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あまりに不穏。でも目を離すことができない。小説『消失の惑星』試し読み

ジュリア・フィリップス『消失の惑星【ほし】』、冒頭を公開します。

【書影】消失の惑星

***

八月

ソフィヤはサンダルを脱いで波打ちぎわに立っていた。静かなさざ波が、そのつま先を濡らした。真っ白な足が灰色がかった海水に沈む。「あんまり遠くに行っちゃだめ!」アリョーナは叫んだ。

波が引いていった。ソフィヤの足の下から小石が無数に流れだし、細かい砂が水中に溶けていく。ソフィヤがズボンの裾をまくろうとかがむと、ひとつに結んだ髪の先が小さな弧を描いた。ふくらはぎに、蚊に刺されて引っかいた痕が赤く何本も走っている。アリョーナにはわかっていた。妹がこんなふうにぴんと背筋を伸ばしているときは、こっちが何を言っても聞こえない。

「ねえ、遠くに行かないでよ」アリョーナは繰り返した。

ソフィヤはじっと海を見ていた。海は静かに凪いで、波はほとんど立っていない。なめらかに延ばした鉛板のようだ。海流は沖へ向かうにつれて激しくなり、ロシアを遠くうしろへ残して太平洋に流れ込んでいく。だが、岸に近いあたりでは、海の流れもおとなしいものだった。それが、アリョーナとソフィヤのよく知る海だった。ソフィヤは華奢な腰のあたりで両手を組み、身じろぎもせずに景色を見ている。広い湾を、そのむこうに連なる山々を、対岸に立つ軍事施設の白い光を。

海岸は、巨岩が細かく砕けてできた砂利に一面おおわれている。アリョーナはバックパックほどの大きさの岩にもたれて立っていた。少しうしろには、聖ニコラウス丘の絶壁がそびえている。二人はこの日の午後、片方に海を、もう片方に断崖を見ながら、海沿いに歩いてきた。割れたガラスも鳥の羽根も落ちていない、開けたこの浜辺に着くと、少し休んでいくことにした。カモメたちがそばに舞い降りるたびに、アリョーナは手を振って追い払った。夏が始まってからも冷たい霧雨がつづいていたが、八月のこの日の午後は、半袖でも平気なほど暖かかった。

ソフィヤが海に向かって一歩踏みだした。かかとが砂に沈む。

アリョーナはぱっと体を起こした。「ソフィヤ、だめだってば!」妹が後ずさる。その頭上で、カモメが一羽、滑るように飛んでいた。

「ねえ、言うこと聞いてよ」

「聞いてるもん」

「聞いてない。いっつもそうなんだから」

「聞いてるもん」ソフィヤは言い返してアリョーナを振り返った。妹の猫のような目も、薄い唇も、つんととがった鼻でさえも、アリョーナには癇に障った。もう八歳だというのに、せいぜい六歳にしか見えない。三つ年上のアリョーナも年の割には小柄だが、ソフィヤは、腰から手首に至るまで体の造作すべてが小さく、時々、幼稚園児のように振る舞うことがあった。ベッドの足元にはぬいぐるみをいくつも並べ、有名なバレリーナになった振りをして遊び、ホラー映画を少し観てしまうだけで眠れなくなる。母親はソフィヤに甘かった。下の子として生まれたことで、ソフィヤは一生、赤ん坊のように振る舞える特権を手に入れたのだった。

ソフィヤは、アリョーナのうしろにそびえる崖のてっぺんに視線を据え、片足を水から出して、もう片方の足首に引き寄せた。濡れたつま先をぴんと伸ばし、両腕で頭の上に円を描き、バレエの第五ポジションの形を作る。よろめきかけ、体勢を立てなおす。アリョーナは、落ち着かない気持ちで砂利の上に座った。母親にはしょっちゅう、クラスメートの家へ行くときは妹も連れていきなさい、と言いつけられる。だがアリョーナは、こういうソフィヤの赤ん坊じみた振舞が嫌で、母親の言いつけには従わなかった。

