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自由に生きることは道徳的である――人生って、なんて簡単なんだろう! 橘玲「これからのリバタリアニズム」第1回

米国を代表するリバタリアンの一人であるウォルター・ブロックが売春や麻薬密売など「不道徳」なビジネスを徹底擁護した『不道徳な経済学――転売屋は社会に役立つ』が発売即重版するなど、いま再び注目を集める「リバタリアニズム(自由原理主義)」。同書の翻訳を手がけた作家・橘玲氏が、「これからのリバタリアニズム」と題しその潮流を読み解きます。今回は第1回。

これからのリバタリアニズム 橘玲


■ダーティハリーとピーター・ティール

もしもあなたにアメリカ人の友だちがいたら、「リバタリアンってどういうひと?」と聞いてみよう。年配者なら映画俳優・監督のクリント・イーストウッド、若者ならシリコンバレーの投資家ピーター・ティールの名前を挙げるのではないだろうか。

イーストウッドはイタリアで制作されたB級ウエスタン(『荒野の用心棒』など三部作は、現在は映画史に残る傑作と再評価されている)で名を挙げ、映画『ダーティハリー』でサンフランシスコ市警の嫌われ者ハリー・キャラハン刑事を演じてビッグスターになった。自身が監督・主演した西部劇『許されざる者』で、アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞を受賞してもいる。

キャラハン刑事(ダーティハリー)は、いつも汚れ仕事を押しつけられ、リベラルな"人権"尊重派の上司に邪魔されながら、最後は法律と規則を無視し、己の信ずる正義の法に従って悪党どもを44マグナムで撃ち殺す。『許されざる者』では、娼婦に雇われた賞金稼ぎの老ガンマンが、ジーン・ハックマン扮する"リベラル"な保安官と対決する。ここからわかるように、リバタリアン=イーストウッドのイメージは、拳銃一丁で己の運命を切り開いていくフロンティア時代の「自助自立」と重ね合わされている。

1990年代にインターネットが登場すると、西部劇のフロンティアは"無限"のサイバースペースへと拡張された。こうして、ネットの世界で「究極の自由」を求める「サイバーリバタリアン」が登場し、ハリウッドのイーストウッドの跡をシリコンバレーのピーター・ティールが継ぐことになった。

ティールは、世界最大のオンライン決済サービス、ペイパルの共同創業者であり、フェイスブック創業期にその可能性に気づいた初の外部投資家であり、CIAやFBIを顧客にもつビッグデータ解析企業パランティアの共同創業者でもある。──パランティアは日本では馴染みがないが、その企業価値は二兆円を超えるといわれている。

雨後の筍のようにスタートアップが出てくるシリコンバレーでも、評価額が10億ドルを超える非上場企業は「ユニコーン」と呼ばれる。ユニコーンは額に一本の角をもつ伝説の一角獣で、「誰も見たことがない」という意味で使われる。ところがティールは、ユニコーン企業をはるかに上回る100億ドル、あるいは1000億ドル級のスタートアップに3つもかかわっているのだ。

ペイパルからは、イーロン・マスク(テスラ・モーターズ/スペースX)、リード・ホフマン(リンクトイン)、ジェレミー・ストッペルマン(イェルプ)をはじめ、シリコンバレーを代表する起業家が次々と生まれている。固い絆で結ばれた彼らは「ペイパル・マフィア」と呼ばれ、ティールはその首領(ドン)と目されている。

1967年にドイツのフランクフルトに生まれ、鉱山技師の父親とともに一歳のときに家族でアメリカに移住したティールは、10歳まで家族とともにアフリカ南部を点々とし小学校を7回変わった。そのひとつがきわめて厳格な学校で、体罰による理不尽なしつけを受けたことが、後年、リバタリアニズムに傾倒するきっかけとなったと述べている。

子ども時代のティールはアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラークなどのSFに夢中になり、トールキンの『指輪物語』を少なくとも10回は読み、13歳以下のチェス選手権で全米7位にランクされる数学とコンピュータの天才として知られていた。政治的志向は当時からのもので、8年生(中学3年生)の社会の授業でレーガンを支持し、保守派の論客の新聞記事を集め、抽象的論理を信奉し、個人の自由を至高のものとするリバタリアンになった。

