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【解説再録】SF界のトップランナー、グレッグ・イーガン待望の最新短篇集!

現代SF界を代表する作家、グレッグ・イーガンの7年半ぶりとなる日本オリジナル短篇集『ビット・プレイヤー』が刊行されました。SF界のトップを走るイーガンの魅力に満ちた物語6篇が収録されています。牧眞司さんによる解説の再録で、イーガンの凄さを感じ取ってください。

神なき世界で「私」の根拠を問えるか?
SF研究家
牧 眞司

 グレッグ・イーガンの作品は、きわめて理知的であり、またいっぽうで情緒に訴えるものを秘めている。それが広範なSF読者から支持される理由だろう。情緒的であっても感傷的でないところも、じつに良い。

まだ長篇の翻訳がなかったころだから、たぶん1996年か7年だと思うのだが、神田神保町の古書店街で、その当時《SFマガジン》の編集部にいた清水直樹さんに遭遇したことがある(みなさん、よくご存じのとおり、出版関係者に出くわす率がもっとも高い場所だ)。ほんの一、二分の立ち話のなか、「グレッグ・イーガンって面白いね」と言ったのを覚えている。清水さんは、いつものすべてお見通しのような笑いを浮かべて、しかし、あきらかに食い気味に「そうでしょ! これからどんどん載せていきますよ!」と頷いた。とびきりの奇貨を見つけた編集者の表情だった。
 それから数年のうち、イーガンはSFファンなら知らない者はいないほどの注目を集める。1999年に邦訳された二長篇、『宇宙消失』(創元SF文庫)『順列都市』(ハヤカワ文庫SF)は、SF関係者の投票による『SFが読みたい!』年間ランキングで海外部門の一位と三位を獲得した。それ以前に紹介された短篇も含めて、すべて山岸真さんの翻訳である(それ以降も[ただし一部に中村融さんとの共訳あり])。
 山岸さんは誰よりも早くイーガンに注目し、《SFマガジン》に連載していた海外SF事情/未訳SF紹介コラム「山岸真の海外SF取扱説明書」で、しばしばその名前を挙げていた。とくに92年1月号ではまるまる一回をあてて、実作を紹介しながらイーガンSFの特徴を分析している。題して「オーストラリアからあらわれた短篇の名手、グレッグ・イーガン」。いや、イーガンは長篇も良いぞという読者もいらっしゃるかもしれないが、この時点ではオーストラリアのファン出版社が刊行した習作 An Unusual Angle(1983)があるきりだった(ちなみに同書は初刊2500部のみで再刊されていない)。
 また、これはあくまで私見だが、これまで発表されたイーガン作品を見るかぎり、出来映えは長篇よりも短篇のほうがはるかに優っている。SFをSFたらしめる外形的なアイデアや設定と、作品固有の内在的なテーマとが分かちがたく結びつき、表現型としての物語を駆動させる──そんな感覚だ。
 たとえば、近作の〈直交〉三部作(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)においても、アイデアと設定はきわめて斬新で印象的だが、登場人物たちの行動や意識は1950年代のテクニカルなSF(要するにハインラインやアシモフが書いていたような)とさほど変わらない。その前に発表した『ゼンデギ』(ハヤカワ文庫SF)は、アイデアと精神的なテーマとのリンクがかなり成功しているが、こちらはアイデアそのものが(ディテールのキメ細かさは措おくとして)読者の認識や日常感覚をひっくり返す強烈なインパクトはない。
 もちろん、作品の楽しみかたはひと通りではない。〈直交〉三部作にしたところで、アイデアはアイデアとして──科学知識とロジックを縦横無尽に駆使しながら奇想天外なヴィジョンを喚起するトリガーとして──満喫ができ、それとは別に、物語は物語として、つまり主人公の自己実現への苦難、人間関係や状況との葛藤・克服のドラマとして楽しめばいい。そう割りきってしまえば、現代物理学のゴリゴリな蘊蓄など無理に咀嚼せずとも、すいすい読める。理系でなければイーガンの真価はわからないなどとくだらぬことを口走るひとがいるけれど、バカを言っちゃいけない。ぼくは理系出身だがイーガンの設定説明はさっぱりだし、物語の水準ではたやすく感情移入して読める。
 この短篇集に収録されたなかでも、比較的長い「鰐乗り」「孤児惑星」は、長篇と似た小説構造になっている。物語だけを取りだせばまるでラリイ・ニーヴン作品のようだ。どちらも、宇宙に未探査の場所(「鰐乗り」は銀河の中心宙域、「孤児惑星」はタイトルどおり太陽を周回せずに孤立している惑星)があり、知的好奇心に駆られた主人公がそこへ行き、冒険して帰還する。単純きわまりない。ただし、ガジェットに科学技術のアイデアが惜しみなく投入されていて、そのレベルが尋常ではない。機序が幾段階に重なっていたり、異なる知識分野を掛けあわせていたり。ちなみに両作品の前提となる、多様な知的生命体(遺伝子ベースのものの情報化されたものも含めて)と多様な文明・文化がもつれながら銀河系を覆っている融合(ア マルガム)世界は、長篇『白熱光』(ハヤカワ文庫SF)と共通する。
