その車は、時速90kmを下回ると爆発する――第9回SFコンテスト優秀賞受賞作『サーキット・スイッチャー』試し読み
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その車は、時速90kmを下回ると爆発する――第9回SFコンテスト優秀賞受賞作『サーキット・スイッチャー』試し読み

Hayakawa Books & Magazines(β)

第9回ハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞した安野貴博『サーキット・スイッチャー』エンタメのすべてが詰まった破格のデビュー作の冒頭をお楽しみください。

安野貴博『サーキット・スイッチャー』(四六判単行本)
刊行日:2022年1月19日(電子版同時配信)
 ISBN:9784152100788
 定価:1870円(10%税込)
カバー・扉イラスト:Rey.Hori
カバーデザイン:早川書房デザイン室

■あらすじ

人の手を一切介さない"完全自動運転車"が急速に普及した2029年の日本。自動運転アルゴリズムを開発する企業、サイモン・テクノロジーズ社の代表・坂本義晴は、ある日仕事場の自動運転車内で襲われ拘束された。「ムカッラフ」を名乗る謎の襲撃犯は、「坂本は殺人犯である」と宣言し尋問を始める。その様子が動画配信サイトを通じて全世界へ中継されるなか、ムカッラフは車が走っている首都高速中央環状線の封鎖を要求、封鎖しなければ車内に仕掛けられた爆弾が爆発すると告げる……。ムカッラフの狙いは一体何か――?テクノロジーの未来と陥穽を描く迫真の近未来サスペンス長篇。


第一章

 不快感で目が覚めた。
 頭を万力(まんりき)でゆっくりと締め付けられているような鈍痛があった。身体のあちこちが軋むように痛い。テーブルに突っ伏したまま、意識を失っていたようだ。
 足裏に微細な振動を感じる。電車や飛行機のそれとは違う。自動車の中だ。動作音は、電気自動車に広く普及しているインホイールモーターのものだ。
 視界の焦点が徐々に合いはじめる。ボックス型の座席とテーブル。壁にマウントされた大型のディスプレイ。存在しない運転席。間違いなく完全自動運転車(レベル5)だ。シンプルな内装から、慣れ親しんだ自分の車の中であることがわかった。
 顔を上げると、テーブルを挟んで向かい側、前方の座席に──見知らぬ男が座っていた。
 男は目の前の端末(ラップトップ)をじっと見つめている。顔つきはくたびれていて、自分より十歳は上に見えた。三十代後半か、もしかしたら四十代かもしれない。きちんとプレスされたスーツにネクタイ。整えられた短髪で、目は一重の切れ長。鋭い目つきが特徴的で、一度見たら忘れられない。大学時代に隣のラボにいた、いつも独り言を言っている准教授に少し似ていた。
 次の瞬間、目が合った。
 見てはいけないものを見てしまったように感じ、すぐに視線を逸らす。咄嗟に手を上げようとすると、ガチャリと音がして、手首に痛みを覚えた。身体が思い通りに動かない。左右の手首にそれぞれ手錠がかけられていることにようやく気がついた。手錠の鎖はテーブルの左右の脚から延びている。
 ──拘束されているのか。
 事態の異常さを認識しはじめた。
「気がつきましたか。坂本義晴(さかもとよしはる)社長」
 男の口調は気持ちが悪いほど丁寧だった。抑揚のある明瞭な喋り方はどこか芝居がかった調子だ。
 この男は誰だ。いったい、何が起きているのか。

 思い返せば、今日はいつも通りの朝ではなかった。
 マンションの自室を出て、エントランスに着いたとき、声をかけられた。
「社長……坂本社長!」
 振り返り、声の主を見る。身長の高い男だった。肌は青白い。以前に会った記憶はない。鋭い目つきで坂本をじっと睨みつけている。予期せぬ来訪者に、思わず視線が泳いでしまった。人に直接話しかけられるなんて、何カ月ぶりだろうか。
