見出し画像

認知症を、正しく、優しく理解するために——『私を忘れた父を愛す アルツハイマーの脳との七年』訳者あとがき

現役の医師・作家が、アルツハイマー型認知症を患った父の治療と介護の日々をつづった、サンディープ・ジョウハール『私を忘れた父を愛す アルツハイマーの脳との七年』(松井信彦 訳)を本日発売しました。
刊行を記念し、今回の記事では本書の「訳者あとがき」の一部を特別公開いたします。家族としての愛情と苦悩、そして医師としての冷静かつ正確な知見に基づく病理の解説が並行して説く本書。そのなかで、超高齢化社会を迎えつつある現代において、認知症に対してしっかりと向き合い、受け容れるためのヒントが語られます。

書名:『私を忘れた父を愛す アルツハイマーの脳との七年』

著:サンディープ・ジョウハール

訳:松井信彦

出版社:早川書房

発売日:2024年11月20日

本体価格:2900円(税抜)

訳者あとがき



母は私のほうを見ると小声で、一家の誰もが恐くて聞けなかった疑問をとうとう口にした。
「うちのお父さん、アルツハイマー?」

「はじめに」より


 介護や認知症に関わる情報は、一般向けの書籍やウェブサイト、テレビ番組や動画などを通じてアクセスできる。それらを読んだり観たりすれば、注意すべきサインやよく見られる症状、たどりがちな経過はわかるだろう。ただ、それらは概して統計的にまとめられた平均像であり、さまざまな症状や行動が具体的にどのようなタイミングでどのように表出するかは人による。また、仕事として介護に携わってでもいなければ、家族にとって介護はえてして初めての体験であり、たとえばお金を盗んだと疑われたときには、いわゆる“もの盗られ妄想”の知識があったところで、やはり応対は難しい。そして、それは医師にとっても例外ではない。

 本書の著者サンディープ・ジョウハールは、自身の父親がアルツハイマー病を発症したとき、医師としての自分の知識や経験では対処できないという現実に直面した。そして家族の一員として父親の介護に携わるうち、医学的な治療の限界を知るとともに、「介護のあらゆる側面を──愛情と憎悪や、胆力と同情といら立ちや、単調で苦労ばかりの長丁場のあいだに降って湧く狂気の沙汰や緊急事態やときおり感じられる愛情ゆえの絆」を体験した。介護者としての日常が医療現場での経験とはまったく異なる精神的・感情的負担を伴うことを痛感し、患者の感情の揺れや行動の変化への対応が家族にとって負担になることをあらためて実感したのである。

 本書は、医師である著者が家族介護者として向き合った認知症の現実と、その過程で知るに至った知見の記録である。認知症患者とどう向き合うべきか、家族がどのように支え合うべきかを読者に考えさせるだけでなく、最新の科学的研究や社会的な支援体制についても深い示唆を与え、家族が患者の尊厳を守りつつどのように介護を乗り越えていけるのかを問うている。

 一家の家族構成を簡単にまとめると、著者であるサンディープは心臓の専門医である。また、《ニューヨークタイムズ》紙での連載や、メディアでのコメンテーターとしても知られており、これまでに本書を含めて4冊の著作を発表している。そのサンディープが、やはり心臓の専門医である兄のラジーヴや、妹のスニータとともに、途中からはインド出身の在宅介護者ハーウィンダーの力を借りながら、介護に奔走した。父親のプレーム・ジョウハール博士は、米国農務省農業研究局の北部穀物科学研究所に所属していた遺伝子研究者、そしてノースダコタ州立大学農学部の正教授を務めた人物で、小麦の耐病性に関する研究で知られていた。プレームは家族を連れてインドからアメリカへ渡って、苦労を重ねながらキャリアを築き、その過程できょうだい3人は多様な文化的影響を受けた。母親のラージはプレームが認知症の兆候を示す前からパーキンソン病を患っており、主にプレームが面倒を見ていた。一家におけるインド系アメリカ人としてのアイデンティティーは、家族が介護をどう受け入れ、対応していくかに重要な役割を果たしていた。

