「運が悪かった」とき、あなたはどうすればいいのか? ベストセラー統計学者の13年ぶりの新作『それはあくまで偶然です』刊行
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「運が悪かった」とき、あなたはどうすればいいのか? ベストセラー統計学者の13年ぶりの新作『それはあくまで偶然です』刊行

・雷に7連発で撃たれた
・生き別れの父と、趣味、仕事その他もろもろが完全一致
・推しの球団には「絶対にここでは勝てない」球場がある

 こんな出来事に触れると、ついつい「そういう運命だ」と言ってしまいがちなのが私たち。つらい不運を避けるために、もしくは楽しい幸運を呼び寄せるために、人々は自己流のげん担ぎを編み出したり、占いをなんとなく信じたり、日常のささいな物事に、おかしな予兆を見つけてしまいます。

 そんな傾向に、何か「意味のある」理由はあるのか? そして、運の存在を信じる人々に、統計学の「真実」を突き付けることに、なにか意味はあるのか? 

 前作『運は数学にまかせなさい』がベストセラーとなったカナダの数学(統計学)教授が、本書『それはあくまで偶然です』で、賭け事、占い、スポーツ、犯罪率や宗教など多種多様な話題を取り上げつつ、統計学の基本的な考え方や立場を楽しく紹介します。
 日常につねに潜む「運の罠」を見抜き、ランダム性に支配された世界で生き延びる術を、きっと身につけることができるはず。

 今回は、ごくまれに訪れる強烈な不運に、私たちはどのように対処すべきなのかにふれた第11章「運に守られて」から一部を抜粋、公開します。

著者紹介

ジェフリー・S・ローゼンタール
1967年生まれ、トロント大学教授(統計学)。ハーヴァード大学で数学の博士号を取得。多数の学術論文があるほか、前作『運は数学にまかせなさい 確率・統計に学ぶ処世術』(ハヤカワNF文庫)は14ヵ国で翻訳されるベストセラーとなった。コンピュータゲームのプログラマー、ミュージシャン、コメディアンなどの顔ももつ。「13日の金曜日」に生まれたにもかかわらず、とても幸運な人生を送ってきた。

監修者・訳者略歴

石田基広(監修者)
徳島大学大学院社会産業理工学研究部教授。著書に『Rによるテキストマイニング入門』『実践 Rによるテキストマイニング』『新米探偵、データ分析に挑む』、『とある弁当屋の統計技師』シリーズがあるほか、Wonderful Rシリーズ(共立出版)の監修も務める。

柴田裕之(翻訳)
翻訳家。早稲田大学・Earlham College卒。訳書にローゼンタール『運は数学にまかせなさい』、チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』、リドレー『繁栄』『進化は万能である』(ともに共訳、以上早川書房刊)、ハラリ『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons』ほか多数。


第11章 運に守られて


 私たちの世界は危険に満ちている。いつ犯罪者に金品を奪われてもおかしくない。テロリストが爆弾を炸裂させるかもしれない。乗っている飛行機が墜落するかもしれない。子供が誘拐されるかもしれない。じつに多くの悪いことが起こり、ひどい結果になりかねない。それに対して、私たちにはいったい何ができるのか?
 
失われた無邪気さ

 私たちは、殺人について耳にしたときほど、うろたえることはない。人殺し、それもとりわけ身の毛もよだつようなものやぞっとするようなものはとくに、ニュースの冒頭で取り上げられ、しきりに話題にされる。そんな形で愛する人を失った人の痛みは、想像さえできない。

 多くの恐ろしい殺人事件の犠牲者のあいだに、真実があるように見える。たとえば、2017年、ドナルド・トランプ大統領は保安官の一団に、「我が国における殺人発生率は、過去47年間で最高だ」と述べた。これは、自国の「犯罪とギャングとドラッグがあまりに多くの命を奪い取り」、「アメリカにおける殺戮」を引き起こしているという、大統領就任演説のときの発言と一貫している。

 この大統領の主張には、一つだけ問題がある。それは何か? この主張は完全に間違っているのだ。じつは、2016年にはアメリカでは10万人当たり5.3件の割合で殺人があった。2009年から2015年までの7年は、4.4件から5.0件のあいだで推移していたので、若干増えたことになる。とはいえそれは、1966年から2008年までのどの年よりも少ない。その43年間は、5.6件から始まって10.2件でピークに達し(1980年)、その後は5.4件まで減っている。

 だから、もしトランプがネガティブな発言をしたかったのなら、2016年の割合は過去8年間で最高(かろうじてだが)だと言っていればよかった。それなら正しかったから。あるいは、もう少しバランスのとれた発言をしたければ、2016年は過去51年間で8番めに低かったと言うことができた。けれど、こうした本当の主張のどちらも、彼がかわりにした偽りの主張ほど心に訴えなかっただろう。

