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究極の初恋小説『未必のマクベス』冒頭公開、第2回更新

未必のマクベス冒頭公開、第2回更新です。

前回までの内容はこちら

「沢木耕太郎(さわきこうたろう)の?」
「うん」
「学生のころに読んだな」
「あの話に出てきた澳門のカジノって、まだあるのかな」
 伴は、そう言いながら、スーツケースに引っ掛けたバッグからiPadを取り出して、検索サイトを開いている。
「おっ、まだある。ホテルもまだあって、一番安いルーム・チャージなら、一泊八百香港ドルだ。そっちに変えないか?」
「八百香港ドルの部屋が取れるなら、それでいいよ」
 伴は、早速、iPadでホテルの予約を始める。
「取れたよ。税・サービス込みで八三〇香港ドルだけど、まぁいいだろ?」
 ぼくはうなずいて、グランド業務の社員に、澳門に泊まることに変更したいのだが、フェリーのチケットは明日でも使えるかと訊いた。
「デイタイムでしたら、澳門から香港国際空港に直行するフェリーがあるので、そちらを手配します」
 ぼくたちは、澳門フェリーピアから香港国際空港までのオープン・チケットを受け取って、他の乗客よりひと足早く、キャセイ・パシフィックが用意したタクシーに乗り込んだ。タクシーの窓を開けると、東南アジア特有の纏わりつくような夜気も、バンコクに比べると清々(すがすが)しく感じられた。タクシーは、タイパ島と澳門半島を渡る長い橋を走り、橋の向こうには、ぎらぎらと輝く巨大な電飾の森が広がる。エコノミークラスの閉塞感から解放されたと思ったのに、伴の携帯電話の着信音がそれをさえぎる。
「佐竹(さたけ)本部長からだ」
「こんな時間に? 酔っ払っているな」
 東京とは一時間の時差があるから、本部長の宴席もすでに終盤だ。酔っ払いからの電話だとしても、伴にそれを放っておく権利はない。
「伴です。お疲れさまです。……ええ、トランジットで香港にいるので、タクシーの中です」
 携帯電話のスピーカーから漏れる大きな声で、今回の出張の目的が果たされたことへの賞賛の声が聞こえる。
(副社長も、今回の君たちの商談には、大絶賛だよ)
「ありがとうございます。中井部長代理が根回しを十分にしてくれたおかげです」
 業務上、伴はぼくの部下なので、仕事がらみの会話では役職付きで言う。ぼくは、「余計なことを言うな」と小声で彼に伝える。
(うん、うん。中井も一緒なのか?)
「ええ、同乗させてもらっています。いま、代わります」
 伴は、マイクを押さえて、携帯電話を差し出す。ぼくは、うんざりした意思表示のために、ため息をついた。こういった電話を受け取らないために、出張先に着いた翌朝まで、会社から貸与された携帯電話の電源を入れ忘れる習慣を身につけたのだ。だいたい、直行便に乗っていれば、まだ機上にいるのだから、その電話の不要さは確認するまでもない。
「おめでとう、大成功だ」
「ありがとうございます。本部長のご指導のおかげです」
 国際電話の向こうは、どこかのクラブだ。会社宛の領収書を書く音が、そこかしこから聞こえる。
「謙遜はいらん。副社長も、中井はたいしたもんだって、いま話していたところだ」
「恐縮です」
 和装の美女を横に座らせて、そんな野暮な話をする男が、どこにいるのだろう。
「こっちには、いつ着くんだ?」
「明日の午前中の便で香港を発つので、夕方には、本部長に直接ご報告に伺います」
「明日の夕方? 悪いな、明日は午後から外出だ。明後日は土曜日だし、一日くらい、香港でうまいものでも喰ってこい。伊沢(い ざわ)副部長には、俺から香港で用件を頼んだことにしておく。自慢話の報告は、月曜日の朝で十分だ」
「恐れ入ります」
「それから、伴君にも伝えてほしいんだが、香港からはビジネスクラスを使え。もう少し早く電話が繋がれば、バンコクからのANAの便を用意するつもりだったんだ。とにかく、明日一日くらい、ゆっくりしたって、誰にも文句は言わせない」
「恐縮です」
「おぉ、こっちこそ、夜中に悪かったな」
 ぼくは、伴に携帯電話を返し、「明日は香港で遊んで来い」という、上司のオプションを伝えた。
「中井は、本部長と仲が好いね」
「今夜の彼とはね。商談を成立させたのが子飼いの部下でなきゃ、彼の功績にならない」
 タクシーは、橋を下り、巨大な電飾の森に突入して行く。
 伴の予約したホテルは、ぎらつく街に取り残された老人たちの学校のような雰囲気だった。中世の騎士のマントを着たドアマンに案内されて入ったロビーは、きらびやかではあったが、豊かな時間の流れが澱(よど)んで、鈍い光を放つ宝石が沈んでいる光景を想像させる。直前の予約で八三〇香港ドルの部屋は、迷路のように入り組んだ通路の奥にあった。ぼくは、とりあえず、荷物からパソコンとパスポート、会社から貸与された携帯電話を部屋のセイフティ・ボックスに移して、伴と夕食をとるためにロビーに取って返す。グランドフロアにある餐廳(ツアンテエン)に入り、雲呑麺とマカオビールを注文する。驚いたことに、テーブルには灰皿らしきものが用意されていた。ぼくは、店員に、それが灰皿であることを確認する。
「ホテルのレストランで煙草を吸うのは、久しぶりだ」
「東京のホテルでだって、煙草は吸えるだろう」
