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世界が今後目指すべき目標とそのためのステップとは? ビル・ゲイツ『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』訳者あとがき

「地元でも国でも世界でも、できることをなんでもしてパンデミックを議題にのせつづけ、パニックと怠慢の繰り返しを断ち切ろう。」――そう力強く訴えるのは、慈善家として世界の健康・開発問題に長年取り組んでいるビル・ゲイツ。世界の科学者のあいだで広く合意されているエビデンスに基づき、感染症対策とパンデミック予防の要点をこれ以上ないほど分かりやすくまとめているのが新刊『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』(早川書房)です。今年5月3日にアメリカ本国で原書が刊行されたばかりの本書の翻訳にあたった、訳者の山田文さんのあとがきを特別公開。本書の読みどころをご紹介します。

ビル・ゲイツ『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』早川書房
『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』

訳者あとがき 山田 文

2015年4月、ビル・ゲイツはTEDトークの舞台から聴衆にこう語りかけた。「むこう数十年のうちに、1000万をこえる死者が出る何かがあるとするなら、きっと戦争ではなく感染力の強いウイルスでしょう」。世界はそれに対処する準備ができていない。しかし、「いまはじめれば、次のエピデミックに備えられます」。

7年後のいま、わたしたちは備えを整えなかった代償を身をもって知っている。
ゲイツは突拍子もない予言や警告をしていたわけではない。これは感染症の分野で仕事をする人なら長年認識していた問題であり、ゲイツもそれを深く懸念していた。そして、2014年にエボラウイルスが流行し、世間の危機感が高まったタイミングで、さらなる注目をこの問題に集めようと発言したのである。

本書でも述べられているように、感染症へのゲイツの関心は1997年までさかのぼる。世界で毎年300万人をこえる子どもが下痢で亡くなっているのを知ってショックを受け、それをきっかけに貧困国で治療法と予防接種を普及させる取り組みをすすめてきた。2000年にビル&メリンダ・ゲイツ財団を立ちあげてからも、「だれもが健康で生産的に暮らす機会を得られる世界をつくる」を使命に掲げ、おもに貧困国と富裕国の健康格差を減らすために保健分野などで活動を展開している。

マイクロソフト社の仕事でも、財団の仕事でも、ゲイツの基本的なアプローチは変わらない。まずは目標を設定する。「すべてのデスクとすべての家庭にコンピュータを」、「ポリオ患者をゼロに」、「年間520億トンの温室効果ガスの排出をゼロに」といった具合だ。そして現状を徹底的に調べあげ、信頼できるデータとエビデンスにもとづいて目標の実現に必要なこと、その妨げになることを割りだし、穴を埋めるのに役立つありとあらゆる技術や手段を探す。必要な技術が存在しなければ、研究機関や企業とともに新技術の可能性を模索する。そして、市場メカニズムでうまくいかないところに資金を提供し、税制や政策の整備も政府に呼びかけて、技術を(ときには数十年かけて)成熟させ、安価に大規模に市場で展開できるようにする。

本書のテーマであるパンデミック予防も、まさにこれと同じ構図で論じられる。ここでの目標は明確だ。次のパンデミックを防ぐことである。病気の局所的なアウトブレイクは避けられないが、体制を整え適切な措置をとれば、それを封じこめて地球規模のパンデミックにならないようにできる。そしてゲイツは、その措置を講じるのに必要なイノベーションを次々と紹介し、資金投入が必要な分野を示していく。

本書の第3章から第7章で語られる基本的なステップに突飛なものや奇抜なものはない。それは何より、ゲイツの議論が臆見ドクサではなく科学者のあいだで現在合意されたエビデンスにもとづいているからだ。

まず各国が確固たる保健制度を整え、できるだけ早期に病気を発見して隔離などの措置をとれるようにしなければならない。大人数をすばやく検査し、感染の規模を把握することも求められる。感染者が少ないうちに適切に対処できれば、パンデミックを防げる可能性がきわめて高くなる。

そして、すぐに取り組める感染予防策に着手する。マスクの着用、距離の確保、学校の閉鎖やイベントの中止といった非医薬品介入(NPI)である。これによって感染の速度を大幅に落とすことができる。

もちろん治療薬とワクチンの開発も必要だ。ワクチンは六カ月以内に世界のすべての人に公平に届けなければならず、そのためにはmRNAワクチンといった技術はもちろん、臨床試験プロセスのスピードアップや貧困国での二次供給の取り決めなど、ソフト面での工夫も求められる。