スタンフォード大学で哲学を学んだティールは、卒業後法律家を目指したものの挫折し、ニューヨークの虚飾に見切りをつけてベンチャーの道を選んだ。大学時代は保守派の活動家として知られ、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を掲げる左派と対立した(1)。

こうした背景から、近年のティールは政治的・思想的な発言でも注目を集めるようになった。とりわけその名を(あるいは悪名を)轟かせたのは、2016年の大統領選でドナルド・トランプに献金したばかりか共和党の全国大会で応援演説までしたことと、この・ギャンブル・に勝ってトランプの有力な顧問の一人になり、ティム・クック(アップルCEO)、ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)、ラリー・ペイジ(アルファベット〈グーグルの親会社〉CEO)、シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO)、サティア・ナデラ(マイクロソフトCEO)、イーロン・マスクなどシリコンバレーの大物たちを一堂に集め、新大統領を囲む会合を取り仕切ったことだろう。そのインパクトは絶大で、オンライン政治メディアのポリティコはティールを「影の大統領」と名づけた(2)。

2009年4月、ティールは保守派のシンクタンク、ケイトー研究所の論壇フォーラムCATO UNBOUNDに「リバタリアンの教育The Education of a Libertarian」という短いエッセイを寄稿した。ティールは冒頭、次のように書く。

「私は、十代の頃に抱いた信念──至高の善の前提となる真の人間的自由human freedomにいまだにコミットしつづけている。私は、搾取的な税制、全体主義的な集産制、死を不可避なものとするイデオロギーに立ち向かっている。これらすべての理由から、私は自分自身を・リバタリアン・と呼んでいる」

自由を至高のものとし、国家(権力)こそが個人の自由を抑圧する元凶だと考え、国家の暴力行使である徴税に反対し、国家権力のもっともグロテスクな姿である社会主義・共産主義などの「全体主義的な集産制」を拒否するのはリバタリアンの思想そのものだ。──「不死のテクノロジー(トランスヒューマニズム)」がサイバーリバタリアニズムと結びつくことについては別の機会に論じたい。

■リバタリアニズムとはなにか?

英語にはLiberty(リバティ)とFreedom(フリーダム)という、「自由」を意味する二つの言葉がある。このうち「リバティ」は制度的な自由(責任をともなう自由)、「フリーダム」は制限なき自由(好き勝手とか、自由奔放とか)のニュアンスで使われるから、政治哲学としての「自由主義」はリバティを語源とするリベラリズムLiberalismに、「自由主義者」はリベラリストLiberalistになる。

ところが困ったことに、このリベラリズムにはたんなる「自由主義」以外の特殊な意味がある。政治的なリベラルとは、福祉と人権を重視し平等な社会を目指すひとびとのことをいう。彼らは国民から税金を徴収し、それを貧しい人たちに再分配することを当然と考え、競争力のない産業を保護し、ライフライン(電力・水道・ガス)など生活に不可欠な公共財を国家が提供するよう求める。これは、市場原理主義とは対極にある政治的立場だ。

そこで国家の市場への介入を批判する経済学者らは、彼ら「リベラル派」と区別するために、「古典的自由主義Classical Liberalism」を自称するようになった。「古典的」とは「アダム・スミス以来の伝統に連なる正統派」の意味なのだが、これは「元祖釜飯」のようなものでいまひとつ迫力に欠ける。そこで別のグループは、同じLiberty(自由)からリバタリアニズムLibertarianism(自由主義)、リバタリアンLibertarian(自由主義者)という造語をひねりだした。こうして、リベラリストとリバタリアンのあいだで、どちらが本物の「自由主義者(リベラル)」かをめぐる骨肉の争いがはじまった。

このように現代では、代表的な二つの政治思想が「自由」という指輪を奪い合う果てしないたたかい(ロード・オブ・ザ・リング)をつづけている。ではなぜ、指輪には「Liberty」の文字が刻まれていなければならないのか。それは、私たちが生きている近代社会が、「自由」に至高の価値を与えているからだ。

