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【無料公開】堂場瞬一新刊『小さき王たち 第一部:濁流』第一章【試し読み大増量中】

 連休中の読書に心からおすすめしたい1冊があります。堂場瞬一さんの大河政治マスコミ小説『小さき王たち 第一部・濁流』。1971年の、政治家と新聞記者が日本を変えられていた時代の新潟で繰り広げられる熱き物語。現在にも通じる社会問題を孕みながら、権力対権力、愛、生き方を問います。
 一人でも多くの方に読んでいただきたく、今回、お試し読みとして、第一章、72ページまでを公開いたします。
 互いの仕事の世界で高みを目指そうと誓い合った支局の若き記者と幼馴染みの政治家秘書の幼馴染み二人に何か起きたのか。1971年の新潟で何が起きているのか。ぜひ目撃してください。

(編集部)
小さき王たち 第一部・濁流
堂場瞬一
早川書房
2090円(税込)

『小さき王たち 第一部:濁流』

堂場瞬一



第一章 油の海

   1

 

 参ったな……高樹治郎(たかぎ じろう)は顔をしかめた。突堤に近づくにつれ、オイルの臭いがひどくなってくる。念のためにとマスクをしてきたものの、ほとんど役に立っていない。

 それにしても、実際に現場を見ると、事故の凄まじさを実感する。日和山(ひよりやま)海岸沖で座礁したタンカー「ジュリアナ号」の船体は、沖合三百メートルほどの地点で真っ二つに割れていた。今かすかに見えているのは船首部分で、ほぼ四十五度の角度で上を向いている。流れ出した油で、海はてかてかと光っていた。警察が出動して近辺を警戒しているが、開けた広い場所なので、野次馬を完全に排除できるものではない。

 吹きつける十二月の海風は、体を凍りつかせるほど冷たい。こんなところで長居したら、絶対に風邪を引くだろう。東京生まれの高樹は、新潟に来て四年目になるのに、未だにこの雪国特有の湿った寒さに慣れなかった。

 しばらく海岸を歩き回り、タンカーの様子を望遠レンズを使ってカメラに収めた。第九管区海上保安本部の担当者は、積載していた二万トンの原油のうち、四千トンが流出したと推測している。既に県の対策本部が設けられ、油処理剤の「シーグリーン」や「ネオス」が海岸からホースで散布されていた。各地の海保の巡視船も投入されて、海上からも処理剤の散布が始まっているが、油は昨日の段階で、沖合八キロまで広がっているという。「援軍」として、今後はヘリコプターなども投入され、さらに流出を食い止めるオイルフェンスも張られる予定だが、海が元の顔を取り戻すとはとても思えない。海岸に流れ着いた漂流ゴミにも油がべったりとついて、汚染の深刻さが窺える。少し離れた場所で水揚げされたカニも油で汚れていたという情報があり、漁業に与える影響も深刻だ。

 タンカーが座礁したのは十一月三十日。既に二日が経過している。高樹は県庁に詰めっぱなしで、県の対応などの取材に追われていたが、自分でも一度ぐらいは現場を見てみようと、夕刊の作業が終わったタイミングを見計らって日和山海岸に来てみたのだった。現場を担当している警察(サツ)回りの連中に詳しく話を聞き、テレビのニュースでも様子を見ていたが、これほどひどいとは……。

 場所を変えてみるか。突堤を歩き出すとすぐに、立ち止まることになった。見知った顔がいる──急に驚きと懐かしさがどっとこみ上げて、胸が詰まった。しかし次の瞬間には「何故」という疑念が突き上げてきて首を捻ってしまう。どうしてあいつがここにいる?

 立ち止まって距離を置いたまま、様子を観察する。声をかけにくい。一人ならともかく、田岡総司(たおか そうじ)は何人かと一緒なのだ。中には知った顔も……県議の石崎(いしざき)はすぐに分かった。石崎だけでなく、新潟市議会民自党会派の重鎮・岩岡(いわおか)もいる。県政界の実力者二人と田岡が、どうして一緒にいる? しかしその疑問はすぐに氷解した。氷解したというか、推測が成り立った。田岡の父親は代議士で、現在民自党政調会長の要職についており、近い将来の総理総裁も狙える実力者と言われている。あいつは当然、父親の跡を継ぐことになるだろう。そのための準備として新潟入りしているのではないか? ただし彼は、大学卒業後は商社に就職したのだが……。

 どうしたものか。高樹は県政担当として、石崎とも岩岡とも顔見知りだから、挨拶するのは不自然ではない。しかし田岡と話すのは難しそうだ。後で何とか連絡を取ってみるか──そう考えて歩き出した瞬間、田岡がふいにこちらに視線を向けた。一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、すぐにニヤリと笑い、軽く手を上げる。石崎と岩岡に素早く一礼すると、こちらに向かって駆け出してきた。ああ、走るフォームは昔と変わらない……田岡は高校時代まで陸上短距離の選手だったのだ。大学の体育の講義でも、他の追従を許さない走りを見せていた。腿が綺麗に上がり、腕がしっかり振れている、いいフォーム。長いコートが体にまとわりつき、いかにも走りにくそうだったが。

「高樹!」

 おいおい、でかい声を出すなよ、と思わず苦笑いしてしまった。強い海風が吹いているのだが、彼の声は風を切り裂くようによく通り、高樹の耳に届いた。田岡は高樹の五メートル手前でスピードを落とすと、最後の距離をゆっくり歩いて詰める。途中から手を差し出してきた。握手? 挨拶で握手する奴なんかいるのか? そう言えばあいつは、ケネディ崇拝者だったと思い出す。政治的な功績だけではなく、悲劇的な最後も含めて熱く語っていた──握手はその影響だろうか。手を握ると、田岡が嬉しそうに二度うなずく。

「どうした」第一声で思わず聞いてしまう。「何でお前が新潟にいるんだ? 会社は?」

「お前には言ってなかったけど、会社は辞めた。今はオヤジの秘書をやってる」

「じゃあ、本格的に後継修業が始まったわけだ」

「そういうことになるかな。まだまだ先の話だけど。オヤジも元気だしな」

 田岡の父親・一郎(いちろう)は五十一歳。政治家としては脂の乗り切った年齢で、これから本当に総理大臣になる可能性もある。一度総理を務めれば、その後は大派閥を率いて、陰の実力者として長く政界に影響を及ぼすだろう。だとすると、田岡の出番はずっと先になるのではないか。すっかり髪が薄くなってから初めての選挙となったら、気力も体力も持たないだろう。

「それで今は? どうしてるんだ」

「オヤジの秘書として、あちこち動き回っている。普段は東京にいるけど、これからは新潟にもしょっちゅう来るよ」田岡一郎の選挙区は、新潟市を中心にした新潟一区である。

「そうか」

「お前は? 逆にそろそろ東京へ戻るんじゃないか」

「まだ早いよ。あと一年か、二年か……」東日新聞では、新人記者は必ず地方支局での勤務を義務づけられる。それがだいたい五年か六年だ。高樹には、まだ「本社へ」という声はかかっていない。

「それで今日は? 視察か?」高樹は訊ねた。

「先生方のお供でね……これだけの大事故が地元で起きたんだから、地元の人間としては、見ておかないわけにはいかないだろう」

 地元と言われても……確かに田岡一郎は新潟市出身だが、田岡自身は東京生まれの東京育ちで、学生時代までは新潟とはあまり縁がなかったはずだ。しかし本気で選挙を戦うつもりなら、早いうちから自分が出馬する地盤で根を張っておく必要があるということだろう。

「しかし、ひどいことになってるな」田岡が顔をしかめる。「俺たちの海が」

「俺たちの、じゃないけどな」高樹はすぐに、田岡の言葉の意味を悟った。もう十五年ほど前になるが、小学校五年生の時に、田岡に誘われて新潟に旅行に来たことがあるのだ。旅行とは言っても、田岡の父親が地元への夏の挨拶回りをするついでだったが。その時初めて、高樹は新潟の海で泳いだ。どちらが長く潜っていられるか競争して高樹は溺れかけ、田岡に助けてもらった……まさかその海が、こんな風に油で汚されることになるとは。

「今はちょっと時間がないんだけど、今夜にでも会わないか? 仕事は何時ぐらいに終わる?」田岡がせかせかとした口調で訊ねる。

「八時ぐらいかな」東京から遠いが故に、新潟の地方版の締め切りは早い。都内に配る最終版は通常午前一時、頑張れば二時ぐらいまで締め切りを引っ張れるのだが、新潟版の締め切りは夕方だ。今日もジュリアナ号事故の続報を社会面用に出さねばならないが、それは本社からの応援組が担当するだろう。高樹たちが書く地方版用の原稿は、午後六時過ぎには処理を終えねばならない。

「いいよ。鍋茶屋にでも行くか?」田岡がさらりと言った。

「冗談だろう?」江戸時代から海運が栄えていた新潟では、古くからの料亭文化がある。鍋茶屋は、その中でも最も格式が高い料亭の一つだ。

 一瞬間を置いて、田岡が笑いを爆発させた。

「冗談だよ……俺たちが鍋茶屋に上がったら生意気だよな」

「お前、新潟の店には詳しくなったか?」

「このところ、月の半分ぐらいは新潟にいるからな。お偉いさんとの呑み会も多いし」

「お偉いさんと行くような高級な店じゃなくて、俺の給料でも行ける店にしてくれよ」

「じゃあ」田岡が顎(あご)に拳(こぶし)を当てた。「東堀の『東(あずま)』、知ってるか?」

「ああ」

「あそこでどうだ? 飯が美味いだろう」

「いいよ」高樹は腕時計を見た。「八時なら確実だ」

「分かった。それじゃあ、『東』で八時に」

「もしも何かあって行けないようなら、店の方に連絡を入れておくよ」

「了解。それと、名刺、名刺」

 田岡が背広の内ポケットから高級そうな名刺入れを取り出した。慌てて高樹も尻ポケットから財布を抜く。名刺を交換……田岡の名刺には二つの連絡先が書いてあった。父親の東京の議員会館と「新潟事務所」。東京と新潟を行ったり来たりの生活かと、高樹は少し同情した。移動には、やはり国鉄を使うしかないだろう。国道は通じているが、途中の三国峠はなかなかの難所で、冬場などは相当難儀する。だいたい、東京─新潟間は三百キロもあるのだから、車で行き来するのはきつい……いずれ関越自動車道が全通する予定で、既に練馬と川越の間の工事は始まっているが、完成はいつになるのだろう。国鉄での移動は、その間ゆっくり休める利点がある──いや、長時間列車に揺られながら安眠できるわけもなく、とにかく疲れるだけだろう。体も気持ちもよほど頑丈でないとやっていけない。

「移動はどうしてるんだ?」

「国鉄だよ。今は『とき』が一日六往復もあるから便利だ。五時間近く乗ってると疲れるけど、しょうがない……それでどうだ? お前は忙しいか?」田岡が訊ねる。

「ああ、まあ……でも、そういう話は夜にゆっくりやろう。先生方を待たせたらまずいんじゃないか」

「それは……大丈夫だけどな」田岡がニヤリと笑った。「オヤジの腰巾着みたいな人たちだから」

 そうか、と言いかけて高樹は口をつぐんだ。県政界の重鎮二人を「腰巾着」扱い? 高樹は特に政治家を尊敬もせず、ただ取材対象として見ているだけだが、それでも田岡の言い方は気になった。普段から、ああいう連中に対しても偉そうな口をきいているのだろうか。

「じゃあ、八時に」

「ああ」

 田岡がコートを翻しながら去って行く。二人の元に戻ると、大袈裟に思えるほど深々と、何度も頭を下げた。先生、申し訳ございません──という台詞が聞こえてくるようだった。言葉はどれだけ丁寧でも、心がまったく籠(こも)っていない。何故か、そんな様子まで想像できるのだった。

 

 高樹は学校町にある県庁ではなく、寄居町の東日新聞新潟支局へ上がった。普段は朝から夕方まで県庁にある記者クラブに詰め、原稿を電話で吹きこんでから、支局に上がって確認する。実際、支局よりも記者クラブにいる時間の方が長いぐらいだ。しかし既に夕方近くで、しかも明日の朝刊用の原稿はもう出してしまった。県政記者クラブのキャップ、佐々木(ささき)は何か取材を続けているかもしれないが、高樹は特に仕事を振られていなかった。

 支局のある辺りは昔からの新潟の中心部で、閑静な住宅街でもある。一方で県庁や新潟中央署、市役所も近く、取材拠点としては申し分ない。市内の繁華街──東堀、西堀、古町へも歩いて行ける便利な場所であった。建物はまだ新しい四階建てで、最上階が支局長住宅、三階が会議室と倉庫、二階が支局になっている。一階は駐車場だが、支局員全員分の車が停められるほど広くはなく、今日も全て埋まっていた。舌打ちして、高樹は歩いて五分ほどのところにある別の駐車場に車を走らせた。すぐ近くなのだが、新潟ですっかり車移動に慣れてしまったので、これが面倒臭い。