また責任分担を明確にし、準備体制の不備を洗いだすために、感染症のアウトブレイクを想定した定期的な訓練や演習も欠かせない。

パンデミックは地球規模の問題である。地球全体の状況を見とおし、責任をもってこれら一つひとつのステップを調整する組織が必要である。ゲイツが第2章で提案し、本書で大きな位置を占めるGERMがその組織にほかならない。GERMはWHO傘下の機関として、パンデミック予防と感染症対策の取り組みを世界レベルで統括する。

これらのステップの多くは、公衆衛生の基本とでもいうべきものだろう。実際、本書は国際保健、公衆衛生への恰好の入門書として読むこともできる。しかし全体を通じてやはりビル・ゲイツらしさが随所にうかがえる。それぞれのステップをよりよく、より迅速に、より公平に実行できるようにするイノベーションが紹介されるのもそのひとつだが、それだけではない。

何より本書全体に通奏低音として響いているのが、世界の貧困格差を是正するという視点である。パンデミックの影響が最も大きかったのは低・中所得国であり、とりわけワクチンの分配では著しい不公平が見られた。本書ではどのステップを考える際にも、費用やインフラの面で低・中所得国で現実的に展開できるかという視点から議論が展開される。ジェネリック医薬品やワクチンの二次供給の話などは、そのわかりやすい例だろう。

さらにいうなら、「COVIDは国際保健における唯一の不平等とはとてもいえず、それどころか最悪の●●●不平等ですらなかった」。したがってゲイツは、低・中所得国の基礎的な保健制度の整備と、小児死亡率に象徴的に見られる健康状態の改善に向けて、富裕国が資金を援助するよう促す。そしてこれは、世界のパンデミック予防にも欠かせないプロセスだと主張する。

パンデミック予防にせよ、基礎的な保健制度の整備にせよ、富裕国に出費を呼びかけるにあたってゲイツは、実際的な利益を強調する。いまの世界で実際に政府や企業を動かすにはそれが欠かせないことを熟知しているからだ。「いま数十億ドルを投じれば、将来、何百万もの命と何兆ドルものお金が失われずにすむ」。しかし出発点にあるのは、一人ひとりの人間の命にたいする道徳的なコミットメントである。

「子どもの死について考えると、胸をえぐられる。ひとりの親として僕はそれよりつらいことを想像できない(中略)。子どもがひとり救われれば、想像できるかぎり最悪の苦しみを経験せずにすむ家族がひとつ増える」。これが目標を設定し、科学と技術を動員して、資金を投じる際のゲイツの根本的な価値判断を支えている軸にほかならない。

「僕はテクノロジーのマニアだ。イノベーションは僕のハンマーで、釘を目にするたびにそれを使おうとする。成功を収めたテクノロジー企業の創業者として、イノベーションを促す民間セクターの力を強く信じている」。これがゲイツの手法であり強みである。資本主義の枠組みを前提とし、科学と技術を総動員して合理的に目的を追求する。

これは同時にゲイツの限界でもあり、国際保健の分野でも気候変動の分野でも、合理的とはいえない政治的な要素やその背景にある(資本主義そのものが引き起こしてきたともいえる)社会の分断に足を引っぱられてきた。それでも、ゲイツ財団がこれまでに実現してきたポリオ撲滅や小児死亡率の引き下げといった成果は、熱い心と冷たい頭に支えられたゲイツの手法が現在の世界の枠組みのなかできわめて大きなインパクトを与えられることを証明している。

2022年4月にふたたびTEDトークの舞台にあがったゲイツは、こう語ってスピーチを締めくくった。「正しいステップをとれば、COVID–19を最後のパンデミックにできます。そしてすべての人にとってより健康で公平な世界をつくることができるのです」。5年後、10年後のわたしたちは、このことばをどう振り返るのだろう。

本書の詳細は▶こちら

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この記事で紹介した本

『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』
著者:ビル・ゲイツ
訳者:山田 文
判型:四六判並製単行本
本体価格:2,400円(+消費税)
ISBN:9784152101440

【著者】ビル・ゲイツ
技術者、経営者、慈善家。1975年、旧知のポール・アレンと共にマイクロソフト社を設立。現在はビル&メリンダ・ゲイツ財団の共同会長を務めており、20年以上にわたり、パンデミック予防、疾病撲滅、水・衛生問題など世界の健康・開発問題に取り組んでいる。3人の子どもがいる。著書に『地球の未来のため僕が決断したこと』(早川書房刊)など。

【翻訳者】山田 文
翻訳家。訳書にユヌス『3つのゼロの世界』、ミラー他『mRNAワクチンの衝撃』(共訳)、ゲイツ『地球の未来のため僕が決断したこと』(以上早川書房刊)、クラステフ『コロナ・ショックは世界をどう変えるか』、ヴォルナー『壁の世界史』など多数。

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