悲劇喜劇2019_07

岸田戯曲賞・記念対談――岡田利規×松原俊太郎「日本演劇の来たるべき新時代」(悲劇喜劇7月号)

2019年に『山山』で岸田國士戯曲賞を受賞した松原俊太郎。悲劇喜劇7月号では、岸田賞の選考委員で『山山』を激賞した岡田利規(チェルフィッチュ主宰)と松原のロング対談を掲載。批評家の佐々木敦司会のもと、今の演劇シーンが直面している危機と可能性をめぐる対話が行われました。本誌発売を記念し、対談冒頭を公開します。

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「日本演劇の来たるべき新時代」 岡田利規×松原俊太郎 聞き手=佐々木敦

松原俊太郎『山山』の衝撃

佐々木敦(以下、佐々木) 松原さん、岸田戯曲賞受賞おめでとうございます。松原さんと岡田利規さんは今日が初対面です。岸田賞の選考会で、岡田さんが松原さんの授賞を強く推したことがきっかけで、この対談が組まれました。(注:受賞発表後の岡田のコメントは次の通り。「圧倒的に強い言葉をたたみかけ、われわれの置かれた現実を演劇的に抽象化していくパワーを持つ松原氏に衝撃を受けました。選考会で意見は割れましたが、わたしは、この人はすごいな、適わないな、と思いました。彼の言葉によって牽引される日本の演劇の来たるべき新時代を期待しています」。詳しい選評は白水社HPにて公開中。)
 まずは岡田さんに、戯曲『山山』をなぜここまで強く推したのか伺いたいと思います。

岡田利規(以下、岡田) こういう書き手がやっと出てきたと思いました。書かれてある言葉が、終始、強い。「これが戯曲か」みたいなことは僕はちっとも思わない。『山山』は反演劇どころか、むしろとても演劇的だと思う。あと、この文体をどう発話したらいいか、この言葉を使って俳優とどうやって上演をつくっていけるだろうか、という演出家としての関心を強く持ちました。つまり、演出したいと思ったんですよね。

佐々木 実は、昨日『山山』の上映会で松原さんとアフタートークで話したけど、松原さんも岡田さんに演出してもらいたいって言ってたよね(笑)。(注:4/23の岸田國士戯曲賞授賞式の前日、早稲田小劇場どらま館では、地点『山山』の映像上映会が行われた[主催=KAAT神奈川芸術劇場、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、早稲田小劇場どらま館]。上映後は、松原俊太郎と佐々木敦のトークが開催された。)

松原俊太郎(以下、松原) はい(笑)。

岡田 そうなんだ。僕、挑戦してみたい。簡単ではないだろうけど、できると思うし、まあ、言っちゃうと、僕ぐらいじゃないと出来ないだろうなんて思ったりもしてます(笑)。

佐々木 ここで一度確認しておくと、岡田さんは『山山』の上演を観てないんですよね。

岡田 観てないです。

佐々木
 今まで松原さんが書いた戯曲は全部「地点」が上演しているけど、それも観てない?

岡田 一つも観てないです。

佐々木 じゃあ純粋に戯曲を通して松原さんに出会ったということですよね。

岡田 そうです。自分の演出で、この言葉を観客が咀嚼できるように届けたい、観客の脳にインストールしたいと思った。『山山』を読んで、密度の高い強い言葉をひたすら脳にぶちこまれつづける感覚を持ったんですよ。これは相当丁寧に届けないと、観客は途中でギブアップしちゃうだろうなと思った。「これ以上はもう無理だから、あとは音として聴こう」みたいになっちゃうんじゃないかと。でもそれじゃ、あまりにもったいない。

佐々木 この戯曲をどうやったらリアライズできるのか挑戦してみたいと思ったということですよね。松原さん、今の話を受けてどうですか?

松原 光栄な話です。僕は戯曲を書くときに、俳優の具体的な身体は置かないようにしていて、逆にこの言葉に身体を与えてくださいと思って書いています。テキストから立ち上がってくる身体を見るのが楽しみで書いている。

岡田 テキストが身体を含め上演のありようをインスパイアするために用いられるということと、テキストの言葉そのものが観客に届き、それによって観客の中に変容がおこることとは、別のことですよね。どちらかといえば後者のほうが大事だと、僕は思っています。『山山』の言葉が観客にきちんと届いたときに、その場でとんでもないことが起こる。その様子を僕は思い浮かべることができた。選考会では「それは無理なんじゃない?」的な声もありましたけど(笑)。