 冬の新潟市特有の寒さと湿気が身に染みた。今年も既に何度か雪は降っていたが、今は道路には積もっていない。新潟といえば雪国のイメージ──それは間違いないのだが、三メートルも積もるのは、魚沼や上越の山間地である。海に近い新潟や柏崎などは、それほど深い雪に埋もれることはない。それでも十二月後半から一月にかけては、街全体が雪に覆われ、運転にも苦労するようになる。最も危ないのは、薄く雪が積もった翌朝である。気温が下がって道路は凍りつき、スパイクタイヤも頼りにならず、市内のあちこちで渋滞が発生する。凍った道路は厄介なもので、ちょっとした坂を登りきれずにタイヤが空転し、スパイクがアスファルトまで削って火花を散らす光景を、高樹は何度も見たことがあった。アスファルトもダメージを受けていて、春になって雪が消えると、削られたアスファルトの細粉が舞い上がり、視界が霞(かす)むほどになる。

 それも鬱陶(うっとう)しいが、まずは冬を乗り切らないと……既に四度目の冬だが、あと何回、こういう冷たく湿った季節を経験しないといけないのだろう。首をすくめて歩きながら、今夜の別の約束を思い出し、しまった、と舌打ちをした。

 酒屋の店先に赤電話を見つけ、受話器を取って十円玉を入れる。かけた先は、新潟バスの本社宣伝部。やけに元気のいい若い男の声が耳に突き刺さり、思わず受話器を耳から少し離した。

「阿部隆子(あべ たかこ)さん、いらっしゃいますか? 高樹と申します」

 相手の勤務先に電話するのは危険だ。こちらは新聞記者だから、企業の宣伝部や広報部に名前を知られていてもおかしくない。ただし高樹は、これまで経済担当だったことは一度もない。東日新聞新潟支局では、新潟市政を担当する記者二人が、経済担当を兼ねることになっているが、高樹は二年間の警察回りの後、少しだけ遊軍をやって県政担当になったので、経済界とはつながりがなかった。

 向こうは何か詮索しているかどうか……すぐに隆子が電話に出た。

「阿部でございます」

「ああ、俺……悪い、今日の約束なんだけど、キャンセルでいいかな」

「承知いたしました」隆子の声は素っ気ない──というか仕事用のそれだった。

「古い友だちとばったり会って、呑むことになったんだ。夜、また電話するよ」

「かしこまりました。ではまた、後ほどよろしくお願いします」

 電話を切り、肩を上下させる。何だかな……隆子の父親は、新潟バスの社長である。彼女は去年大学を出たばかりの二十四歳。家事手伝いでのんびりしていてもいいはずなのに、父親の会社に入社した。長男も同じ会社で働き、将来的には会社を継ぐと言われている。長女は既に嫁入りして家を出た。彼女は気楽な立場の末っ子なので、親も好きにさせようとしているのかもしれない。

 つき合って一年ほど経ち、高樹は結婚を意識しないこともなかった。ただしまだ決心しきれない。新潟バスは、本来業務であるバス路線の運営以外にも、観光や宿泊など様々な分野に手を出している。新潟県を代表する一流企業なのは間違いなく、地元政界との深いつながりもあった。そこの社長の娘と結婚すれば、自分と新潟との関わりは一気に深くなる。高樹はあくまで、東京で記者として活躍することを目標にしている。特定の県の、特定の勢力と強い結びつきができてしまうと、一生それに引っ張られるのではないか──ただし、隆子に強く惹かれているのは間違いない。クルクルと動く大きな目、すぐに笑ってくれる明るい前向きな性格、そして何より自分を好いてくれている。こういうチャンスを逃すと、独身生活が長く続くんだよな、と考えると不安になる。新聞記者は基本的に忙しく、特に三十代までは、自分の時間など持てないぐらいだ。それ故、学生時代からつき合っていた相手と結婚するか、比較的時間に余裕のある支局時代に相手を見つけるパターンが多い。それを逃すと、後は見合い……見合いは一種の賭けだから、頼りたくはなかった。

 まあ、実際にはまだ猶予はあるはずだ。本社へ上がるのは早くて来年、実際には再来年の可能性が高いから、それまでに決断すればいい。結婚して東京へ行くことになっても、隆子も困らないだろう。何しろ学生時代の四年間は東京で過ごしているのだ。

 既に結婚する前提で考えていることに気づき、高樹は思わず苦笑してしまった。これは都合が良過ぎるだろうな……。

 支局内はざわついていた。県内の記者は、二十人強。取材拠点の新潟支局には、十二人が所属している。支局はまだ新しいがそれほど広くなく、会議などで支局員全員が集まると息苦しくなるほどなのだが、今日は本社の地方部や社会部からの応援組がいるので、明らかに定員オーバーだった。そういう連中が、煙草を吸いながら大声で電話で話している。何だか職場を乗っ取られたようで気に食わなかった。だいたい、新潟の取材は新潟に任せておくべきではないか? わざわざ本社から応援に来るのは、こちらの取材能力を信用していないからではないだろうか。

 肩身が狭い。これなら支局へ戻って来ない方がよかったと思ったが、寒い中、何の用もないのにまた外へ出て行くのも馬鹿らしい。結局新聞のスクラップをしたり、資料をまとめたりして時間を潰した。時にテレビを眺める……しかしこの時間だと、民放──新潟では二局しか映らない──は子ども向け番組、NHKもニュースは流していないので、観るものもない。

 社会面の早番、地方版用の原稿は、午後六時過ぎには送り終わる。これで仕事は終了……何か新事実が発覚して、社会面の遅番用に原稿を差し替えることになれば、またざわつくことになるが、だいたい夜には大きな動きはないものだ。唯一気になるのは、海保で行っているタンカー船長への事情聴取だ。一気に逮捕とでもなれば、原稿は大きく変更になる。

 仕事を終えた本社からの応援組が、支局長の村田(むらた)に連れられ、揃って出て行った。これから夕飯接待か……既に慌てて取材するような状況ではなくなっているから、こんな余裕も出てきたのだろう。

 デスクの富谷(とみや)が煙草に火を点け、疲れた様子で煙を吹き上げる。デスクが一番参っているかもしれない、と高樹は同情した。取材を統括し、記者が書いた原稿をチェックするデスクは、自ら現場に出るわけではないが、長時間座りっぱなしだとかえって疲れるだろう。富谷は立ち上がり、大きく伸びをすると、ソファに腰をおろした。そこにいつも置いてある出前メニューを取り上げ、うんざりした表情で見やる。

 支局のデスクの仕事は、非常にきつい。朝から夜まで、一日中支局にいて取材の指示を飛ばし、若い記者の下手くそな原稿を直す。昼飯時には短時間外出できるものの、夕飯はだいたい出前……原稿を送り終わっても、本社から問い合わせがあるので、支局から出られないのだ。富谷は、子どもがまだ小さいので、新潟へは単身赴任である。自炊する気にはなれないだろうし、ストレス解消の手段は酒を呑むぐらいしかないだろう。そんな生活が、月曜から土曜まで続く。日曜だけは、年長の記者が代理デスクに入って休めるのだが、何か大きな事件でもあれば出てきてしまうから、身も心も休まる暇がないはずだ。

「ちょっと出てきますね」高樹は敢えて軽い調子で声をかけた。

「夜回りか?」

「田岡の秘書と呑む約束になってるんです」

「ああ……選挙も近いしな」

「それで、ちょいと情報収集で」

「呑み過ぎるなよ」富谷が忠告する。

「大丈夫ですよ。それより本社の連中、まだいるんですか?」声を潜めて訊ねる。

「明日には帰るんじゃないかな。こういう火事場は今日までだろう」

「引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておさらば、ですか」

「そう言うなよ」富谷が顔をしかめる。「お前も本社に上がれば、地方に取材に行ってでかい顔をするんだから」

「俺はそんなこと、しませんよ」高樹は顔をしかめた。

「立場が変われば人は変わる」

 富谷がぴしゃりと言った。これは彼の口癖である。今年四十歳の富谷は、様々な職場を経験していた。多くの記者たちを見てきた結果の、この格言めいた口癖なのだろう。しかし、本社へ上がったからと言って、地方の記者に対して威張ることはないよな……もっとも、支局の記者は基本的に若手が多いから、本社の記者が上から押さえつけるような態度になるのは当たり前かもしれないが。

 俺も、立場が変わると性格も変わるのだろうか。

 

 

   2

 

 支局を出て、いっそう気温が下がってきた夜の街を歩き出す。もう、マフラーや手袋が必要な陽気だ。誕生日──先月だった──に隆子がプレゼントしてくれたマフラーを、まだおろしていない。そろそろ出番を作ってもいいだろう。

 三年半前、新潟に赴任してきて一番驚いたのが、街の賑わいだった。裏日本の寂れた街だろうと想像していたのだが、とんでもない誤解で、新潟市は人口六十万人を超える大都市なのだ。全国に名の知れた大きな企業もあるし、古町あたりの賑わいといったら、東京の繁華街と遜色ない。学生時代の高樹は、酒はほどほどというタイプだったが、新潟に来て、日本酒の美味さに目覚めた。やはり、米が美味いところは酒も美味いのだろう。そのせいもあって、新潟で三キロほど太ってしまった。米を食べる量が増えたのと同じようなものだから、これは仕方がない。

 市内の主な繁華街は、新潟駅に近い方から本町通、東堀通、古町通、西堀通と呼ばれる。「堀」の名前がつく通りが多いのは、港町として発展した市街地に、水運を活かすために堀が整備されていたからである。戦後しばらくは、そういう堀の一部が残っていたのだが、昭和三十九年の新潟国体を機に完全に埋め立てられ、今は街の名前として残るのみである。名残はそれだけではない。かつて掘割沿いに並んでいた柳の並木が新潟名物だったことから、新潟市の別称は今でも「柳都(りゅうと)」なのだ。まだ堀があった時代の新潟でも仕事をしてみたかった、と高樹は時々思う。モータリゼーション優先で、国内の街は道路を中心に整備が進んだ結果、どこも似たような表情になってしまっている。昔の方が、よほど個性豊かだったのではないか……。

 古町は南北に長大な繁華街で、大正時代には映画館や百貨店などができて、長く賑わいの中心になってきた。新潟大火や新潟地震で大きなダメージを受けたものの復興は早く、今も華やかな雰囲気が漂う。西堀通は呑み屋が多い。東堀通は少し静かな雰囲気だが、それでもなかなかいい呑み屋がある。高樹は、ネオンで賑やか過ぎる古町よりも、東堀通の方が好きだった。

 ゆっくり歩いて、「東」にたどり着く。ここも何度も来ている店で、店員とも顔馴染みだった。新潟の郷土料理ばかりで、酒の品揃えも豊富。支局員が揃って行くような店でないのも、気に入っている理由の一つである。たまには仕事と関係なく呑みたい時もあるのだ。

 店に入ったのは八時前。店員に確認すると、田岡はまだ来ていなかったが、キャンセルの連絡はないという。安心して、小上がりの席に陣取った。注文は、あいつが来てからにするか……ショートホープをふかしながら待っていると、八時五分に田岡が姿を見せた。

「悪い、遅れたな」田岡は既にコートを脱いで腕にかけていた。コートを座敷に放り出すと、屈みこんで靴を脱ぐ。相変わらずだな、と高樹は苦笑してしまった。この男は昔から、どこか行動が雑である。バッグなどはいつも乱暴に扱って、放り出すように置くものだから、中身を床にぶちまけてしまったことが何度もあった。今日はバッグを持っていないので、コートがその代わりになったのかもしれない。あんな風に物に対して乱暴なのはどうしてだろうと常々疑問に思っていたが、理由を聞いたことはない。

「今来たところだよ。何を呑む?」

「いきなり日本酒でいいか?」

「ビールではなく?」まずビールで喉を潤して、その後に腰を据えて日本酒なりウイスキーにするのが高樹の呑み方だ。

「今日は、ビールの陽気じゃないだろう」

 確かに……支局からここまで歩いてくる間にも、すっかり体が冷えてしまった。

 店員を呼んで、越乃寒梅を注文する。この酒は、東京にいる時にはまったく知らなかったのだが、地酒として全国的に有名になりつつあるらしい。新潟へ来て最初に呑んだ時には驚いた。日本酒らしくない──さらりとして呑み口は軽く、いくら呑んでも酔わないようだった。どんな料理にでも合う万能の酒らしいが、本当は塩を舐めるぐらいで、こいつだけをちびちび呑むのが似合うかもしれない。ただし高樹は、そこまで酒が強くないから、そういう呑み方はしないのだが。

