて目が合ったな」という言葉が、舞台上から観客へと流れ込めば、それはせつないシーンになるのかもしれない。
舞台と観客が、たったいま、初めて視線が交わるとき、せつなさは生まれるかもしれない。
もう一度、父とのやりとりを思い出す。
あの言葉を聞いたあと、ぼくはなんて返事をしたのか。たしか、口ごもりながら、父から目線をそらしたはずだ。
一瞬交わった視線は、すぐさますれ違って、いつもの暮らしに飲み込まれていく。「せつないよ」って言えばよかった。
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