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どこまでも明瞭で、だからこそ底知れない ――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』について(早川由真)

カンヌ国際映画祭で脚本賞ほか4部門での受賞を果たした映画『ドライブ・マイ・カー』(監督=濱口竜介/原作=村上春樹)。『ゴドーを待ちながら』や『ワーニャ伯父さん』など、劇中で演じられる演劇も重要な要素となる作品です。「悲劇喜劇」9月号では映画研究者の早川由真さんによる評を掲載いたしましたが、今回はその2倍以上の長さの「完全版」を公開します。

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 演技ではない「本当のこと」を語る真に迫った顔や声、そして身振りは、いかにして演技を通じて画面に呼び込むことができるのか。濱口竜介のフィルモグラフィに一貫して流れていると思われるこの困難な問いは、村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収められた数篇の小説に基づく新作『ドライブ・マイ・カー』(2021)において、これまでとはやや異なる角度から追究されているように見える。というのも、この作品では他者の底知れなさを前にして何かを演じてしまう、ある種の弱さが描かれているからだ。だが、『偶然と想像』(2021)が今年の12月まで日本で公開されないという現況にあって、その追究の変遷を詳細にたどることは差し控えておく。むしろここでは、179分もの上映時間を長いと感じさせずに観る者を惹きつけるのは何なのか、作品に寄り添いながら浮かびあがらせてみたい。

 他者の底知れなさこそが観る者を惹きつけるのだろうか。そのように捉えることもできるかもしれない。だが、この作品において重要なのは、他者の底知れなさが、あくまで周到に設計された明瞭さによって導き出されることであるように思われる。その明瞭さとは、いったい何のことなのか。まず、他者や演技というテーマが、このうえなく明瞭な輪郭をもって描き出されることが挙げられる。国籍や民族の異なる俳優たちがそれぞれの母国語を話す多言語劇を演出し、自らも舞台に立つという主人公・家福悠介(西島秀俊)の設定からして、他者と演技というテーマは非常に明確に打ち出されている。また、登場人物の在りようも、「この人はこういう人なのだ」と思わせる明瞭な輪郭が設計されている。部屋に差し込む逆光のなか身体を起こす女性のシルエットからこの作品が開始されているように、元俳優でいまは脚本家として活躍しているという妻・音(霧島れいか)の底知れなさ──彼女は、性行為を通じて無意識のうちに物語を生み出し、翌朝にはすっかり忘れてしまったその内容を相手に尋ね、それをもとに脚本を執筆するという奇妙な習性をもつ──も、導入の仕方自体はきわめて明瞭だといえよう。
 
 さらに、そうした演技や他者のテーマが、題名の通り自動車の走行と戯れながら画面を彩っていく展開も、限りなく明瞭に導き出されていると言えるだろう。冒頭、愛用するサーブという赤いスウェーデン車で、家福と音は仕事場へと向かう。走行する車体を斜め前方から移動で捉えたショットに始まり、後部座席にカメラを据えてふたりの姿を斜め後ろから収めた切り返しへと続き、妻が生み出した物語──意中の相手の自宅に空き巣として侵入し、タンポンを放置する少女の話──についての会話が交わされる。その後、画面右奥から走ってきた車体がU字カーブに沿って画面右手前までやってくる運動を、ビルの屋上と思われる高所に据えられたカメラが斜め俯瞰のロングショットで捉えるのだが、カメラは車体がビルの陰に隠れて見えなくなっても追い続けて緩やかにパンをしていき、ビルの陰から再び現れた車体を的確にフレームに収めると、最後は車体を画面右へとフレームアウトするに任せる。このロングショットは、のちに触れることになる、見えるものと見えないものの戯れという重要な要素を、作品に緩やかに導入しているように思われる。

