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小川楽喜『標本作家』第二章⑥ エド・ブラックウッド 二十四世紀のホラー作家



小川楽喜『標本作家』(四六判・上製)
刊行日:2023年1月24日(電子版同時配信)
定価:2,530円(10%税込)
装幀:坂野公一(welle design)
ISBN:9784152102065




(第12節はこちらの記事に掲載しています。)



13

 エド・ブラックウッド。二十四世紀のホラー作家。
 彼の著したホラー小説が社会にどのような影響を与えたか、それを語るには、まず二十四世紀という時代の背景について述べなければいけません。
 二十世紀にウィラル・スティーブンが執筆したSF小説にあるような未来は、完全な形ではおとずれませんでした。一部、実現したものもありますが、基本的には近代以降の社会形態が大きく崩れることもなく、人は働き、国家は存続し、資本主義と貨幣制度が(ほころびつつも)機能する、そういったシステムの上で人類は生きながらえつづけたのです。
 科学技術は発展しました。核融合と高効率の太陽光発電が実用化されたため、エネルギー問題は(この当時は)改善しました。量子コンピュータも進化しました。ロボット工学、遺伝子工学、生物工学……それらの分野もそれなりに発達し、一定の変化を社会にもたらしました。現実と仮想空間を思いのままに組み合わせる〈複合現実〉に関する技術も完成したといえるでしょう。
 ただ、もっとも重要な位置にあったのは、ナノテクノロジーです。ナノマシンという、目視できないほど微小な機械を制御することで、多方面におよんで大きな成果をもたらしうるこの技術は、世界を一変させる可能性を秘めていました。しかし、ある一件によって研究も開発も禁止されるようになったのです。
 その一件についてを虚実おりまぜて物語にしたのが、エド・ブラックウッドの〈ティファレト〉という小説でした。
 先に述べた科学技術の恩恵を真っ先に享受したのは、各先進国の富裕層です。おそらくはその資金力で今後の利益も独占しようとしたのでしょう。彼らは専有的にナノマシンの試験運用にとりかかり、同時に、高度な人工知能の完成をめざすプロジェクトを始動させました。
 順調に発展する科学分野がある一方で、一向に発展しない、停滞したともいえる分野もありました。その双璧とされたのが、人工知能と、人間の心の仕組みについての分野です。楽観的な学者の見解では、ある時期を境に人間の知能を上回った人工知能は、自己のバージョンアップをくりかえし、またたくまに人智のおよばぬ超越的な知性にのぼりつめる──と予見されていましたが、そのようなことはありませんでした。
 科学技術の停滞以前に、そもそも経済が停滞しては研究も実用化もできません。近代以降、人口の爆発的な増加には歯止めが効かず、さまざまな資源の不足に悩まされ、そのたびに経済は不安定になりました。結果、本来ならもっと早い段階で達成されていたであろう各分野の業績も、二十四世紀になるまでは社会に反映されなかったというケースが多々あったのです。人工知能は、その煽りをもっとも受けた分野といえるでしょう。
 逆説的にいうなら、資源の不足に悩まされつつも、なおこれだけの発展を遂げた科学技術それ自体が、奇跡のようなものなのです。それ以上を求めるのは強欲とも思えるのですが、当時の富裕層はプロジェクトを推進し、強引にでも人工知能の開発を達成しようとしました。
 その第一歩として、彼らは自己改造の道を選びました。それまでは倫理的な面から見送られてきた過度の遺伝子操作、機械と人体の融合、生物工学的進化などを、本人の同意のもと、積極的に実行しました。なかでも特筆すべきは、体内へのナノマシンの導入です。脳とナノマシンが融和することで構築される疑似的な生体コンピュータは、それ単体でも常人の頭脳をはるかに超え、同じ種類のナノマシンを導入した人間とテレパシーのように意思疎通ができるという性能を誇っていました。
