権力を握れないエリートが氾濫し、反乱を起こす。ピーター・ターチン『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』より「はじめに」を全文公開!
学歴に見合うポストや報酬が得られず不満を抱いたエリートたちが反エリートに転化するとき、社会は崩壊に向かう――。数理モデルを駆使して歴史の法則を見出す「クリオダイナミクス(歴史動力学)」の旗手として知られるピーター・ターチンの最新著作、『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』(濱野大道訳、原題End Times: Elites, Counter-Elites, and the Path of Political Disintegration)が早川書房より9月19日に発売。本記事では「はじめに」を全文公開します。
『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』
はじめに
「歴史はくだらない出来事の単純な繰り返しではない」とかつて皮肉まじりに言ったのは、イギリスの歴史家アーノルド・J・トインビーだった。長いあいだ、それは少数派の意見だった。カール・ポパーなどの泰斗を含む多くの歴史家や哲学者たちは、歴史を科学的に分析することは不可能だと頑なに主張してきた。私たちの社会はあまりに複雑で、人間はあまりに気まぐれで、科学の進歩を予想することはできず、空間的にも時間的にも文化は大きく変動しすぎる、と彼らは言い張った。コソボ紛争はベトナム戦争とはまるっきりちがうし、南北戦争前のアメリカは2020年代のアメリカについて何も教えてくれない。これが昔からの多数意見であり、そのような見方はいまだ根強い。私は本書をとおして、この考え方が誤りであることを読者のみなさんに伝えたい。歴史を科学的に分析することは可能だし、それは有益でもある。なぜなら科学的分析は、私たちの現時点における集団的な選択がより良い未来をもたらすのか否か、それを予測する手助けをしてくれるからだ。
私は1980年代に生態学者として学術の道に進み、カブトムシ、チョウ、ネズミ、シカの個体群動態について研究して生計を立ててきた。当時はまさに、コンピューター処理能力の急速な向上によって動物生態学に革命が起きた時代だった。昔から数学アレルギーとは無縁だった私はやがて、複雑系科学へと研究分野を広げるようになった。コンピューター・モデリングをビッグデータ解析と組み合わせれば、なぜ多くの動物個体群が活況・沈滞のサイクルを繰り返すのかといった疑問に答えることができる。ところが1990年代後半になると、この分野で解明すべき興味深い質問のほとんどに答えが出たように感じられた。一抹の不安に駆られながらも私は、同じ複雑系科学のアプローチを過去と現在両方の人間社会の研究に応用できないかと思案しはじめた。
それから四半世紀が過ぎ、この試みをともに追い求める仲間たちと私は「クリオダイナミクス」(歴史動力学)と呼ばれる新たな分野を開拓した(その名前は、ギリシャ神話の歴史の女神クリオ、変化の科学であるダイナミクスに由来する)。この研究のなかで私たちは、人類史には繰り返し起きる重要なパターンがあり、それが一万年以上前から絶え間なく続いている事実を発
見した。驚くべきことに、差異こそ数多あるにせよ、あらゆる複雑な人間社会は根本的かつ一定の理論的なレベルにおいて同じ一般原則にしたがって組織されている。この考えに懐疑的な読者、あるいはたんに興味がある読者のために、巻末にクリオダイナミクスのより詳細な概説を付記した。
この新しい分野の研究を始めた当初から私と同僚たちは、政治的な統合と分裂のサイクル、とくに国家形成と崩壊に焦点を当てた。そのような領域では、われわれの研究結果はきわめて強固なものとなり、同時にきわめて不穏なものになった。歴史の定量分析によって明らかになったのは、世界各地の複雑な社会が、繰り返し起きる(ある程度)予測可能な政治の不安定性の波に影響を受けているということだった。共通する一連の基本的な力によって引き起こされるその波は、人類史をとおして数千年にわたって活動を続けてきた。
数年前に私は、このパターンが続くと仮定した場合、アメリカ社会が新たな嵐の渦に突入しつつあるということに気がついた。2010年、各分野の専門家が今後10年の展望を予想するという科学誌『ネイチャー』の特集で、私はつぎのように明言した。米国史のパターンから判断するに、2020年代初頭にふたたびこの国は急激に不安定な状態になる──。悲しいかな、それ
から現在まで、私のこの予測モデルをくつがえす事実は何ひとつ出てきていない。
みなさんが読みはじめた本書は、このモデルを理解しやすい言葉で、つまり数学の専門用語を使わずに解説しようという私なりの試みだ。この本の説明はもっぱら、多種多様な分野における膨大かつ重要な研究結果にもとづいたものであり、奇をてらう意図はいっさいない。私が訴えたいのは、この事実を誰もがしかと胸に刻み込むべきであるということだ──さまざまな社会は以