「おい、おまえだよ」
 戸惑う坂本に、男はつかつかと距離を詰めてくる。坂本は逃げるように壁際に後ずさった。口を開いてみたものの、声がうまく出てこない。
「おまえに言いたいことがある」
 男の語調から、なんらかの敵愾心を持っているであろうことはわかった。
「サイモン社の……いや、坂本、おまえのせいで、俺たちの仕事が奪われた。俺たちは苦しんでいる。この責任を、どうやってとるつもりなんだ?」
 男の顔色は悪く、目の下のクマと無精ひげが目立った。灰色の頭髪は脂汗でべっとりとしていて、使い古されて擦り切れたジャンパーを着ている。年齢は五十歳くらいに見えた。 
 ──元ドライバーか。
 坂本が創業したサイモン・テクノロジーズ社が出荷する完全自動運転のアルゴリズムは、タクシーやトラックの運転手の雇用を激減させた。ある推計によると、ここ数年、日本国内だけで七十万人が職を失ったとのことだ。その中には当然、自動運転に関わる者に対して憎悪の感情を抱く者も多い。これまでにも会社の問い合わせ窓口に脅迫めいたメッセージが届くことは何度かあったが、直接待ち伏せされたのは初めてのことだった。
「さっさと謝れよ! 何か言ったらどうなんだ?」
 一向に何も答えようとしない坂本に業を煮やし、男は声を荒らげた。突然の大声に、坂本は思わず後ろにとびのいた。その拍子に頭を壁にぶつけ、涙が滲む。
「あんた、ビビってんのか?」
 坂本の様子に、男は蔑むように笑った。
「哀れだな。サイモンの代表は重度の対人恐怖症って噂は本当だったか」
 男は、一方的に言葉を投げつける。
「お前みたいなしょぼくれたやつに俺の人生をめちゃくちゃにされたのか。馬鹿馬鹿しくなってくるよ」
 坂本は項垂れ、足から力が抜けるのを感じた。恐ろしさに男の顔を直視することすらできない。
「俺たちは今日食うのにも困ってるんだ。おい、ちゃんとこっち見ろよ!」
 男はしゃがみ込もうとした坂本の胸ぐらを摑んだ。坂本はやめてくれと叫ぼうとしたが、かろうじて喉から息が漏れるだけだった。どうやって大声を出したらいいのか、身体が言うことを聞かない。
「おい! 何をしている」
 自動ドアの外から、異変に気がついた警備員が二人駆け寄ってきた。胸ぐらを摑む動作は特徴的なので、監視カメラの異常検知アルゴリズムも反応しやすいに違いない。即座に警備室にアラートが飛んだのだろう。
「やめろ、俺に触るな!」
 近寄ってくる警備員を、男は腕を振り回して威嚇する。男の肘が警備員の顔に勢いよく当たった。
「こいつ……捕まえろ!」
 あっという間に男は警備員に二人がかりで取り押さえられ、床に組み伏せられた。
「お怪我はないですか」
 鼻血を出しながらも心配そうに声をかけてくる警備員に、坂本はただ首を横に振った。
 地面に押さえつけられた男は吠え続けている。
「金持ちの天才だからって、俺みたいなのとは話す価値もないってか? あ?」
「ち、違う」
 床を見たまま返事をする。大きく深呼吸をすると、坂本は少しだけ落ち着いてきた。
 思考は常に自分の脳内をぐるぐると流れている。難しいのは、それを言葉に変換し、声を出すことだった。情報を伝達するための通信方式(プロトコル)も、情報を咀嚼するための解釈系(インタプリタ)も、自分は他人とまるで違うのだと坂本は経験的にわかっていた。コミュニケーションを成立させるためには、注意深く単語を選び、並べなければいけない。それはとても骨の折れる作業だった。
「コードを、書くことしか、できないだけ」
 坂本の返答に、男はきょとんとした顔になる。
「何を言ってるんだ!」
 組み伏せていた警備員が、男をさらに締め上げる。
「……離してあげて」
 坂本には、男の現状が、他人事だとは思えなかった。
 いつもなら、見ず知らずの人物──しかも自分に敵愾心を持つ人物と話をしようとは思わないだろう。しかし、いまはそのまま立ち去ることはできないと思った。
