そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第26章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第26章を公開。

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『そして夜は甦る』(原尞)

26

 錦織警部はくたびれた濃紺のスーツに昨日と同じ黒っぽいネクタイで、新宿署の駐車場に停めたセドリックの運転席に坐っていた。私はコートを脱ぎながら、助手席のほうへまわった。映画館の手錠から解放されたあと、三時過ぎに約束の電話を入れると、「体よくおれを利用するつもりだったら、後悔するぞ」と念を押して、ここへ来るように指定したのだ。私は助手席のドアを開けてコートを後部座席にほうると、彼の隣りに乗り込んだ。
 錦織はネクタイの結び目をぐいと引っ張って緩めた。結び目が擦り切れて締められなくなるまで、二本目のネクタイは買わないタイプの男だ。彼の場合はそれが賢明だった。どうせネクタイを締めているほうが相手に無礼な印象を与えるのだ。
「出かける前に、何が起こっているのか説明しろ」と、錦織が言った。相変わらずの不機嫌さに、いまは職業的な執念深さが加わっていた。
「おれたちの行先はどこだ?」と、私は訊いた。
「だめだ。話を訊いてからだ。話によっては、行先もへちまもない」
「どのくらい時間がかかるか知りたいだけさ」
「……三十分だ」
「車を出してくれ。おれの話も三十分はたっぷりかかりそうだ。時間をむだにしたくない」私はタバコを出して、火をつけた。
 錦織は悪態をついてエンジンをスタートさせた。セドリックが駐車場を出て、青梅街道を西へ向かうのを待ってから、私は話すべきことを話した。話す必要のないことは話さなかった。彼はめずらしく一言も口を挟まずに聞いた。私は三本のタバコを喫い、私が喫っていないときに、彼はフィルター付きのタバコを二本喫った。環七通りとの交差点を過ぎて車内のニコチンが嫌煙家の致死量を超えた頃、私の話は終わった。
 錦織の狩人としての反応は早かった。彼は無線のスイッチを入れてマイクを取った。「錦織警部だ。捜査課の田島主任を出してくれ」
 しばらく待つと、年配らしいだみ声の男が応答した。
「淀橋の火事の焼死体の件はどうだ?」と、錦織が訊いた。
 田島は殺人や放火の疑いはないようだと言い、捜査経過を報告しようとした。
「それはいい。誰か一人残してあとは手を空けてくれ」
 田島は諒解と応えた。
「まず、東神電鉄を二、三年前に馘になった宣伝担当の重役の現在の居所を調べてくれ。横領らしいが、警察沙汰になったわけじゃないから、どういう形で辞職したのかは判らん」
 私は彼の年齢や特徴などを繰り返し、錦織がそれを田島に伝えた。「ただし、東神の人間にはこの捜査のことは一切知られてはならん。少々厄介な仕事だから、きみが自分でやってくれ」
 田島は、何か方法があるでしょうと言った。
「それから、海部雅美という女を張ってもらいたい」
 私は彼女のアパートと調布のバーのこと、彼女の特徴を教えた。同業の女友達の名前と住所も付け加えた。
「彼女は現在その女友達のところにいるらしい。夕方までには調布のバーに出かけるはずだ。彼女がある男に会うかどうかを確認するのが張り込みの狙いだ」
 私は問題の人物をなるべく詳細に再現した。後部座席のコートのポケットに、写りの悪い彼の写真があるが、今は間に合わなかった。
「彼女がそういう男に会えば、その男を徹底的にマークする。ただし、こいつは拳銃を所持している。男には絶対気づかれてはならん。しかし、逃亡されるくらいなら逮捕しろ。いいな?」最後の一言は、私の諒解を取った言葉でもあった。
「その男の経歴は──」と、錦織が言った。私は彼の職業、射撃歴、渡米のこと、結婚歴などを繰り返した。