 冒頭の移動シーンから明らかなように、この映画は自動車の走行による移動を丁寧に描いてみせる。ただし、走行といっても、たとえばジョゼフ・H・ルイス『拳銃魔』(1950)やヴィム・ヴェンダース『アメリカの友人』(1977)のように、自動車の意表を突く運動が画面を輝かせる活劇的な瞬間が目指されているわけでもなければ、ジョン・カーペンター『クリスティーン』(1983)やフランシス・フォード・コッポラ『タッカー』(1987)がそれぞれ別の仕方で示しえた自動車の凶暴な官能性が追求されているわけでもない。あくまで、日常的な移動と作品のテーマとの連関を提示することに関心が向けられているように見える。広島や北海道へと向かう長距離の移動を除いて、移動シーンはひとつの「これだ」というロングショットを中心に構成されていたように思われる。たとえば、ウラジオストクで開催される演劇祭に参加するため乗るはずだったフライトが悪天候のため欠航となり、仕方なく都内の自宅へと戻ってゆく行き帰りの移動は、高速道路を颯爽と走行する真っ赤な車体を高所から捉えた行きのロングショット、空港の駐車場に到着すると同時に欠航の連絡を受けて引き返すまでの運動を捉えた斜め俯瞰のショット、そして高速道路を戻っていく車体を高所から捉えた帰りのロングショット、最後に自宅の立体駐車場に入庫するショット、というふうに構成される。アッバス・キアロスタミとの距離を計測することを巧妙に回避しているかのようなこの簡潔さとともに、演技と他者というテーマに自動車の走行を組み込む周到な設計も浮かびあがってくる。すなわち、運転中にアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を朗読する妻の声が録音されたカセットテープを流しながら台詞を暗唱するという作業が、この演出家兼俳優の生にとって欠かせないものとなっているのだ。この事実は、しばらくのちに現れる自動車の車輪とカセットテープのイメージがオーバーラップする瞬間によっても象徴的に示されることになるだろう。だが、そうした往復移動の末に空港から自宅に戻った家福は、若い男と裸で抱き合っている妻の顔を居間に置かれた大きな鏡越しに目撃してしまい、気付かれぬよう玄関から出て行くことになる。

 序盤で特に素晴らしいのは、夫婦の間に亡くなった娘があることが示唆される法事を経て、ふたりがソファのうえでお互いの身体を求め合う場面である。一度行為を終えて静かに横たわっていた妻は、空き巣をはたらく少女の前世がヤツメウナギだったことを語り始め、何かに取り憑かれたように再び夫の身体を求める。意中の相手のベッドのうえで、みずからに禁じていたはずの自慰をおこなう少女の姿を描写しながら、騎乗位で激しく腰を動かす霧島れいかの気迫にまず引き込まれる。さらに、例の情事について無知を装ったまま、貪るように腰を動かしながら物語を紡ぎ出す妻に身をまかせ、どこを見つめるともなく宙空を見上げている西島秀俊の壮絶な顔を、斜め上からの俯瞰でとらえたショットも忘れがたい。何かを見まいとしているのだろうか、家福は不意に左腕で自分の目元を覆うが、しばらくするとまた虚空を見つめ、絶頂を迎える妻に身を委ねるのだった。この場面に漂うただならぬ気配が示唆していたように、翌日とつぜんの病に倒れた妻は、そのまま帰らぬ人となってしまう。したがって、無知を演じたまま妻を失った家福が向き合うことになるのは、妻の底知れなさや自身の感情とどのように決着をつけるのかという問いである。実際、冒頭からかなりの時間が経過していながら、あたかもいま映画がこの問いとともに始まったかのように、俳優やスタッフたちのクレジットが画面に現れることになるだろう。

 この問いに家福が向き合うプロセスは、他者や演技というテーマと交錯しつつ、やはり明瞭な輪郭をもってたどられていく。妻の死から二年後、広島の演劇祭に招聘され、複数の言語が交錯する『ワーニャ伯父さん』の上演を目的としたワークショップを任された家福は、演劇祭が雇った寡黙な運転手・渡利みさき(三浦透子)を受け入れることになる。くたびれたシャツと帽子を身につけた得体の知れない若い女性に運転を任せることを拒絶しかけた家福に対して、少しでも気に入らないところがあれば運転を代わりますと告げるみさきの声には、平静さのなかにも有無を言わさぬ芯の通った響きがある。ただし、彼女の卓越した運転技術は、妻にはできなかった円滑な車線変更によって明示されるほかはなく、運転の巧みさを派手なカーアクションを用いずに映画的に表現することはきわめて難しい──徹底して車内にカメラを据え、窓外の映像と画面外の音響を用いて自動車の運動を生々しく捉えたキアロスタミの『10話』(2002)が貴重な成功例だろうか──と感じさせられた。ともあれ、瀬戸内海に沿った通りを悠々と進んでいく車体の赤さをとらえた開放的なロングショットは、新たな局面の到来を明瞭に告げることになるだろう。