「この人は、危害をくわえる人じゃないと思うから」
「しかし、あなたに摑みかかって……」
「僕と話がしたい、だけだと思うから」
 警備員は納得がいっていない様子だったが、「暴れるんじゃないぞ」と男を渋々解放した。
「謝る気になったのか?」
 男は、肩についた汚れを手で払いながら立ち上がる。
「謝りはしない」
 坂本は言い切る。
「申し訳ないと思わないのか?」
「なぜ申し訳ないと思わなくちゃいけないのか、わからない」
「街を見ろよ。週末の東京はデモですごい人出だろ? やつらは俺と同じように仕事がなくなったんだ。ドライバーという仕事にみんな誇りを持っていた。なのに、お前が全部奪ったんだ。お前のせいで、みんなが困っている。それでも、本当に何も感じないのか?」
 坂本は下を向いたまま、顎に手を当て、目を瞑る。街で「自動運転反対」のプラカードを掲げる集団を見たことはあった。彼らの様子を思い出そうとする。数秒間の沈黙の後に、口を開いた。
「何も感じない。やっぱり謝る理由がない。大局的に見れば、自動運転はあったほうがいいと思うから」
 男は絶句し、口をつぐんだ。
 明確に答えたはずなのに、相手が言葉を返してこないのが、坂本には意外だった。何か相手のレスポンスを引き出さなければと思い、質問を投げかけてみる。
「どうしたら、気が済んでくれる?」
 男はただ黙ってこちらを見ている。
 坂本は、彼の握る拳がぷるぷると震えていることに気づいた。
 有効なコミュニケーションが取れていないことは坂本にもわかった。
「気持ちをなんとかするために、ここまできたんでしょう?」
 男の返答はない。
 自分は何か思い違いをしているのかもしれない。気持ちの問題でないとしたら──困っているという男の言葉を思い出し、一つの仮説に思い至った。
「……もしかして、お金が欲しいということですか?」
「ふざけやがって!」
 男は再び坂本に摑みかかった。
「金さえ出せばなんでも許されると?」
 警備員が慌てたように再び間に割って入った。坂本は、男の反応に目をしばたたかせた。親切で歩み寄ったつもりだったのに、強く拒絶された。
「もう、行ってください。坂本さんがいらっしゃる限り、この男は暴れ続けます」
 警備員は呆然と立ち尽くす坂本を諭すように言った。
 坂本はおろおろと足早にその場を去った。
 マンションの車寄せに、すでに坂本の赤い車が待ち受けているのが遠目にわかった。純粋に視認性の観点から、坂本はビビッドな色を好んでいた。アプリで設定した通り、自室を出ると自動で駐車場から出てきて、自分が乗り込むのを待っている。
 夏の日射しが容赦なく肌を刺す。坂本が近づくと、車両の左側にあるドアがスライドして開いた。バックグラウンドでは、数々の認証──歩行パターン認証、顔認証、スマホを用いた多要素認証など──が行われている。
 車内の自分の定位置に座るや否や、坂本はいつもより大きな声で命令した。
「出して」
〈承知しました〉
 自動応答の合成音声が車内に響く。扉が閉まり、車が動き出した。行き先は日によって違う。毎日違う景色が見られるように、ランダムに経路が設定されていた。振り返ってマンションのエントランスに視線を向けると、まだ組み伏せられている男の姿がちらりと見えた。
 心臓がどくどくと鳴っている。坂本は小刻みに震える手で鞄の中から錠剤を取り出し、そのまま飲み込んだ。しばらくしたら不安はおさまるはずだ。
 目を瞑って、深呼吸を繰り返す。
「僕は間違ったことを言ったかな?」
〈質問が認識できません〉
 自動応答は素っ気ない反応を返した。

 坂本が乗り込んだ車は、低床で箱型のものだ。路線バスを一回り小さくしたような見た目で、車内で立ち上がることもできるほど天井は高い。自動運転アルゴリズムのスタートアップ企業、サイモン・テクノロジーズ社の実験車両。名目上は、業界最大手の自動車メーカーのマツキ自動車から貸与を受けている形だ。ぎっしり詰め込めば八名分の座席を配置できるが、この車には四つしか取り付けられていない。二人掛けの座席が前後に向かい合わせになっており、その分空いた中央の空間にテーブルが備えつけられている。ファミリーレストランの四人掛けボックスと同じ配置だ。