「こいつの身許の割り出しに、誰か一人さいてくれ。それから、〈東神グループ〉の会長秘書の長谷川という男をマークしろ」錦織は長谷川の所有しているBMWの車種と登録ナンバーを調べるように付け加えた。
「ほかに何かあるか」と、錦織が私に訊いた。
「府中第一病院の朝倉という男から、例の無断退院者のことを聴取してほしい。佐伯氏のほかにその患者について問い合わせた者がいなかったかどうかもだ」
 錦織は田島にその指示を与えてから、無線を切った。車は荻窪の先の四面道を過ぎるところだった。
「おれを尾行していたサングラスの男はどうした?」と、私は訊いた。
「だめだ。帽子に口ひげの男の差し金だとすれば、抜け目のないやつだ。おまえを尾けるように頼んだ男とは、競馬場で二、三度会っただけで、名前も住所も知らんそうだ。半年位前に、有り金をすって頭に来ていると、五、六万円融通してくれて、小遣いを稼ぐつもりがあるなら連絡先を教えておけと言ったそうだ。以来、似たような仕事を何回か頼まれて金をもらったと言っている。それが中野署の連中の報告だ」
「報酬を払うときに、やつを押さえられないのか」
「いや、仕事を頼むときは電話で、支払いは郵送してくるそうだ。しかも、競馬場で連絡先を教えてからは一度も会っていない。その男は口ひげはなかったが帽子はいつもかぶっていたそうだ。半年前の話だがな」
「いつかは命取りになりそうな趣味だな。サングラスの男は釈放するのか。そいつの口から、おれと警察の間に連絡があることが漏れるのは感心しないが」
「その心配はない。このところ競馬場で頻発していたひったくりの犯人に人相がそっくりで、被害者の一人がやつに間違いないと証言したそうだから、当分外へは出られない」
 錦織は荻窪署の先を左折して、西荻窪の駅のほうへ車を走らせた。善福寺川を渡ったあたりで所番地を確かめ、まもなく六階建の真新しいマンションの駐車場にセドリックを乗り入れた。
「おまえの電話の直後に、中野署から佐伯直樹のマークⅡを発見したという報告が入った」
「どこで?」と、私は訊いた。
「上石神井付近の新青梅街道に乗り捨ててあった」
「佐伯氏は?」
 錦織は首を横に振った。「不審なところは何もなく、たったいま持ち主が駐車して行ったばかりという感じだったそうだ。鑑識の調べが終わらなければ何とも言えんが、大した手掛りは残っていまい」
 私たちはセドリックを降りた。
「おれは管理人に会って来るから、おまえは車を確認しろ。目当ての車は白のギャラン・シグマだ」錦織はマンションの真っ白い建物のほうへ歩き去った。
 私は駐車場を見渡した。駐車中の車は全部で六台、うち白い車が二台、近くにあるのは一見してフォルクスワーゲンと分かったので、私は駐車場の奥にあるもう一台の白い車に近づいた。錦織の言ったギャラン・シグマで、登録ナンバーは渡辺の伝言にあった〝練馬59ぬ9375〟だった。私は建物のほうへ引き返し、玄関ではなく駐車場への出入口から入った。錦織が管理人室から出て来たところだった。
「車はどうだ?」
「間違いない」
「五階へ行くぞ」
 私たちは玄関の突き当たりでエレベーターを見つけて、乗り込んだ。錦織が五階のボタンを押した。「男の名前は勝間田剛、二十五才。学生くずれでホスト・クラブに勤めている。管理人の話では、この時間はまだたいてい部屋にいるそうだ。なかなかの売れっ子で、名前に似合わぬ色男らしいぜ」
 五階に着いて、私たちはエレベーターを降りた。錦織は部屋の番号を探して、五〇三号室の前で立ち止まった。彼はドアの脇のブザーを押したあと、中の住人から見えない位置まで脇に移動した。そして、壁に背中をつけると、上衣の前を開けて右手を腰の拳銃のほうへまわした。
 十秒ほど経つと、「誰? ミキかい?」と言う声がして、ドアが開いた。難聴の演奏者が難聴のファンを対象にしたような音楽と一緒に、パジャマの上にローブをはおった若い男が顔を出し、私の顔を怪訝そうに見た。私が錦織に首を振って見せると、彼はドアの正面に戻った。
