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ヴィルジニー・デパント『アポカリプス・ベイビー』の訳者齋藤可津子さんによる訳者あとがきを特別公開!

10月19日に早川書房から刊行される『アポカリプス・ベイビー』(ヴィルジニー・デパント、齋藤可津子訳)。発売前に、特別に訳者あとがきを公開いたします。『キングコング・セオリー』などのエッセイで知られるヴィルジニー・デパントはどんな作家で、『アポカリプス・ベイビー』はどんな小説なのか? 小説の核心に触れるネタバレなしの訳者あとがきです。

訳者あとがき

 アポカリプスとは神とサタンの最終戦争ハルマゲドンが叙述される新約聖書ヨハネ黙示録をさすが、そこから派生した「この世の終わり」「未曾有の大惨事」という一般的な意味がある。
 本書『アポカリプス・ベイビー』(Virginie Despentes, Apocalypse bébé, Éditions Grasset & Fasquelle, 2010)も終盤に、惨事といえる事件が起こる。

 物語は十五歳の少女の失踪から始まる。裕福な家庭の娘である少女ヴァランティーヌには、家族からの依頼ですでに監視がつけられていた。尾行中に少女を見逃し、捜索を任される羽目になった調査員ルーシーは、三十五歳を過ぎた下っ端社員、やる気も野心もノウハウもない。困ったあげく裏社会で活躍していたといわれる型破りなレズビアン、通称ハイエナに応援を依頼する。こうしてちぐはぐな探偵コンビが少女の足取りを追って、パリからバルセロナへ旅をする。
 この小説はルーシーの一人称の語りを基調とし、そこに少女を取り巻く人物の視点をとる章が挿入される。視点人物となるのは、ブルジョワ作家である少女の父親、その再々婚の相手である継母、赤ん坊の少女を捨てて家を出た産みの母、旧植民地(アルジェリア)からの移民の孫とみられるこの母親の甥、つまり少女にとって母方のいとこでパリ郊外の団地に住む少年、少女を保護する修道女、そして物語の中心的人物ともいえるハイエナとヴァランティーヌであり、それぞれに人物名を冠した章があてられている。したがって、読者は少女捜索の進展を追うかと思えば、彼らの個人的問題に深入りすることになる。また、視点人物以外にも多くの人物あるいは集団の生態が描写される。たとえば、DV男の暴力にさらされる妻子、隷属状態にありながら為政者や上司の思考を内面化する調査会社のIT社員、極右を標榜する音楽バンド、バルセロナで乱交パーティに興じる同性・両性愛者たち、革命をめざす極左活動家あるいはアルテルモンディアリストなどである。
 著者は「二十一世紀のバルザック」(ARTE制作動画「ヴィルジニー・デパントのパンクなパリ」)と称されるように、様々な階層に属す人々を作品に登場させ、それぞれが抱える問題をえぐり出すことで、現代社会を俯瞰しつつ隠微な側面に光をあてる。結末に事件が起こるとしても、小説で描かれるのはそこへいたるプロセスではなく、個々の人物像、関係性ひいては社会であり、惨事を誘起した土壌が描出されているといえる。

 ヴィルジニー・デパント(一九六九年、フランス、ナンシー生まれ)は一九九三年『ベーゼ・モア』(邦題『バカなヤツらは皆殺し』稲松三千野訳、原書房、二〇〇〇年)でデビューした。暴力やセックス、嗜癖(アディクション)を俗語隠語を多用した破格の口語調で記述し、メディアでは自身の売春を公言するなど、挑発的でスキャンダラスな作家として文壇に登場した。小説を発表するかたわら、自作の映画化作品やドキュメンタリー映画の監督をつとめ、翻訳、作詞にも携わっている。
 二〇〇六年に発表した『キングコング・セオリー』は自身のレイプ被害や売春体験についても言及する自伝的エッセイで、フェミニズムのマニフェストと位置づけられるが、二〇一七年の#MeToo運動をきっかけとするフェミニズムの高まりのなか再び注目され、昨年邦訳も刊行された(相川千尋訳、柏書房、二〇二〇年)。
 デパントが当時のパートナー、ポール・B・プレシアド(巻頭に引用されている『テスト・ジャンキー』の著者、詳細は最後の「註」参照)とともにバルセロナに三年滞在したあと、二〇一〇年に上梓したのが本作である。著者の六年ぶりのフィクション作品として注目され、この年のルノードー賞を受賞。ゴンクール賞にもノミネートされていたが、最終選考の結果、受賞したのはミシェル・ウエルベック『地図と領土』(野崎歓訳、筑摩書房、二〇一三年)だった。
 前述のプレシアドは、人間の身体とアイデンティティが薬物とポルノ(経済的側面からいえば製薬会社と性風俗産業)に支配された現代の状況を「ファルマコポルニズム」と称し、これを描いて功績のある作家にウエルベックをあげている。デパントが彼に比肩するのは本書からも明らかだが、二〇一〇年は両人が権威ある文学賞を受賞した年となった。ちなみに作中、中年作家が九〇年代のフランス文壇を回想するくだりでは、二人のことが暗に言及されている。
 その後、デパントはフェミナ賞(二〇一五年)、ゴンクール賞(二〇一六‐二〇年)の選考委員に名を連ね、三部作小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(二〇一五‐一七年)を発表、現在『ヴェルノン・クロニクル』として邦訳(博多かおる訳、早川書房)が刊行中である。

