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【1篇特別公開】チョン・セラン新作短篇集『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』(すんみ訳)

『フィフティ・ピープル』『保健室のアン・ウニョン先生』の著者で、韓国だけでなく日本でも絶大な人気を誇るチョン・セランさんの、新作短篇集『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』(すんみ訳、原題:아라의 소설)を早川書房より刊行します。

明るい未来が見えない世界でもささやかな希望を失わずに生きる人々を、おかしみをもって描いたショートショートや詩を収録した作品集。セランさんのエッセンスがぎゅっと詰まった贅沢な一冊です。この記事では、短篇集内収録の一篇「スイッチ」を全文公開します。

なお、チョン・セランさんは11月23日・24日に神保町で開催される「K-BOOKフェスティバル 2024 in Japan」で来日が決定! 詳細は記事の最後をご覧ください。

装画/kigimura
装幀/名久井直子

恋人のアート作品の真意が理解できずにフラれた男が、美術館のバイトを始める「楽しいオスの楽しい美術館」。お気に入りの傘を大事にしながら、大量消費社会に抵抗する「アラの傘」。仕事はぼちぼちで、海外旅行なんて行けないけれど、家に帰ればルームメイトと乾杯できる。毎日の小さな楽しみを描いた表題作「私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯」などショートショート19篇と詩2篇を収録した作品集

スイッチ

チョン・セラン/すんみ訳 


ついさっき、隣のテーブルの人が不愉快な顔をした気がして、アラはすぐさま声をひそめた。小さい頃に高熱で聴力が弱くなり、ときどき周りの騒音と自分の声の加減をうまく調整することができなくなる。静かなところで大声を出して話したり、小さすぎる声で話したりすることがよくあった。話の途中に隣のテーブルにいる人の様子を伺いながら声の調整をするのは面倒なことだ。迷惑になってない? ちゃんと空気読めてる? と心細くなって周りをキョロキョロする。険しい表情の人を見つけて傷つくこともあるけれど、いちいち説明することはできない。お知らせ、と書かれた吹き出しを頭の上に浮かべられたらいいのに。実はこんな事情があります。申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました……。でも、それは不可能なことなので、この世の中は誤解だらけだ。

アラだけがそういう目に遭うわけではない。少し前に簡単な手術を受けたせいで、脊髄麻酔の後遺症が残っている友だちがいる。その子は道を歩く途中で、ときどきベンチに横になって休まなければならない。だが、それを見て通りすがりの人たちは舌打ちをする。真昼に酔っ払っている、と早まった判断を下してしまうのだ。アラは友だちの代わりに言い訳をしたくなったし、自分のこと以上に腹が立ったけれど、そんな怒りもたちまち通り過ぎていく。

耳の管理を頑張って長く使えるようにしましょうね、とお医者さんにいつも言われる。それでアラは、イヤホンをほとんど使わないし、大きなスピーカーがあるコンサート会場にも行かない。カラオケにも大勢で行くより、それぞれ行きたい人だけが一人カラオケにいくような雰囲気になって嬉しかった。カラオケなんかに耳を無駄遣いするつもりはない。アラは音楽が好きで、好きなアーティストも多いけれど、いつも静かな部屋で一人だけで音楽を聴いた。おばあさんになっても音楽を聴きたくて慎重になった。細々と長く生きたい。24歳にしては、元気のない人生のモットーに思えるかもしれないけれど、自分に何度も言い聞かせていたものだ。コンサートに行けないのはヘルニアを患っている友だち、閉所恐怖症のある友だちも同じだった。誰もが元気いっぱいでハキハキと、コマーシャルに出てくるような若さと喜びを満喫しながら生きているわけではない。アラはそんなことを熟知していた。


一方で、この頃から話すのが上手になりたいと思うようになった。この年になると、面接を受けることがあるのだ。質問を瞬時に理解して、自信満々な態度で適切な言葉を返したかった。昔からの、モジモジする話し方をなんとかしたい。まずは小さな声を出す練習をして、大声で話す癖を直そうと講習会にも参加し、好きな声優さんの講義も受けた。話し方を直すのは、癖字を直すのと同じくらい大変なことだった。変われた、と思ったらまた元に戻ってしまう。交換留学生の選考で落ちたときの悪夢が蘇るようだった。英語の実力は悪い方ではないのに、韓国語で話すときと同じような感じで英語を話すせいで、もともとの実力より下手に聞こえてしまう。ぼそぼそと韓国語を話す人が、英語だからといって別の人格になったみたいにハキハキと話せるわけなんかないのだ。そのときは、ずいぶんと落ち込んでしまった。

講習会には、しゃべりが滑らかで、魅力的な人も参加していた。なんのために? と疑問が湧くほどだった。ハンピッはサッカー選手がドリブルをするように、F1ドライバーがコーナーを回るように、話のテーマを切り替えるのがうまかったし、肩を落としている人を見つけて笑わせることができた。そうやって他の参加者たちとの距離を縮めていった。と同時に、公私のバランスを取るのが上手なうえに真面目だったので、アラはそんなハンピッを見るたびに、仲良くなりたいという素直な気持ちを抱いた。名前に込められた輝きピッという意味がこれほど似合う人もいないだろうと思う。

