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サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』から10年――再来を遂げた「リバタリアニズム(自由原理主義)」とは?

by 早川書房ノンフィクション編集部

2010年5月22日、一冊の哲学書が刊行された。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授による『これからの「正義」の話をしよう』。

これからの「正義」の話をしよう

NHK「ハーバード白熱教室」の効果もあり、本書はこの年を、そして2010年代を代表するベストセラーのひとつとなった(2020年2月10日現在99万部。電子版を含む)。

さまざまな事例を出して「君ならどう考えるか」と学生に問いかける講義スタイルで人気を博したが、サンデル教授自身の立場はコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれる。サンデル教授は次のように主張している。

「正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはならない」(『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p.407)

こうした立場にもとづき、続く『それをお金で買いますか』では、ダフ屋や代理母など現代を席巻する「社会の市場化」と、それによって締め出される道徳的価値について論じた。

「市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった」(『それをお金で買いますか』文庫版p.29)

サンデル教授が設定したこのような問題系がその後の”哲学ブーム”を牽引したわけだが、10年を経て潮目が変わったのだろうか。今年1月に刊行したウォルター・ブロック/橘玲訳『不道徳な経済学――転売屋は社会に役立つ』が反響を呼び、発売2週間足らずで重版が決まった。麻薬密売や売春など「不道徳」とされるビジネスを熱烈に擁護する内容で、サンデル教授が批判した「道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢」をそのまま体現している。

「自由経済は、道徳的な制度ではない。消費者の欲望を満たす手段である以上、市場はその参加者の程度に応じて道徳的であるにすぎない。市場はまさに多様で、とてつもなく下劣で不道徳なものから、非のうちどころもなく合法的なものまでを包摂するのだから、それは道徳的でも不道徳的でもなく、道徳性のないものと見なされるべきだろう」(『不道徳な経済学』p.62)

不道徳な経済学


サンデル教授によって葬られたはずの主張が、なぜいまになって? キーワードは「リバタリアニズム(自由原理主義)」だ。 

「リベルランドではみんなが金持ちになれるんだ! 誰にとってもウィン-ウィンなんだよ」。リベルランドの大統領、ヴィ―ト・イェドリチカは、英国のジャーナリスト、ジェイミー・バートレットの取材を受ける中でこう語った(バートレット『ラディカルズ 世界を塗り替える〈過激な人たち〉』双葉社、2019、p.400)。

リベルランドは急進的リバタリアニズムに基づく世界初の国家で、セルビアとクロアチアの国境地帯にある7km^2の沼地を領土として2015年に「建国」された。「税金は自主的に納付し、政府はほぼ存在せず、ドラッグと銃は合法であり、何をいおうが何をやろうがほとんど制限はない」というから、ブロックの構想が40年(原書は1976年刊行)の時を経てついに具現化したともいえる。

これは極端な例であるにしても、これからの国のあり方や制度設計を考えるためには、リバタリアニズムを知らなければならない。

慶応義塾大学SFC教授の渡辺靖さんは、「他国への軍事介入や軍事費拡大には否定的な一方で国際協調や自由貿易には肯定的」「多様性に寛大」「変革志向が強い」といった米国のミレニアル世代の特徴を挙げたうえで、そうした傾向はリバタリアニズムの立場と親和性が高いとしている(渡辺靖『リバタリアニズム』中公新書、2019、p.193)。

さらに元『WIRED』日本版編集長の若林恵さんは『次世代ガバメント』(黒鳥社/日本経済新聞出版社、2019、p.150)において、渡辺靖『リバタリアニズム』から「現代のリバタリアンに共通する特徴」を引きつつ、「暗黙知や自生的秩序を尊重し自発的な協力や取引を重視するといったあたりは、まさにそうしたものを促しファシリテートしていく存在として行政府を機能させようというアイディアと親和性が高いように思います」と書いている。

次世代ガバメント、「小さくて大きい政府」を可能にするのは、リバタリアニズムなのかもしれない。

「私は、十代の頃に抱いた信念──至高の善の前提となる真の人間的自由にいまだにコミットしつづけている。私は、搾取的な税制、全体主義的な集制、死を不可避なものとするイデオロギーに立ち向かっている。これらすべての理由から、私は自分自身を”リバタリアン”と呼んでいる」
――ピーター・ティール「リバタリアンの教育」2009年4月

Paypal創業者のピーター・ティールはこのように、リバタリアンを自任している。

そしてこのテキスト「リバタリアンの教育」とティールの思想は「新反動主義」の成立に大きな影響を与え、「加速主義」と呼ばれる潮流を生み出すことになる(木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』星海社新書、2019)。リバタリアニズムは現代思想の最前線に息づいているのだ。「リバタリアニズム思想はシリコンバレーの起業家やエンジニア界隈にも浸透しており、[中略]新反動主義の思想的土壌を形成しているとも考えられる」(前掲書、p.60)。

ちなみに、その証左と言えるのかわからないが、今年のセンター試験「倫理」大問1に、リバタリアニズムの代表的論者であるロバート・ノージックが出題された。東進ハイスクールによれば、過去に誤答の選択肢として名前だけ一度登場したことがあるのみで、正面から出題されたのは今回が初めてとのこと(東進ハイスクール「大学入試センター試験 解答・解説2020」より)。

追記:ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』が3月に講談社から出るようです。

近代の啓蒙のプロセスを嘲笑い、民主主義的かつ平等主義的な価値観をも転倒せんとするニック・ランドの「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」は、ピーター・ティールやカーティス・ヤーヴィンらリバタリアン起業家たちが主導する「新反動主義」に理論的フレームを与え、哲学の最新潮流である「思弁的転回」や「加速主義」、そして「オルタナ右翼」へのインスピレーションをも喚起しつづけてきた。果たしてそれは、人類の進歩的プロセスを否認する反動主義であり、野蛮な人種主義にすぎないのか? それとも、来たるべき未来を照らすオルタナティヴな光源なのか?」(講談社HPより)

なお『不道徳な経済学』はダークウェブ上の有名な闇取引サイト「シルクロード」(”闇のAmazon")で開かれていたオンライン読書会の課題図書だったらしく(木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』p.45)、ということは『暗黒の啓蒙書』の副読本と言ってもいいわけで、やはり併読をおすすめします。

ウォルター・ブロックは『不道徳な経済学』のまえがきでこう断言している。「リバタリアニズムは人生の哲学ではない。「人はいかに善く生きるべきか」について述べているのではない。善と悪、道徳と不道徳、適切と不適切のあいだに境界線を引いてくれるわけでもない」。

そんな哲学がいま、必要とされている。

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ウォルター・ブロック/橘玲訳『不道徳な経済学――転売屋は社会に役立つ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、本体960円+税)は好評発売中です。

■橘氏による「訳者まえがき」はこちら

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