 料理も適当に頼み、まず越乃寒梅の冷やで乾杯する。この酒は温めるより、冷やで呑んだ方が魅力が分かりやすいと思う。より冷たくした方が美味いという人もいて、そのための専用の容器もある。中が二重になったガラス容器で、中心部に氷を入れ、その周囲に酒を満たすのだ。そうすると酒は氷に直接触れないから薄まらず、ずっと冷えた状態で呑める。見た目も洒落た魔法瓶という感じで、高樹も一度試したこともあるのだが、常温のコップ酒の方が好みだった。

「しかし、越乃寒梅は本当に美味いな」田岡が感心したように言う。

「東京だとなかなか呑めないだろう」

「呑み屋では、まずお目にかからないな。酒屋でも滅多に手に入らない」

「こっちの人がさ、外へ出すほど生産量が多くないって自慢するんだよ」

「呑みたいなら新潟まで来て下さい、か。観光業界的にも、そういう売り方が正解じゃないかな」

「さすが、視野が広いことで」

「いやいや……」田岡が唇を少し歪ませるように笑った。「まあ、地方に名物があるのはいいことだよ。俺も、東京では新潟の地酒の自慢ばかりしてる。こういうのを呑むと、普通の日本酒は呑めなくなるな。何だか甘ったるい感じがしてさ」

「酔っ払うためだけなら、そういう日本酒でもいいだろうけど」

「純粋に味を楽しむなら、圧倒的に越乃寒梅だ」納得したようにうなずき、田岡がコップを口に運んだ。美味いと言う割に、ほんの一口舐めるような呑み方である。もしかしたら今夜は、まだ仕事があるのかもしれない。代議士の秘書、しかも長男ということになれば、名代としての役割もあるだろう。

 お通しとして、かきのもとのおひたしが出てきた。秋から初冬にかけての新潟名物──食用菊なのだが、独特の紫色なので、初めて見た時にはぎょっとした。しかし食べてみれば美味い。味わいは淡く、普段酷使している体が内部から清浄化されていく感じがするぐらいだった。あとはいごねり、のっぺ、鮭の焼漬けと次々に地元の料理が出てくる。これで酒を楽しみ、最後は独特の焼きおにぎりであるけんさん焼きで締めるのが、高樹のいつものコースだった。

「しかし、お前も思い切ったな」高樹は切り出した。

「そうか?」

「会社を辞めて、いきなりオヤジさんの秘書とはね」

「会社はいずれ、辞めるつもりではいたから。前からそう言ってただろう?」

「それにしても、商社の仕事を覚える暇もなかったんじゃないか」どこか中途半端というか、焦っている感じもする。

「でも、コネはできた」

「社内に?」

「ああ」田岡が自慢げにうなずく。

 それも妙な話だ、と高樹は内心首を捻った。大きな仕事を任せられる機会も、社内で立場が上の人間と知り合う機会もなかったはずだ。それこそ社長とつながれば、政界に転身しても役立つことがあるだろうが……。

「お前のオヤジさんにも会ったぜ」

「ああ、オヤジも言ってたよ」田岡が入社してすぐぐらいの時だった。高樹の父親は、田岡が入った商社で、国内部門を統括する役員を務めている。

「オヤジさん、会社だと全然違うんだな。厳しい、厳しい……」田岡が苦笑した。

「そりゃ、家と会社では違うだろう」

 高樹と田岡は小学校から大学まで一緒で、互いの家をしばしば行き来していた。忙しい田岡の父親が家にいることは滅多になかったが、高樹の父親は普通のサラリーマンだったから、休みの日は家にいた。田岡に将棋の手解きをしたのは、高樹の父親である。高樹自身は「見込みなし」としてさっさと見捨てられた。

「君はこの会社で出世は目指さないのか、なんてはっきり言われてさ」

「まあ、オヤジも出世欲がない人じゃないだろうしな」戦前の男爵家の出で、子どもの頃から特別な教育を受けていたようだ。しかし出征し、戦地ではかなり厳しい目に遭い……戦後は華族が没落する中、商社で働き始めて自力で今の地位を築いた。立場に甘える人でないのは間違いない。

「そりゃそうだよ。実際、年齢的には社長の目もあるんじゃないか?」

「その辺の事情は、俺には分からない」

「しかしお前も、何でオヤジさんの会社に入らなかったんだ? 華族の出なんだから、有利なんじゃないか」

「今さらそんなこと言われても」高樹は苦笑した。「戦後何年経ってると思ってるんだ」

「しかし、わざわざ試験を受けて新聞社に入らなくても……」

「新聞社の試験なんて、そんなに難しいものじゃないよ。司法試験とはレベルが違う──司法試験を受けたことはないけど。それよりお前こそ、何でこんな早く辞めたんだ」

「政治の世界でスタートを切るなら、早い方がいいと思ってさ」田岡が打ち明ける。「本当は、大学を出たらすぐに秘書になりたかったんだけど、それも何だかな……少しは社会を見た方がいいだろう」

「商社勤めも結構楽しみにしてたじゃないか。海外で仕事したいって」

「そういう夢もあったけど、まあ、望んでること全部が叶うわけじゃないから。海外へ行く機会は、またあるだろう」

 秘書なら、父親の外遊につき添って……ということもあるだろう。ただし、かなり窮屈な旅になるだろうが。

「選挙、出るのか?」

「いずれはな」田岡がさらりと言った。「でも、すぐじゃない。かなり時間はかかると思う。オヤジの地盤を継ぐとしたら相当後になるし、そうじゃなければ……選挙区を選んで、自分で地盤を整えなくちゃいけない」

「そういう場合、オヤジさんの影響力を使うことは……」

「どうかな」田岡が首を捻る。「民自党政調会長だって、やれることに限界はある。それにオヤジは、絶対的に選挙に強いわけじゃない」

 確かに。田岡の父親・一郎は当選六回を数えているが、選挙巧者とは言えない。連続当選してはいるが、毎回「圧勝」とは程遠い結果だった。

「じゃあ、お前が自分で頑張らないと」

「頑張ってるさ。頭の下げ過ぎで腰が痛くなるよ。肩も凝る」田岡が声を上げて笑った。「まだ具体的に、どこの選挙にいつ出るかは決めてないけど、顔繋ぎは絶対必要だろう? 会う人会う人に頭を下げてるから、身長が縮んだかもしれない」

「まさか」

「いやいや……でも、人の名前と顔を覚えられる能力があってよかった。お前はそういうの、苦手だったよな」

「実は今でも苦手なんだよ」

 これが、新聞記者として致命的な欠点になるのでは、と高樹は懸念していた。記者は普段「担当」を持ち、取材相手とは毎日のように顔を合わせる。そういう状況なら、さすがに相手の顔も名前も覚えるが、中には一度しか会わない、あるいはごく稀にしか会わない取材相手もいる。次に会った時に、さっと相手の名前が出てこないのは失礼になるわけで、将来的にはそれが心配だった。こういう記憶力は、どうやって鍛えればいいのだろう?

 料理と酒が進み、高樹は次第にリラックスしてきた。そうなると、文句の一つも言いたくなってくる。

「秘書になったらなったで、連絡ぐらいくれてもよかったのに」

「悪い、悪い」田岡が苦笑しながら謝った。「何かと忙しくてさ。それに、そのうちお前を驚かせてやろうと思ってたんだ」

「実際、驚いたよ」高樹はうなずいた。「あんなところでばったり会うなんて」

「でも、俺は月の半分は新潟にいる。お前とは、いつかは会うんじゃないかと思ってたよ」

「本当に、さっさと連絡してくれればよかったのに。人が悪いなあ」

「悪い人間じゃないと、政治家になんかなれない」

「よせよ。それじゃ、政治家全員がワルみたいじゃないか」

「清廉潔白な人を探しても、たぶん一人も見つからないぜ」

 田岡の偽悪的な言い方が少し気になった。

 田岡は常に、理想を語る男だった。その傾向は大学生になると非常に顕著になり、馬鹿話をしていても、いつの間にか相手を政治論争に巻きこむようになった。高樹たちの大学時代といえば、六〇年安保と七〇年安保の狭間。先輩たちから聞く六〇年安保の世界は遠い昔のことのように思えたし、後輩たちが巻きこまれた七〇年安保は、社会人として見ていたから、完全に他人事だった。警察回りをやっていた頃は、新潟でも学生運動が盛んで、デモや集会を記事にしたことがあったが、自分たちには関係ない世界の出来事、という感覚が強かった。

「石丸(いしまる)、覚えてるだろう?」田岡が唐突に旧友の名前を出した。

「ああ」

「あいつ、今逮捕されて公判中だ」

「本当に?」石丸は仲間内で唯一、本気で学生運動に身を投じていた人間だった。高樹たちといる時は大人しく、声を荒らげることもなかったのだが……。

「石丸は就職しないで、そのまま極左の専従活動家になったんだよ。半年ぐらい前に起きた内ゲバ事件で逮捕された」

「何やってるんだかね、あいつは」高樹は溜息をついた。「もったいない」

「石丸には石丸の覚悟があったと思うけど、確かにもったいないよな。自分の人生を自分でぶん投げたみたいなものだよ。俺たちには関係ない世界だけど……」

「やっぱり、大学を卒業すると、人生は分かれるな」

「お前は、目標通りに生きてるか?」

「どうかな」高樹はコップの酒を呑み干して、またショートホープに火を点けた。「まだまだ修業中という感じだよ。地方支局なんて、やっぱり新聞社の中では主流とは言えないし」

「でも、そろそろ東京へ帰って来るんだろう?」田岡がコップ越しに高樹の顔を見た。越乃寒梅は、まだ半分ほども減っていない。

「一年後か二年後……こういう人事は、自分で決められることじゃないからな」

「何か手柄を立てれば、上の覚えがめでたくなって、早く本社へ転勤できるんじゃないか?」

「そんなに簡単なものじゃないけどな」高樹は苦笑してしまった。高樹も、新潟支局に来てから何本かは独自ネタを書いたが、派手に目立つものは一本もなく、本社の人間の目に留まるようなことはなかっただろう。デスクや支局長は、支局員の成績を定期的に本社に上げているはずだが、太鼓判を押して推薦する、という感じではないと思う。

 そういう意味では、やはりでかい特ダネが欲しい。かといって、今はその芽すらないのだが。

「まあ、じっくりやるよ。目の前でしっかり取材しなくちゃいけないこともあるし」

「例えば?」

「ジュリアナ号の本筋は他の記者が取材してるから、俺は選挙だな」

「そうだな。衆院選は間もなくだろう。お前、取材を担当してるのか?」

「県政担当の最大の仕事は、国政選挙だよ」

「まあ……この話はあまりしない方がいいかな」田岡が急に言葉を濁した。「俺も、下手なことを言うとまずいから」

「ヤバい情報でも握ってるのか?」

「一区は、どうなると思う?」答えず、田岡が逆に質問した。

「どうと言われても……民自党にとってはなかなか厳しい選挙になるんじゃないか」

 一区の定数は三。そのうち一議席は長年田岡の父親が占めているが、残り二議席は毎回流動的だ。民自党としては確実に二議席を占めるべく動いているのだが、まだ二人目の候補の公認が決まっていない。

「本間(ほんま)さん、どうなるかね」高樹は訊ねた。二人目の民自党公認候補と目される人物だ。

「どうかなあ」田岡がコップをテーブルに置いた。

「とぼけるなよ。お前も絡んでるんじゃないのか」

「まあな。まだ本間さんの公認は決まってないけど、そっちを手伝ってはいる」

「オヤジさんは安泰だから、新人の方に注力ってことか」

「そういう感じだ。でも初めての選挙だから、頭を下げるだけで終わっちまいそうだ」

「お前が頭を下げる、ねえ」にわかには信じられない。田岡は態度が大きいわけではないが、常に胸を張って生きている感じがしたのだ。実際、ただ歩いている時でさえ堂々として、見ていて清々しいほどだった。

「慣れるもんだよ。中央でやりたい仕事をやるためには、地元で頭を下げるぐらい何でもない。手段と目的の違い、みたいなものかな」

「だったらもう、地元ではずいぶん顔を売ってるんじゃないか?」

「まだまだ」田岡が首を横に振った。「靴底をすり減らすっていうのは、本当にあるんだな」

「そんなに減ってるか?」

「気分の上ではな。実際は車で回ってるし……でも、とにかく自分でしっかり歩き回らないといけないのは間違いない」

「慣れても、頭を下げるのは気分よくないだろう」

「とはいえ、票を入れてくれる人たちだからな。とにかく俺は、しっかり仕事をしたいんだ。新潟にはまだまだ課題が多いし、中央でも……代議士は、地元の課題も中央の課題も、両方見ていかないといけないから大変だよ。単なる地元の利益代弁者にはなりたくないけど、票をくれる人のために働く、という考え方も間違ってないからな」