 周囲四面に配置された窓はとても大きく、天井を支える柱(ピラー)は細かった。二〇一〇年代のスマートフォンのデザインが画面周囲の枠(ベゼル)をどんどん小さくしてきたように、二〇年代の自動車も柱(ピラー)を最小化し、なるべくウィンドウを最大化するように変化してきた。
 ウィンドウには、薄膜のディスプレイが挟み込まれている。透過度や色を自由に設定したり、好きな画像、動画を映し出すこともできた。内部だけでなく、用途に合わせて外観をカスタマイズすることもできるのだ。
 タクシーでは「空車」「回送」といった使用状況を示すために、配送車や移動型店舗では企業のロゴや広告を表示するために使われていた。全面とも透過させれば、オープンカーのように街の景色を存分に楽しむことができるし、全面を不透過にして中を隠せば、プライバシーが求められる会議や商談も可能だ。今は全てのウィンドウにスモークがかかっている。
 このモデルの車は、発売から四年が経っている。二〇二九年の現在では、少しばかり設計の古さを感じるところもあったが、それでも完全自動運転車(レベル5)が普及する前の旧型車と比較すれば、実用性は段違いだった。
 一番の大きな違いは、運転席がないことだ。完全自動運転車(レベル5)は、人間が一切運転操作に介在しない。ハンドルやアクセルは必要ない。車の走行速度など知らなくていいし、サイドミラーやバックミラーは無数のカメラやセンサで代替されている。それゆえ、空間を広く使うことができ、内装の自由度は格段に高くなった。
「ディスプレイをいつもの配置にして」
〈承知しました〉
 声をかけると、右側の壁に沿わせた四十六インチのディスプレイが、正面にすっと移動してきた。坂本は常に後部座席の中央に座る。ディスプレイはルーフからアームで吊り下げられていて、好みの位置に自動で動かせた。電動式の三軸スタビライザーがついていて、細かく振動する車内でもストレスなく画面を見ることができるようになっている。
 ここが、坂本の仕事場だった。
 ソースコードを編集するときには、深く集中する必要があった。それは些細な変化で──人の話し声が聞こえたり、人が後ろを通る気配を感じたりするだけで──失われてしまう。だから、他者が入ってくることがない空間を用意しなくてはいけない。
 しかし一方で、自動運転アルゴリズムの開発をするためには、ある種のインスピレーションが不可欠だった。実際に乗車しているときの眺めを味わっていなければ、理想的な設計がイメージできないのだ。
 介入されない空間と、外界の手触り感。それらを両立させるのが自動運転車だった。車内は隔絶された個室であり、ノイズキャンセリングが効いていて静かだった。大きなウィンドウ越しに外の景色が広がっており、外界と接続している感覚を得ることもできる。
 誰とも会わずにこの車の中で毎日開発を行うことだけが、坂本の生活だった。一人きりでコードを書くことは、自分にとって何より心地よいことだった。
 エディターを開くと、コードがディスプレイいっぱいに展開される。キーを押下して、自分の意図通りにソフトウェアが動くことを確認すると、安心した。
 早速、作業に取り掛かる。開発中のモジュールのひとつを、大幅に再構成(リファクタリング)しなければならなかった。その場しのぎの増築を繰り返していたのだが、いよいよ構造が醜悪になってきたので、そろそろ抜本的に作り直さねばならない。
 すでに大まかな設計は頭の中でできあがっている。あとはその通りにコードを書き換えるだけだった。ここから先は、たいして難しくないはずだ。
 しかし、キーボードを叩く手は、すぐに止まってしまった。
 先ほどの男の声が脳内に蘇る。
 ──本当に何も感じないのか?