前にも同じ岐路に立った経験があり、ときに(ほとんどの場合)その道は大規模な人命の損失と社会崩壊へとつながったが、ときに人々にとって非常に幸福な解決策へとつながることもあった。
では、そのモデルとはどんなものなのか? やや不正確な表現ではあるものの、こう考えてみてほしい。アメリカのような国家において、実質賃金(インフレ率調整済みドル換算)の停滞や低下、貧富の差の拡大、高度な学位を持つ若者の過剰生産、社会への信頼の低下、公的債務の爆発的な増加が起きたとき、一見すると類似点のないそれらの社会指標は、実際のところ互いに動的に関連している。このような流れは歴史的に見ても、迫りくる政治不安の先行指標として機能してきた。アメリカでは、これらすべての要因が1970年代から不吉な方向へと向かいはじめた。データを解析すると、この流れが重なり合う2020年前後に政治の不安定性が一気に増すという結果が出た。かくして、現在の状況に至るというわけだ。
アメリカが危機に瀕しているということに疑いの余地はほぼないものの、その理由の説明となると人々は激しく対立する。ある者たちは、人種差別主義者、白人至上主義者、そしてドナルド・トランプに投票した「嘆かわしい人々」を批判する。ほかの者たちは、アンティファ(反ファシスト)、ディープステート(闇の政府)、リブタード(リベラル馬鹿)を批判する。どこまでも被害妄想的な過激派は、共産中国の工作員がアメリカ政府の隅々まで入り込んでいると想像をたくましくする。あるいは、ウラジーミル・プーチンの見えざる手がトランプという名の操り人形の糸を引っぱっていると妄想する。一方で、この不和の時代をもたらした真の原因については、いまだほとんど理解されていない。
なんらかの「隠れた力」が存在し、それがアメリカを内戦──あるいは、もっと深刻な状況──の瀬戸際まで追いやろうとしていることはまちがいない。しかし真実は、国内の影の組織や外国の工作員が企む陰謀にあるわけではない。説明はもっと単純であり、同時により複雑だ。それが単純なのは、「点と点を結ぶ」ような手の込んだ理論的構成概念を作り上げたり、誰かが不吉
な動機を持っていると証明したりする必要がないからだ。事実、アメリカの苦境を理解するために必要な情報は広く公開されており、それは誰が見ても明らかなものだ。
私たちが知るべきことの大部分は、邪悪な者や腐敗した個人の欺瞞とはなんの関係もない。代わりに眼を向けるべきなのは、賃金、税金、国内総生産に関する既知のビッグデータ、そしてギャラップ社のような民間企業や政府機関が大量に生み出す社会学的調査のほうだ。これらのデータは、社会科学者たちが学術誌で発表する統計分析に利用されるものである。ここに、本書で示される説明がより複雑でもある理由が隠れている。つまり端的に言えば、すべてのデータと分析を理解するためには複雑系科学が必要になるということだ。
専門家や政治家はしばしば「歴史の教訓」を引き合いに出す。ここでの問題は、歴史的な記録がじつに豊富に存在するという点だ。政策論争のどちらの側にいるにせよ、それぞれの専門家は自分の主張を支持する事例を簡単に見つけることができる。当然のことながら、そのような「都合よく選び出された」例にもとづく推論を当てにするべきではない。
クリオダイナミクスはそれとは異なり、データサイエンスの手法を用い、何世代にもわたる歴史家たちが蓄積してきた歴史的記録をビッグデータとして扱う。そして数理モデルをとおして、私たちの社会を構成する複合的な社会システムの異なる「変動要素」間の相互作用の複雑なつながりを追跡する。より重要なことに、クリオダイナミクスでは科学的手法が使われ、代替理論はデータにもとづいて実証的に検証される。
では、現在の困難な時代についてクリオダイナミクスは何を教えてくれるのだろう? 研究によって明らかになったのは、国家として組織された複雑な社会がおよそ5000年前に最初に登場してから、一時的にはどれほど成功を収めたとしても、やがて社会は例外なく問題に直面するということだ。すべての複雑な社会は、内部の戦争や不和の勃発によって内部の平和と調和が周期的に中断されるというサイクルを経験する。