 台湾・韓国・東南アジアなど様々な地域からの参加者が集うワークショップにおいて特徴的なのは、濱口が『ハッピーアワー』(2015)以来実践してきた、ジャン・ルノワールやロベール・ブレッソンの方法にヒントを得た独特の「本読み」作業──ごく簡単にいえば、感情を込めずに何度も脚本を音読していくことで演じ手がテクストを身体化していく方法──が、家福の演出方法として作品内に登場することである (※1)。また、このワークショップに思いがけず高槻(岡田将生)が参加してくるために、この若手俳優と妻との曖昧な関係について家福が無知を装い続けることを強いられ、ワークショップの内外で演技と他者のテーマが交錯してゆくさまも、きわめて周到に設計されているといえよう。

 そうした演技と他者というテーマの明瞭さは、声を出せず韓国語の手話で演技をするイ・ユナ(パク・ユリム)がワークショップに登場することで頂点に達するのだが、ここでより重視したいのはむしろ、彼女が漂わせる慎ましい魅力である。自宅での夕食に招かれた家福とみさきは、食卓の傍らを大きな茶色い犬がウロウロするなか、演劇祭のドラマトゥルクを務めるコン・ユンス(ジン・デヨン)の通訳を介して彼女と会話をする。実は彼らは夫婦であり、様々な挫折を経験したのちに広島に住むことになった経緯が語られもするのだが、それ以上に不意を突かれるのは、それまでワークショップではほとんど険しい表情しか見せていなかったイ・ユナの微笑む姿が、実に自然で魅力的であることだ。そして、そのすらりとした長い指をもつ両手をしなやかに操り、音を立てるほどに素早く手を打ちつける動きや、口元に持ってくる仕草、さらに時折「パ」という破裂音を唇で発しながら手を前に短く差し出す身振りによって独特のリズムを生み出す手話が、なんともいえず素晴らしい。そうしたイ・ユナの在りように惹かれたみさきの視点ショットを皮切りに、第三者であるこの運転手の微かな変化が導かれたりもするこのシーンにおいて、やや高めの位置から食卓の全体を捉えた構図で、何か大変なことはないかと問う家福に対し、どうして私にだけそんなことを聞くんですかと微笑みながらイ・ユナが画面手前に向かって手話で返答する光景を映したショットは、不思議な感動を観る者に与える。微かな環境音と手話の奏でる物音が静かに鳴り響くだけの音響設計も素晴らしい。このシーンに音楽をつけなかった監督の選択、そしてそれを許した制作環境を心から祝福したい。演技と他者というテーマを構成する周到な設計によって導入された要素であるにもかかわらず、この何気ないシーンにおけるパク・ユリムの手話は、そうした設計の周到さを束の間忘れさせてくれるほどに魅力的である。

 ところで、見えるものと見えないものの戯れという要素を前景化させるのが、高槻という存在である。妻との情事を鏡越しに目撃するショットで、顔ではなくその背中だけが映り込んでいたように、高槻は背中をよく見せる。エレーナを演じるジャニス・チャン(ソニア・ユアン)から私的な相談を受けたことを家福に告げたあとには去っていく背中が映し出されるし、最終的に逮捕されて舞台を去っていくときも、共演者たちは黙ってその背中を見つめることしかできない。これらの背中は、高槻が見えない部分を持った存在であることを強調している。実際、彼は画面外で色々なことをやっているが、それが露見するのはいつも後になってからである。たとえば、いつのまにかジャニス・チャンと仲良くなっていて一緒に車に乗っているし、バーからの帰りには、自分をスマホで盗撮した若い男性に対して画面外で暴力を振るっている。では、彼は謎に満ちた存在なのかというと、必ずしもそうではない。家福と最初に酒を交わした夜も、情事があったことにまでは踏み込まないが、高槻は音に対して好意を抱いていたことを隠さない。つまり、隠蔽することに快楽を見出すのではなく、むしろ自らの欲望と好奇心に忠実であろうとする存在である。見えないところで何かをやっているが、それは謎ではなく、単に見えないだけなのである。あるいは、彼は見えないでいることの自由を素直に行使していると言ってもいい。だからこそ、彼は自分を盗撮しようとする人間に対して、二度も暴力的な対応をするのだろう。つまり、カメラという装置によって画面内に収められることの原理的な暴力に対して彼は抵抗しているのではないだろうか。