 さて『アポカリプス・ベイビー』では、『キングコング・セオリー』で示される男女の類型を登場人物らが体現している。たとえば同書で、個人売春のセックスワーカーと本質的に違いがないが、より不自由だとされる、利益目あてで金と権力のある男の伴侶になる女。あるいは、男の影でいることになんの疑問ももたない女。また、文化・政治的制度によって温存されていると指摘される男性性の、最たる例が作中のDV男であり、同様に強制された女性性=女らしさの規範を破ってみせるのがハイエナであろう。
 だが特記すべきは、『アポカリプス・ベイビー』が今から十一年前に刊行されているにもかかわらず、その政治性がきわめて今日的な点だろう。当時のフランス大統領はニコラ・サルコジ(在任二〇〇七‐一二年)、物語の背景にある不況は二〇〇八年の金融危機である。結末の惨事がハイチやチリにたとえられるのは、本書刊行の年のはじめにかの地で起こった大地震をさしてのこと。小説に登場する「おめでたいほど親米で、近々親中になることにもやぶさかではな」い新自由主義信奉者たちはとうに親中になり、極左活動家たちがあと数年で終わると予想していた「ユートピアと体制転覆の可能性を秘めた愉快なインターネット時代」は、いまや風前の灯かもしれない。
 このように二〇二一年現在とのズレはあるものの、本作が描くのは際限のない資本主義システムにおける富の集中と周縁の貧困化、富者のエゴと驕慢、移民差別、階級の膠着、環境破壊、倫理の崩壊、そしてニューヨーク同時多発テロ以降、テロの脅威がたれこめるなか各国指導層が安全保障国家、監視国家への道を推し進め、ますます強権化する状況であり、これらは現在、いっそう深刻化している。
 本作の構想・執筆時は金融危機による不況下、緊縮政策に拍車がかかり、金融機関への財政出動が行われ、世界中でシステムに対する激しい批判が噴出していた。二〇一〇年、本書刊行後にフランスで出版されたステファン・エセルの小冊子『怒れ! 憤れ!』(村井章子訳、日経BP、二〇一一年)はセンセーションを巻き起こし(一年で三十四言語に翻訳、四百万部)、同年暮れからアラブ諸国で民衆が蜂起(「アラブの春」)、二〇一一年にはスペインで怒れる者たち運動(インディグナドス)、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ」をスローガンとする民主運動が起きた。日本で東日本大震災と福島第一原発事故が起きていた時期である。一方、フランスは二〇一二年のミディ・ピレネー銃撃事件を皮切りに、シャルリー・エブド襲撃、パリ同時多発テロ(ともに二〇一五年)、ニース・トラックテロ(二〇一六年)など、聖戦主義者による一連のテロ事件によって甚大な犠牲と精神的痛手を被った。
 事後的にいえることでしかないが、デパントは当時の市民の鬱積ときな臭い叛乱の空気を、娯楽的要素を盛り込みながら小説に仕立て、盛大に爆発させたようにみえる。
「世のなかこんなもの。(中略)尊厳も優しさもあったもんじゃない。誠実な者、高潔な者、穏健な者、そういうのは絶滅した。いまに始まったことじゃない。残っているのはわたしのような者。ならず者」だと登場人物の一人は言う。作中ではそんな現実への幻滅、不満、怒り、既成秩序への反発、そして「現状をつかさどる権威、変えようのない権威に無力に服従すること」への抵抗が描かれる。ある少女は、悪を為しても断罪されない「無処罰性」の遍在に気づき、罪と罰について探究する。
 物語のアポカリプスは、聖書のそれのような端的な善悪の戦いとはなりえず、宗教も名目にすぎない。誰が誰の意向で、何を報酬に動き、誰が誰に利用されるのか? 何を大義に戦うのか? そもそも大義はあるのか?

 怒りと抵抗のエネルギーに満ちたこの作品はしかし優しさも湛えている。それは、優しさに飢かつえていた少女ヴァランティーヌを筆頭に、大人たちの欺瞞や暴力にさらされる子供たちを描く筆致、さらには「触角が異様にでかい」虫をはじめとする生き物への言及にも仄見える。ここでまなざされるのは敏感だが無力・無防備な存在で、その被虐性を象徴するのがプラスチックの蓋で胃を満杯にして死ぬアホウドリだろう。だが、惨事の前触れとなる鳥インフルエンザのように、虐げられた動物がヒトへの大きな脅威となりうることを、現在、わたしたちは動物由来感染症のパンデミック下で学びつつある。

 読者に本書の破格のエネルギーが届くことを願いつつ。


ポール・ B・プレシアド(一九七〇年スペイン、ブルゴス生まれ)はミシェル・フーコー、ジュディス・バトラーなどの系譜に連なるとされる哲学者。生物学的には女性で性自認は男性のプレシアドは、みずからの合成テストステロン(男性ホルモン)摂取の記録と現代の生政治考察を並行して記述する『テスト・ジャンキー──セックス、ドラッグ、そして生政治』(Paul B. Preciado, Testo Yonqui——sexo, drogas y biopolítica, Espasa Calpe, Madrid, 2008、未邦訳)を、夭折した作家・編集者ギヨーム・デュスタンに捧げている。巻頭引用部の「きみ」はデュスタン、「わたしたち」とはプレシアドとデパントをさす。

(齋藤可津子)

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