「勝間田さんだね? 警察の者だが、ちょっと中へ入れてもらうよ」彼は右手で警察手帳を出して相手に見せながら、左手でドアを大きく開けた。
「ええ。ど、どうぞ」と、若い男は答えて一歩後ろへさがった。すらりとした長身に、湯上がりのように逆立った流行の髪、耳の上の線で剃り落としたもみあげ、太陽以外の何かで焼いた顔がのっていた。典型的なハンサムだが、ハンサムという以外には何の特徴もない顔だった。私たちが玄関に入ってドアを閉めると、彼はどうぞと繰り返して、私たちを部屋の奥へ案内した。
 午後十時過ぎのテレビドラマの画面でしかお眼にかかれないような、小ぎれいに整った住まいだった。リビング・ルームにキッチンがつながった広い部屋に通されると、私たちは中央の白いテーブルのまわりに腰をおろした。ベランダに通じるサッシのガラス戸には白いレースのカーテンが掛かっていた。この部屋でいちばん目立つのは、そのカーテンのそばの壁いっぱいに貼ってある特大のジェームス・ディーンのポスターだった。生きていれば、この部屋の住人の父親以上の年になっている俳優だが、この部屋に彼の父親の写真が一枚もないことは賭けてもよかった。
 隣りの寝室へのドアが半分開いたままになっていて、私の位置からベッドの端と壁際のステレオ装置がのぞいていた。ロック音楽はそこから鳴り響いて来た。〈丸井〉の若者向け商品の展示ルームに迷い込んだような気分だった。
 錦織が用件に入ろうとしたが、寝室の音楽が邪魔だった。
「ちょっと音を小さくして来ます」と、勝間田が言って、立ち上がった。
「よかったら消してもらえないかね。レコード鑑賞に来たわけじゃないんだ」と、錦織が言った。
「ビートルズなんです」と、勝間田が言った。壁の向こうに、この世の中で一番正しいものが存在しているような口調だった。彼は寝室へ行った。
「ビートルズだと?」と、錦織が言った。「あれが解らんと、近頃は若い警官までが犯罪者でも見るような眼つきでこっちを見るぜ。下らんものを下らんと言うのが怖い大人が増えてるだけさ。フン、あんなものは今世紀最大の過大評価だ」
「あんたが音楽についてそんな洒落た意見を持っているとは知らなかった。橋爪のカラオケ趣味よりはましだな」
「うるさい。二度と橋爪とおれを比較するな」
 共感を強要するような歌声が小さくなって消えると、勝間田が戻って来て、テーブルについた。
「私は新宿署の錦織という者だが、一昨日の月曜日の夜八時から九時のあいだ、きみがどこにいたかを教えてもらいたい」
「月曜日の夜ですか。もちろん、勤め先の吉祥寺にいましたよ。吉祥寺の南口にある〈ファブリス〉というクラブですけど」
「その店に、何時から何時まで?」
「開店時間の七時少し前から、閉店の十二時過ぎまで」
「途中一度も店を出ていない?」
「ええ。忙しい店ですから、そんな暇はありません」
「誰かそれを証言してくれる人がいるかな?」
「クラブの支配人でも、同僚でも、お客さんでも、大勢いますよ」と、勝間田はリラックスした態度で答えた。
 錦織は私をちらっと見て、すぐ勝間田に視線を戻した。
「下の駐車場にある白いギャランはきみの車だね?」錦織は、その登録ナンバーを付け加えた。
 勝間田の様子がまた落ち着かなくなった。「ええ、そうです。ぼくの車ですが……」
「月曜日の夜の八時から九時頃、あのギャランがどこにあったか教えてもらいたい」
「それは……ちょっと、分からないんです。実は、あの夜は友達に車を貸してたもんで──」
「その友達の名前は?」と、錦織は訊いた。そして、上衣のポケットから手帳を出してメモの用意をした。「どうぞ」
「学生時代の友達で津村というんですけど──」
「津村何というのかね? それから、彼の住所と勤め先を」