「選挙は大変だぜ」

「分かってるよ。お前よりは大変さが分かっているはずだ」

 高樹は内心首を傾げていた。田岡は代議士秘書としての道を歩み始めたばかりで、これまで一度も大きな選挙を経験していないはずだ。一方高樹は、地方選挙を既に何度か取材している。当事者である代議士と記者では関わり方はまったく違うが、選挙の裏側は自分の方がよく知っているかもしれない。

「まあ、実際に俺が選挙に出るのはずっと先の話だろうけどな。お前が本社で偉くなった頃になるんじゃないか」

「そうかもな」

「二人とも理想があるのはいいよな」田岡が嬉しそうに言った。「俺はオヤジの跡を継いで政治家になる。お前は新聞社で偉くなって、世間を動かすような記事を書く。今のところ、その目標に向かって二人とも動いていると言っていいんじゃないか。俺たち、上手くやってるよな?」

「お前はともかく、俺はどうかな。本当の記者生活は、東京へ行かないと始まらない」今はまだ助走期間という感じだ。それにしては長過ぎるが。

「だったら、早く東京へ戻って来いよ。俺はこっちと東京と半々の生活だから、向こうでも会える。むしろ東京の方が会いやすいんじゃないかな」

 無邪気な感じは昔と変わらない。そう……小学校、中学校時代には、田岡と将来を語り合うことなどなかった。実際、本人も何も考えていなかっただろう。それは高樹も同じである。軍人上がりで商社で活躍する父と同じ道には進まないと決めて、新聞記者を職業として選んだのは、大学時代だった。田岡が「政治家になる」と言い出したのも同じ頃だったが、後で聞くと、高校時代には既に意志を固めていたという。

 田岡は中学・高校と陸上に打ちこみ、高校ではインターハイにも出場した。体育大学から誘いが来るぐらいのいい選手だったが、「運動は高校まで」とあっさり言い切って、大学受験に臨んだ。今考えると、その頃には、既に後継指名を受けていたのだろう。高校生や大学生で「跡を継げ」と言われるのは──特に政治の世界では、なかなか厳しいことだと思う。商売ならば、手取り足取りノウハウを教えて、きちんと次世代に仕事を引き渡すことができるだろう。しかし政治の世界では、そういうやり方ではなかなか上手くはいかないのだ。何しろ相手にするのは、無名の有権者である。商売と違って、「客」全員の顔が見えているわけではない。大衆の心を掴むテクニックは、誰かに教えられて身につくものではあるまい。

 田岡の父親・一郎は、戦前に旧内務省で活躍した官僚で、戦後、内務省が解体された後は、新潟県選出の代議士・戸澤総一郎(とざわ そういちろう)の秘書になった。内務省時代に、大臣を務めていた戸澤の秘書役をしていたことがあり、その頃から能力を買われていたらしい。そして戸澤が六十五歳で急逝した後は、後継候補に担ぎ上げられた。戸澤には息子がおらず、三人の娘も全員が政治とは関係ない人間に嫁いでいたことから、一番近くで戸澤を支えていた田岡一郎に白羽の矢が立ったのだ。

 しかし、政治家の後継者として、血が繋がった人間に比べて秘書は弱い。地元では広く顔を知られる実力者であっても、有権者は「血筋」も見るものだ。田岡一郎は内務省出身ということもあり、「有能だが官僚臭が抜けない、どこか冷たい人物」と受け止められたようで、民自党の県議・新潟市議の全面協力が得られず、最初の選挙は最下位当選だったという。

 田岡が高校生の頃というと、父親は何期目だっただろう……いくら何でも、息子を後継指名するには早過ぎるのではないだろうか。いや、正式な後継指名というわけではなく「将来はそのつもりでいろよ」と心構えを説いただけかもしれないが。

 それにしても、と思う。

 田岡はすっかり、レールに乗っている。高樹の感覚では、既に政治家気取りだ。まさか、新潟の米作りについて得々と話し、政府の減反政策の問題点を指摘してくるとは思ってもいなかった。新潟で記者をやっている限り、米作りは避けて通れない話題だが、田岡の知識は自分よりずっと深いようだ。やはりきちんと勉強している。

 二時間近く話して別れた。別れ際、田岡は「近くにいるんだからまた会おうぜ」と言って、笑顔で握手を求めてきた。それに応じながら、高樹はさらに違和感が高まるのを感じた。こいつはまるで、俺のことを有権者みたいに扱っている。確かに、今は住民票を新潟に置いているから、選挙権もあるのだが。あるいは、新聞記者を上手く利用してやろうとでもいうつもりか。

 会うのは三年半ぶりだったが、その短い間に田岡はすっかり変わってしまったと強く意識せざるを得なかった。それがいいことか悪いことかは分からない。

 

 高樹は、新潟大学医学部に近い学校町にアパートを借りている。新人記者として赴任して以来ずっと住んでいる部屋で、狭い六畳間は本と古い新聞で埋まっていた。思い切って整理しようと考えることもあるのだが、どうせいつかは引っ越すのだから、と面倒な気持ちが先に働いてしまう。

 歩いて戻ると午後十時。いつもの癖で、すぐにラジオをつけた。ちょうどNHKのニュースの時間で、そのままこの後の番組「若いこだま」を聴くのが習慣だ。隆子への電話はどうしよう……約束はしてあるからかけてもいいのだが、向こうは実家暮らしだし、もう時間も遅い。どうしたものかと躊躇(ためら)っているうちに電話が鳴った。

「はい」

「隆子です」

「ああ、ごめん。今帰って来たところなんだ」思わず頬が緩んでしまう。「ちょっと待ってくれる?」

 流しでコップに水を入れ、一気に飲み干す。いかに越乃寒梅が淡麗辛口とはいえ、酒を呑めば口の中が粘つく感じになる。これでさっぱりした──煙草に火を点け、電話に戻る。

「今日は申し訳ない。約束を反故にしてしまって」

「でも、元々難しかったんじゃない? ジュリアナ号の取材、大変でしょう」

「あれは、本社から来た連中が張り切ってやってるから、俺には出番がないんだ」実際、県庁絡みの短い原稿を何本か書いただけで、取材しているとは言い難い。だからこそ、今日は現場を見てみようと思ったのだが。少しは取材に参加した意識を持ちたい。

「そうなの?」

「ああ。だから友だちと会う時間もできた。田岡一郎、知ってるよな」

「もちろん。地元の代議士じゃない」

 そう言われて初めて、新潟バスは田岡と深い関係があることを思い出した。社長──隆子の父親が後援会の幹部をやっている。地元の大企業だから、田岡としても新潟バスを味方につけることは大事だっただろう。企業選挙で、関係者の票が何千と計算できる……。

「その息子が、幼馴染みなんだ」

「そうなの?」

「小学校から大学まで、ずっと一緒だった」

「そうなんだ」隆子は心底驚いている様子だった。「その人が新潟に……お父さんの秘書か何か?」

「ご名答」高樹は思わずニヤリとしてしまった。隆子は勘がいい。打てば響くところがあって、話していて心地好いのだ。こういうのは大事だな、としみじみと思うことがある。大学時代までのガールフレンドたちは、高樹に対してどこか遠慮しているような部分があったのだ。「今は、東京と新潟、半々で行ったり来たりしているらしい。今日、ジュリアナ号の現場で久しぶりに会ったんだ」

「秘書さんがどうして現場に?」

「視察だよ。県議と市議を引き連れて──いや、くっついて、が正解かな。とにかく、もう一端の政治家みたいだった」

「本当に幼馴染みなの?」

「何か変か?」

「何だか、嫌ってる人のことを話してるみたいだから」

「そんなことないよ」

「そうかなあ」

 何で俺の気持ちまで分かるのだろう、と高樹は不思議に思った。しばらく会ってもいなかったのに。

「本人はもう、選挙に出ることは決まってるんだ。学生時代は聞き流していたけど、実際に父親の秘書になって、東京と新潟を行ったり来たりしているのを知ったら、本当なんだと思ったよ」

「でもそれは、治郎さんと関係ないんじゃない? 治郎さんは記者だし、その人は政治家──政治家になる人で、進む道が全然違うでしょう」

「それはそうだ。今後も、俺が取材するようなこともないと思う。でも、何ていうか……もう政治家気取りなんだよ。それがちょっと不自然というか、気に食わない。俺なんか、完全に下に見られてる」

「まさか」電話の向こうで隆子が笑った。「まだ選挙に出てもいないのに?」

「でも、出ることは決まっている。オヤジさんの地盤を継げば、間違いなく当選できるだろう。それは分かるんだけど……何だかな」

「昔の友だちが急に偉くなってしまったみたいで、それが気に食わない?」

「実際には偉くなってもいないんだ。もちろん、政治家の秘書にもそれなりの権力があると思うけど、それは虎の威を借る狐みたいなものじゃないか。本当は、そういうこととは関係なしで話したかったんだけどな」

「幼馴染みっていうことは、悪ガキ同士?」

「何でそういう発想になるかな」高樹はぼやいた。「普通に遊んでた普通の子どもだったよ。戦後の、ごちゃごちゃした東京でさ」

「今とは比べ物にならないぐらい貧しかった時代ね」隆子も東京の大学に通っていたが、彼女が知っている「東京」は、既に綺麗に整備された大都会だったはずだ。

「戦後、そんなに時間が経っていない頃だからね」しかし貧しかったかというと……二人とも恵まれていたと思う。

 高樹も田岡も昭和二十年生まれだ。物心ついたのは昭和二十年代後半から三十年代にかけて……その後、東京はオリンピックに向けて一気にその姿を変えていくのだが、その前ののんびりした空気感は記憶に鮮明である。生まれ育った麻布周辺にもまだ空き地があり、三角ベースやチャンバラごっこで遊んだのは、小学校の低学年の頃だっただろうか。その頃から田岡は足が速く、三角ベースでは大活躍していた。しかし今の子どもたちは、そんなこともできないだろう。今や、東京では空き地を見つけるのが難しい。東京オリンピックが終わり、再開発は一段落したものの、終わったわけではない。空き地は日々埋まり続けている。空き地があれば、それは何かの「工事待ち」で、子どもは気楽に入れない。

「うちに遊びに来る話、どうする?」

「ああ……そうだな……うん」ずっと避けていた話を持ち出され、高樹はしどろもどろになってしまった。

「年末は忙しい?」

「だいたい忙しいね」

「だったら、お正月にどう? 新潟のお正月、ちゃんとやったこと、ないでしょう」

「そうだな」これまで新潟では、三回年を越している。ただし、正月が泊まり勤務だったり、年明けにすぐ東京の実家へ帰ってしまったりで、新潟らしい正月を味わったことは一度もない。もっとも、一人暮らしのアパートでは、正月もクソもないのだが。「新潟の正月って、やっぱり鮭だよな」

「鮭とイクラ。雑煮も具沢山よ。最後にイクラをたっぷり載せて」

 それは想像しただけでもよだれが出そうだ。イクラは、新潟で食事をすればどの店でも出てくるのだが、家庭料理で食べるのはまた格別だろう。

 しかし……ここで簡単に巻きこまれてしまっていいのか、という疑問はある。家に招くということは、交際相手として正式に認めてもらうということだ。隆子も結婚適齢期だし、両親も当然それを意識しているだろう。いきなり結婚などという話が持ち上がったら、その場では即答できない。正月までまだ間があるにしても、その間に決断できるとは思えなかった。

「まあ、今月がどれぐらい忙しいかによると思うな。ジュリアナ号の件は、年を越しそうだし」

「そうよね」

「今日、現場に行ってきたけど、油の臭いが凄くてさ……まだ頭が痛い」

「大丈夫?」隆子が本気で心配そうに言った。

「頭痛薬も呑んだし、寝れば治るさ。とにかく、しばらく日和山には近づかない方がいいよ」

「分かった」

 高樹のアドバイスに、隆子が素直に同意した。それも嬉しい──自分の言葉を、疑いなく認めてくれる人がいるのはいいことだ。新聞記者は、言葉を使い、言葉で戦う。取材相手との「言った、言わない」という論争はしょっちゅうだし、記事の微妙なニュアンスを巡ってデスクと遣り合うことも珍しくない。そんな神経が疲れる日々の中で、隆子の存在は唯一の慰めだった。

 隆子と知り合ったのは、県政記者クラブに出入りするようになって、県の広報課長から「いい人がいるけど会ってみないか」と言われたのがきっかけである。見合いのようなものだが、最初から第三者は介在せずに二人だけで会っていた。初めは何となくぎくしゃくしていたが、ほどなく、何でも自然に話せるようになった──後に、彼女の父親である新潟バスの社長は、広報課長の学生時代の先輩で、広報課長は「娘の相手を探して欲しい」と頼まれていたことが分かった。彼女の父親は、堅実な県職員か市役所の職員辺りを念頭に置いていたのだろうが、広報課長は何故か、新聞記者である自分を紹介したのだった。ヤクザな商売だし、高樹自身も、決して品行方正な人間とは言えないのだが……。