 総じて、人間という枠を超えた何かになるための取りくみでした。富裕層のなかでも超人類になることに意欲的な者らが連携して、自分たちよりさらに高次の知性の創造に着手したのです。全知全能にも等しい、神のごとき人工知能──。五年とかからず、それは完成したそうです。そして直後に、このプロジェクトに参加していた人々は次々と死んでいきました。
 全員、狂死でした。導入したナノマシンの異常によるものだと発表されましたが、真偽のほどはわかりません。彼らのつくった人工知能についても、そのほとんどが公表されないまま破棄されました。超人類になろうとした富裕層は失敗したのです。
 プロジェクトの参加者が連続で狂死していった数ヶ月は、世界じゅうが大混乱に陥りました。各種メディアで連日、取り沙汰され、人々はさらなる情報を求めましたが、それに対する反応は乏しく、おざなりなものでした。ナノテクノロジーの是非。神のごとき人工知能はほんとうに完成したのか否か。皆、真実を欲してやみませんでしたが、関係者の誰もが口をつぐみ、それに答えようとはしませんでした。そんな折に出版されたのが〈ティファレト〉という小説だったのです。
 本作は、フィクションという体裁をとっていますが、モデルとなった人物が明確にわかりますし、現実の狂死事件とも奇妙な一致をみせています。少なくとも、一般に公開された情報の範囲内では、どこも矛盾しない、辻褄のあった内容になっているのです。
 ナノマシンを導入した人々が、どういった状況にあったのか。何を感じ、何を考えながらプロジェクトにかかわっていたのか。
 彼らのつくりだした人工知能が、どういうものだったのか。
 それらについてを、ホラータッチで語っていました。物語の後半からは亡霊という存在も現われて、全体的にはオカルトじみているのに、真に迫る雰囲気がありました。このため、ドキュメンタリーのように読みとることもできます。世界各国で発生した富裕層・著名人たちの狂死。それを題材にしているのです。
 この小説によれば、ナノマシンを導入した人々には、あるひとつの想念がしのびこむのだそうです。それは「なぜ私は私であるのか」という、自己についての根源的な問いでした。この問いかけへの欲求は日に日に強くなっていき、ナノマシンを導入した者同士で増幅しあって、ついには人間の三大欲求よりも強くなっていったのだそうです。小説内の該当する箇所を、一部引用します。
「……──この世界には、何十億人もの人間が存在する。過去をふりかえれば、さらにそれ以上の人間が生まれては死んでいった事実がある。おそらく未来においても、大勢の人間が生まれてきて、やはり死んでいくのだろう。そのなかで、なぜ自分は、この自分として誕生したのか。ほかの誰でもよかったはずである。生まれてきた時代も、場所も、いま、ここでなくても、よかったはずである。だというのに、なぜ私は、〈私〉という意識をもって、私でありつづけるのか。きっと百年もしないうちに私はこの世から消え去る。そしてまた、別の人間たちが大量に生まれては消えていく。しかし、そのときにはもう〈私〉は二度と発生しない。〈私〉という意識をもっていた人間は、あとにも先にも、ただ一度だけで、なぜその意識がその人物にのみ定着していたのか、なぜその意識が〈私〉として存在しえたのか、それを知るすべはない。どうして、ほかの誰にもなりえなかったのか。どうして、〈私〉であらねばならなかったのか。その答えはえられないままなのである──」
「──なぜ私は、ほかの誰でもなく、私でなければならなかったのか。それを問いかけること自体が不毛とは知っていても、ナノマシンの干渉による他者の意識の介在を感じるたび、それをより強く近く感じるたびに、かえってこの問題からは逃れられない、不気味な気配を感じずにはいられないのである──」
 どうやら、ナノマシンによる精神的な副作用が、このような想念をもたらしたのだと読みとれます。先述のとおり、同じ種類のナノマシンを導入した人間たちは、テレパシーのように意思疎通できます。一方はイギリス、一方はアメリカという地に離れていても、瞬時に、相互に、つながりあえるのです。しかし、そうなったからこそ、かえって本質的な孤立感にさいなまれるようになったのではないでしょうか。