そのかわり、姉妹は夏休みのあいだ、いつも二人で過ごした。アリョーナは、妹を家の裏手にある涼しい駐車場へ連れていき、そこで側転を教えた。七月には、バスで40分のところにある市営動物園へ出かけた。食いしん坊の黒ヤギに、檻の隙間からお菓子をやったりもした。ヤギは線のように細い目を、まぶたの奥でしきりに動かしていた。夕暮れが近くなったころ、アリョーナはミルクキャラメルの包み紙をむいて、オオヤマネコの檻の隙間から押し込んだ。オオヤマネコはシャーッと牙をむき、姉妹が後ずさるまで威嚇をやめなかった。キャラメルはセメントの床に転がっていた。二人はそれっきり動物園には近づかなかった。母親が仕事へ出かける前にお金を置いていってくれると、アリョーナとソフィヤは映画館へ行き、映画が終わると二階のカフェでバナナチョコレートクレープを注文し、分けあって食べた。だが、たいていは二人で街を散歩して、膨らんでいく雨雲や、そのあいだから射してくる日の光を眺めた。二人の顔は、次第に日焼けして小麦色になった。夏のあいだ、アリョーナとソフィヤは散歩をし、自転車に乗り、海辺で遊んだ。

ソフィヤがバレエごっこに夢中になっているかたわら、アリョーナは人目を気にして浜辺に視線を走らせた。いつの間にか、男がひとり、ごつごつした岩場をゆっくりと歩いてきている。「誰か来た」アリョーナは言った。妹は飛沫を上げながら片足を水中に下ろし、反対の足を上げた。ソフィヤは子どもっぽい真似を見られても構わないかもしれないが、アリョーナはちがう。人からどう見られるかが気になる。「やめて」アリョーナは言った。大きな声で、怒りをこめて、もう一度繰り返す ──「やめてってば」

ソフィヤはようやくバレリーナの真似をやめた。

もう一度海岸を見わたすと、男はいなくなっていた。腰を下ろす場所を見つけたのだろう。アリョーナのなかで膨れ上がっていた苛立ちは、バスタブの栓を抜いて湯を流すときのように、ゆっくりと体から消えていった。

「あきちゃった」ソフィヤが言った。

アリョーナは岩にもたれた。とがった岩が肩に当たり、岩肌で頭のうしろが冷たい。「こっちにおいで」アリョーナは呼びかけた。ソフィヤは波打ちぎわから慎重に岩場を渡ってくると、姉にぴったりと体をくっつけた。足の下で砂利が音を立てる。潮風に当たっていたせいで、ソフィヤの体は岩と同じくらい冷えていた。「お話してあげよっか」アリョーナは言った。

「うん」

アリョーナは携帯電話で時刻を確かめた。晩ごはんまでにはうちに帰らなければならないが、まだ四時にもなっていない。「流された町の話、知ってる?」

「ううん」普段は利かん気が強いが、その気になりさえすれば、ソフィヤは行儀よく話を聞くことができた。姉を見上げて口をきゅっと引き結び、話のつづきを待っている。 

アリョーナは、海岸のずっと右手にある崖を指差した。その先には街の中心部がある。彼女たちは今日の午後、そこから歩いてきたのだった。左手の浅瀬には、湾口を示すかのように置き去りにされた、黒い廃船があった。「むかし、あそこに町があったの」

「ザヴォイコに?」

「ザヴォイコのむこうに」二人は、聖ニコラウス丘が一番高くなっているあたりの下に座っていた。このまま海岸沿いに歩けば、岩がちな丘は次第に低くなり、その上で窮屈そうに立ち並ぶ家々が見えてくる。コンクリートでつなぎ合わせたような、ソ連時代の五階建て集合住宅、倒壊した家々からのぞく木の骨組み、ピンクや黄色の鏡面仕上げをほどこした高層ビル、おもてに出ている空室の広告。ザヴォイコは、そうした家並みのさらにむこうにある。そこが、二人の住む街の ──ペトロパヴロフスク・カムチャツキーの果てだ。その先は海だった。「海の入り口にがけがあるでしょ。消えた町は、がけのはしっこにあったの」

「大きかった?」

「ううん、小さかったんだって。ちょっとした村みたいな感じ。木のおうちが50くらいあって、兵隊さんと、その奥さんと赤ちゃんが住んでたみたい。町が消えちゃったのは、何年も前なんだって。大祖国戦争のすぐあと」