 彼の表情はどういう意味だったのだろうか。侮蔑、絶望、憤怒。いったい何を考えていたのか。自分はどんな言葉を選べばよかったのか。
 昔から「もっと人の気持ちを想像しなさい」と繰り返し言われてきた。しかし、そのためにはどうしたらよいのか、まったくわからなかった。人と話すといつも、予想外のところで笑われたり、泣かれたり、怒られたりする。そうして「自分は人の気持ちを想像することが苦手だ」という意識だけが強く植え付けられていった。他人とコミュニケーションをとることは地雷原を目印なしで歩くのと同じだった。
 小学校の高学年にもなると、自分は社会との適合度が低いのだと気が付いた。もしかしたら他人からはとうにそう思われていたのかもしれないけれど。
 プログラミングが得意だと気がついたのも同じ頃だった。初めてのコーディングは十歳のときだ。家に転がっていた父親のPCに“Hello World!”と出力したときの興奮は、いまでも記憶に残っている。コンピュータの世界はルールが明確だ。コンパイラが吐き出すエラーメッセージはいつだって正しくて、コードが動かないならば、必ず自分が間違っている。メモリの一ビットに至るまで、自分が意図した通りに自在に操れた。理解もコントロールもできない日常とは全てが正反対で、はるかに魅力的に映った。
 気が付けば、「ううう」という声が喉から漏れ出していた。思考のループの中にはまってしまっているようだ。先程飲んだばかりではあったが、再び錠剤を手にして無理矢理飲み込み、咳き込んだ。
 どうして、あの男とちゃんと話してみようだなんて考えてしまったのだろう。たしかに男の境遇は他人事ではなかった。自分だって、大学時代に──たかだか五、六年前の話だが──「彼」が突然現れなければ、今の生活がどうなっていたかわからない。大学院に進学する金銭的余力はなかったし、世界中を巻き込んだ感染症の余波を受け、実体経済が最悪の状況だった当時、自分のような社会不適合者を雇ってくれそうな会社もなかった。
 だからといって、男と話をすればわかりあえるかも、などと思ってしまったのは愚かな過ちだ。警備員が拘束したとき、黙って立ち去ればよかった。そうすれば、更なる罵声を浴びせられることもなかった。昔の記憶がフラッシュバックすることもなかったし、コミュニケーションの無意味さを痛感することもなかった。
 ──やはり自分はアルゴリズムのこと以外、考えるべきではないのだ。
 コードを書いて、アルゴリズムの精度を上げるたび、日本中のモビリティの効率は上がり、ユーザーの乗り心地は良くなって、交通事故が減る。そして自分は何不自由なくこの平穏な日々を享受し続けられる。悪いことなど何も起きない。
 他のことを考えるな。目の前の巨大なコードベースを完璧にコントロールしろ。
 そう繰り返し自分に言い聞かせていると、急に車が停止した。
 画面から目を離し、あたりを見回す。ここがどこなのかはわからないが、繁華街の裏路地のようだった。雑居ビルが立ち並んだ細い通りで、天気は晴れているはずなのに薄暗い。
 ──ナビゲーションにトラブルが発生したのだろうか。
 指示なしで停止するなんて、今まで起きたことがなかった。キーボードを叩いて車の管理コンソールを起動する。そのとき、ロックしていたはずのドアが開いて、見知らぬ男がいきなり車に乗り込んできた。
「動かないで」
「え……あっ!」
 有無を言わせぬ素早さで男は坂本の首筋に何かを押し当て、坂本の意識はそこで途切れた。

 今朝からの出来事を思い出すうちに徐々に頭が働くようになり、状況を理解しはじめる。
 自分は今、車の中で拘束されている。
 恐怖と疑念が頭を満たした。
 セキュリティには日頃から細心の注意を払っていたつもりだった。物理的な端末が奪われる可能性を想定して、社員は全員、仮想デスクトップ環境を利用している。これなら端末が盗まれてもデータは漏洩しない。クラウド環境の中にしかデータは保存されていないからだ。しかし、自分自身が自動運転車内で拘束されることまでは考えていなかった。
 目の前の男は坂本が意識を取り戻したことに気がつくと、立ち上がって近づいてきた。エントランスで話しかけてきた元ドライバーとは別人だ。
「だ、誰?」
 思わず声が裏返った。呂律がまわらない。頭の中には無数の疑問が浮かんでいたが、どれもうまく言葉にできなかった。普段から他人と満足に会話ができないのに、この状況で的確に言葉を並べられるわけがない。