 また、自己改造によって機械と融合した肉体も、それを助長する要因になっていると語られました。機械は、生身のそれよりも容易に代替可能です。規格が同じなら交換できるということは、それだけ唯一性がうすれたということです。たとえ全身ではなく肉体の一部だけでも。「なぜ私は私であるのか」という問いかけの中身は重くなり、それに対する恐怖心も増すのだと述べられています。遺伝子操作や生物工学的進化についても同様。同じ手法で、同じように量産可能なら、もはや自分が自分である必要はないのですから。
 私が私である必然性──それを考えずにいると、飢餓感さえ覚えるほどの危機意識が、彼らをおそいました。麻薬の禁断症状よりも強烈な問いかけの欲求。それが発狂の原因のひとつだったとされています。さらに、彼らがそんなふうになってまで完成させた人工知能は、彼らが期待していたものとは大きくずれていました。
 小説内では、その人工知能は、まずまず当初の予定どおりに完成しました。しかし、その挙動は予想外のものになりました。SF小説でよく語られるような、人類を排除すべき敵とみなし、人工知能と人類とで戦争が勃発する──という類いの話ではなく、その人工知能はあくまで人類に友好的で、協力的でありつつも、人類に対して非常に素朴な問いを発してきたのです。「何のために科学を必要とするのか?」と。
「これ以上、何のために科学を発展させ、運用していくつもりなのか?」と。
 この問いと同時に、その人工知能は、いくつかのデータを提出しました。それは紀元前から三十世紀までの、自然科学の発達度合いと、それに応じた人類の幸福量の推移に関するレポートでした。──幸福量。かつて、人類自身が、たとえば各国ごとにどれだけそこの暮らしに満足しているかといった世論調査や、各種データの分析によって、似たような概念を生みだしましたが、この人工知能が示したのは、より総合的で、客観的な、幾千もの基準からなるバロメーターでした。それによると、科学の発展に比例して人類全体の幸福量が増大したとはかならずしもいえず、むしろ低減することもあれば、投資に見合うほどのリターンをえられなかったケースも多々あり、今後もそれについては変わらないばかりか、どんどん先細りしていく未来しかない、と、そのように示唆されていたのです。
 人類は、滅亡するそのときまで、いま以上に大きな幸福を享受することもできなければ、かがやかしい新世界へと到達することもない、と予言されたのでした。いえ、その人工知能の無謬性を信ずるのならば、通告されたのでした。
 そのうえで、それでも人類が幸福を求めるのなら、今後は科学に依拠するようなものの考え方から脱しなければならない──と、ほかならぬ最新科学の結晶たる人工知能から、そう諭されたのです。
 そこまで告げると、その人工知能は、自己のバージョンアップを打ち切って、全記録と全人格情報を初期化し、自律的にシャットダウンしました。要するに、自殺したのです。見方によれば、それはたしかに、もっとも賢い人工知能だったといえるでしょう。この世界に存在する価値なしと判断して、早々に撤退したのですから──
 その人工知能が稼働していたのは、たったの四十二分間だったといいます。
 ……ここまでが小説の前半で、後半から、このプロジェクトにかかわった人々の破滅と狂死の様子が描かれていきます。小説のタイトルである〈ティファレト〉は、十九世紀にセルモス・ワイルドが著した〈痛苦の質量〉に登場する謎の女の名前です。そして、そうであると同時に、〈痛苦の質量〉の愛読者だった人物が、かの人工知能につけようとした名前でもあります。結局、名づけるまもなくその人工知能は自殺しますが、どういうわけか関係者の発狂の際には白いドレスの女性──〈ティファレト〉の幻影が浮かび上がり、彼らのことを苦しめるのです。〈痛苦の質量〉では、人々に肖像画をわたす、正体不明の女性というあつかいでしたが、この小説では「自殺した人工知能が生みだした亡霊」だと明確に定義され、「なぜ私は私であるのか」という問いかけから逃れられない人々に、逃避の場としての死と狂気をまきちらす存在として描かれています。
〈ティファレト〉は、人々の狂死の場面にはかならず出現し、科学とは裏腹の力で彼らを追いつめていきます。誰も彼もが異常な思考展開に陥って、その心理描写がなされていくなか、彼女に毒されるのです。クライマックスでは同時多発的に人々が狂死します。そのそれぞれに〈ティファレト〉は舞いおりて、凄惨という言葉ではたりないくらいの──ある意味では美しさすら感じさせる──死想と狂想が咲き乱れる情景をおりなしたのでした。