 高槻が登場する箇所でもっとも重要なのは、自動車のなかで家福と対峙し、ついに肝心な事柄に踏み込んでゆく核心的なシーンである。そこで高槻は、性行為のあとに音が紡ぎだす物語について、家福が知っているよりも先の展開を聞いていたことを明かす。ここでは、その事実が家福にとっていかに衝撃的であったかについて思いを巡らすことはしない。また、語られる物語の内容もそれ自体として興味深いが──たとえば、少女がもう一人の空き巣の「左目」をペンで刺したというくだりは、家福が「左目」に目薬を差した瞬間を連想させるし、少女が監視カメラを見据えて「私が殺したんだ」と叫ぶというくだりは、カメラを忌避していた高槻が最終的に殺人容疑で連行されていく際に見せる表情や、のちに自らの加害者性を表明し合う家福とみさきの姿にも重なってくる──、連想を呼び込むべく周到に設計された様々な細部についても、これ以上踏み込むことはしない。ここで指摘したいのは、並んで座る相手に向かって語る岡田将生の表情をほぼ正面からとらえたクロースアップが、真に迫っているとしかいいようがない、決定的な顔と声を映しだしているという事実に尽きている。観る者はただ息を呑み、圧倒されながら高槻の言葉に耳を澄ませるしかないだろう。いわば高槻は、見えるものと見えないものの境界を、フラットに行き来する存在である。つまり彼は、単に見えたり見えなかったりする軽薄さを備えているといえよう。この軽薄さが周到に設計されているからこそ、ここでの岡田の真に迫った演技は、いっそうの迫力を獲得しているように思われる。周到に設計された軽薄さの明瞭な輪郭によって、「本当のこと」を語る顔と声が呼び込まれる。つまり、ここでは、あくまで明瞭な輪郭を通じて、他者の底知れなさが、ショットのうえに垣間見えているのである (※2)。

 高槻との対峙を経て、家福の問いは、見えるものと見えないものの関係に帰着することになるだろう。逮捕された高槻に代わって自らがワーニャを演じるべきかどうかを思案するため、家福は広島からみさきの故郷である北海道まで、彼女の運転で向かうことにする。二日間という制約を受けたこの長距離の走行において、いわゆる「ロード・ムーヴィー」というジャンルとの距離の計測はほとんど目指されていないようだ。はっきりした総体の定まらない、ひどく曖昧なジャンルならざるジャンルの存在は周到な設計には似つかわしくないのかもしれない。実際、これほどまでに無駄や迂回や彷徨とは無縁に、目的地へと一目散に向かってゆく道中があっただろうか。たとえばフランシス・フォード・コッポラ『雨のなかの女』(1969)の道中に現れる街中のパレードのような、目的に関わりのない余計なものに関与している余裕は、家福たちにはないのである。たしかに、車体の前方に見える道路の光景を映したいくつかのショットが緩やかにヴェンダースを想起させたり、車体の後方に向けて据えられたカメラで、トンネルを抜けた瞬間の夜の暗さ──そこには雨も降り注ぐ──を捉えたショットが微かにイーストウッドを──背後に向けられた視点という意味で──思い出させたりすることも、なくはない。また、暗闇のなか田舎道のU字カーブをゆっくりと旋回する自動車の走行をとらえたロングショットの曲線性が、この行程の直線性を幾分か和らげているように見えなくもない。だが、この道中における家福にとって重要なのは、助手席で微睡みつつ車体に身をゆだねることによって思考を巡らせること──『不気味なものの肌に触れる』(2013)の瀬戸夏実も助手席で居眠りしていたし、『寝ても覚めても』(2018)の唐田えりかは助手席で目覚めることで自らの進むべき方向を悟るのだった──であるだろう。