ソフィヤは少し考え込んだ。「学校はあった?」

「あった。市場もあったし、薬屋さんもあった。なんでもあった。郵便局も」アリョーナはくわしく説明した。薪の山もあったし、模様が彫ってある木の窓枠もあったし、トルコ石みたいな青色に塗ったドアもあった。「おとぎ話に出てくる町みたいだったの。町の真ん中には旗が立った広場があって、そこにはいまじゃ見かけないような車がいっぱいとめてあったんだって」

「ほんと?」ソフィヤが言う。

「ほんと。それで、ある朝のこと。町の人たちは朝ごはんを作ったり、猫にえさをやったり、仕事にでかける支度をしたりしてた。そしたら、がけがゆれはじめたの。地震だよ。そんなに激しいゆれははじめてだった。かべがぐらぐらゆれて、お茶わんが割れて、イスなんかも ──」

アリョーナは足元の砂利を見まわしたが、折ってみせるのにちょうどよさそうな流木は見当たらなかった。

「イスとかテーブルとかもこわれちゃった。赤ちゃんたちがベッドで泣いてたけど、お母さんたちはあやしてあげられなかった。立ちあがれないくらいゆれてたから。ほんとに、それまででいちばん大きい地震だったの」

「みんな、おうちの下じきになっちゃった?」

アリョーナは首を横に振った。ごつごつした岩にもたせかけた頭が痛い。「いいから聞いてて。五分くらいしたらゆれは止まったの。でも、永遠みたいに長かった。赤ちゃんたちは泣きつづけてたけど、みんなすごくほっとした。かくれてたところからはいだしてきて、みんなでだきあったんだって。通りにはひびが入って、電線もあちこち切れてたけど ──みんな生きのびた。でもね、だきあったまま床でぐったりしてたら、割れた窓のむこうに、何か黒い影が見えてきたんだって」

ソフィヤはまばたきひとつせずに聞き入っていた。

「津波だった。おうちの倍くらいある波が押し寄せてきてたの」

「ザヴォイコに? うそばっかり。あんなに高いとこにあるのに」

「ザヴォイコじゃなくて、そのむこうだってば。でも、そう。地震がそれだけ大きかったってこと。ハワイの人もゆれを感じたし、オーストラリアじゃ、あんまり足元がゆれたから、みんなで『あんた、あたしにぶつからなかった?』って言いあったんだって。どれだけ大きい地震だったかわかるでしょ?」

ソフィヤは黙っていた。

「地震のせいで海が丸ごとゆれたの。200メートルくらいの波が立ったんだよ。それで ……」アリョーナは片手を前に突きだすと、湾を満たすおだやかな海水と同じ高さに上げ、水平線をなぞるようにさっと横に動かした。

半袖の腕に潮風が冷たかった。近くで海鳥が鳴いている。

「どうなったの?」とうとうソフィヤが口を開いた。

「だれも知らないの。街は地震で大さわぎになってたし。ザヴォイコの人も、津波にはちっとも気づいてなかった。はきそうじをしたり、となりの人のようすを見にいったり、こわれたものをなおしたり、大いそがしだった。海水が通りを流れてきたときだって、上のほうで水道管がこわれたんじゃないかって思ってた。だけど、少しして停電がなおったときに、だれかが、がけの上の町は真っ暗なままだって気づいた。町があったはずの場所には、なんにも残ってなかったの」

湾に立つ小さな波の音が、アリョーナの声に静かなリズムを添えていた。ザー、ザー。ザー、ザー。

「街の人たちががけの上を見にいったら、なんにも残ってなかった。人も、建物も、信号機も、道路も、木も、草も。月の上みたいに、なんにもなかったんだって」

「みんなどこにいっちゃったの?」

「流されたんだよ。波が全部さらっていっちゃったの。こうやって」アリョーナは岩肌に片肘をつき、もう片方の手で妹の肩をつかんだ。手のひらの下で、肩の骨が動くのがわかる。「水につかまるって、こんな感じなんだよ。おうちに水が流れ込んできたら、もう出られない。津波が町を丸ごとつかまえて、太平洋にさらっていった。全部、丸ごと消えちゃったの」

丘の影におおわれ、ソフィヤの顔は暗かった。口が少し開いて、ぎざぎざした下の前歯がのぞいている。時々アリョーナは、波にさらわれて消えてしまった町のように、こわくて表情を失くしてしまうような場所へ妹を連れていくのが好きだった。