「私のことは『ムカッラフ』とでも呼んでください」
 耳慣れない、独特な響きの言葉。
「イスラム教において、義務と責任ある者──という意味です」
 馴染みのない単語に、理解が追いついていかなかった。
「坂本社長、やっと捕まえることができました。あなたにお聞きしたいことも、やっていただきたいこともたくさんあるのです」
 寒気がした。ずっと狙われていたというのか。目線だけを動かしあたりを見回す。
 窓はブラインドモードに設定されていて、スモークがかかっている。外の様子は窺えなかった。今どのあたりを走っているか、まったく見当がつかない。
 身体を確認すると、いつも着ているTシャツとジーンズではなく、入院患者の病衣のような水色の服を上下ともに着用していた。作りはゆったりとしている。意識を失っている間に着替えさせられたのだろう。左右の足首は結束バンドで一つに固定されている。
 テーブルの上には、見知らぬ端末が置かれていた。デスクトップの壁紙から、インストールされているOSはLinuxディストリビューションであることがわかる。数値計算用途のものだ。坂本の趣味ではない。車両に備え付けられている大型ディスプレイは右の壁に収まっている。キーボードはぎりぎり手錠の届く範囲内にある。キーボードを操作させるためだけに拘束されていると考えた方が正しいかもしれない。
「は、外して、ください」
 坂本は俯き加減で、手錠に視線をやりながら訴えた。男とは目を合わせないように気を付ける。
「け、警察……」
 うわ言のように単語だけが口から漏れた。男の意図はわからないが、手錠を外してくれたら協力してやってもいい。警察には言わないから、どうか犯罪のリスクなんか冒さないで、穏便にやらないか。
 しかし、うまく言葉が口から出てこない。
「警察ですって?」
 ムカッラフは余裕の笑みを浮かべている。
「警察は私を捕まえられませんよ。さて、早くとりかかりましょう」
 そう言うと、ムカッラフは手元のスーツケースから銀色のハサミを取り出した。突然の刃物の登場に坂本の表情は凍った。
「な、なんですか、それ」
 男は答えずに、席を立って少しずつ坂本の方ににじり寄ってくる。
「や、やめろ!」
 坂本が思い切り腕を振り回すと、手錠とテーブルの脚がぶつかり、ガンガンと鳴った。手錠が壊れる気配は微塵もなかった。手首に強烈な痛みだけが残る。抵抗も虚しく、ムカッラフは左手で坂本の髪の毛を鷲摑みにした。
「や、やめて、痛い」
 肩まで伸びた髪の毛を引っ張られる。ムカッラフは至近距離から覗き込むと、坂本の頭にハサミを近づける。激痛を覚悟し目を瞑った。
「本当は今すぐこいつで切り裂いてやりたいんですが──」
 次の瞬間、感じていた痛みがふわりと消えた。
「へ?」
 拍子抜けして、思わず口から間抜けな声が漏れた。ちょきん、と髪を切られたのだ。
「さすがに、まだ白黒ついていない状態で手出しはいたしません。私はフェアな人間なんです」
 ムカッラフは坂本の髪を切り続けた。半年以上床屋にも行かず伸び放題になっていた髪が、座席の下にはらはらと落ちていく。
 意味がわからなかった。車内で監禁され、気がついたら髪を切られている。
「いったい、なんなのですか」
「精度を上げるためですよ」
 そう言うと、男はスーツケースからジェルを取り出し、坂本の頭に塗りたくり始めた。薬品か何かだろうか。不自然に甘い匂いが鼻をくすぐる。手の震えが収まらず、手錠がカチャカチャと鳴った。
「私には、成功の確率を少しでも高める義務と責任があります」
 次にスーツケースから、シリコン製の黒いヘルメットを取り出した。頭部をすっぽりと覆うが、顔に当たる部分がぽっかりと開いている。頭頂部には電子機器がついていた。坂本はそこで初めて、ムカッラフの行動の意図を理解した。
「EEG」
「よくご存じですね。ワイヤレスの脳波計(EEG)です」
 ムカッラフは坂本にヘルメットを被せる。
「毛量が多すぎると精度が下がってしまうのです。だいぶ伸びていましたので、切らせてもらいました」
「何、する気?」
 ムカッラフは質問に答えずに、端末に向き合った。キーボードを勢い良く叩いている。その手つきは明らかに、日頃からコンピュータを扱い慣れている人のものだった。
「これからいくつか質問をしますが、全部の質問に『はい』と答えてください」
「え?」
「あなたは坂本義晴だ」
「それは、どういう──」