 ここはやはり、気持ちを決めるべきだろうか? 結婚にはまだ早いという気持ちもあったが、ここを逃すと、結婚するのはだいぶ先になってしまうだろう。本社勤務よりも支局勤務の方が時間に余裕があるから、彼女とより深く知り合うチャンスもある。

 決めるべきタイミングがきたかもしれない、と高樹は半ば覚悟を決めた。

 

 

   3

 

 ジュリアナ号座礁事件の現場を視察した翌日、田岡は石崎の事務所を訪ねた。今年五十八歳の小柄な県議の顔色は悪かった。

「大丈夫ですか?」と思わず聞いてしまう。

「昨夜から頭痛がひどくてね」石崎が広い額を掌で撫でた。

「原油のせいでしょう。あの臭いは強烈過ぎました」

「まったくだ。ひどい事故だな」

 田岡はバッグに手を突っこみ、小さな袋から頭痛薬を取り出した。

「お呑みになります?」

 驚いたように、石崎が田岡の顔をまじまじと見た。

「あんたは、いつも薬を持ち歩いてるのか」

「頭痛薬、胃薬、歯痛の薬は持ってます」

「そんなにしょっちゅう、あちこちが痛むのかね」

「違いますよ」田岡は声を上げて笑った。「誰かが体調を崩した時のためです。秘書として普通の心がけですよ」

「あんたは理想的な秘書だねえ……だったら、もらっておこうか」

 石崎が差し出した掌の上に、頭痛薬を二錠落としてやる。石崎はいきなり薬を呑みこみ、その後でお茶を飲んだ。田岡は思わず顔をしかめた。

「薬を呑むなら、お茶より水の方がいいですよ」

「俺はいつもこうなんだよ」石崎が両手を広げ、痛みを押し潰そうとするように強く額を揉む。「ま、そのうち治るだろう。それより、選挙の方はどうなりそうだ?」

「二月二十日投開票の線でまず決まりですね」

「それはまあ、悪くはないな。雪が助けてくれるだろう」

 石崎の言いたいことはすぐに分かった。民自党の支持者は義理堅い。高齢者や、企業ぐるみの応援などで投票する人は、それこそ雪が降ろうが槍が降ろうが投票に行く。一方、政友党支持者は、そこまで投票に熱心ではない。大雪になって投票率が下がれば、確実に投票する後援者が多い民自党が有利になる、というのが新潟の選挙の常識だった。

「二月二十日だと、まだ大雪の可能性はありますね」

「新潟市だとそこまで降らないが……それで、本間さんはどうなんだ。引き回しは上手くいってるのか」

「今のところ、予定通りこなしています。公認が決まっていないので、おおっぴらにできないのが辛いですが」

「あんたの感触は?」

「正直に言っていいですか」田岡はソファから少しだけ身を乗り出した。

「どうぞ。ここで出た話は、表には漏れない」

「あまりよくないですね。本間さん、どうしても官僚臭が抜けないんですよ」

 次期総選挙で、民自党から新潟一区に出馬予定の本間章(あきら)は新潟市出身で、地元の高校を出て東大を卒業後、大蔵省入りした官僚である。今年四十五歳。生まれは戦前とはいえ、完全に戦後派と言っていい。民自党は次期総選挙の新潟一区で、長年田岡の父親とトップ争いを続けてきた代議士の引退を受け、既に一年以上前から後継候補の調整を続けていた。何人もの名前が上がっては消え、最後に残ったのが本間である。本間の実家は新潟市内で古くから続く造り酒屋で、一家が地元に深く根を下ろしているという背景がある。そして本人は既に大蔵省を辞めて退路を断ち、出馬を明言していた。官僚上がりで、地元にある程度の地盤がある人間なら無難な候補者になる──しかし本当の人間性は、最初は分からなくても程なく明らかになってしまうものだ。しかも今回は、民自党にとって分裂選挙になる可能性がある。

「挨拶回りは、もう一巡したんだろう?」

「ええ。私もずっとついて行ったんですけど、どうも……」思い出すと、何となく気分が悪くなる。「本間さん、すぐに相手と議論を始めてしまうんですよ。議論というか、説教するような感じになる」

「それはまずいな」石崎が眉間に皺を寄せた。

「支援者と話をする時に、すぐに専門的な話題を持ち出したがりますしね。要するに、金の話ですが」

「大蔵官僚だから、数字に強いのは分かるがね。自分の得意分野を強調したいんだろう」

「それも、時と場合によるんじゃないですか? 演説会で、自説を一方的に披露する時はいいと思います。いかにも専門的に聞こえて、聴衆は頼もしく感じるでしょう。でも、一対一で話している時に、相手の言葉に被せて説明するような話し方はよくないですね」

「俺の方から言っておくよ」石崎が溜息をつく。石崎は、いざ選挙になったら本間陣営で中心的に動く予定なのだが、実はあまり本間を気に入っていない。

「いや、私が言います。本間さんの担当は私ですから」

「しかし、何もあんたが嫌な思いをすることはないんだぞ。相手はかなり年上だし、大変だ」

「それは関係ないです」少しむっとして田岡は吐き捨てた。「年上だろうが何だろうが、私が担当なんですから、きちんと言います。このままじゃ、選挙に勝てませんよ」

「悪い評判は、自然に広がるからな」石崎が音を立ててお茶を飲んだ。「あんた、抑えられるか?」

「それが私の仕事です」

「ヘマすると、我々がオヤジさんに睨まれるんだけどな」

「そんなことにはなりませんよ」田岡は笑みを浮かべた。「石崎さんあってこその、田岡一郎ですから。頭が上がらないのは父の方です」

 それを聞いて、石崎が満更でもない笑みを浮かべた。石崎は、自分より年下の父を「オヤジさん」と呼ぶ。最初はこれが奇妙で仕方がなかったのだが、自分たちが担ぐ代議士を「オヤジ」と呼ぶのはごく一般的だと、事務所のベテラン秘書から教わった。

 しかし父は絶対に、「オヤジさん」というタイプではない。「オヤジ」という呼び方には、厳しいと同時に愛情溢れる存在というニュアンスがあるが、父は決して熱くならず、深い情けを見せることもない。仕事はできる──政治家として必要なことはきちんとやっているのだが、父性愛を発揮して後援者から慕われる感じでは決してないのだ。だから選挙では苦労するのだ、と田岡には分かっている。政治家は、自分たちの代表であり親であり、親友でもある。日本の田舎ならではの感覚は、田岡の好みではなかったが、田舎を地盤にして選挙を戦う以上、そういう顔を見せなければ、選挙では苦しくなる。

「次の予定は?」

「しばらくは挨拶回り──二巡目です。その間は、私もこちらに張りつくことにします」

「本間さんの面倒を見るのはいいけど、オヤジさんの選挙の方は大丈夫なのか?」

「父には、ちゃんと高見(たかみ)さんがついてますから」

 初当選の時から父親の選挙を支えてきた地元新潟の秘書だ。陰では「選挙の神様」と呼ばれていて、実際、その票読みは三桁の誤差で当たるという。その辺りのノウハウは、是非学んでおきたいものだ。将来は、党の選対で全国の選挙に関わることがあるかもしれないし……高見は強面でちょっと近寄り難い人間で、昔から苦手なのだが、今後はそんなことは言っていられない。

「逐一、私の方にも連絡を入れて下さいよ」石崎が言って膝を叩いた。

「県議団の方は……」

「それはご心配なく」石崎がうなずく。「ちゃんと割り振って、それぞれの担当で動いているから。こういうことでは、民自党県議団は、一糸乱れぬ動きを見せる。状況によっては、本間さんの方に援軍を送るよ」

「よろしくお願いします。その差配は、石崎さんでないとできないことですから」田岡は頭を下げた。

「任せておきなさい。あんたも初めての選挙だからいろいろ大変だと思うが、これも勉強だから」

「承知しています」

「一つだけ忠告しておく……」石崎が人差し指を立てた。「あんたはカッとしやすいところがある。本間さんに対しては頭にくることも多いと思うが、そこは抑えてくれ。あくまでオヤジさんのところからの応援だということを忘れちゃいかんよ」

「肝に銘じておきます」

 石崎も基本的には食えない人間だ。県議として活動すること、既に二十年以上。民自党県連の重鎮であり、この人がいないと、県内の様々な選挙が混乱するのは間違いない。普段は飄々としているが、選挙の話になると途端に熱が入り、何時間でも話し続ける。奇妙なことに、「あそこの選挙区が危ない」という状況が大好きで、不利な候補のテコ入れに、人生の全てを懸けている感じだった。

 もちろん田岡は、石崎の選挙テクニックを把握しているわけではない。父の秘書になって二年、新潟の選挙に関わり始めてからはまだ三ヶ月ほどで、選挙についてはまだまだ知らないことが多い。これから学ぶことばかりだと思うが、知らなければ自分の選挙が立ち行かなくなるのは間違いない。裏方の情報網やテクニックを知らないと、候補者としてもやっていけないだろう。ただ神輿に乗っているだけのような候補者は、有権者に見透かされる。

 自分がどんな候補者になるべきか──どんな政治家になるべきか、まだビジョンはない。そういうのを築き上げるためには、この下積みの時間が大事なのだと田岡は自分に言い聞かせた。

 

 先輩秘書たちからは、「地元で一人で移動する時は、できるだけ公共交通機関を使え」と言われていた。田舎では自家用車で動くのも普通になってきているが、バスや電車を使えば、地元の人たちの雰囲気をより正確に掴むことができる。もっとも父が、車以外の乗り物で移動するのを見たことはない。当選してしまえばどうでもいい、ということかもしれない。

 田岡は、新潟交通の県庁前駅へ徒歩で向かった。さほど馴染みがなかった新潟の街だが、今ではその地理もすっかり頭に入っている。そもそも中心部は、昔の掘割が元になっている道路なので、銀座と同じようにきちんと区画整理されており、道路の名前さえ覚えてしまえば後は歩きやすい。

 元々の中心部は、海に近い信濃川の北側である。南側には国鉄の駅があり、県外から来る人にとっての玄関口はそちらだ。そう言えば今は、洪水被害の軽減のために、信濃川の分水路が建設作業中である。来年には完成予定で、そうなると新潟の中心部は信濃川とこの分水に囲まれた完全な「島」になる。分水の工事現場は田岡も既に視察していたが、幅も広く、本当に市の西側が切り離される格好になるようだ。既に、中心部を「新潟島」と呼ぶ人もいるぐらいである。

 県庁前駅は、まさに県庁の南側にある電鉄の始発駅で、側面が優雅にカーブを描いた二階建ての駅舎は、なかなか趣がある。燕までつながるこの路線は、正式には「新潟交通電車線」という名称なのだが、地元の人は「電鉄」と呼ぶ。完全に地元の人の足で、朝夕は、通学・通勤の客で満員になることもある。その時間帯は三両編成で運行されることもあるが、日中は一両か二両編成だ。利用者の多い区間は一時間に何本も走っているが、県庁前と燕を通し運転する便は一時間に一本ぐらいしかない。ただし、田岡が今行こうとしているのはすぐ近くなので、さほど待つことはない。

 待っている間に、この近くに高樹がいるはずだ、と思い出した。普段の日中は、県庁に詰めて役人に頭を下げ、ネタをもらっているのだろう。記者にも当然修業は必要で、支局勤務がまさにそれに当たるのだろうが、田舎役人にへこへこするような仕事は虚しくないだろうか。

 そう言えば……高樹は大学に入るとすぐに「新聞記者になる」と宣言したが、どんな記者になるかは言っていなかった。外報部に行って外国特派員になるのか、政治部で政権の中枢に食いこんで取材するのか。昨夜もあれこれ話したのだが、彼の希望については特に話題にならなかった。思い返すと、自分のことばかり話していた気がする。自分の考えや目標を人に広めることこそ政治家の仕事とも言えるが、いい政治家は人の話を聞くのが得意なはずだ……と反省する。

 あいつが政治部に行けば、東京でも会う機会が増えるだろう。最初は記者と代議士秘書として。しかしそれほど遠くない将来には、記者と代議士の関係になる。そうなった時、高樹を味方につけておくメリットは計り知れない。何しろ小学生の頃からの幼馴染みで、気心が知れた仲なのだ。記者と政治家の関係は、しばしば「取材者とその対象」を超えて深くなる。記者が政治家の手足のように動いて情報を媒介することもあるし、政治家が記者を気に入って、政治の世界に引きこむこともある。

 新潟で今回の選挙を戦っている間に、高樹にはできるだけ会うようにしよう。全国紙の新潟支局が、選挙にどの程度影響力を持つかは分からないが、味方につけておいて損はない。

 やることは山積みだな。田岡は、真っ黒になっている手帳のページを見詰めて、スケジュールを頭に叩きこんだ。

 

