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京大生の80%が陥る2つの認知バイアスとは? 『〔エッセンシャル版〕行動経済学』解説・依田高典(京都大学教授)


2021年2月2日、ついに文庫版が発売となった『〔エッセンシャル版〕行動経済学』より、京都大学教授・依田高典氏による巻末解説を公開します。


解説:腹応えある教養が楽しめる入門書

依田高典(京都大学大学院経済学研究科教授) 


高まる行動経済学への注目

「いま、行動経済学に注目が集まっている」と、著者は書き出しで述べている。

仰せの通りで、書店には沢山の行動経済学の入門書が並んでいるが、玉石混淆で見分けが付きにくく、読者泣かせである。さて、本書はどうであろう。そんな疑いの目で、本の扉を開いてみた。

ご安心あれ。しっかりした行動経済学の入門書であり、ミシェル・バデリーは行動経済学の基本から応用までしっかり書き下ろしている。大学の講義で使うならば、初学者の教科書に良いだろうし、面白いだけのエピソードに食傷気味のビジネスパーソンならば、腹応えのある教養を楽しむことができるだろう。

簡単に、行動経済学の歴史を振り返ろう。記憶に新しい通り、ノーベル財団は2017年のノーベル経済学賞を、米シカゴ大学教授リチャード・セイラーに授与した。セイラーは、心理学を使って人間の経済活動を分析する「行動経済学」の権威として知られる。セイラーの業績に文句は全くないものの、今年度の単独受賞は学界で驚きを持って受け止められた。というのも、2002年のダニエル・カーネマン、2013年のロバート・シラーと、既に同時代の行動経済学者二名が栄冠に輝いていたからだ。

次にノーベル経済学賞が行動経済学分野に授与されるとしたら、行動経済学の仮説を、fMRIのような脳機能を解明する装置を使って検証する「ニューロ・エコノミクス」、実際の生活の中で無作為比較対照法を使って検証する「フィールド実験」のような分野というのが大方の見立てであった。

行動経済学にとって、最も重要な概念は「限定合理性」である。米カーネギーメロン大学で活躍したハーバート・サイモンは、1955年の論文の中で、人間の持つ情報は完全でなく、認知能力にも限界があり、計算処理の費用もかかるので、人間は効用を最大化するのではなく、せいぜい満足化に甘んじることを主張した。主流派経済学では、人間は「ホモ・エコノミカス」と呼ばれる合理的な存在として描かれる。人工知能の提唱者としても知られるサイモンは、ホモ・エコノミカスの虚構性を暴き、生身の人間に立脚したモデルを提唱した。しかし、サイモンの経済学批判はあまりにも苛烈であり、時として、経済学そのものの学問批判にまで及んだために、サイモンの問題意識は経済学者の間でそれほど浸透することなく終わった。

限定合理性がどのような満足化行動を惹起するのか鮮やかに描いたのが、イスラエルの心理学者エイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンである。現実の意思決定と最適な意思決定との間には乖離が生じるが、その乖離を「バイアス(偏り)」と呼ぶ。人間の心には、今この瞬間に重きを置く「現在性バイアス」、確率が100%であることに重きを置く「確実性バイアス」等が潜んでいる。こうしたバイアスが単純ミスでないことは、バイアスを指摘されても、多くの者が行動を改めないことからも分かる。才気煥発で天才型のトベルスキーと内気で近寄りがたいカーネマンは、異なる個性の火花を散らしながら、絶妙のコンビで次々と新しい理論を発表した。特に、1979年の論文において、危険下の最適行動である期待効用理論を批判的に検討した「プロスペクト理論」は、ホモ・エコノミカスに懐疑的な経済学者の間で幅広い支持を得た。

このように、行動経済学の現代史は、ホモ・エコノミカスを飽き足らなく思ったサイモン、カーネマン、セイラーのような挑戦者達がバトンをリレーでつないで、経済学の勢力地図を塗り替えた下克上物語だった。
 

京大生の80%が陥る2つのバイアス


私も行動経済学の入門書を二冊書いたことがある。一冊目は『行動経済学── 感情に揺れる経済心理』(中公新書、2010年)、二冊目は『「ココロ」の経済学── 行動経済学から読み解く人間のふしぎ』(ちくま新書、2016年)である。

行動経済学の入門書を書くにあたって、外せない主要内容は三つある。

第一の主要内容は「時間選好」である。人間は現在という瞬間を特別に重要視する現在性バイアスを持っている。次のような二者択一問題を考えてみよう。

選択肢A 今すぐ、10万円を受け取る。
選択肢B 1年後に、11万円を受け取る。

毎年、私は京都大学の学生にこの質問をするが、80%の学生が選択肢Aを選ぶ。続いて、次のような二者択一問題を考えてみよう。

選択肢C 1年後に、10万円を受け取る。
選択肢D 2年後に、11万円を受け取る。

驚いたことに、今度は、京大生の80%が選択肢Dを選ぶ。この京大生の選択は、経済学者には困った課題を突きつける。なぜならば、どちらの択一問題とも、2年待って1万円多く受け取るべきかどうかという同じ選択構造を持っているのに、両者の間で時間選好が逆転するのだ。なぜ選好の逆転が生じるのだろうか。この鍵が、選択肢Aの現在性だ。人間は、現在性が選択肢の中に入ると、忍耐することができずに、特別にその選択肢を好む。しかし、一度、待つことを織り込んでしまえば、どうせ待つのなら、もう1年くらい待つのも一緒だと割り切ることができる。