「うそばっかり」ソフィヤが言った。

「ほんとだよ。学校で聞いたんだもん」

海は午後の光を受けて鈍く光り、ゆったりと揺れていた。銀器のような色だ。さっきまでソフィヤが立っていた岩場が、満ちてきた海水で見え隠れしている。

「もうかえろうよ」ソフィヤが言った。

「まだ早いでしょ」

「かえりたい」

「こわいの?」

「こわくない」

トロール漁船が湾の真ん中を南へと走り、どこであれ──チュコト半島だろうか、アラスカだろうか日本だろうか ──そこで待ち構えているものに向かっていた。ソフィヤもアリョーナも、カムチャツカ半島から出たことがない。母親は、いつかモスクワへ行きましょうと話していたが、そこへ行くには飛行機で九時間もかかる。ユーラシア大陸は広い。たくさんの山と、海と、大陸とカムチャツカ半島を隔てる海峡をこえていかなくてはならない。二人とも、大きな地震は体験したことがなかったが、それがどんなものかは母親に聞いていた。1997年の地震のとき、住んでいた部屋がどんなふうに揺れたか。キッチンの天井から下がっていた電灯は激しく揺れ、天井にぶつかって割れてしまった。戸棚の扉が開いて中の瓶詰めが転がり落ち、漏れたガスの硫黄のようなにおいで母親は頭痛がしたという。あとになって通りへ出てみると、車はぶつかって折り重なり、アスファルトには大きな亀裂が走っていたそうだ。

姉妹は座る場所を探して、浜辺をずっと歩いてきた。にぎやかな街ははるかうしろだ。人の気配が感じられるものといえば、湾口に打ち捨てられた船と、時おり流れ着いてくるゴミくらいだった。ラベルの剥がれかけた二リットルのビールの空き瓶、オイル漬けのニシンの缶詰の反り返った蓋、海水を吸ったケーキの台紙。たとえいま地震が起きたとしても、どこかの家の軒先へ駆け込むというわけにはいかない。丘の上からは大きな岩が転がりおち、高波が二人をさらっていくだろう。

アリョーナは立ちあがった。「わかった、帰ろう」

ソフィヤはサンダルに足を滑り込ませた。ズボンの裾は膝の上までまくりあげられている。二人は巨岩の転がる岩場を歩き、街に戻る道をたどりはじめた。アリョーナは寄ってくる蚊を払った。遊びに出る前に家で昼食を食べてきたというのに、アリョーナは空腹を感じはじめていた。「よく食べるわねえ」今週のはじめ、アリョーナがフィッシュケーキをおかわりすると、母親は驚きと不安が混じったような声で言ったものだった。だが、アリョーナの背丈は少しも変わらず、クラスメートのなかでも小さなほうだ。子どもの体のまま、食欲だけが大人のように増していた。

カモメの鳴き声に、人々の声が混じりはじめた。時おり車のクラクションも響く。濡れた砂利で足が滑った。膝くらいの高さの丸岩に飛びのると、カーブする細い道が行く手に見えた。二人を囲む岩は、じきに小さくなっていく。岩場が終われば、その先には砂利浜がある。浜の片方には食べ物の屋台が並び、もう片方には造船所がある。夏のこの時期、そのあたりは人であふれ返った。砂利浜で湾を背にして立てば、踏みしだかれた草におおわれた、歩行者専用の大きな広場が見えてくるだろう。広場を抜けて渋滞した車の列を横目に少し歩けば、レーニンの銅像や、ガス会社の看板や、てっぺんに旗が何本も立った大きな市庁舎が見えてくる。じきにアリョーナとソフィヤは、ペトロパヴロフスク・カムチャツキー市の中心部に立ち、四方へうねるように広がる街並みを、肋骨のように走る街路を、遠くにのぞく火山の青い山頂を見るだろう。

やがて、二人はバスに乗って家へ帰るだろう。テレビをつけ、夏場に作ってもらうスープをのみ、母親がしてくれる職場の笑い話に耳を傾ける。母親は二人に、今日は何をしていたのと聞くだろう。