 私は犯罪の発生率の誇張については、直接の経験がある。頻繁にニュースの解説を頼まれていた頃、私の住む町(たいていはとても安全だ)で、殺人事件が急増した。その時期は、たちまち「銃の夏」というレッテルを貼られた。ある刑事は、町が「無邪気さを失った」と言いきり、ある新聞のコラムニストは、「人々は出勤の途中で警察の立ち入り禁止テープや銃弾を何発も受けた死体につまずいてばかりいる」と書いた。ほんとうに恐ろしい時期だった。

 では、これについてのマスメディアの問い合わせに、私はどう対処したか? 実際の数字を見てみた! 前の年と比べて、殺人事件の件数はたしかに増えていた。けれど、どれだけ? 調べると、25パーセントで、10万人当たりの割合では2.6件から3.2件に上がっていた。これは重大で、見過ごすわけにはいかないし、もちろん、それぞれの犠牲者と遺族には、なんとも悲劇的だった。

 けれど、それはマスメディアが与えていた印象ほどの大幅な増加ではなかった。この新しい割合は、1991年に記録された3.9件という割合より、依然としてずっと低かったし、アメリカのたいていの都市や、ほかの多くのカナダの都市で見られる割合には及びもつかなかった。そのうえ、その年、私の町の殺人事件の発生率はカナダの全国平均よりも低いことがわかり、それがとどめとなった。殺人事件が急増したとされたその年でさえ、ランダムに誰かを選んだら、私の町の中のほうが外よりも、その人にとって安全だったのだ。それなのに、警察やマスメディアが与えた印象はそうではなかったことは言うまでもない。

(これと少しばかり似ているのだけれど、2001年にアメリカは「サメの夏」についてのマスメディアのおおげさな報道に右往左往していた。三人のアメリカ人が続けざまにサメに襲われて亡くなり、映画『ジョーズ』の封切以来の、サメへの恐れの高まりにつながったのだ。実際には、全世界でのサメによる襲撃とその死者の数は、2000年よりも少なかったというのに )

 けれど運は、殺人のような重大な災難から私たちをほんとうに守ることができるのか? できる。ある意味では。10万人当たり5.3件という殺人の発生率は、約1万9000人当たり一人の割合だ。だから、1万9000人の人をランダムに選んでくれば、そのうち1万8999人は、その年、殺人の犠牲者にはならない 。これはずいぶん高い可能性だ(対照的に、殺人よりも自動車事故で亡くなるアメリカ人のほうが2倍以上いるのに、トランプ大統領は、今のところそれを「殺戮」とは呼んでいない)。

つまり、特別用心しなくても、あなたやあなたの愛する人々は、依然としておそらく十分運が良いので、殺害されないで済む。もちろん、これで個々の殺人の悲劇性が少しでも軽くなるわけではない。けれど、自分が置かれた状況に対する一つの視点が得られ、運そのものがかなり優れた保護を提供してくれていることがわかる。 

 ああ、それから、その後の年月には私の町の犯罪に対する恐れはどうなったか? じつは、殺人の件数は翌年、12.5パーセント減り、それ以来ずっと、低いままだ。だから、あの殺人の急増は、新しい傾向の始まりではなく、ただのひどい不運にすぎなかったらしい。そして、もし町があの年に「無邪気さを失った」としたら、それからの年月に、その無邪気さを取り戻しただろうか? それはなんとも言い難い。マスメディアの「バイアスのかかった観察」のせいで、それについての新聞記事は事実上皆無だったからだ。

ありそうもないことを称えよ

 宝くじでジャックポットを勝ち取ることなど、どれほどありそうにないかを人に伝えるのは、ちっとも面白くない。大当たりを願って、大金についてあれこれ夢見て、何に使おうかと考え、抽選の日が近づくにつれて、興奮してくる人々がいる。そこへ私がやって来て、当たる確率が極端に低いことを指摘して、楽しみに水を差すわけだから。

 それでも、私の視点には良いところもある。悪いことのうちにも、やはりとてもありそうにないことがたくさんあるからだ。それは良いことではないか!

 飛行機を例に取ろう。私は以前、飛行機に乗るとき多少不安になった。気流の乱れがあるたびに、肘掛けをぎゅっと握り、窓の外を見て、まだ翼がついているかどうか確かめたものだ。けれど、もうそんなことはない。それはなぜか? 確率のおかげだ!