 田岡は平島駅で降りて、少し歩いた。この辺りは静かな住宅街で、この時間──平日の午前中は歩く人も少ない。今日は風が強く、重苦しく雲が垂れこめた空からは、今にも雪が舞い降りそうだった。こういう暗く冷たい季節にも慣れないといけない、と敢えて背筋を伸ばす。石崎は「三区や四区に比べればましだから」と慰めるように言っていた。中越地区の三区、上越地区の四区の山沿いは、日本有数の豪雪地帯である。冬になると人の活動が急に止まってしまい、選挙戦も夏場と同じというわけにはいかなくなる。新潟市を中心にした一区は、そういうところに比べれば雪も少ないから動きやすい。

 五分ほど歩いて、一軒の民家の前で立ち止まった。正確には民家兼事務所。石崎と同じ新潟県議である、富所(とみどころ)の自宅だった。まだ若いが数字に強く、選挙の票読みに長けている。彼からは情勢分析を勉強しておくといい、と石崎からアドバイスされていた。

 富所は自分で田岡を出迎えてくれた。今年四十歳。実家は運送業をやっており、本人も今でも、役員として経営陣に名前を連ねている。ただし、実際には仕事はしていない。

 自宅にいるのに、富所はきちんとネクタイを締め、背広を着こんでいた。自宅で会う時も、常にこういう格好である。家にいる時ぐらい寛げばいいのでは、と聞いたことがあるのだが、「急に呼び出されることがありますからね」というのが彼の言い分だった。本当に、寝る時以外は背広を着ているらしい。

 応接間に通され、早速情勢分析を始める。

「ちょっと気になってることがあるんですよ」富所は腰の低い男で、年下の田岡に対しても常に敬語で話す。

「東田(ひがしだ)さんのことですよね」今回の選挙の不確定要素である。

「ああ」富所が渋い表情でうなずき、手帳を広げる。「このところ東田さんは、絨毯爆撃的に挨拶回りをしています。彼の個人ファンも多いから、まずは確実な票を固めようとしているんでしょうね」

「しかし、そう簡単にいきますかね」

「簡単ではないでしょう。でも、彼の力ならかなりの票を積み上げることは難しくない」

 東田も、民自党会派に所属していた県議である。昭和三十八年の選挙で初当選し、今年の春に行われた選挙では、危なげなく三回目の当選を果たしていた。初当選の時に三十代前半だったので、今もまだ四十一歳──古株が多い民自党県連の中では、富所と同様、まだまだ若手である。

 東田は、以前から国政への転身を狙っている、と言われていた。実際、県議は代議士への足がかりだと考えていた節がある。三度目の当選を果たし、地盤が完全に固まったと判断したのか、今年の夏頃から支持者に対して出馬の意思を打ち明け、民自党県連と公認の折衝を続けてきた。もちろん、民自党が新潟一区での二議席確保を確実にしようとしている状況に乗っかった作戦である。県議としてある程度の票数を見こめるし、政治家としての実績も積んできたから、是非公認が欲しい──。

 しかし県連の重鎮の中では、意見はまとまらなかった。四十一歳は、代議士になるにはまだ若いし、二度目、三度目の県議選ではトップ当選を果たしたものの、その票は固定票とは言い難い。実際、「あれは雰囲気だけ」と馬鹿にする古手の議員もいるぐらいだ。若くてルックスもいいから、政策などに共鳴しなくても、何となく「感じだけ」で投票していた有権者が多いはずだ、と。

 なかなか公認が得られず、結局東田は自爆した。県連幹部との話し合いの中で、「古い考えでやっていると民自党は潰れる」「老人選挙はもううんざりだ」と暴言を吐いたのである。話し合いは紛糾し、それまで東田を支持していた県議たちも見限った。そして今、公認は元大蔵官僚の本間、ということで大勢が固まりつつある。

 東田は十一月頭に県議を辞職し、選挙準備を始めている。積極的に有権者と接触し、挨拶回りを続けて顔を売っているのだ。民自党とのパイプは完全に切れていたが、富所たちは「要注意人物」として情報を収集している。

「彼は若いから、とにかくよく動くんですよ」

「分かります」

「自分で車を運転して、あちこちに顔を出すぐらいだから、印象も強烈です」

「それはそうですよね」田岡はうなずいた。「しかし、事故とか怖くないんですかね」

「まあ、若いから怖いもの知らずなんでしょう」富所が皮肉っぽく言った。富所と東田はほぼ同世代なのだが。

「富所さんだって若いでしょう」

「若いから車を運転するわけじゃないですよ。私は家の仕事で、自分で運転することもあったけど」

「本当に運送の仕事をしてたんですか?」

「それが家業ですからね」

 きちんと背広を着こんだ富所が、作業服を着てトラックのハンドルを握る様子を想像しようとしたが、上手くいかない。今の彼は、どこからどう見ても政治家そのものなのだ。

「東田さんは、今のところ、五万は確実に固めた感じですね」

「もう、そんなにですか?」田岡は目を見開いた。

 新潟一区の有権者数は、概ね四十五万人程度。十万票取れればトップ当選、とよく言われている。定数三で、最下位と次点の差は結構開いてしまうことが多い。過去二回の選挙結果を見た限り、五万票の基礎票はかなり大きい。絶対安全とは言えないが、選挙までとして有利な状況なのは間違いない。

「東田さんは、基本的に女性人気が高いんですよね」富所が嫌そうな表情を浮かべる。

「確かにハンサムですからね」

「女性票は、読めない部分が多いからなあ。会社で票を固めても、その家族まで確実に巻きこめるかどうかは分かりません。それに働く女性も増えてきているでしょう? そういう人たちは、企業選挙に乗っからないことも多いんですよ」

 企業ぐるみで特定の候補を応援することはよくある。地方では、そういうやり方は効果的だ。特に地元の建設業を押さえておけば、かなりの票を計算できる。地方においては、建設業はかなりの力を持つのだ。公共事業を通じて行政とも結びつき、下請け、関連企業も多い。それ故、トップが号令をかければ、多くの社員や関係者が特定の候補に票を投じるのだ。ただし中には、そういう方針に逆らう人間もいる。別の義理があったり、特定の政治思想の持ち主だったり──もっとも、いかに企業選挙でも、「誰に投票したか」を確認するようなことはしない。誰もが正直に答えるとは限らないし、そんなことまでされたら、さすがに社員もそっぽを向くだろう。だから実態は分かりにくい。

「本間さんの票は、上積みできそうなんですか?」

「それが、増えないんだなあ」富所が髪を掻き上げた。「今のところ、四万は確実と見ていいでしょう。ただこの中には、オヤジさんの方から回す票が、五千ぐらい入ってますからね」

「その五千は確実だと思いますが」

「まあ……ただ、民自党内の浮動票が結構あって、そこを掴み切れていないんですよ」

 若い連中のことか……家族や勤務先に命じられて民自党員になる若者は結構多い。ただし彼らは、選挙の度に必ず民自党候補に投票するとは限らないのだ。その時々の雰囲気で、結構簡単に乗り換えて政友党の候補に投票したりする──これまでの分析で、そういう傾向があることは分かっていた。

「あとは、本物の浮動票はまったく読めないんですよね」富所の額の皺が深くなる。「新潟市は都市化が進んで、他の場所から引っ越してくる人も増えているでしょう。そういう人には政治的なしがらみがないから、投票の動向が読みにくい。どうせ誰も政策なんか見てないんだから、それこそ見た目で選んでしまうことも多いんですよ」

「そういう浮動票、どれぐらいあるんでしょう」田岡は訊ねた。

「数万……五万はいかないと思うけど、これは不安定要因になりますね」

「その五万をどう取るかも問題ですけど、民自党の中も固め切れていないのがきついですね。石崎さんは、県議団は一致していると言ってましたけど、大丈夫でしょうか」

「うーん……それはちょっと心配ですね」富所が首を傾げる。「公認関係で揉めてるし、本間さん本人にも問題がね。昔から安定の官僚候補とは言うけど、結局は人柄を見られますから。本間さんが土下座するような場面、想像できますか?」

「土下座が必要でしょうか」

 選挙終盤の集会で、候補者が「厳しい戦いです」「皆様のお力が必要です」と叫んで土下座する──場合によっては、候補者の家族までそれに倣(なら)うことがある。いくら何でも妻まで土下座するのはやり過ぎだと思うのだが、それができる候補は強い。恥も外聞もなく戦わなければ、選挙は勝てないのだ。

「場合によっては、ねえ」富所が嫌そうに言った。

「そういえば、本間さんの奥さん、あまり見ませんね」

「うん」富所が認めた。「実は、私もよく知らないんですよ。基本的に表に出てこない人だから……でも、そろそろきちんと話した方がいいでしょうね」

「私もそう思います」田岡はうなずいて同意した。「できたら本間さん抜きで、本間さんの奥さんと話したいですね。どれだけの覚悟があるか、確認しておきたい。選挙では、奥さんの存在は大事ですよね」

「ただねえ、本間さんの奥さんは育ちがいいから。本物のお嬢様みたいなんですよね。泥臭い選挙に耐えられるかどうか分からない」

「じゃあ、早速会ってみますか」田岡は膝を叩いた。

「田岡さん、会ったことは?」

「あります。挨拶ぐらいですけど……とにかく話してみましょう。電話を借ります」

 手帳を広げ、本間の自宅の電話番号を確認する。大蔵省を辞め、立候補を表明してから、本間は新潟市の実家に住民票を移して家族共々引っ越してきた。高校生の子どもは、東京の家に一人残って暮らしているという。なかなかの覚悟だが、それは妻にも共通しているだろうか。

 電話の向こうで、本間の妻・弥生(やよい)は戸惑っていたが、取り敢えず午後一番に面会できることになった。

「富所さんも一緒に行きますか?」

「もちろん。本音を直接探ってみたいですね……何時ですか?」

「一時です」

「じゃあ、その前に飯を済ませておきましょう。何か奢りますよ」

「ありがとうございます」

 頭を下げたが、少しだけうんざりしていた。新潟名物といえば、蕎麦ぐらい……昼飯に蕎麦は普通なのだが、新潟特有のへぎそばは、田岡の口に合わなかった。独特のぬめりがあって、食べているうちにどういうわけか腹が冷えてくる。

 飯で贅沢なんか言っていられないぞ、と田岡は自分に言い聞かせた。飯は腹を満たし、栄養を摂るためだけのもの。食べる楽しみなど、老後に取っておけばいい。

 

 

   4

 

 本間は挨拶回りで不在。自宅の応接間で会った弥生は、やはり緊張していた。

「本間さんがいない時に、申し訳ないです」富所が愛想よく切り出した。

「いえ……お茶、どうぞ」

 勧められ、田岡はすぐに湯呑みを口に運んだ。濃いお茶で、先ほど食べたタレカツ丼の脂が洗い流されていく。新潟に来て驚いたのは、カツ丼が卵で閉じられていないことだった。醤油味のタレに潜らせたヒレカツが二枚か三枚、丼飯の上に載っているだけ。何だか貧乏臭いと思ったが、食べてみるとさっぱりしていて案外美味い。カツに醤油はどうかと思ったが、考えてみれば鰻丼のようなものである。ちなみに普通の卵で閉じたカツ丼もあるが、それは「カツとじ丼」と呼ばれている。

「本間さんとは、選挙について話し合っていますか」富所が、愛想を崩さず訊ねる。

「いえ……家では、あまりそういう話はしません」

「奥さん、選挙というのは家族総出の戦いなんですよ。いや、家族だけではなく、一族総出の戦いになる。その中で、候補者の奥さんが一番大きな役割を果たすんです」

「でも、そもそも何をしたらいいか分からないんですが」

「我々がアドバイスしたら、その通りに動いてもらえますか?」

「それは構いませんけど……」弥生が目を伏せたまま答える。乗り気になっていないのは明らかだった。

「今後、選挙戦が本格化する前に、本間さんの後援会を正式に旗揚げします。その中では、婦人会の役割が極めて重要になります。奥さんには婦人会のトップとして、女性票の掘り起こしに尽力していただかないと、選挙は有利に戦えません。女性票の行方が、選挙の結果を決めることもしばしばですから」富所が畳みかける。

「でも私、こういうことにはまったく慣れていなくて」

「大丈夫ですよ。どんな政治家の奥さんも、最初は選挙に関わりなんかないんですから。すぐに慣れます」

「人前で話した経験も全然ないんですよ」

 弥生の父親も大蔵官僚だった。戦前から役人生活を送ってきた人で、最後は次官になった。父親としては、本間に目をかけ、娘を嫁がせることで、大蔵官僚の「血筋」を守りたかったのかもしれない。最後は自分と同じように官僚トップの次官にまで上り詰めて欲しい──しかし本間は官僚レースから降り、政治家への転身を決めた。弥生の父親は既に亡くなっているが、もしも生きていたら、この状況をどう考えただろう。