私が描く物語は、個人とは無関係の社会的な力が、その社会を崩壊の瀬戸際(のさらに奥)へと追いやるプロセスを説明する試みである。古くからの人間の歴史も参照するものの、私の第一の目標は、実例をとおしてアメリカに焦点を当て、現在の不和の時代に突入した経緯を解き明かすことだ。現在の危機は歴史に深く根差しているため、不文律の社会契約がアメリカ政治文化の一部として組み込まれた1930年代のニューディール時代まで遡る必要がある。この非公式かつ暗黙の契約は、北欧諸国で見られる正式かつ明確な三者協定と同じように、労働者、企業、国家間の利益のバランスを取るためのものだった。およそ二世代のあいだアメリカ社会では、この暗黙の協定が広範囲にわたるウェルビーイング(人生の豊かさ)に空前の成長をもたらした。同時に、ニューディール政策による格差の「大圧縮」は経済的不平等を劇的に減少させた。もちろん、この暗黙の協定では多くの人々が無視されていた(その筆頭が黒人アメリカ人で、くわしくは後述する)。しかし総体的に見ると、約50年にわたってこの国では労働者と経営者の利益のバランスが保たれ、全体的な所得格差は驚くほど小さいままだった。
この社会契約は、1970年代後半から瓦解しはじめた。結果、それまで全体的な経済成長に連動していた一般労働者の賃金の上昇スピードが遅れるようになった。それどころか、実質賃金の成長は止まり、ときに減少することさえあった。必然的に、さまざまな面において多くのアメリカ国民の生活水準が低下していった。なかでも顕著だったのが、平均寿命が停滞、さらには低下したことだった(これは新型コロナウイルス感染症のパンデミックよりずっと以前から始まっていた現象である)。
労働者の賃金や所得が伸び悩む一方で、経済成長の果実はエリート層によってもぎ取られた。倒錯した「富のポンプ」が登場し、貧しい国民から奪った富が金持ちへと流れるようになった。
要は、大圧縮がそのまま逆転してしまったのだ。多くの点においてここ40年のアメリカ社会の流れは、「金ピカ時代」〔訳注:南北戦争後の一九世紀末に急速に経済が発展し、拝金主義と成金趣味が横行した時代のこと。しかし、一八九三年に恐慌が発生〕を含む1870年から1900年のあいだの流れに似ている。第二次世界大戦後が広範な繁栄をもたらした真の黄金時代だったとすれば、1980年からアメリカは「第二次金ピカ時代」に突入したといっていい。
私たちのモデルによる予測のとおり、エリート層に流れる余分な富は、最終的に富の保有者(と権力者)自身にも問題をもたらすことになった(いわゆる「上位1%」は言わずもがな、上位0.01%になるとなおさらこの傾向は強くなる)。社会ピラミッドは上部がやけに大きくなり、いまや増えすぎた「エリート志望者」たちが、政治や企業の上層部の一定数のポジションを争い合っている。私たちのモデルでは、この状況を説明する正式な名前がある──「エリート過剰生産」だ。大衆の貧困化、エリート過剰生産、それが原因で起きるエリート内対立によって、市民の結束力は少しずつ蝕まれてきた。国としての結束力が失われると、国家はすぐさまその内側から腐敗していく。社会的な脆さの増大は、国家機関に対する信頼の崩壊にくわえ、公共的な議論を司る社会規範、さらには民主主義的な制度の衰退という形で表面化してきた。
言うまでもなく、ここまでの説明は骨子の要約でしかない。以降の章ではこれらのアイデアをくわしく説明し、主要な経済的・社会的指標の統計の動きと関連づけ、社会的な力に打ちのめされた人々の典型的な人間物語を追っていく。おもにアメリカとアメリカ人に焦点を当ててはいるものの、本書では世界のほかの地域、過去の歴史的な時代にも眼を向けたい。繰り返しになるが、アメリカでの危機には前例がないわけではなく、われわれは自分たちの過去から学ぶ必要がある。
結局のところ、この本の核となる問いは社会的権力に関するものだ。誰が社会を支配しているのか? 支配エリート層は、社会における自分たちの独占的な地位をどのように維持しているのか? 現状を打破しようとする挑戦者は誰なのか? そのような挑戦者を生み出すうえでのエリート過剰生産の役割とは? 歴史的にも現代においても支配階級がときに突如として権力を失い、失脚するのはなぜか? さあ、これらの深遠なる問いへの答えを探っていこう。
***続きは製品版でお読みください!***
◆著者紹介
ピーター・ターチン(Peter Turchin)
1957年、ソ連生まれ。複雑系科学者。モスクワ大学の生物学部に入学後、物理学者である父親の亡命に伴ってアメリカに移住。ニューヨーク大学で生物学の学士号、デューク大学で動物学の博士号を取得。その後、歴史学に関心を移し、「クリオダイナミクス(歴史動力学)」を創始。複雑系のアプローチを人間社会に応用し、国家の形成と崩壊のサイクルを数学的にモデル化する研究に取り組んでいる。ウィーン複雑系科学研究所プロジェクトリーダー、オックスフォード大学研究員、コネチカット大学名誉教授。他の著書に『国家興亡の方程式』、Ages of Discord(不和の時代)などがある。
◆訳者略歴
濱野大道(Hiromichi Hamano)
翻訳家。ロンドン大学・東洋アフリカ学院(SOAS)タイ語・韓国語学科卒業、同大学院タイ文学専攻修了。主な訳書にリーバンクス『羊飼いの暮らし』『羊飼いの想い』、ロイド・パリー『津波の霊たち』『黒い迷宮』(以上早川書房刊)、ケイン『AI監獄ウイグル』など。