夏におすすめ! 背筋も凍る犯罪実録ノンフィクション『万博と殺人鬼』訳者あとがき
19世紀末シカゴ。建築家ダニエル・バーナムは史上最大規模の万国博覧会を成功させるべく邁進する。だが、建設ラッシュに沸く街の片隅では、後に「アメリカ最初のシリアルキラー」と呼ばれるH・H・ホームズの手による、おぞましい連続殺人が起きていた……。
新興国アメリカの光と闇を描き世界的ベストセラーとなった、エドガー賞(犯罪実話部門)受賞の傑作ノンフィクション『万博と殺人鬼』(エリック・ラーソン、野中邦子訳、ハヤカワ文庫NF)。「殺人ホテル」を舞台にした背筋も凍るような連続猟奇殺人の描写に、SNSでは「夏にぴったりの一冊」との声も。
本書の読みどころを解説した「訳者あとがき」を特別公開します!
訳者あとがき:野中邦子(翻訳家)
生まれて初めて大観覧車に乗った人が、上空から博覧会場を見おろしてびっくりするシーンがある。緑の植栽のなかにつらなる真っ白なパビリオン、そのあいだを行きかう豆粒のような人びと。そして、はるかに広がるミシガン湖の美しさ。これまで一度も高い場所から自分たちの住む町を見たことがなかった人びとにとって、その眺めは驚きであり、まったく新しい体験となった。
歴史を読むおもしろさは一種の俯瞰であり、小説を読む楽しみの一つは共感だろう。この本にはその二つの魅力が混在している。
物語の構成は、さまざまな糸が交錯して図柄を描きだすタペストリーに似ている。縦糸はシカゴ万博の準備からオープニング、そして閉幕にいたるまでのさまざまな事件であり、その中心となる太い糸が建築家のダニエル・バーナムである。横糸は冷酷な連続殺人事件で、その主軸はH・H・ホームズ。この二本の糸を中心に、無数の糸が絡みあう。
バーナムのそばには建築事務所のパートナーのジョン・ルートがいる。博覧会の建設が始まる前にその糸はぷつりと切れる。そのかわりにバーナムの糸と並行して走るのがフランシス・ミレーである。本の冒頭シーンはバーナムとミレーの大西洋上の交差から始まる。
景観設計家のオームステッドがいなければ、ホワイトシティの崇高さはありえなかっただろう。21歳のソル・ブルームは博覧会にお祭り気分を満たし、入場者を増やすのに貢献した。博覧会の目玉になった大観覧車は新進エンジニアの大胆な発想がなければできなかった。人気者のバッファロー・ビル、名物市長のカーター・ハリソン、作家のセオドア・ドライサー、弁護士のクラレンス・ダロー。そして、大成功に終わるかと思われた博覧会を悲劇に変えてしまった一人の若者。
一方、ホームズの横糸には大勢の若い女性や子供や得体の知れない男たちが寄り添う。それらは、ホームズに近づくたびにぷつぷつと途切れては、また新しい糸が登場する。
たいていの人は目先のことしか見えないし、考えられない。昨日や明日のこと、せいぜい自分の人生の展望くらいしか思い描けない。アメリカの田舎町からシカゴ博覧会を見物に来た若い女性たちも、世界の中心は自分だと思っていただろう。
だが、大観覧車から見た人びとの姿が豆粒同然だったように、この世界で人はとても脆く、はかない存在である。一人の人間は、病気で、事故で、老衰で、とても簡単に死ぬ。どれほど才能にあふれ、夢を抱き、大事な存在だと思われていても、不意に命が断ち切られることがある。希望を抱いてシカゴに出てきた若い娘が、ハンサムな医師という仮面をかぶった殺人者と出会い、簡単に命を奪われる。殺人者にとって、若い娘や子供たちはただの「材料」にすぎなかった。彼はガス室や焼却炉を備えた「恐怖の館」を作り、獲物を誘いこんでは次々と残虐なやり方で殺していく。自分だけが大きくそびえたち、下界にうごめく人びとを見おろしていた。ある意味で、彼は現実を遠くからしか見られない人間だったのかもしれない。
最後にホームズの糸としっかり交差するのは、足を使った地道な捜査で彼を追いつめた一人の刑事である。
個人の視点(ごく近いところ)から見たホワイトシティ、そして歴史的な視野(遠いところ)から見たホワイトシティ。接写から望遠へとズームするレンズのような視点の動きが本書の大きな魅力である。その対比によって、人間がいかに弱いものであるかを思い知らされる。同時に、それほど弱い人間が壮大なものを作りあげようと努力する姿にも感動させられるのだ。
本書が単行本として文藝春秋社から刊行されたのは2006年4月だった。18年ぶりに文庫化されることになり、あらためて読み直してみたが、博覧会をめぐる人間模様の魅力は少しも色褪せず、スリリングな展開は一気読みを誘うおもしろさだった。
(*編集部注:「ホワイトシティ」は白一色に統一されたシカゴ万国博覧会会場の通称)
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■著者略歴
エリック・ラーソン(Erik Larson)
1954年生まれ。アメリカのジャーナリスト、ノンフィクション作家。ペンシルベニア大学でロシアの歴史・言語・文学を学び、コロンビア大学でジャーナリズムの修士号を取得。これまでの著書8冊のうち6冊がニューヨーク・タイムズ・ベストセラー入りを果たしている。マンハッタン在住。
■訳者紹介
野中邦子(のなか・くにこ)
出版社勤務を経て、現在翻訳家。代表的な訳書に、サックス『貧困の終焉』(共訳)、『地球全体を幸福にする経済学』、フレイザー『マリー・アントワネット』(以上早川書房刊)、ホプキンズ『ザ・ミュージアム』、ケリー『黒死病』、ヘンライ『アート・スピリット』、カリオン『世界の書店を旅する』など。
【本書の概要】
『万博と殺人鬼』
ハヤカワ文庫NF
著者:エリック・ラーソン
訳者:野中邦子
発売日:2024年7月18日
本体価格:1,680円(税抜)