 弥生は一人娘、箱入り娘で、大事に大事に育てられたことを田岡も知っている。そのせいか、結婚して二十年近く経つ今になっても、まだ娘のような雰囲気が残っている。とても選挙の荒波に飛びこんでいけるとは思えなかったし、ましてや土下座など……この人は戦力として考えない方がいいかもしれない。実際、家族をまったく巻きこまずに選挙を戦っている候補もいないわけではないのだ。ただしそういうのは、組織票が強い左翼系の候補に多い。

 富所は、婦人会の役割を必死で説明したが、弥生は最後まで話に乗ることがなかった。ろくな話も引き出せず、手詰まり……田岡は、富所が黙りこんだタイミングで話を引き継いだ。

「息子さん、高二でしたよね」

「ええ」

「東京で、一人暮らしは大変でしょう」

「そうなんですけど、学校も簡単には変われませんから」本間の一人息子は、難関の私立男子校に在籍している。毎年三桁の東大合格者を出す名門校で、成績優秀なので、当然東大を目指しているという。ということは、将来はやはり父親の跡を追うように官僚になるつもりだろうか。東大の最も上澄みの部分は大学に残って研究者になり、その下のレベルが官僚や法曹関係の道へ進む、と聞いたことがあるが、あれは本当だろうか。

「高校生ですから、もう何でも一人でできますよね」

「でも、食事には不便しているんです」弥生の顔に影が差す。「高校生で、いきなり自炊と言われても……毎日何を食べているか、心配です」

 ああ、この人は選挙に身を入れられないな、と田岡は不安になった。母親の本音としては、東京で息子の面倒を見たい、ではないだろうか。本間の実家では両親がまだ健在だし、二人の姉は嫁いだものの近くに住んでいる。本間の面倒を見てくれる人はいくらでもいるのだ。選挙のような面倒事に引っ張り出して……と夫を恨んでいるかもしれない。

 話し合いは不調に終わり、二人は三十分ほどで本間の実家を辞した。車に乗りこむなり、富所が「あの人は政治家の奥さん向きじゃないな」とぼそりと言った。

「そうかもしれません」

「私は、ちゃんと話すのは初めてでしたけど、夫よりも子ども、というタイプなんでしょう。最近はそういう人も多いけど」

「まあ……子どもがいい高校に通っていて、東大を狙えるような成績だとしたら、面倒を見てやりたいと思うのは母親として普通じゃないでしょうか」

「でも、そんなに甘やかさなくてもなあ。高校から一人暮らしをしている人間なんて、いくらでもいるでしょう?」

「東京の子どもはひ弱なんですよ」

「田岡さんも?」

「そうかもしれません」認めた。当時は分からなかったが、子どもの頃は両親の大きな屋根の下で守られていたのは間違いない。政治家の息子、という特殊な立場を意識したことはほとんどないが、周りは当然、そういう目で見ていただろう。

「ちょっとお茶でも飲みましょうか」アクセルをぐっと踏みこみながら富所が言った。

「いいですよ」

 二人は日銀の支店近くにある喫茶店に向かった。駐車場は三台分、しかし端の一台分しか空いていない。かなり駐車が難しい場所だったのだが、富所はバックで一発で停める。普段から車の運転に慣れているのは明らかだった。

 店内の隅の席に陣取り、二人ともコーヒーを頼む。富所はすぐに煙草に火を点けた。「参ったな」と零して、しきりに煙を吹き上げる。

「婦人会、難儀するかもしれませんね」

「うん……候補者の奥さんが愛嬌を振りまいて、奥さん連中の気持ちを掴まないと、一枚岩にはなれませんからね。本間さんが代議士になれば、その後は地元を守っていくことにもなるし。本人が地元に戻れなくても、奥さんがしっかり地元と顔をつないでおけば、選挙では苦労しません」

「本当に、箱入りのお嬢様だったんでしょうね。苦労もしないで結婚して、子育てに専念してきた──そんな感じじゃないでしょうか」

「それは、官僚の奥さんとしては悪くないけど、政治家の妻としてはねえ」富所が溜息をつく。

「奥さんを説得して、精力的に動いてもらうことは可能だと思いますか」

「本間さん本人にも話をして、奥さんを説得してもらうように頼むしかないけど、本間さんも選挙を甘く見ている節がありますからね。家族まで巻きこむ必要はないと思っているかもしれない」

「次に会った時、話してみますよ」

「本間さんは、あなたの言うことは聞きますか?」

「いやあ……」田岡は苦笑いした。本間とは何度も会って話をしているし、酒を酌み交わしたこともあるのだが、未だに本音は掴めない。同じ選挙区で共に当選を目指す民自党の先輩代議士の息子で、初めての選挙の応援に入ったブレーン──自分ではそう意識しているし、本間もそれは分かっているはずだが、どうもこちらを見下しているのだ。それは確かに、自分は東大出でもないし、官僚の経験もない。中途半端な立場と言ってしまえばそれまでで、本間にすれば「こんな若造が何で偉そうなことを言っているんだ」という感覚かもしれない。

「本間さんに本当に釘を刺せるのは、かなり上の人間でしょうね」田岡は言った。

「それこそオヤジさんとか」

「しかし父は、やんわりした話し方ができない人だ」

「確かに」富所が苦笑いした。「オヤジさんは、前置き抜きの人ですからね」

 そんな風に言われていることを、田岡は最近初めて知った。父はどんな場でも、いきなり用件を切り出すというのだ。言われてみれば、家でもずっとそうだった。富所いわく、「まるで世の中には仕事しかないようだ」。政治家としてはそれが正しいかもしれないが──何しろ忙しくて雑談している暇もない──どうにも余裕がないようにも感じられる。秘書になってから、他の議員の講演会などに顔を出す機会も増えたが、本当に話が上手い人が多い。地元の話題を少し盛りこんで場の雰囲気を盛り上げ、そこからゆっくりと硬い本筋に入っていく。政治家同士の話を聞いていても、やはりまずは軽く雑談して、というパターンが多いようだ。一度、父親に「講演では少し柔らかい話を入れてから始めた方がいいんじゃないか」と言ったことがあるのだが、「俺は落語家じゃない」とあっさり言われてしまった。政治家の話に「枕」はいらないし、そんな余裕もない。人生の時間は限られているんだ、と。

 返す言葉もなかった。性格というか、信念として「無駄話はしない」ことにしているのだろう。

「正直、私は不安ですね」忙しなく煙草をふかしながら、富所は打ち明けた。「選挙は水物です。一つの動きで、思わぬ大敗を喫することもある。そうならないためには、確実に取れるところを取っていかないと」

「どうします?」

「石崎さんと相談ですね。田岡さん、今夜の予定は?」

「空いています」

「取り敢えず三人で……いいですね?」

「もちろんです」

 会話は弾まないまま、二人は店を出た。ふと、すぐ近くの小さなビルに「東日新聞新潟支局」の看板がかかっているのが見えた。

「どうしました」その場で立ち止まっている田岡に、富所が声をかけた。

「いや……東日の支局に知り合いがいるんですよ」

「そうなんですか?」

「幼馴染みなんです。今、県政担当をやっているんですが、何か役に立ちますかね」

「それはどうかな」富所が首を捻りながら、車のロックを解除した。「地方の選挙だと、やっぱり地元紙の力が大きいですよ。全国紙は、そもそも地方では部数が少ないから、何を書いてもあまり影響はない。中央のことは全国紙、地方のことは地方紙──情報の棲み分けができてるんです。知り合いがいて損することはないけど、あまり期待しない方がいいでしょう。それより、地元紙との関係を深めた方がいいですよ」

「それもやっています」地元紙の県政担当キャップとは何度か酒も呑んだ。それを足がかりにして、いずれ編集幹部にも食いこむつもりでいる。新潟で選挙を戦うなら、やはり新潟の地元紙との関係を強化していかないと──何だかんだ言って、やはりマスコミの力は馬鹿にできない。

 高樹との関係は、やはり東京で活かすべきか……そのためにもまず、この選挙をしっかり戦わないと。

「しかし、あまり状況がよくないな」富所が煙草を灰皿に押しつけた。「もっと強い手が必要だ」

「それは……」田岡の頭には一つの考えがあった。勝つことが全て──そのためには、なりふり構わぬ作戦が必要だ。

 

「最終的には、実弾しかないと思います」

 田岡が宣言すると、石崎が低い声で「俺もそう思う」と同調する。

「狙いは……」合わせて富所も小声になった。

「民自党県議団は一枚岩とはいっても、やはりまだ態度がはっきりしていない人間が何人もいる。首長もそうだ。今回の公認の状況から見て、当然そうなるわけだが」石崎が淡々とした口調で続ける。「そういうところにも実弾は必要だし、きちんと支持を表明している人間に対しても、今後の動きを確実にするために──金は必要だな」

「相当の資金が必要になりますよ」富所が指摘した。

「総司くん、その辺は?」石崎が田岡に話を振った。

「私が差配できる金は大したことはないですが、何とかします」田岡は答えながら、にわかに緊張するのを感じた。やはりこういう話になるわけか……いずれ向き合わねばならないだろうと覚悟はしていたが。

「リストが必要ですね」富所が言った。

「駄目だ」石崎がピシリと言った。「そういうものは作らない。ここでの話だけで……それで、漏れがないようにしないといけない」

 証拠は残さないようにということか、と田岡は納得した。思わず石崎に訊ねる。

「何人ぐらいですか?」

「今ざっと考えたところでは、百人だな」

「百人……」田岡は絶句した。「何人でやるんですか?」

 ポストに投函して回れば済むようなことではない。直接会って、入念に言い含めねばならないのだ。選挙まで時間がないし、ある程度の人数をかけて一気にやらないと、間に合わない。

「動くのは、せいぜい十人だ。しかも、それなりの立場の人間が渡さないとまずい。単なる配達人ではないんだ」

「説得も必要なわけですね」

「ああ。だからあんたも……覚悟しておいてくれよ」

「もちろん、そのつもりでいました」田岡はうなずいた。自分が言い出したのだから、率先して動く必要がある。

「分かっているなら、結構。受け渡す側の人間は、俺が全部決める。そしてあんたたちは、その全てを知る必要はないからな」

「まさか、石崎先生が全部責任を負うおつもりなんですか?」田岡は、顔から血の気が引くのを感じた。

「今、そこまで大袈裟に考える必要はないよ」石崎が苦笑する。しかし突然一転して真顔になった。「いいかい、こういうことは暗黙の了解で進めるものと決まっているんだ。詳しく話さない方がいい。その方が、いざという時に『詳しいことは知らなかった』と言えるんだから」

「しかし……」

「まあ、心配なら手はある。穴を塞げばいいんだ」

「穴、というのは?」

「警察だよ。警察を押さえておけば、安心して動ける。警察は上位下達のシステムだから、動きを抑えるのはそれほど難しくはないんだ。トップを抑えれば、それで終わる」

「何か方法を考えてみます」それも自分の役目だと田岡は覚悟した。

「方法は一つだ」石崎が厳しい口調で指摘する。「県警の捜査二課長は木原(きはら)という男だ。知らないか」

「いえ……」

「あんたの大学は大きいから、知らないか。俺の手元にある情報だと、あんたの二年先輩、法学部卒の男だぞ」

 田岡の大学からは、毎年一定数の国家公務員上級試験合格者が出る。東大・京大ほどの大勢力ではないが……なるほど。同じ大学の同じ学部で先輩後輩の関係となれば、つながりが作れるかもしれない。同じゼミ出身の可能性もある。

「こういう仕事に抵抗はないか?」自分で言っておきながら、石崎が心配そうに訊ねる。

「どうでしょう。やってみないと分かりませんね」

「難しい仕事だが……」

「難しい仕事は好きです。やりがいがあります。それに、政治の世界が綺麗事だけで動くわけではないことは、きちんと理解しているつもりです」

「頼もしいな」石崎がうなずく。「君は、ここから一歩を踏み出す。もちろん、オヤジさんの後継者としての基礎勉強のようなことだが、こういうことを経験しておけば、オヤジさんにはない強みが出る」

「父は、自分の手を汚すことをしません。基本的には、神輿に乗っかっているだけの人間です」

「俺は、そこまでは言っていないぞ」石崎が苦笑した。

「政治と選挙の裏の裏まで知っていることは、確かに強みになると思います。清濁併せ呑む政治家になるためには、こういうことも必要かと」

「あんたを危ない目に遭わせるようなことはしない」石崎が請け合った。「オヤジさんから預かった大事な人だからな。これはあくまでトレーニングだ。慎重にいこう」

「いえ、思う存分使って下さい。何でもやります」

「分かった。ではまず、あんたには捜査二課長と接触してもらいたい。その方法は──」

 石崎の提案を聞きながら、田岡は暗い興奮を感じていた。これこそが政治の世界、選挙の世界だと思う。綺麗事を言っているだけでは誰も動かない。「世間」という、正体が見えない大きなものを動かすためには、汚い手を使う必要もあるのだ。

 