 まだ、イーガンの長篇に接したことがなく、これから読んでみようかと考えている読者にとって、「鰐乗り」や「孤児惑星」は格好のウォーミングアップになるだろう。設定や科学技術面で細かなことを記している箇所は、その理論をわかろうと無理せず(わかりたいひとは好きなだけ味わえばよろしいが)、へえー、そうなっているのねとざっくりと掴めばよい。そのコツを身につければ、長篇もぜんぜん平気だ。
 むしろ興味深いのは、単純な物語のなかで展開される人間的・社会的なテーマだ。「鰐乗り」ではパートナー間の信頼・依存という多くのひとにとって身近な問題が、「孤児惑星」では手のうちがわからない相手との外交という、まさに現代の国際社会でおこっているのと相似の状況が、シビアに扱われている。
 そうしたテーマ性がより強く押しだされているのが「失われた大陸」で、シチュエーションこそ時間断層・並行世界の大仕掛けだが、中核にあるのは内戦と難民の問題である。この作品では、柱となるアイデアが物語の駆動系としっかりリンクしている。アイデア・設定はそれ自体としてマテリアルに存在するが、同時に、ストーリーの流れにおいては比喩性・象徴性を帯びる。SFの要諦は、アイデア・設定が比喩に回収されきらず(つまり文学の装置にとどまらず)、機能的にもイメージ的にも自存する(いわば過剰にモノ的である)ことだが、かといって、ただの事物(書き割りや小道具)で終わってしまえばそれだけの価値しかない。「失われた大陸」は、そのバランスが優れている。
 やはり、イーガンはこれくらいの長さの作品がいちばん面白く、小説としてエッジが効くようだ。ちなみに、ヒューゴー賞などのカテゴリ分けでいえば、本書収録作品のうち「鰐乗り」「孤児惑星」がノヴェラ(中長篇)、ほかの四作はノヴェレット(中篇)の扱いである。「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」の三篇は、ぼくがもっとも愛好するイーガン短篇「しあわせの理由」と同系列に属する作品だ。中核にあるテーマは煎じつめれば「自分が自分であること」だが、それはいわゆるアイデンティティ(社会的・心理的な水準)の問題よりもいっそう深く、フィジカルな根源にまで及んでいる。生理学・脳科学・認知論・身体論を踏まえたアプローチだが、物語へとつなぐガジェットとしてSFのアイデアが効果的に用いられている。そして、物語の主体となるのは、主人公が生きていくうえでの苦難や希望、挫折、諦観といった、かなり生々しく、すべてのひとにとって切実な感情である。
 ただし、イーガンは人間を聖域化しない。人間とは神経ネットワークにして生化学的ダイナミクスにほかならず、環境と物質・エネルギー・情報をやりとりしながら曖昧な輪郭を保ちつつ、その流動のなかで事後的に感得されるものが、とりあえずの自我となるだけのことである。ルーディ・ラッカーがいみじくも言ったように、魂とはソフトウェアだ。「七色覚」が示すとおり、原理的には才能も習熟度もアプリで代替できる。そう考えれば、人間の個性とはパラメーターの偏差にすぎない。しかし、それでも私にとって私は唯一無二で、そこに希望も苦悩もある。
 この構図を端的に示したSFが、アーサー・C・クラークの『都市と星』(ハヤカワ文庫SF)だ。主人公アルヴィンは、悠久の都市ダイアスパーでただひとり、前世の記憶を持たずに生まれたユニークだった。じつは、彼は人類の歴史を再スタートさせるカギとしてプログラムされていたのである。それを知ったアルヴィンは戸惑う。都市の外の広い世界へと向かう強い好奇心や感情は、はたして自分自身のものか?
 ぼくは自由意志で判断しているのか、それともあらかじめ組みこまれたアルゴリズムに従っているだけなのか?
 このアルヴィンの逡巡に通じるものが、しばしばイーガンの作品にもあらわれる。ただし、『都市と星』ではアルヴィンを動機づけした都市の建設者、つまり「他者」がいたし、多くの文学作品で自由意志のテーマは、「神」もしくはそれに類する超越的な何かとの対峙として扱われる。しかし、「しあわせの理由」系列の世界には、かような「他者」や「神」はおらず、現世的でフラットなシステムが機能しているだけだ。ただ、そのシステムは代替がきかない。というのも、そのシステムこそが「私」の根拠だからだ。イーガンの世界では、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」と嘆くことすらできない。
 それゆえ、「しあわせの理由」も、本書収録の「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」も、カタルシスで決着しない。いつまでも片づかない気持ちを、読者に委ねて幕を閉じる。アイデアを消費して終わるSFではなく、幾度も再読せずにはいられない。イーガンの価値はアイデアのインパクトや見かけの斬新さなどではなく、色褪せることのない文学的普遍性にある。これはぼくの確信だ。

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『ビット・プレイヤー』
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カバーイラストレーション/Rey.Hori

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