 そうした微睡みの果てに、家福はついに自らの問いに正面から向き合うことになる。雪に埋もれたかつての住み家の前で、みさきは次のように語る。音は家福のことを深く愛していたし、他の男のことも同様に必要としていた。単にそういうことだったし、そういう人間だったのではないか。そこに謎はないのだと。家福は、音に正面から向き合ってこなかったことを嘆く。つまり彼は、妻の底知れなさを、自ら勝手に作り上げていた。そうではなく、単に見えるものと、見えないものがあるだけなのである。したがって、ここに至って明瞭さとは、単に見えるものと、単に見えないものがあるという、呆気ない事実そのもののことであるだろう。そうした呆気ない事実の明瞭さを素直に受け止めることが、家福にとって救済となるはずだ。他者の底知れなさとの対峙は、むしろその地点から可能になるのではないだろうか。

 家福はワーニャを演じることを決断し、公演のステージ上で、ソーニャを演じるイ・ユナと対話をする。舞台の終幕直前、テレーギンの奏でるギターが微かに響くなか、ソーニャはワーニャの背後から抱きつき、彼の顔の前で手話を披露する。そのような格好のふたりを正面から捉える構図において、イ・ユナのすらりとした指があちこちに素早く動いたり、例の「パ」という破裂音と身振りが独特のリズムを刻んだりしているさまと、それを無心で目で追う家福の様々な表情が同時に映しだされる。字幕で表示されるソーニャの台詞の内容も密接に関わってはいるが、その意味内容以上に、それを告げる手の美しい身振りが単に見えるものであること、そしてそれを見ている者の表情までもが同時に見えるという事実が、ただただ感動的である。無論、ここでのふたりの演技も、文句なしに素晴らしい。そして、客席で観ているみさきのバストショットを挟みつつ、今度は舞台の奥から客席に向けられた視点、すなわちイ・ユナと家福の背中越しに客席を捉えたショットが挿入される。ここでジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』(1977)で現れる舞台から客席に向けられたいくつかのショット──さらには、カサヴェテスが背中を被写体としてよく撮っていた作家であることや、大学の卒業論文として書かれた優れたカサヴェテス論において濱口自身がその事実を指摘していること(※3) ──が緩やかに想起されないこともないが、重要なのはむしろ、単に背中が見える、という呆気ない事実だと思われる。背後は見えないのではなく、単に見えるのであり、そこに謎はない。どこまでも明瞭で、だからこそ底知れない。

 そこまでたどり着いたうえで、この作品は韓国でロケーションされたエピローグによって閉じられる。イ・ユナたちが飼っている茶色い犬とともに、家福のサーブを運転するみさきの姿が告げているのは、最終的にこの作品が、見えないものを想像する自由をも拒もうとはしないということである。そのような余地までをも周到に組み込みながら、この作品は単に見えること、あるいは単に見えないことの明瞭さを通じて、他者の底知れなさを垣間見せてくれる。

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※1 ジャン・ルノワールの「イタリア式本読み」に関しては、以下を参照。濱口竜介・野原位・高橋和由『カメラの前で演じること』左右社、2015年。角井誠「テクスト、情動、動物性——ジャン・ルノワールとルイ・ジュヴェの演技論をめぐって」『表象』第7号、2013年、191- 206頁。

※2 ただし、高槻のクロースアップが素晴らしいショットであるだけに、台詞の最後の重要なくだり、「結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」のあたりだろうか、その途中で家福のリアクション・ショットと切り返す必要があるのかどうか疑問だった。編集上の都合があるのかもしれないが、高槻が台詞を言い切るまで、可能ならばカットを割らずに見ていたかった。

※3 濱口竜介「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」『美学芸術学研究』第22号、2003年、303-340頁。


早川由真(はやかわ・ゆうま)映画研究者。東京都出身。立教大学大学心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程修了。博士(映像身体学)。主な論文に「白の存在──リチャード・フライシャー『絞殺魔』におけるカーティス/デサルヴォの身体」『映像学』第99号(2018)、「顔のない殺人者──リチャード・フライシャー『見えない恐怖』における〈盲者の視点ショット〉とキャラクターの生成」『映像学』第102号(2019)など。

映画『ドライブ・マイ・カー』                    8月20日(金)TOHO シネマズ日比谷ほか全国公開
監督=濱口竜介 原作=村上春樹 脚本=濱口竜介、大江崇允      出演=西島秀俊、三浦透子、霧島れいか/岡田将生ほか
配給=ビターズ・エンド

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