第二の主要内容は「危険選好」である。人間は100%確実を特別に重要視するという「確実性効果」を持っている。次のような二者択一問題を考えてみよう。

選択肢A 確率80%で、4万円を受け取る。
選択肢B 確率100%で、3万円を受け取る。

80%の京大生が選択肢Bを選ぶ。数学的期待で考えれば、選択肢A(期待値は40000× 0.8=32000)の方が上だが、選択肢Aの20%の何ももらえない危険を嫌って、選択肢B(期待値は30000 × 1.0=30000)を選んで確実に3万円をもらおうと思うのだ。続いて、次のような二者択一問題を考えてみよう。

選択肢C 確率20%で、4万円を受け取る。
選択肢D 確率25%で、3万円を受け取る。

驚いたことに、今度は、京大生の80%が選択肢Cを選ぶ。この京大生の選択も困りものだ。なぜならば、どちらの択一問題とも、賞金の金額は同じで、確率の比率も4:5という選択構造を持っているのに、両者の間で危険選好が逆転するのだ。なぜ選好の逆転が生じるのだろうか。鍵は、選択肢Bの確実性にある。人間は、確実性が選択肢の中に入ると、わずかな危険を回避して、特別にその選択肢を好む。しかし、一度、危険を織り込んでしまえば、少しくらいの確率の高低は大きな違いではないと割り切ることができるのだ。

第三の主要内容は「社会選好」である。経済学では、人間のことを利己的だとみなしているが、実際には見返りを求めない利他性を持っている。真の利他性を調べるために、独裁者ゲームを考えてみよう。

相手が誰か分からないように、二人を一組にして、片方の人間にこう言います。
「あなた方二人に1万円を差し上げます。ただし、この1万円をどう分けるかは、あなたが決めてくれて結構です。二人で分けても良いし、分けなくても良い。相手に拒否権はなく、あなたの申し出る分配額を受け入れるしかありません」 

相手は拒否権を持たないので、分配額が少ないために相手が拒否して、自分が1円ももらえなくなることを心配する必要はない。にもかかわらず、生身の人間は平均して2000円程度を相手に分配する。相手が、友人や家族のような身近な存在であれば、分配額が高くなる傾向があること、あるいは、相手の写真を見るだけで分配額が上がるような傾向があることも分かってきた。
 

行動経済学の入門書としての特徴
 
私が入門書を書く時は、時間選好、危険選好、社会選好の順番で章を構成してきた。伝統的経済学が仮定するホモ・エコノミカスと行動経済学が仮定する生身の人間を比較する上で、まず、時間選好の割引効用理論と現在性バイアスから語り始め、次いで、危険選好の期待効用理論と確実性バイアスに引き継ぎ、最後に、社会選好の利他性を説明するのが、読者の理解を助けるからである。実際、私の『行動経済学』では、時間選好は第2章、危険選好は第3章、社会選好は第5章に配置している。多かれ少なかれ、類似の入門書はこの構成をとっている。

ところが、ミシェル・バデリーの行動経済学では、構成が異なる。第2章で行動経済学の基本的概念が概説された後、第3章でいきなり社会選好が取り上げられている。これにはかなり驚いた。社会選好は行動経済学の主要テーマではあるものの、一丁目一番地というほどではない。第4章でヒューリスティクスが説明された後、第5章で危険選好、第6章で時間選好が取り上げられている。通常の経済学のセオリーを無視した章立てである。

これが意外に悪くない。もともと、行動経済学の入門書を手に取る読者は、伝統的経済学の基本モデルを学びたいわけではなく、むしろ胸がときめく行動経済学の新しい発見を知りたいと思っているわけだ。そう考えれば、読者にとって馴染みやすい社会選好から入るのも悪くない。実際に、本書の読者は、第2章から第3章にスムーズに移ることができたに違いない。第4章から第7章では、先述したようなさまざまな認知バイアスを取り上げる。そのあとで語られる第8章のマクロ経済学、第9章の公共政策は読みやすく、無事に最終章までたどり着けるというわけだ。

本書を読み終えた読者には、行動経済学の発展篇として、無作為比較対照型の社会実験であるフィールド実験の入門書にも挑戦して欲しい。行動経済学の知見が、新しい経済学でどんどんと活用されていることが分かるはずだ。以下の本がおすすめ。
 
■アビジット・V・バナジー(著)、エステル・デュフロ(著)、山形浩生(翻訳)『貧乏人の経済学──もういちど貧困問題を根っこから考える』みすず書房、2012年

■ウリ・ニーズィー(著)、ジョン・A・リスト(著)、望月衛(翻訳)『その問題、経済学で解決できます。』東洋経済新報社、2014年

■依田高典(著)、田中誠(著)、伊藤公一朗(著)『スマートグリッド・エコノミクス──フィールド実験・行動経済学・ビッグデータが拓くエビデンス政策』有斐閣、2017年 

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