「ねえ、さっき話したこと、ママには言っちゃだめだからね」アリョーナは言った。「消えた町のこと」

うしろでソフィヤの声がした。「なんで?」

「いいから」妹が今晩どんな悪夢を見るにせよ、自分のせいにされて母親に叱られるのはまっぴらだ。

「ほんとの話なんでしょ? じゃあ、なんでママに言っちゃだめなの?」

アリョーナは鼻でため息をついた。岩から飛び下り、石の小山をいくつか回り込む。そこで、ふと足を止めた。

二メートルほどむこうに、男がいる。浜辺を歩いていた男だ。両脚を投げ出して小道に座り込み、うなだれている。遠目には年配の男に見えたが、そばに来ると、体ばかり大きくなった少年という感じだった。ふっくらした頬に、日焼けして色の抜けた眉。髪は黄色っぽく、後頭部でハリネズミの針のようにつんつん逆立っている。

男はあごを少しあげて挨拶をした。「やあ」

「こんにちは」アリョーナは答えて近づいていった。

「手を貸してくれないか? 足首をやっちまった」

アリョーナは眉を寄せ、生地越しに骨を検分しているかのような真剣なまなざしで、男のズボンをはいた脚をじっと見た。緑色の生地に、地面でこすったような染みがいくつも付いている。大きい男の人が、校庭で転んだ小さい男の子のように膝小僧を汚して座り込んでいることが、アリョーナにはおかしかった。

ソフィヤが追いついてきて、アリョーナの腰に触れた。アリョーナは妹の手を軽く払って、男にたずねた。「歩ける?」

「ああ、たぶん」男はスニーカーを履いた足をにらんだ。

「ひねったの?」

「どうやら。クソったれの岩のせいでな」

罵り言葉を聞いて、ソフィヤが小さく歓声をあげた。「だれか呼んできてあげよっか?」アリョーナは言った。街の中心まではほんの数分だ。ここからでも、屋台の揚げ油のにおいがわかる。

「いや、だいじょうぶだ。すぐそこに車がある」男が片手を上げたので、アリョーナはつかんで引っ張った。たいして助けにもならない気がしたが、男はしっかりと立ちあがった。「車まで歩いていくよ」

「ほんとに平気?」

男は少しよろめき、こわごわと足踏みをした。「じゃあ、車までついてきて、転ばないように見張っていてくれるか?」

「ほら、ソフィヤ。先にいって」アリョーナが言うと、ソフィヤは先頭へ行き、そのあとを男が慎重に歩きはじめた。アリョーナは二人のうしろから男の様子を見守った。男は少し前かがみになって歩いている。低い波の音の合間に、男が苦しげにつくかすかな息の音が聞こえた。

小道が途切れ、目の前に砂利浜が広がった。ベンチには家族連れが座り、地面に転がったホットドッグをねらって灰色の鳥たちが飛び交い、コンテナ・クレーンが港の岸壁に屹立して長い首を伸ばしている。ソフィヤは足を止め、二人を待っていた。そびえたつ聖ニコラウス丘は、もうずっとうしろだ。「だいじょうぶ?」アリョーナは男にたずねた。

男は右側を指差した。「もうすぐだ」

「駐車場に行くの?」。男はうなずき、足を引きずりながら、立ち並んだ屋台の裏を歩いていった。屋台の発電機がシュッシュッと音を立て、男の膝のあたりに排ガスを吐きだした。二人はあとにつづいた。むこうから、キャップをかぶった年上の少年がスケートボードに乗って近づいてきている。アリョーナは気まずさをこらえて、行く手をまっすぐにらんだ ──変なやつだと思われたに決まっている。妹のお守りをしながら、足をくじいた男のうしろを歩いているなんて。早く家に帰りたい。アリョーナはそう考えながらソフィヤの手を取り、急ぎ足で男を追いかけた。

「名前は?」男がたずねた。

「アリョーナ」

「アリョーナ、鍵を開けてもらっていいか?」男は尻ポケットから鍵束を引っ張り出した。「ほら」

「あたしもできる」ソフィヤが言った。三人は、丘をはさんで海の反対側にある、三日月型の駐車場の前にいた。

男はソフィヤに鍵束を渡した。「あそこの黒い車だ。でかいサーフだよ」

ソフィヤはスキップで車まで行くと、運転席のドアを開けた。男が車に乗り込み、大きく息をつきながらシートに体をあずける。ソフィヤはドアの取っ手をつかんで、しばらく押さえていた。傷ひとつないなめらかな車体に、ソフィヤが着ている紫色の綿のブラウスと裾をまくったカーキのズボンが映っている。「痛くない?」ソフィヤはたずねた。