 さて、すでにお読みいただいた方々にはご同意いただけると思うが、まずなんといっても、本書には認知症を患う父親と家族、あるいは家族間のやり取りが実に生々しく描かれている。きれいごとなしであそこまでさらけだして大丈夫かと、訳していて少々心配になったほどだ。家族はときに支え合い、ときに対立しながら、病気に徐々に飲み込まれて人格が変化していく父親に向き合った。著者は医師として状況を理解しつつも、息子としての感情に揺さぶられる。また、介護の方針を巡って兄や妹と著者とのあいだで意見が衝突する場面が何度も登場する。こうしたやり取りは、家族介護の現実的な難しさを痛感させるとともに、認知症と向き合う家族の葛藤や決断がどれほど複雑であるかを考えさせる。

 なかでも、父親の処遇を巡る家族のやり取りは、読者に現実の介護の難しさを強く感じさせる。介護の分担、在宅か施設かの選択、治療の方針、延命措置といった現実的な課題がどのように議論され、意見が衝突したかが克明に描かれている。介護経験者や今まさに介護中の方々にとって、こうした家族内での葛藤は決して他人事ではなく、とても共感できる内容ではないだろうか。また、兄弟がそれぞれ異なる視点や感情を抱きながら、最終的に父親のために協力し合うところなど、家族の絆が試される場面もある。

 こうした生々しい家族のやり取りに加えて、本書では認知症に関する最新の科学的知見や、介護を取り巻く社会の現状にも焦点が当てられている。脳の老化がどのように進行し、認知症が人間の尊厳や記憶にどのような影響を与えるのか、神経科学や生命倫理の視点からの解説が盛り込まれている。また、オランダなどの国々で行なわれている先進的な介護施設の取り組みも紹介されており、これまでの介護のあり方に対する新しい視点を提供している。こうした知識や実践的な情報は、介護者や家族だけでなく、広く社会全体が認知症にどう向き合うかを考えさせる。13章では、日本で起こった事件や日本での取り組みも紹介されている。

 その日本での認知症を巡る近年の話題に二つ触れておこう。まず、2023年9月、アルツハイマー型認知症治療薬レカネマブが承認された。この新薬はアルツハイマー病の進行を抑える初めての画期的な薬として期待されている。10章でも述べられているが、これまでの薬は症状を緩和するだけで、病気の進行自体を抑えるものではなかったが、レカネマブの登場で治療の選択肢が広がったと言える。その一方で、この薬の対象は軽度の患者に限られているほか、特定の検査が必要な点や薬価の高さが課題とされている。

 もう一つ、2024年1月に通称「認知症基本法」が施行された。同法は、「認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会」(「共生社会」)の実現を目指しており、施策の基本理念を掲げるとともに、国や地方公共団体、サービス提供者や国民の責務を定めている。この法律は「基本法」、すなわち認知症患者の権利を尊重し、家族や社会が支援するための枠組みを示すもので、理念に沿った具体的な施策や活動を各方面に求めている。

 刊行後のあるインタビュー【*】によると、著者が何より困っていたことは、父親がどのような言動に及びだすか、そしてなぜそのような言動に及ぶのか、まったく予想がつかないことだった。そこで本書では、時間の経過とともに現れる症状や言動にとどまらず、それが脳で何が起こっているからなのか、症状がどう進行するからなのかを理解できるように書いたという。そして読者には本書を通じて、アルツハイマー病とは何か、それが家族にどのような影響を及ぼすのか、そして愛する人の生活を向上させるために介護者として何ができるのかを知ってほしい、と呼び掛けている。本書が、認知症と向き合うご本人やご家族、介護者の皆様に知識や慰めをもたらすとともに、日々の営みを支える一助となることを願ってやまない。


2024年11月
松井信彦


【*】
CNN “Alzheimer’s drug gets full FDA approval”
https://amp.cnn.com/videos/world/2023/07/10/exp-alzheimerstreatment-sandeep-jauhar-071001aseg2-cnni-world.cnn)。
2024年10月18日閲覧。


◆書籍概要