「ただ、はいと言うのです」
 坂本のか細い声を遮り、ムカッラフは強い口調で命令した。
「……はい」
「それでいい。あなたはサイモン・テクノロジーズ社の創業者(ファウンダー)だ」
「はい」
「サイモン・テクノロジーズ社は、自動運転アルゴリズムを開発している会社だ」
「はい」
「あなたは女性だ」
「わたしは、男です。これも、はいと、答えるんですか」
「そうです」
「はい」
「あなたはT大学を中途退学している」
「はい」
 これは事実だ。
「あなたはインドネシア国籍だ」
「はい」
 坂本は日本国籍だったが、肯定した。ルールを理解した。
 その後も簡単な質問が十問ほど繰り返された。そのうち半分は事実で、もう半分はでたらめだった。一通り質問を終えると、ムカッラフは自分の端末に向き直った。
 坂本は、一連の質問事項に、心当たりがあった。
「嘘発見機」
 ムカッラフは、ほお、と感心したような声をあげた。
「ご存じでしたか。おっしゃるとおり、これは嘘発見機の初期セットアップです。筋の通った嘘をつくためには、脳の特定の部位を活性化させなくてはなりません。右前頭前野、前頭極、前帯状皮質。脳波計を利用することで、嘘を検出することができるようになりました」
「精度は、完璧じゃない」
「たしかに。よくご存じだ。しかし、一口に精度と言ってもいろんな特性があります。脳波計ベースの嘘発見機の場合、偽陰性率はとても高いが、偽陽性率は極めて低い。坂本社長にはこれで通じますよね?」
 坂本は頷いた。偽陰性率が高いということは、嘘発見機が嘘をすべて検知できるわけではない、ということを意味している。嘘をくまなく発見し、真実を暴き出す用途には不十分だ。機械が反応しなかった時にも、嘘をついていることはありうるからだ。
 一方で、偽陽性率が極めて低いとすると、嘘でないものが嘘だとして検出されることはほとんどない。嘘発見器が陽性だと判定した時には、ほぼ間違いなく坂本は嘘をついていることになる。
「嘘をついた時に、ペナルティを与えるという用途には十分に使えるんです」
 これから尋問が始まるのだろうか。坂本は身を固くした。
 ムカッラフの口調は落ち着いているようにも見えるし、昂っているようにも見えた。彼が状況を楽しんでいるのか、悲しい気持ちなのかすら、わからなかった。坂本は自分の表情読解能力の乏しさに苛立ちを覚えた。
「よし、うまく較正(キャリブレーション)ができたようです。これで一定の精度で嘘を見抜けるようになりました。たった今、尋問用のプログラムも起動しました。いいですか、坂本社長。今後決して嘘はつかないでください。黙秘権なんてものはここにはありません。質問には速やかに回答してください。違反した場合、〝ペナルティ〟があります」
 尋問用プログラム? ペナルティとは何だ? 頭がおかしくなりそうだった。
「では、簡単な質問から始めましょう。今我々が乗っている車両は、サイモン・テクノロジーズ社が保有している、自動運転アルゴリズムの実験車両ですね」
「はい」
「実験車両と、一般に流通している車の違いは?」
「ハードウェアは、ほとんど変わりません」
 坂本は言い間違いをしないよう、ゆっくりと注意深く答えた。ムカッラフは頷きながら手元の端末(ラップトップ)にちらりと目をやった。脳波を確認しているようだ。
「私は車両を自閉状態(スタンドアロン)にしたい」
「どういう、ことでしょう」
「自動運転車は外部からの通信により強制的にコントロールされる可能性があります。誰にも邪魔されたくはないのです。だから、すべての通信を遮断してしまいたい」
「そんなこと、できません」
 突然、バチンという大きな音が鳴った。坂本は両足に熱を覚えた。大きな輪ゴムで皮膚を弾かれたような痛みに、呻き声が漏れる。
「脳波計は嘘だと言っています」
「これは?」
 テーブルの下に目を向けると、足に巻かれた結束バンドからはコードが延びている。
「痛いでしょう? 嘘を検知したら、自動で電流が流れるようになっています」
「そんな」
 坂本は青ざめた。
「嘘をつくと〝ペナルティ〟があるって、言いましたよね」
 ムカッラフは冷ややかな視線を坂本に向けた。その獰猛な目つきに、思わず俯いてしまう。
「今の出力が一単位の長さだと覚えておいてください」
「単位?」
「坂本社長が嘘をつくたびに電流の流れる時間が長くなっていきます。フィボナッチ数列で」
 次の数が、前二つの数の和で決まる数列だ。