「ちょっと、待って下さい。実は車を貸したのは彼ではなくて、葛城という女性なんです。すいません。クラブのお客さんなので、迷惑をかけちゃいけないと思って」
「きみが彼女に迷惑をかけるだって? われわれはむしろ、彼女のほうがきみに迷惑をかけていなきゃいいがと、心配してるんだがね。カツラギとは、どういう字を書くのかな?」
「あの、ちょっと待って下さい。彼女の名刺がありますから、すぐ取って来ます」勝間田は寝室へ駈け込んだ。
 私は、キッチンとのあいだを仕切っているカウンターの隅で灰皿を見つけて、椅子に戻った。金持の有閑夫人の心を刺激しそうな紫色のカットグラスの灰皿にクラブ〈ファブリス〉の名前が金文字で入っていた。売れないスタンダールは死後数十年を経て読者が現われることを予言したそうだが、まさか百五十年後の遙か東方の国で、作品の主人公がホスト・クラブに名前を襲われて、灰皿にまで刻まれようとは想像もしなかったろう。私がタバコに火をつけたとき、勝間田が名刺を持って戻ってきた。彼は名刺を錦織に渡した。錦織はさっと眼を通して、それを私に渡した。
〝三井物産株式会社 総務部秘書課 葛城りゑ子〟会社のアドレスの横に自分の自宅の住所と電話番号がボールペンで書き加えられていた。住所は豊島区千早町となっている。
「彼女は店のお客だと言ったが、車を貸したりするような間柄なのかね?」
「隠し立てしても仕方がありませんから言いますが、月に一回か二回店に来てくれるお得意で……つまり、その夜はたいてい一緒にホテルへ行くことになります。どうせ、調べられれば分かるので言いますけど、あのギャランは彼女が今年の六月に新車同然の中古車を買ってくれたんですよ」
 隠しても仕方がないと言ったが、自慢しているようにしか聞こえなかった。
「ほう、気前のいい女性だな。彼女の年齢は? 人相や特徴も教えてもらいたい」と、錦織が言った。
「三十二才だったと思います。少なくとも本人はそう言ってます。小柄でスリムだけど結構いい身体をしているし、顔も眼がくりっとして森下愛子を十年老けさせたような、まァ美人のくちですよ」
 一時間前に映画館で私の前の座席に坐っていた女のようだ。
「モリシタアイコって知ってるか」と、錦織が私に訊いた。
 私は勝間田に訊いた。「ちょっと斜視ぎみの女性かな?」
「そうです。彼女です。ご存知なんですか」
「彼女に車を貸したのは、月曜日が初めてかね?」と、錦織が質問を続けた。
「いいえ。もともと、彼女が使いたいときには必ず車をあけるというのが条件ですから。最初は向こうが使ってばかりでしたが、夏を過ぎてからあまり使わなくなり、先月頃からは月に二、三回程度に減って、やっと自分の車だという気がしはじめたところですよ」
 錦織と私は顔を見合わせた。この男を相手に細かいことを詮索しているより、早めにこの名刺の女をチェックしたほうがよさそうだった。
 錦織は身を乗り出して、勝間田の眼をのぞき込んだ。「さて、きみは警察の監視付きってのは好きかね。そうしてもいいし、本来はそうするべきなんだが」
「えっ、どうしてですか。だって、ぼくは車を貸しただけで何も悪いことはしていないのに──」
「問題は、これから何もしないと約束できるかどうかだ。つまり、彼女はきみにとってお得意さんであるうえに、大変世話になっている女性だ。われわれがここを出た後、日頃の恩返しのつもりで、彼女に警戒の電話を入れたりしてもらっちゃ困るんだよ」
「そ、そんなことはしませんよ。ぼくたちの関係はギブ・アンド・テイクですからね。彼女に借りなんかありませんよ」
 錦織は口調を変えた。「この件には重罪が絡んでいる。誘拐罪の幇助か事後従犯で逮捕されても構わなければ、何をしてもいい。しかし、電話一本で五年の刑を喰らう覚悟がいるぞ」
 勝間田は息をのんだ。「ぼくは何もしませんよ、誓って」
「何か問題があるか」と、錦織は私に訊いた。