男は首を横に振りながら答えた。「ああ、きみたちのおかげで助かった」

「運転できる?」アリョーナはたずねた。

「ああ。そっちはこれからどこへ行くんだ?」

「おうち」

「家はどこだ?」

「ゴリゾント」

「送ってやるよ。遠慮するな」。ソフィヤは、ドアの取っ手から手を離した。アリョーナは、通りのむこうのバス停に目をやった。バスに乗れば家まで30分かかるが、車なら10分ですむ。

男はすでにエンジンをかけて姉妹の返事を待っている。ソフィヤは後部座席をのぞき込んでいた。だがアリョーナは姉として、この誘いに飛びつくわけにはいかなかった。黙り込み、市バス(何度も停まるバス停、重いエンジン音、ほかの乗客たちの汗のにおい)と、男の誘いを天秤にかける。男は穏やかそうで、足首を怪我していて、顔立ちはまだ十代の少年のようだ。車で送ってもらえれば、楽に家まで帰ることができる。車なら早い。晩ごはんの前におやつを食べる時間だってできる。これもまた、動物園の檻からえさを滑り込ませたり、こわい話をしたりするのと同じ、真昼の冒険のひとつのように思えた。夏休みのちょっとした悪いこと。アリョーナとソフィヤだけの秘密。

「ありがとう」アリョーナは礼を言って車の前を回り込み、助手席に乗った。シートは太陽の光に温められている。膝のうらに革の感触がやわらかい。助手席の小物入れには、十字架型の処女マリアのイコンが貼り付けてある。さっき見かけたスケートボードの少年に、いまの自分を見せたかった──立派な車の助手席に座っているところを。ソフィヤは後部座席に乗り込んだ。少しむこうでは、女の人がミニバンのうしろを開けて白い犬を外へ出し、散歩へ連れていこうとしていた。

「さて、住所は?」男がたずねた。

「コロリョフ通り、三十一番」

男はウィンカーを出し、勢いよく駐車場から走り出した。ダッシュボードの上から、煙草の箱が滑りおちる。車のなかは、石鹸と煙草、そして微かなガソリンのにおいがした。白い犬を連れた女の人が、食べ物の屋台のあいだを歩いていく。「足、痛い?」ソフィヤはたずねた。

「いや、もうだいじょうぶだ。二人のおかげだよ」男は車道に出た。歩道では、派手な服を着た地元の若者たちがたむろし、クルーズ船に乗りにきたアジア人の観光客たちがポーズを決めて記念写真を撮っている。髪の短い女性がひとり、旅行代理店らしき名前を書いた紙を掲げて立っていた。カムチャツカ半島唯一の都市であるここは、夏の休暇にやってきた人たちが最初に滞在する場所だった。船や飛行機を降りると真っ先に湾を見にきて、すぐに街を後にして広大な自然へ出ていき、ハイキングや筏の乗りや狩りに興じる。ふいに、トラックのクラクションが響きわたった。人群れが横断歩道をわたっていく。信号が変わり、車が動き出した。

アリョーナは、助手席から男の顔を仔細に眺めた。幅の広い鼻と、それに合う大きな口。茶色の短い睫毛。丸いあご。全体的に、新鮮なバターを彫って作ったような体つきだ。少し太りすぎのようだ。だから、岩場で足を踏みはずしたのだろう。

「彼女はいるの?」ソフィヤがたずねた。

男は声をあげて笑い、ギアを入れ替えてアクセルを踏むと、坂道を上りはじめた。床がかすかに振動する。湾があっという間に遠のいていく。「いや、いない」

「結婚もしてないんでしょ?」

「ああ」男は左手を上げて広げ、指輪がないことを示してみせた。

ソフィヤは言った。「知ってる。さっき見たもん」

「賢いじゃないか。年は?」

「八歳」

男はバックミラー越しにソフィヤをちらっと見た。「きみも結婚してないだろ? 当たってるか?」

ソフィヤはくすくす笑った。アリョーナは窓の外を見た。母親のセダンより車体が高い。下に目をやると、ほかの車のルーフラックや、運転手たちの日焼けした腕が見える。こんなによく晴れた日に戸外で過ごせば、誰だって赤く日焼けする。「窓を開けてもいい?」