松原 僕は演出をしないので、戯曲を書くときに第一に想定するのは、観客じゃなくて読者になるんですよ。そのとき観客の存在はイメージに近くなっています。でも戯曲内の世界の周縁には必ず観客のような人たちがいて、その人たちのことは常に意識して書いている。

佐々木 単に台詞が発話されっぱなしなのではなく、その発話された言葉を聞いている存在が戯曲の中に含まれているということですよね。

松原 そうです。

佐々木 さっき岡田さんは観客に直接言葉を届けたいと言いました。それは通常の演劇が、戯曲があって、観客がいて、そのあいだに上演という何かがはさまっているとすると、『山山』はそうではなく、その「あいだ」を一足飛ばしにして、あたかも戯曲を読んでいるかのように、観客に戯曲の言葉を届けたいと思ったということですか。

岡田 そうです。

佐々木 そうなると、戯曲で『山山』を読むという体験と、岡田利規が演出した『山山』を観るという体験にはどのような違いがあるのか。それともその二つは限りなく近づくのがいいことなのか、という話が出てくると思う。

岡田 それについては、僕がいつも言っている方法論を繰り返すだけになってしまいますけれども、つまり、俳優がイマジネーションを抱えた状態で舞台上にいて、観客はそのイマジネーションを観る、ということですね。僕の方法論って、要はそれだけなんです。もし『山山』をやることになった場合でも、「この台詞を発するとき、何を思い描くか」について、俳優と考え、試行錯誤することになります。「何を思い描くか」は、「観客に何を思い描かせたいのか」とニアリーイーコル。俳優は人間と違って、自分のために想像するのではなく、観客のために想像するわけです。俳優は観客のために存在するわけなので。俳優の想像は、非常に明確で具体的なものです。その明確で具体的なものを、観客に届ける。戯曲を読むとき、俳優が届ける想像は当然介在しませんから、その点において、戯曲と上演は大幅に違うものです。

佐々木 さきほど岡田さんは地点の上演を観ていないと言いましたが、戯曲と上演の差異は、上演を観れば一目瞭然なんですよ。かなりカットされているし、書いていないことを足されてもいる。

岡田 「ヤッホー」と言ってるらしい、というのは聞いております(笑)。

佐々木 それが典型的な例ですね(笑)。だから戯曲を読んで上演を観ると驚くし、上演を観て戯曲を読むと驚く。

岡田 上演台本化の過程にはそれはそれで別の興味はあるものの、戯曲のまま『山山』が上演されることに興味があります。構成があるし、無駄があるようには思わない。

(続きは本誌でお楽しみください。
本誌では、次のようなテーマが続きます。
「読むだけでは完結しない戯曲という独特な文学形式」
「状況の分断が顕在化したエポック・メイキングな岸田賞」
「第四の壁を越えたときダイアローグとモノローグの意味は反転する」
「チェーホフ度一〇〇パーセントで書いた『山山』」
「リアリズムの誤謬、ナチュラリズムの限界」
「観客が負荷を引き受け自己に作用を与える、日本の演劇の来たるべき新時代」)

〈プロフィール〉
岡田利規(おかだ・としき)演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。1973年横浜生まれ、熊本在住。05年、『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年、デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で第2回大江健三郎賞受賞。12年より、岸田國士戯曲賞選考委員。
16年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務める。
[今後の予定]響きあうアジア2019 ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也『プラータナー:憑依のポートレート』2019年6月27日~7月7日=東京芸術劇場 シアターイースト〈お問い合わせ〉03-6825-1223(株式会社precog)

松原俊太郎(まつばら・しゅんたろう)作家。1988年、熊本県生まれ。神戸大学経済学部卒。地点『ファッツァー』で演劇と出会う。15年、処女戯曲『みちゆき』で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。19年、『山山』で第63回岸田國士戯曲賞を受賞。主な作品に『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『カオラマ』、短篇小説『またのために』(『悲劇喜劇』2018年1月号掲載)。2019年度セゾン文化財団ジュニア・フェロー。
[今後の予定]文学座アトリエの会『松原俊太郎書き下ろし作品(タイトル未定)』2019年12月3日~12月15日=文学座アトリエ/作=松原俊太郎/演出=今井朋彦〈お問い合わせ〉03-3351-7265(文学座)。

佐々木敦(ささき・あつし)批評家。HEADZ主宰。芸術文化の諸領域を貫通する批評活動を行っている。著書多数。最新刊は『アートートロジー 「芸術」の同語反復』(フィルムアート社)。

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