 毎年、ごく一部の飛行機が墜落することは確かだ。悲惨な事故になり、多くの人が亡くなることもありうる。そんなときは、たいてい大きな見出しがつき、ニュースでしきりに報じられ、多くの人が心配する。とはいえ、アメリカだけでも毎年のべ10億人近くが飛行機に乗る。そして、そのほぼ全員が、たいした問題もなく無事に目的地に着く。実際、民間のフライトでは、死亡事故は500万回に1回しか起こらないと推定されている。そして、どの便に乗っていても、亡くなる確率は3000万分の1ほどでしかない。乗客にとっては、とてもありがたい確率だ。

 要するに、次に飛行機に乗ったときには運良く生き延びることはほぼ間違いなく、心配する理由はない(心配したければ、到着の遅れを心配すればいい。5回に1回以上の割合で遅れるから)。

 住宅への侵入や子供の誘拐、突然の爆発、テロ攻撃など、恐ろしい見出しになる事件についても、同じことが言える。どれもひどい悲劇だ。けれど、なぜそれがニュースになるかと言えば、ほんとうに稀だからにほかならない。そのような悲惨な出来事の犠牲になりえた無数の人のうち、実際にそこまで不運な目に遭う人はほんのわずかしかいない。残りの人は、運良く安全無事に日々の暮らしを送り続ける。ありそうもないことというのは、私たちの味方なのだ。

 この本を書いているときに、ハイキング仲間に、美しいロッキー山脈でハイキングするのを断られたと友人がぼやいているのを耳にした。なぜ断られたのか? クマに襲われるのが怖かったからだという! クマによる襲撃はきわめて稀なので、ほんとうは心配する価値がないのに、とその友人は言っていた。そのとおりだ。あの無敵のハイイログマでさえ、運の力にはかなわないだろう。

意外な献辞

 私は確率やランダム性についての講演をしているおかげで、これまでさまざまな人に出会い、彼らの視点を知ることができた。そのなかでも、とりわけ印象に残っている出会いが一つある。

 あるとき私は、高校の体育館で開かれた科学教育支援の催しで800人近い聴衆を前に、一般向けの講演をした。世論調査や宝くじ、殺人の発生率、カジノの利益、ゲーム戦略、偶然の一致などの背後にある確率を取り上げた。講演の後、ロビーに案内され、私の本の愛読者たちに会って、ランダム性について束の間、言葉を交わした。それから、主催者が、この催しの常連だという、いかにも優しそうな高齢の夫婦を紹介してくれた。

 ここまでは、何の問題もなかった。ところが、それから思いがけない展開になった。主催者の説明によると、この夫婦は、最近癌で息子を亡くしたという。これは想像を絶するほど悲劇的な状況だ。それにもかかわらず、その夫婦はすぐに言い添えた。息子は最後の日々に、なんと、よりによって確率に関する私の著述を読んで、おおいに慰められていました、と! 読むことで、自分の癌が、その、ランダムだとわかったのだそうだ。それは、罰ではなかった。彼の過失ではなかった。彼がしたことや、しなかったことのせいではなかった。彼が悪い人間だったからでも、死んで当然だったからでもなかった。そうではなくて、ただのランダムな(そして、とても、とても悪い) 運にすぎなかった。

 私はこれを聞いて、たまげてしまった。亡くしたばかりの子供について、親にどう話していいのか見当もつかなかった。確率の考察が彼らの役に立つとは、思ってもみなかった。それなのに、現に役に立ったのだ。ランダム性が、ずっと彼らの味方だったとは。運について考えることで、この一家は信じ難いほどつらい時期をどうにか乗り切ることができたのだ。驚いた!

 私はこの夫婦に、息子のために本に献辞を書いてくれるようにとさえ頼まれた。こんなことは初めだったし、その後もない。私はぎこちない思いで、彼の感動的な話と勇気に感謝する、短い言葉をしたためた。私は死後の生を信じてはいないけれど、この不運な若者と彼の体験に、不思議で特別なつながりをたしかに感じた。彼の記憶と勇気が永遠に生き続けますように。

 私はこの話のおかげで、運はさらに別の形でも私たちを守れることに気づいた。つまり、何かが私たちの過失ではないとき、そうと気づく助けとなりうるのだ。私たちは、自分の不運には特別な意味がないと悟ることができれば、その不運について自分を責めるのをやめられるかもしれない。好ましくない状況のもたらすものに取り組まなくてはならないことに変わりはないとはいえ、少なくとも、過失を問われることはないから。

 私はまた、「静穏の祈り」と、その運バージョンが頭に浮かんだ。「自分にはコントロールできない運を受け入れよ」。まさにそのとおりだ。あるいは、受け入れないにしても、せめて、ありのままに認めよう。それは、冷たく、馬鹿げていて、無意味で、無慈悲な、ただの運なのだ、と。


(本書は、2021年1月21日より紙・電子の両媒体で発売中です)

(以下はKindle版のリンクです)



ありがとうございます!今日のおすすめは『ザリガニの鳴くところ』です。
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