「いや、冷房をつけよう。この交差点をまっすぐでいいのか?」

「そう。ありがとう」。街路樹は、たっぷりと緑を茂らせていた。今年の夏は雨がよく降った。左手には古ぼけた看板が何枚も並び、右手にはコンクリートを打ちっぱなしにした共同住宅が立っている。「ここだよ」アリョーナは言った。「ここ! ここだってば」急いで男のほうを見る。「いまの角を曲がらなきゃ」

「いまの角だったのに」ソフィヤも後部座席から言った。

「その前に、うちに来てもらう」男は言った。「手伝ってほしいことがあるんだ」

車は走りつづけた。環状交差点に差しかかっても男は車を走らせ、交差点のなかへ入り、走り抜け、とうとうむこう側へ出た。「手伝うって、足が痛いから?」アリョーナはたずねた。

「ああ、そうだ」

アリョーナはふと、この男の名前さえ知らないことに気づいた。肩越しにソフィヤを振り返ると、妹はうしろの窓から外を見ていた。「ママに電話しなきゃ」アリョーナはポケットから携帯電話を取り出した。その瞬間、男がシフトレバーから手を離し、アリョーナから携帯電話を奪いとった。「ちょっと ……ねえ、やめて!」。男が携帯電話を左手に持ち替え、ドアの収納ポケットに滑り込ませる。携帯がプラスチックの底に落ち、鈍い音を立てた。「返して!」アリョーナは言った。

「電話ならおれのうちに着いてからすればいい」

アリョーナは取り乱して声をあげた。「はやく返してよ」

「返すさ。うちに着いたらな」

シートベルトがアリョーナの体を締め付けていた。肺のまわりに直接巻きつけられているようで、息がうまくできない。アリョーナは押し黙った。隙をうかがって床を蹴り、運転席に飛び込みながら収納ポケットに手を伸ばす。シートベルトに体をぐっと引き戻される。

「お姉ちゃん!」ソフィヤが叫んだ。

シートベルトを外そうとしたが、今度も男はすばやかった。片手でアリョーナの両手をつかみ、バックルが外れないように押さえつける。「やめろ」

「携帯返して!」

「おとなしく座ってれば返してやる。うそじゃない」。男につかまれたアリョーナの指は、いまにも折れそうなほど反り返っていた。指が折れるところを想像すると、吐き気がこみあげてくる。口のなかにすっぱい唾液が湧いてくる。ソフィヤが後部座席から前へ身を乗りだすと、男は命令した。「座れ」

ソフィヤはシートに座りなおした。小さく喘いでいる。

アリョーナは思った。こいつだって、永遠にあたしの手をつかんでられるわけじゃない。これほど何かを強く願ったのは、生まれてはじめてだった。携帯を取り戻したくてたまらない。黒くて、画面に指紋がいっぱい付いていて、端から象牙造りのカラスの精霊がぶら下がった、あの電話。これほど誰かを強く憎んだのも、生まれてはじめてだった。男への嫌悪感で吐きそうだった。アリョーナは吐き気をこらえて唾をのんだ。

「おれにはルールがあってな」男が言った。車はすでに10キロほど走り、ペトロパヴロフスク市の北の境界線にあるバス停を通り過ぎた。「車に乗ってるあいだは携帯禁止だ。うちに着くまできみたちがおとなしくしてられたら、携帯はちゃんと返してやるし、家まで送ってやるし、そしたら二人ともママと一緒に夕めしが食える。わかったか?」男はアリョーナの指をつかんだ手に力をこめた。

「わかった」アリョーナは答えた。

「解決だな」男は手をはなした。

アリョーナは、ずきずきする手を太ももの下にはさみ、背筋を伸ばして座りなおした。口を開けて息を吸い込む。いやな味の唾液に濡れた舌を乾かしたかった。もう、中心部から10キロ離れた。バスに乗っていれば、8キロ地点にある図書館の前で止まり、6キロ地点にある映画館の前で止まり、4キロ地点にある教会の前で止まり、2キロ地点にある教育大学の前で止まっていただろう。だが、10キロ地点から先では、民家がそこここでまばらに立ち、観光バスが行き交い、やがてそれすらも見えなくなる。そこは、どこでもない場所だ。仕事でそのあたりまで足を延ばすことのある母親は、折に触れて話してくれた。街の外に何があるのか ──パイプライン、電力発電所、ヘリポート、温泉、間欠泉、山々、そしてツンドラ。数千キロもつづく広大なツンドラ。ほかには何もない。それが、この半島の北部だった。