アラとハンピッが、他の参加者より早めに会場に着いた日のことだった。アラはいつも気になっていたことを訊いてみた。

「ハンピッさんはもう十分じゃないですか? この講習会ではこれ以上学ぶことがなさそうなのに、もしかして義理で参加してたりして……?」

「えっ、全然違います」

ハンピッは本気で驚いた様子だった。

「私が入りたい業界は、狭き門なんです。エリート家庭に生まれて、名門大学を出て、海外で暮らした経験もあって、さらに顔もいい男が、一年に何人かだけ選ばれるようなとこでして。それでも入りたいから挑んでるんですけど、当たってみないと気が済まない性格なんですよね。ハードルは高いのに、準備はまだまだです」

アラは興味のある業界などなく、ただ入れてもらえるところに入ろうと思っていたので、少し恥ずかしくなった。

「ハンピッさんは、部屋ひとつくらいは明るくできる人ですから。どこにいってもその能力を発揮できると思いますよ。ハンピッさんを見逃したほうが損だと思う。私はいつかハンピッさんのように話せたらいいなと思います。いくら頑張っても上達しないんですけどね」

「私は、お姉さんオンニのように話したいのに」

「え? なんで?」

今度はアラのほうがびっくりした。言われた内容にもだけど、オンニと言われたことにも驚いた。名前にさん付けで呼びましょうね、とみんなで約束していたのに、二人だけになると親しみを込めて呼んでくれたのだから。アラもオンニと呼ばれるほうが好きだった。

「実は私、間が空くのが苦手なだけなんです。誰もしゃべらなくなるとソワソワしちゃうんですよね。なんかの強迫観念みたいに。それで家に帰るといつも後悔します。しゃべりすぎたなあ、みんなを笑わせようとして無神経なことを言ってないかなあ、誰かが話すチャンスを奪ってないかなあ、って感じに」

「そんなことないのに」

「オンニはいつも本当に大事な話だけをされてるんですよね。それが面接では不利になるかもしれないけれど、何重ものフィルターで濾されて出てくる言葉が好きなんです。私にはできないことなので」

迷いながら話しているだけなのに、そんなふうに見えたんだ、とアラはハンピッの言葉を聞いてしばらく考えに耽った。

「私のことをよく知っている友だちは、私が大勢の人のいるところでハイテンションになっていると、いつもこう小さく言ってくれるんです。ハンピッ、大丈夫、スイッチを切って、そこまで頑張らなくていいよ……」

「いい友だちですね。でも私は、ハンピッさんのそのスイッチは魅力スイッチだと思います。私も一つ欲しいなあ。つけたり消したりできるから」

その場を、時間を、周りの人たちを掌握できる能力を、つけたり消したりできるスイッチについて、二人は考えをめぐらせた。互いの頭の中を覗くことはできないけれど、二人とも上下にカチカチッと動かせる、アメリカンスイッチを思い浮かべていたのだろう。つるんとした感じにしっかり作られていて、何十年使っても壊れそうにないスイッチ。

「それじゃあ、オンニにあげます」

ハンピッが無邪気な顔でうなじからスイッチを剥がし、渡すふりをした。体から何かが分離される軽快な音を舌で真似しながら。アラは大声を出して笑った。

「うなじについてたわけ?」

「なんとなく、うなじにありそうじゃないですか?」

アラもハンピッのふざけたマイムに調子を合わせて、何もない手のひらの見えないスイッチを受け取り、うなじに付けるふりをした。ハンピッがもう一度、付属品を付ける際のガチャッという効果音を出してくれた。

「私からもらいたいものはない?」

「えーっと、さっき言った濾過フィルターが欲しいです」

フィルターはどこに付いてるんだろう。アラは適当にみぞおちあたりからフィルターを取り出す真似をした。エアコンのフィルターを取り出すときのように、フィルターについたホコリをはたくふりをして、ハンピッに渡した。ハンピッはそれを嬉しそうに受け取った。

「やった! 素晴らしい物々交換ですね」

そこで他の参加者たちが部屋に入ってきて、思いがけないやりとりはそのまま終わった。ハンピッは片目をつぶってウインクをしてみせ、飲み物を取りに行った。


アラはハンピッを見ながら、いまどんな気持ちかとは関係なく、おそらくずっと友だちでいることはできないだろうという甘ったるくて悲しい思いに耽った。これまでも講習会が終わってからプライベートでも親しくできたケースはあまりなかったし、はっきり言ってハンピッには友だちがたくさんいるだろうから。私たちは外の世界へと散っていくのだろう。それでもハンピッと交わしたさっきの会話は、しばしば思い出すような気がして、アラは笑みを浮かべた。

自分の話す番になり、プレゼントしてもらったスイッチをオンにした。

暫定的に延期された音楽プロジェクト(2019年)
音楽関連のプロジェクトをモチーフに書いた小説だ。
だが、2022年現在までプロジェクトは開催されずにいるし、
このままなかったことになりそうだ。
実現していたら素敵なプロジェクトになっただろうに、
という心残りがある。出会いについての短い話に、
光を当てられたらと思い、収録した。
──チョン・セラン

©Melmel Chung

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本短篇が収録されている作品集『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』(チョン・セラン/すんみ訳)は早川書房より11月7日発売です。

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