誰もが自由に人生を選択して自己実現できる社会を目指すべきだ──。このことは、一部の過激な宗教原理主義者を除けば誰も反対しないだろう。

異論がないのは、その命題が「正しい」からではなく、すべての議論の前提になっているからだ。私たちが生きるうえで「自分は・人間・である」という前提(これも近代のイデオロギーのひとつ)から出発するしかないのと同様に、近代というパラダイムが変わらないかぎり、「自由」の価値を否定することはできない。

このことをもっと簡単にいうこともできる。

自然権としての人権を前提とすれば、リバタリアニズムというのはようするに次のような政治哲学だ。

 ひとは自由に生きるのがすばらしい

これに対して、リベラリズムは若干の修正を加える。

 ひとは自由に生きるのがすばらしい。しかし平等も大事だ

自由主義に対抗する思想として共同体主義Communitarianismが挙げられるが、それとても「自由」の価値を否定するわけではない。彼らはいう。

 ひとは自由に生きるのがすばらしい。しかし伝統も大事だ

たったこれだけで、現代の政治哲学の枠組みが説明できてしまった。アメリカの共和党と民主党が典型だが、二大政党による政治的対立というのは、「自由」をどのように修正するのか(あるいはしないのか)の争いなのだ。

そしてこのことから、暴論の類としか見えないリバタリアンの主張を批判するのが、思いのほか困難な理由が明らかになる。リバタリアニズムは純化された自由主義で、保守主義者(伝統重視派)であれリベラリスト(平等重視派)であれ、自分自身が拠って立つ足場(自由の価値)を否定することは原理的に不可能なのだ。

■「君たちはどう生きるか」への回答

自由を至上の価値とする社会であっても、ひとは思いのまま好き勝手に生きられるわけではない。自分以外のすべての人も、自由に生きる権利を持っているからだ(この平等原則は、「自由」を普遍的な価値とすることからただちに導き出される。特定の人にしか与えられない価値は普遍的たりえないのだ)。

社会を営んでいくためには、当然、なんらかのルールが必要になる。では、理想的なルールとはどのようなものだろうか?

これも、細かな議論を省くならひとことで要約できる。

 みんなが幸福になれるルールがよいルールだ

そして偉大なるアダム・スミスが、自由主義と社会の法則とを結びつけた。彼はいう。

「誰もが自由に生きれば、市場の・見えざる手・によってすべてのひとが幸福になるであろう(3)」

そのために必要なルールは、たった三つしかない。

 ・自己所有と私有財産の権利は不可侵である(自己所有権・私有財産権)
 ・正当な所有者の合意を得ずに財産を取得することはできない(暴力の禁止)
 ・正当な所有者との合意によって取得した財産は正当な私有財産である(交換と譲渡のルール)

これは恐るべき思想だ。なぜならたったこれだけのことで、「君たちはどう生きるか」という人類の根源的な問いがもののみごとに解決してしまうからだ。すなわち、

 だれもが自由に生きればすべてのひとが幸福になる
 すべてのひとを幸福にする行為は道徳的である
 したがって、自由に生きることは道徳的である

人生って、なんて簡単なんだろう!

ではなぜ、この理想社会が実現しないのか。それは、市場の機能を制限するあまりに多くのルールが国家によって課せられているからだとリバタリアンは考える。そこから、国家を極限まで縮小すべきだ(最小国家論)とか、国家そのものをなくしてしまえ(無政府資本主義)とかの主張が生まれる(4)。

一見、荒唐無稽に見えるとしても、リバタリアンの思想に意外な説得力がある理由がわかっていただけただろうか?

第2回に続く)


1 ジョージ・パッカー『綻びゆくアメリカ──歴史の転換点に生きる人々の物語』NHK出版
2 トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール──世界を手にした「反逆の起業家」の野望』飛鳥新社
3 アダム・スミスは野放図な自由や利己心を推奨したのではなく、社会の秩序(正義や法)は人々の共感から生まれ、自由で公正な市場は社会の「正義感覚」に基づくと考えていた。詳細は堂目卓生『アダム・スミス──『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書)参照。
4 ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア──国家の正当性とその限界』木鐸社

*本記事は、『不道徳な経済学』の巻頭に収録した序説「これからのリバタリアニズム」を再編集したものです。

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■橘氏による「訳者まえがき」はこちら

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