「ご存じでしょう? 1、1、2、3、5、8、13、21と続いていく」
 数を重ねるほどに値は急速に増えていく。先ほどは鋭い痛みはあったが、一瞬のことだった。あれがより長い時間続くなんて、想像しただけでもおぞましいものだった。
「なんでフィボナッチ数列になっていると思います?」
 顔に薄い笑みを浮かべながら、ムカッラフは説明をする。
「人間は同じ刺激を与え続けると慣れてしまうんですよ。しかし、フィボナッチ式に刺激を長くしていくと、毎回新鮮な苦痛になるのです。次の苦痛の時間は、いま味わった苦痛の量と前回のものを合わせた時間。想像もしやすいでしょう」
 決して慣れることのない痛み。長くなっていく刺激に自分はどこまで耐えられるのだろうか。血の気が引き、気が遠くなった。
「さて、改めて質問に戻りましょう。坂本社長には、この車を自閉状態(スタンドアロン)にするための方法が思い浮かんでいる。間違いないですね?」
「あ、あ、あくまで、理論上の話です」
 ムカッラフは満足げに頷いた。
「どうすれば、外部との通信を遮断できますか」
 坂本は目を瞑り、深呼吸をした。仕様は細かいところまで完璧に頭の中に入っている。通信は二系統に冗長化されている。人の介入が一切ない完全自動運転車(レベル5)にとって、通信は要だ。どちらか片方の通信モジュールが壊れただけでは、接続は途絶しないようになっている。坂本は自分が少し落ち着きを取り戻し、思考がようやく回り始めるのを感じた。
 そこで、ある違和感に気付いた。
 この車は、自分の意識が戻ってからずっと、スピードを落とさず走行し続けている。もう三十分近く、一度も停止していない。
 ここは信号のない道、つまり、高速道路の上なのだろう。
 モーターの音に耳を澄ませ、時速は七十キロ程度だろうと見当をつけた。高速道路にしては遅すぎる。ここ数年、自動運転の普及に伴って、高速道路の速度制限は大幅に緩和され続けている。安全性が高まり、事故が起きにくくなったからだ。
 二〇二九年現在、都内近郊で上限速度が時速七十キロの高速道路は不規則なカーブや合流が極めて多い首都高だけだった。戦後東京の交通麻痺状態を一刻も早く解消するため、走りやすさよりも用地取得の容易さで路線が決定され、歪な形をしているのだ。
 状況は何も変わっていないが、自分がどこにいるかわかっただけで、少しばかり安心した。
「自閉状態(スタンドアロン)にするには、二つの機械を、物理的に、壊せばよいです」
 車両の前後に一つずつ設置された制御盤を開き、通信制御のモジュールを両方取り外して破壊するのだ。
 実は、通信を遮断するのに、必ずしも機械を物理的に破壊する必要はなかった。車両のデバイス制御をしているコンピュータと接続し、ソフトウェア上で論理的に機器を分離(デタッチ)することもできた。通常は通信制御モジュールのような重要な機能は論理的に分離できないようになっているが、坂本は特殊な解除方法を、車両の提供元であるマツキ自動車から伝えられていた。この方法を使えば、二系統の通信モジュールを一度に落とすこともできる。しかし、坂本は物理的な方法を指定した。
 二系統の通信が途絶えるタイミングが同時か、別々なのかは、違う意味を持つからだ。
 通信モジュールは車両の対角線上に設置されている。交通事故に遭遇した際、片方だけでも生き残る確率を高めるためだった。ゆえに、二系統の通信が同時に遮断された場合には、制御するソフトウェアや走行環境に原因があることが多い。例えば、山間部のトンネルなど、電波が入らない場所にいる場合には当然、二系統の通信は同時に遮断される。
 しかし、通信が別々のタイミングで順番に途絶えた場合、これは通信を遮断させようと人為的に破壊されたことが強く示唆される。制御盤が直前に開けられたこともログからわかるはずだ。監視システムは異常を見逃しはしないだろう。その挙動に潜む悪意は伝わるはずだ。
 ましてやここは首都高。人口千五百万人の東京を支える超重要なインフラだ。
 誰かがすぐに助けに飛んで来てくれるだろう。
 車内を見回した限り、ムカッラフは武器を所持していない。散髪用のハサミで警察と戦うわけにもいくまい。
 きっと事態はすぐに解決する。
 坂本は自分にそう言い聞かせた。

続きは書籍版でお楽しみください。


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