 伴は、レストランの外の回廊を歩く、派手な衣装の女の子たちを眺めながら言う。彼女たちは、例外なく胸を強調した服を着ていて、カジノやレストランから出てくる男性客に声をかけて、ときには腕を組んで商談をしている。ホテルの中なので、街娼(がい しよう)という言葉は当てはまらないだろうが、娼婦であることは間違いないだろう。レストランで煙草を吸えるのも驚いたが、ホテルの中で堂々と娼婦が客引きをしていることにも驚かされる。二十年くらいタイム・スリップしてしまったような感覚だ。
「役員のお供で行けば、テーブルに灰皿が用意されていたって、禁煙は禁煙だ」
「香港みたいに、テーブルの下に捨てればいい」
「東京のレストランに、そんな寛容さはないよ」
「きれいは汚い、汚いはきれい。寛容は不寛容、不寛容は寛容ってことか……」
 伴の禅問答のような言葉に、ぼくは首をかしげる。その科白(せりふ)をどこかで聞いたことがある。そのときも、伴から聞いたのだろうか。
「それ、何?」
「何かの話の出だしだ。ここの雲呑麺は上(じょう)の部類だね。喰い終わったら、カジノに行こう」
「パスポートをセイフティ・ボックスに入れてきた」
「さっきから、カジノに入る客を見ているけれど、ここでは地元の人も入れるみたいだから、パスポートは不要だろう。カジノに入れないのは、あの薄着の女の子たちだけだ」
 ぼくたちは、雲呑麺を食べ終えて、スーツのまま、カジノのセキュリティ・チェックをくぐった。悪くない夜になる予感がした。
 木曜日の夜十一時過ぎだというのに、カジノのテーブルは、どこも客で埋まっていた。奥に、バカラかブラックジャックをやっているテーブルが見えるが、手前には見たことのないルールのテーブルがあり、そちらの方が賑わっている。
「あれが、大小(ダイシウ)ってやつかな」
 ぼくは、伴と別れて、大小のテーブルの脇でゲームを眺めた。三つの賽(さい)が置かれた直径十センチ程の盆台がある。ディーラーが盆台をツボで覆うと、自動的に賽が振られ、客は、ディーラーがツボを取るまでに、賽の目を当てるテーブルの枠にチップを置く。手許にチップを持ち合わせていない客は、香港ドル札かパカタ札をテーブルに投げ入れる。ルーレットと同じで、ベットの方法は、オッズによっていくつかに分けられていて、一番簡単な賭け方は、三つの賽の目の合計が十一以上の「大(ダイ)」と、十以下の「小(シウ)」のどちらかにベットするもので、オッズは二倍だ。ただし、三つの賽がぞろ目になったときは、ディーラーの取り分となるので、還元率は一に欠ける。その他にも、賽の目の合計が偶数・奇数、合計値、ひとつないし二つの賽の目そのものに賭ける等、的中時のオッズによって、いくつかの賭け方がある。直近の二十ゲームの結果が、ディーラーの横のデジタル・ボードに表示されている。
 ぼくは、大小のルールを理解するまで、しばらく黙ってゲームを眺めてから、テーブルを離れて柱の脇にある灰皿で一服した。伴が、ぼくを見つけて近づいてくる。
「勝ったか?」
「まだ、ルールを確認しただけだよ。伴は?」
「俺は、ブラックジャックでとんとんだ。大小のルールは分かった?」
 ぼくは、自分が理解した範囲のルールを伴に説明する。そして、適度に客が集まっているテーブルに加わり、「大」に百香港ドル札を置く。伴は、その横にブラックジャックで得たであろう二百パカタのチップを投げる。ディーラーがベルを鳴らして両手をテーブルの上で捌(さば)くと、賽を覆っていたツボが開けられ、賽の目の合計は十三となる。ぼくの賭けた香港ドル札は、ディーラーがブラックライトを当てて何かを確かめてから、テーブルにあるポストのような口に押し込んで、二枚の百パカタチップとなって返ってくる。その後、ゲームに参加したり見送ったりしながら、煙草を吸いたくなってテーブルを離れたときには、三枚の百パカタチップを持っていた。三十分程度の時間を潰せて、二百パカタつまり約二四〇〇円の駄賃をもらえるなら悪くない。
 ぼくは、博打(ばくち)の才能がないことを自覚している。日本で過ごす休日にパチンコや競馬をすることもないし、株取引もやらない。宣伝に釣られて、ときどき宝くじを買ってみるけれど、三十八年の時間をかけて、期待値には程遠い金額しか戻ってきていない。もし、ぼくに欠片(かけら)でも博打の才能があるとすれば、博打に参加しない自制心を持っているということくらいだろう。だから、ぼくはカジノにいると、そこがソウルでもシンガポールでも、旅人になった気分になる。そこに、ぼくの居場所はなく、カジノから出ると、ほっとした気分になる。
 伴は違う。伴が博打の結果に「とんとん」と言うときは、カジノにいた時間の逸失利益を差し引いている。彼の残業代の時給は五千円だから、どれくらいを賭けたかは分からないが、この三十分で二千五百円しか儲けなかったという意味だ。ぼくは、伴が大小のテーブルを離れたら、バーにでも誘おうと思いながら、彼が参加しているゲームを眺めた。
 ふと、そのテーブルで、腰を丸めて座っている老女が気になり始める。襤褸(ぼ ろ)のような服を着ているが、不潔感はない。真夜中近くのカジノにいるなら、家でテレビでも見ていた方がいい。年金は目減りしないし、もう少しまともな服を買うこともできるだろう。けれども、ぼくが、その老女に惹かれたのは、彼女が襤褸のような服を着ているからではない。老女は、直近二十ゲームの結果が示されるデジタル・ボードには、ときどき目配せするだけで、新聞の折込み広告の切れ端のような紙片に、色鉛筆でゲームの結果を記録している。(続く)

――――――

好評発売中『未必のマクベス』早瀬耕


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