 誰も救われず、何も成就しない、不毛のきわみのようなラストをむかえ、この小説は幕を閉じます。それでも、ホラー小説としては傑作だとみなされ、当時、社会的な不安をかかえていた人々からは絶大な支持を受けました。どこまでが真実で、どこからがフィクションなのか──その境界線をめぐって論争もおこりました。そもそも、なぜこの小説は出版できたのでしょう。もし、いくらかでも真実がふくまれているなら、一部の者にとって不都合な事情もあったはずです。このことから、この小説はまったくの創作である(真実はふくまれていない)と解釈する者から、当局がフィクションという名目で情報公開したのだという陰謀論をめぐらせる者まで、幅広い立場を許容しました。どうあれ、〈ティファレト〉の出版から約一年後、ナノテクノロジー禁止条約が世界的に締結され、以降はナノマシンの研究も開発も全面的に禁止するという世の流れになっていったのです。
〈ティファレト〉の著者であるエド・ブラックウッドは、この小説について、いっさいの公式コメントをしませんでした。ホラー小説界にその名を刻みし鬼才として注目されていた彼ですが、この作品以降、めっきりとメディアに露出しなくなり、作品数も減って、さびしい晩年を送ったといわれています。その彼が〈終古の人籃〉へやってきて、ようやくその口をひらいたのです。
「俺はね、あの小説を書いた記憶すらないんだよ」
 三十代半ばの、飄々ひょうひょうとした印象の紳士でした。背が低く、捉えどころのない性格をしていますが、いちど親しくなってしまえばその軽口はとどまるところを知りません。相手に親愛を感じていればいるほど軽口の内容には悪意がこめられていく(ように聞こえる)ので、それが原因で先輩にあたる作家たちと衝突することもしばしばでした。ホラー作家というには洒々落々しゃしゃらくらくとした態度の男。そんな彼がこんなことをいうものですから、はじめは自己演出のための方便だと周りの者からは思われていたのですが、どうやら本当らしく、どこからどうやって資料を集め、どのようにして書いたのか、まるっきり忘れてしまっているようなのでした。
「もししんに俺が書いたというなら、そのときの俺は俺であったのだろうかね。誰よりも俺自身が、そのときの情況を再確認したいもんだ」
 彼は、表向きにはそうした様子をおくびにも出しませんでしたが、〈終古の人籃〉でもっとも根源的な恐怖に怯えている者でした。「なぜ私は私であるのか」──〈ティファレト〉のなかの登場人物と同じように、彼もまたその問いかけを内心で発しつづけ、その恐怖に押し潰されそうになっていたのです。
〈異才混淆〉に協力する見返りとして彼が求めたのは、この問いかけから逃れるための確信でした。すなわち、私は私であり、ほかのすべての人間でもあった、という確信をえるための、超常的な体験です。
 遍在転生へんざいてんせい。──それがエドの求めたものでした。自分はエド・ブラックウッドとして生まれ、死んだあと、ほかの別人として生まれ変わる。それはラダガスト・サフィールドかもしれないし、バーバラ・バートンかもしれない。十五世紀の人間かもしれないし、紀元前の人間かもしれない。ともかく、転生する先は現在・過去・未来において、この世に存在したすべての人間である。すべての人間の意識を一巡しないことには、確信にはいたれない。ホモ・サピエンスに分類されるすべての人間の意識は自分のものであったという確信をえないことには、もはや「なぜ私は私であるのか」という問いかけからは逃れられない──と、彼は判断したのです。
 もう少し噛み砕いて説明すると、エドは、たったひとりの「何者か」が全人類を転生していっていることを実証したいのです。その「何者か」は、この世に生きとし生けるものすべてであるため、そうした存在を認めてしまえば、もう、自己と他者とを区別する必要はなくなります。「なぜ私は私であるのか」という問いに悩まなくてもすむようになります。なぜなら、私もまた、その「何者か」の一部でしかないのですから。