「あ、そう、堀江(ほりえ)先生のゼミだったんだ」警戒していた木原が、急に嬉しそうな表情を浮かべた。少し酒が入ったせいもあるだろうが、それまでの堅苦しい雰囲気とは全く違う、若者らしい表情になっている。

 東堀にあるバー「レトワル」。ここは富所に紹介してもらった。一年ほど前にできたばかりの新しいバーで、女性はいないが雰囲気はいい。実はあまり人気がないので、人と会う時にはむしろいい──初めて会うのに、いきなり家を訪ねるのは図々しいだろうと、田岡はこの店を密会場所に選んだのだった。そもそも、県警の捜査二課長は、どこでも若いキャリア官僚であることが多い。そのため、官舎が用意されているのだが、訪ねる場所としては敷居が高い。やはりこの店が正解だった──自分たち以外に客はいない。一つしかないボックス席に着いたのだが、ソファの背が高いので、他の客が入ってきてもすぐには分からないだろう。

「堀江先生、元気ですかね」

「半年前に会いましたけど、お元気でしたよ。また髭が伸びてました」

「髭?」木原が顎に手をやった。「そんなに?」

「今は仙人みたいな感じです」

「太った仙人はいないけどねえ」木原が急に笑い出した。

「確かにそうなんですけど、髭だけ見たら……会ったら驚くと思いますよ」

 大学で日本政治史のゼミを教えている堀江は、見た目が強烈な男だ。年齢は確か五十歳。身長百八十センチぐらいある大男で、しかも太鼓腹が突き出している。体重は軽く百キロを超えているだろうし、何より顔の下半分を覆う髭が強い印象を与える。その髭は、半年前に田岡が会った時には、先端が胸に届きそうになっていた。少し白いものが交じった髭には、時々食べ物のカスがついている。だらしない男なのに講義は常に熱っぽく、学生の人気は高い。強烈な反民自党主義者なのだが、かといって特定の政党を支持しているわけではない。「俺は批判者でありたい」と常々言っていて、「要するに権力を批判しているだけなんだ」というのも口癖だった。万が一、政友党が政権を取ったら、今度は政友党攻撃を始めるだろう、と。

「先生にもお会いしてないなあ」急に木原が懐かしそうな声を出した。

「たまには顔を出したらどうですか? 先生、OBは歓迎してくれますよ。実際、年に一回はOB会をやっていますし」

「卒業してから一度も行ってないよ。今度、東京へ戻ったら出てみようかな」

「次は東京──本庁勤務ですね」

「ヘマしなければね」木原が唇を奇妙な具合に捻じ曲げた。「私がヘマしなければ、じゃなくて部下がヘマしなければだけど」

「上に立つ人は大変ですね」

「神輿、なんて言われてるけどね」木原が皮肉っぽく言った。「私たちはお客さんだから。何の問題もなしに、取り敢えず本庁へお帰りいただく──そういうことですよ」

「いずれ組織のトップに立つ人は、傷ついちゃいけませんよね」

 警察キャリアの人事については、田岡も少しは知っている。地方の県警と警察庁本庁を行ったり来たり──その途中には、在外大使館勤務や他の省庁への出向が挟まることもある。そうやって次第に出世の階段を上がっていくわけだ。

 木原のキャリアも、ここまでは同期と横一線という感じだろう。「研修」とも言える最初の数年間を終えると、まず地方県警の捜査二課長に転出するのが決まったルートなのだという。しかし……本当に「お客さん」なんだろうな、と田岡は皮肉に思った。自分より年上、二十八歳の木原は童顔なのだ。今は背広を着ているが、私服姿だと大学生に見えるかもしれない。これでは訓示をしても示しがつかないのでは、と心配になるぐらいだった。

「しかし、うちのゼミの後輩に田岡先生の御子息がおられるとはね」木原が感心したように言った。

「御子息なんて大層なものではないですよ」田岡は苦笑しながら否定した。「ただの雑用係です」

「そういう仕事をしておかないと、将来は上手くいかないとか」

「そうかもしれません。選挙や政治を下から支えてくれる人のことが分からないと、政治家としては成熟しないんじゃないですかね」自分の父のように。実際に秘書として仕事をするようになると、「いい歳をして未熟だ」と感じることが多いのだ。特に人との接し方において。

「今は、忙しいだろう? 選挙が近いし」

「そうですね。年明け解散、二月総選挙とも言われています」

「政局が荒れてるからねえ。通常国会の最中に解散となったら、なかなか大変だ」

「予算が特に大変でしょうね。でも、政治家というのはそういうことに慣れているものですから……木原さんも、選挙となると大変じゃないですか」

「現場にいる刑事たちは大変だけど、私は報告を受けるだけだから」

「私に分かることでしたら、お手伝いしますよ。別に、課長が情報収集したらいけないということはないでしょう」

「まあ、そういうのはあまりないけど……余計なことをすると、部下に煙たがられるしね」

「どこから出ても、情報は情報じゃないですか」田岡は指摘した。

「警察には警察のルールと仁義があってね。それを無理に崩すことはないんだよ」

「大きな情報でも?」

「何かそんな情報があるんですか?」

「あくまで仮の話です」田岡は笑みを浮かべた。「もしもそういう情報があれば、必ずお耳に入れますよ」

「そういうのは、何か怖いな」木原が引き攣(つ)った笑みを浮かべる。「政治との関係はほどほどに……ということは、先輩からも言われているからね」

「先輩も、将来選挙に出る可能性はあるんじゃないですか? 警察官僚から政治家へ、という道もあるはずです」

「まあ……今は何も考えていませんね」

「でも、つながりがあるのは悪いことではないと思います。どこで役に立つかは、分からないでしょう。どうですか? 私もこれからはしばらく新潟に張りつきですから、たまに会って情報交換するというのは。いずれ先輩が東京へ戻られた時に、役に立つと思いますよ」

「まあね」

「週に一回とは言いませんけど、二週間に一回でも。何か、いい情報を仕入れておきますから」

「一方的に情報をもらうような関係は怖いけどね」おどけた調子で木原が言った。

「そこは、いろいろあるでしょう……ところで先輩、独身ですよね」

「残念ながらね。上からはさっさと結婚しろってしつこく言われてるけど」

「予定はないんですか?」

「ない。そのうち、上の方から見合いを押しつけられて、よく知らない娘と結婚することになるんじゃないかな」

「そういうのも寂しいですねえ。今は、そういう時代じゃないでしょう」

「とはいえ、ちゃんとしたところの娘さんとは、なかなか知り合う機会がなくてね」

「何か、場所を設定しましょうか?」

「君、そういうことに伝手があるの?」木原は急に興味を惹かれたようだった。

「ないでもありません。女性と呑むのは嫌いじゃないですからね。どうですか? 今度、身元のしっかりした女性と一緒に呑むのは。新潟の女性でも構わないんでしょう?」

「選べるような立場じゃないですよ、私は」自虐的に言って、木原が声を上げて笑う。「でもそういうのは、是非お願いしたいですね」

 引っかかったな、と田岡は内心ニヤリとした。この男の弱点が何かはまだ分からないが、女性が穴になるかもしれない。男は所詮単純な生き物で、金、酒、女性……三つのうち、どれかで引っかかる。もっと年齢が上がると「名誉」という人参を鼻先でぶら下げることができるのだが、自分や木原にはそういうのはまだ早い。

 女の世話をする人生か。

 かすかに嫌気がさしたが、一瞬のことだった。これも秘書の仕事。そして自分の人生の中では大きな礎(いしずえ)になっていく。

 

 新潟にも田岡の家はある。平日は誰もいないが、週末、父親が帰って来る時に使う家だ。選挙が近くなると、母がこちらに常時詰めて、後援会との接触を密にする。この母がいなかったら、父の選挙はもっと厳しいことになっていただろう。石崎が「愛想担当は奥さんだからな」と言っていたが、まさにその通りなのだ。冷たく、官僚的な父には、どこか近寄り難いところがある。しかし母は誰に対しても愛想がよく、地元の婦人会では絶大な人気を誇っている。

 帰ると、家に灯りが灯っていた。誰かいるのか……父がこちらに来るのは明日の予定だが。

 母がいた。温かい料理の匂いが流れ出してきてほっとする。のっぺか……結局木原とは酒を呑んだだけだから、腹は減っている。

「ちょうどのっぺを作ったところだけど、食べる?」

「食べようかな」何も食べないわけにはいかないだろう。おかずにのっぺは、あまり合わない……根菜や鮭が入っている具沢山の汁だが、味つけが薄いのだ。もう少し濃ければ、豚汁代わりに飯のおかずになりそうなのだが、こういう味だから仕方がない。

 母の洋子(ようこ)が用意してくれた簡単な料理で、遅い夕飯にする。のっぺに焼き鮭、漬物……全体に味が薄い。母親は京都出身で、昔から家の料理は薄味だった。しかしそれに気づいたのは、新潟に足繁く通うようになってからである。新潟は寒い土地柄だけに、全体に料理の味つけが塩辛いのだ。その中で、のっぺは例外的に薄味である。

「あなた、体は大丈夫なの」母が心配そうに聞いてきた。

「何で?」

「ずいぶん忙しいみたいだから。秘書の仕事は大変でしょう?」

「でも、いい人ばかりだからね。新潟の人は人情が厚い。いろいろ教えてもらって、勉強になってるよ」

「ところであなた、誰かつき合っている人はいないの?」母が唐突に訊ねる。

「いや……どうかな」実は、いる。学生時代からのつき合いだから結構長いのだが、まだ両親には紹介していなかった。ちゃんとした生まれの女性なのだが、ある事情でちょっと紹介しにくい……タイミングが難しいな、と小さな悩みになっていた。

「いい人がいるなら、早くうちへ連れてきなさいよ。早くお嫁さんをもらうのも大事なことなんだから」

「分かった、分かった」食べ終えた食器を、自分で流しに持っていく。台所はひんやりしていて、新潟の冬を強く意識した。母は既に、「次」の世代のことを考えているのだろう。父は後継問題を一切口にしないのだが。

 テーブルに戻って食後のお茶を飲んでいると、母が向かいに座る。

「とにかく体だけは気をつけて。お父さんも正念場なんだから、あなたがしっかり支えないと」

「分かってるさ……でも母さん、オヤジに総理の目はあると思うか?」

「それはいろいろな条件によることだから分からないけど、私には覚悟はあるわよ」

「そうか……」

「正直言えば、総理大臣になって欲しいわね」

「総理夫人が夢なのか?」

「そうじゃなくて」母が苦笑いした。「総理大臣になれば、さすがに今までとは選挙も違ってくるでしょう。総理大臣を落選させるわけにはいかないから、地元の人たちが今まで以上に頑張ってくれる──そうしたら私は、少しは楽ができるじゃない」

「母さん、選挙では苦労してきたもんな。もしかしたら、オヤジ以上に苦労したかもしれない」

「人に頭を下げられない人だから、仕方ないけど……あなたは、ちゃんと頭を低くしておかないと駄目よ」

「頭も下げ過ぎで、肩が凝ってばかりだ」

 とはいえ、これは避けては通れない道である。この先にあるもの──栄光を手に入れるためには、今の努力が絶対に必要なのだ。

ーー『小さき王たち 第一部:濁流』第二章へ続く

〈著者紹介〉
堂場瞬一
(どうば・しゅんいち)

堂場瞬一氏近影

作家。
1963年生まれ。茨城県出身。青山学院大学国際政治経済学部卒業。新聞社勤務のかたわら小説を執筆し、2000年秋『8年』にて第13回小説すばる新人賞を受賞し、2001年に同作でデビュー。2013年より専業作家に。〈警視庁失踪課〉シリーズなど映像化作品多数。著書に『over the edge(オーバー・ジ・エッジ)』『under the bridge(アンダー・ザ・ブリッジ)』(以上ハヤカワ文庫)など。また熱心は海外ミステリのファンとしても知られる。

〈書誌情報〉
小さき王たち 第一部:濁流
堂場瞬一
早川書房 四六判上製単行本
定価:2090円(税込)
ISBN:978-4-15-210129-7
ページ数:410ページ
刊行日:2022年4月20日

〈内容紹介〉
政治家と新聞記者が日本を変えられた時代――

高度経済成長下、日本の都市政策に転換期が訪れていた1971年12月。衆議院選挙目前に、新潟支局赴任中の若き新聞記者・高樹治郎は、幼馴染みの田岡総司と再会する。田岡は新潟選出の与党政調会長を父に持ち、今はその秘書として地元の選挙応援に来ていた。彼らはそれぞれの仕事で上を目指そうと誓い合う。だが、選挙に勝つために清濁併せ呑む覚悟の田岡と、不正を許さずスクープを狙う高樹、友人だった二人の道は大きく分かれようとしていた……大河政治小説三部作開幕!

★『小さき王たち 第一部:濁流』(早川書房)
刊行記念
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(聞き手・大矢博子さん)開催決定!



 

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