「家はどこ?」アリョーナはたずねた。

「そのうちわかる」

後部座席からソフィヤの浅い息の音が聞こえた。吸って吐き、吸って吐き、呼吸が子犬のように速くなっている。アリョーナは男の横顔をじっと見た。この顔を絶対に覚えておく。それから妹を振り返った。「あたしたち、冒険してるんだよ」

どことなく妖精を思わせるソフィヤの小さな顔は、太陽の光を浴びていた。アリョーナの言葉に、ぱっと目を見開く。「ほんと?」

「ほんと。もしかしてソフィヤ、こわいの?」。ソフィヤは首を横に振り、歯を見せて笑った。アリョーナは言った。「そう、その調子」

「いい子だ」男が言った。片手をハンドルから離し、ドアの収納ポケットに差し入れる。携帯電話の電源が切れる電子音が聞こえた。

男はミラー越しに姉妹を見張り、目を離そうとしない。青い目。濃い睫毛。腕にタトゥーはない──犯罪者ではないということだ。いまごろタトゥーのことに注意がいくなんて、どうしてそんなにうっかりしていたんだろう? アリョーナは思った。家に帰ったら、二人ともきっと母親にきつく叱られる。
アリョーナは後部座席を振り返ろうと上半身をひねり、座席の背もたれに胸を押し付けた。ふと、ドリンクホルダーに、赤いゴムの滑り止めが付いた手袋が押し込まれているのが目に付いた。汚れた作業用の手袋だ。アリョーナは手袋から目をそらし、ソフィヤを見た。「お話、してあげよっか?」

「ううん、いい」

どのみちアリョーナは、新しい話を思いつけなかった。もう一度、前に向きなおる。

タイヤが砂利を踏むパチパチという音がした。枯れ草におおわれた空き地がいくつも車窓を流れていく。高く昇った太陽が、道路に短い影を落としている。車は、ペトロパヴロフスク空港を示す黒い金属の標識を通り過ぎ、走りつづけた。

アスファルトの割れた箇所が増えはじめ、車が大きく揺れるようになった。アリョーナの横のドアの取っ手が震えている。一瞬、ある考えが頭をよぎった。取っ手をつかんでロックを外し、道路に転がり出ようか ──いや、そんなことをすれば死んでしまう。スピード、硬い地面、きしるタイヤ。それに、ソフィヤ。妹を置いていくなんて、できるはずがない。

せめて今日だけでも、ひとりで出かけるのを許してもらえていたら。母親はいつも、妹を一緒に連れていきなさい、と言う。何かあったらどうするの、というのが母親の口癖だった。

ソフィヤはまだ小さい。ついこのあいだも、ゾウってほんとにいるの?とたずねてきたくらいだ──恐竜と一緒に絶滅したと思っていたらしい。妹はまだ赤ちゃんなのだ。

アリョーナは太ももの下でこぶしを握った。いまはゾウのことなんか考えてちゃだめ。膝の裏に当たるシートは熱く、肺は苦しく、頭は無数の光が点滅しているかのように働かず、空気には車道のタールのにおいが充満している。津波や消えた町の話なんかをして、妹をこわがらせるんじゃなかった。もっと別の話をしてあげればよかった。だが、言ってしまったことは取り消せない ──頭を使わなくては。二人はいま、見知らぬ男の車に乗っている。見知らぬ場所へ向かっている。だけど、きっとすぐにおうちへ帰れる。ソフィヤのために強くいなくては。

「お姉ちゃん」ソフィヤの声がした。

アリョーナは笑顔を作って振り向いた。無理やり上げた口の端が痛い。「なに?」
 
「うん、おねがい」ソフィヤが言った。アリョーナは妹の顔を見つめた。なんのことだろう? 「お話して」ソフィヤはつづけた。

「もちろん」道路は埃っぽく、荒涼としていて、両わきには痩せた木々が生えていた。とがった枝を伸ばし、アリョーナたちを捕まえようとしているかのようだ。地平線の上では、街の近くにそびえる三つの火山が、円錐形の山頭をあらわにしている。山脈の稜線はのこぎり歯のようだった。行く手に、建物はひとつもない。アリョーナはまた、津波のことを考えた。突然牙をむいてくる波のことを。「お話なら」アリョーナは言った。「してあげる」

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