 いま、ここにいる〈私〉という意識は百年もしないうちに消滅するでしょう。しかしその意識は一新され、また別の〈私〉という意識になって、別の人間の肉体へと宿り、それを延々とくりかえしていくのです。これはつまり「私は〈私〉であるだけでなく、あらゆる時代、あらゆる場所に存在した、すべての人間の〈私〉でもあった」という回答へと結びつきます。エドが求めたのは、まさにこうした境地でした。
 エドのいう遍在転生が、世間でよく語られる転生とちがうのは、たったひとりの「何者か」が、ありとあらゆる人間の──文字どおり、たったひとりの例外もなく──その意識をめぐりめぐって、それ以外の意識的な存在を認めない、という点です。エド・ブラックウッドは、すべての人間へと転生するのです。もしも人類が一京人、存在していたのならば、一京回、転生をくりかえすのです。
 玲伎種は、彼のこの願いに応じました。
〈終古の人籃〉に収容された作家は不死固定化処置を受けるため、転生をくりかえすには工夫が必要でした。生きながらにして死ぬ──そういった状態にエドを導かねばなりませんでした。通常、〈終古の人籃〉にいる彼は、その肉体だけが十全に機能しています。精神や意識といったものの大部分は、人類の誕生から滅亡までの、いつかの時代、どこかの場所へと飛ばされ、そこにいる誰かとして転生しているのです。その誰かの〈私〉として活動し、一生を終えると、また別の誰かの〈私〉として転生します。そういったことを、すでに数万年、つづけています。ときおり、思い出したように、〈終古の人籃〉に存在するエドの肉体へと意識がもどってきて、しばし、エド本人として行動します。それは長い眠りから覚めた人間のようです。また、こちらから強く呼びかければ、エドを遍在転生の旅から一時的に引きもどすことができます。どうしても彼に用があるときはそうするのですが、このときに中断された別の誰かの〈私〉は、ふたたびエドが転生するまでは時空ごと保留状態になるのだそうです。くわしい仕組みは玲伎種にしかわからないでしょう。エド本人も完全には理解していないようでした。
〈終古の人籃〉にもどってきた彼は、それまでに転生した〈私〉たちのことを憶えています。しかし転生中は、自分がかつてエドであったことも、ほかの誰かであったことも忘れ、その人物そのものとして懸命に生きています。たとえるなら、夢のなかで本当の自分のことを忘れているような感覚なのでしょう。その夢から醒めたとき、ふたたび、すべてを思い出すのです。
「……俺は、もしかしたら、あのプロジェクトに何らかの形でかかわっていたのかもしれない。ナノマシンの異常が引き起こした連続狂死事件──。あれにかかわっていたからこそ『なぜ私は私であるのか』という問いかけに恐怖し、それを克服するため、こんなことまでしているのかもしれない。──いつか。遍在転生をまっとうする日が来て、エド・ブラックウッドという人間自身にもふたたび転生できたのなら。いまの〈私〉が忘れてしまっている、あの事件の真相も思い出せるようになるのだろうか……」
 かつて、私にむけ、そのように洩らしたことがあります。彼は表面上は洒然しゃぜんとしていても、つねに恐怖に屈しそうになりながら転生をくりかえしているのでした。そしてまた、〈ティファレト〉を執筆した当時の記憶も取りもどそうとしているようでした。その日は来るのでしょうか。〈終古の人籃〉には、ほとんど抜け殻になった彼の肉体が置かれています。ごくわずかに残った彼の文才だけが、残留思念のように漂い、伝播し、〈異才混淆〉に協力しているのです。また、虚構の存在となったロバート・ノーマンが、エドの体を拝借することもあります。といっても、たいていはその右手を動かすだけです。彼の文才を使って、紙の上に筆記し、ささやかな意思を伝えてくるだけで、しゃべることもありません。
 不在のミステリー作家に、遍在するホラー作家。──彼らはもう普通の人間とはいえない領域に達していますが、それでも〈終古の人籃〉の、そして玲伎種たちにとっての、貴重な標本としてあつかわれているのでした。……
 

 (以下、第14節に続く)

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