 私は首を振ってタバコを消し、女の名刺を錦織に返した。勝間田の怯えたような眼が、その名刺を追った。気になる眼つきだった。錦織が立ち上がった。私は坐ったまま、勝間田を見ていた。彼は私の視線に気づいて、慌てて眼を伏せた。だがすぐに、錦織が手帳に挟み込もうとしている女の名刺に吸い寄せられるように眼を上げた。
「ちょっと待って下さい、刑事さん」と、勝間田がひび割れたような声で言った。
 錦織はゆっくりと腰をおろした。「何だ?」
 勝間田はローブのポケットからタバコとライターを出した。赤いパッケージから鉛筆のように長い外国タバコを抜き取って、デュポンのライターで火をつけた。タバコの先端がかすかに上下していた。
「実は──」と、勝間田はタバコの煙を吐き出しながら言った。「その名刺をたどっても彼女には会えないんですよ」
「何だって? でたらめの名刺を渡したのか」と、錦織が怒気をふくんだ声を出した。
「いいえ、とんでもない。それは間違いなく彼女から渡された名刺なんです。クラブの支配人に訊いてもらえば分かりますが、彼女はあの店でもちゃんと葛城という名前で通っているんですから」勝間田はうわずった声で言った。
 私は嫌な予感がした。錦織の顔にも同じ懸念が現われていた。
「解るように説明するんだ」
「彼女はぼくにも葛城りゑ子と名乗っています。その名刺は車を買ったときにもらったんですが、そのとき彼女は会社にも自宅にも電話しちゃいけないって言ったんですよ。自宅では嫉妬深い亭主の眼が光ってるし、会社では浮気相手の課長が聞き耳を立ててるからって……ぼくのほうにはそんなつもりも必要もなかったんですがね。ところが、車を向こうが持っているときに、一度だけどうしても海へ行きたくなって、女の子に電話をかけさせたことがあるんですよ。そのときに、名刺に書いてあることが嘘だってことが分かりました。もちろん〈三井物産〉の電話や住所は本物ですけど、そこの秘書課に葛城りゑ子なんていないし、自宅の住所と電話番号も全くのでたらめでしたよ」
「その女の本名は? 本当の住所や電話番号は?」錦織が噛みつくように訊いた。「……知らないのか」
 勝間田は唇からだらっとタバコを垂らして、何度もうなずいた。

 錦織と私はそのマンションの管理人室で、今後の打ち合わせをした。電話を借りて、錦織は荻窪署と連絡を取り、私は電話応答サービスにかけた。〈東神グループ〉の神谷会長から〝至急、電話されたし〟という伝言が入っていた。折り返し電話を入れると、今夜向坂知事の弟の晃司邸で映画関係のパーティがあって、先方は私同伴で出席しても構わないと答えたということだった。もちろん、兄晨哉氏も同席する。六時に東神ビルの地下駐車場で神谷会長と会う約束をした。
 私たちは駐車場のセドリックに戻った。私は後部座席のコートから映画館で掛けられた手錠を出して、錦織に渡した。
「帽子の男と葛城と名乗る女の指紋がついているはずだが、抜け目のない連中のことだ、手掛りにはなるまい。おれの指紋は五年前の不当逮捕のときに取ったやつがあるから、区別がつくだろう」
 錦織が怒鳴る前に、私はポケットから七枚の写真を出し、〝海部氏〟の写ったカラー写真一枚を取って、残りを錦織に渡した。被写体の説明はすでに管理人室ですませてあった。
「沢崎。この写真のフィルムをいつ、どこで手に入れたのか、納得できる説明を考えとけよ。それから、勝間田のギャランの登録ナンバーをおまえに教えたのが、誰かもだ」
「そんなことより、向坂知事の狙撃に使用された拳銃の捜査報告を取り寄せることを忘れないでくれ」
「うるさい。二度とおれに指図するな」
 優秀な刑事は嫌われる刑事だった。私はむしろ運がいい。嫌われるだけで無能な刑事が少なくないのだ。新宿署を無線で呼び出している錦織に背を向けて、私は一度事務所に戻るために、国電の西荻窪駅へ向かった。

次章へつづく

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