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《エコノミスト》誌ほか年間ベストブック&《NYタイムズ》ベストセラーの大人版「君たちはどう生きるか」。『あなたの人生の意味』冒頭試し読み②

(冒頭試し読み①より続く) 

 元来の私は非常に現代的な人間である。現代の人間らしく内側よりも外側のよく見えるものに目が向く。私は今、評論家、コラムニストなどと呼ばれる仕事をしている。これはいわば、「自分」を売って金を稼ぐような商売だ。ともかく自分の意見、自分はどう思うかを発言する。実際の自分より自信ありげに見せなくてはならない。実際の私より賢そうに見せる。実際より優れていて信頼できる人間と思われる必要がある。ただそのおかげで、表面だけは良さそうだが、いかにも中身がない、という生き方をしないよう、普通の人より努力せざるを得なかった。そして、自分が人間の内面にあまりに無関心だったことに気づくようになった。現代の人間のほとんどが同じだということにも気づいた。私には道徳的にこういう人間になりたいという明確な目標はなかった。善人でありたいと漠然とは感じていたし、何かの大義のために身を捧げたいという願望もどこかにはあったが、具体的に何をどうすればいいのかはわからなかった。はっきりと道徳を語れるような語彙が私にはなかったのだ。どうすれば内面を豊かにして生きられるのかわからなかったし、人格はどう作られるのか、人間の深みはどうすれば得られるのか、まるで知らないに等しかった。

 自分のアダムⅡの面に常に厳しい目を向けていなければ、私たちは簡単に自己満足に陥り、道徳的に難のある人間になってしまう。私はそのことに気づいた。自分で自分を評価すると、どうしても、徐々に甘く、寛大になってしまいがちである。何か欲望に駆られると、すぐにそれに従ってしまう。明らかに誰かを傷つけるということがない限り、何をしようが自分を許すのだ。周囲の人たちに好かれているようであれば、それで十分、自分は良い人間なのだと考える。そういうことが長く続くと、本来、望んでいたほどには素晴らしい人間になれず、それよりも低いところに落ちてしまう。困ったことに、望ましい自分と実際の自分との差は、縮まることはなく時間がたつほど開いていく。アダムIの声ばかり大きくて、アダムⅡの声はかき消されているような状態だ。アダムIの人生設計は明確でわかりやすい。一方、アダムⅡの人生設計は曖昧でわかりにくい。アダムIは常に目を見開いて警戒しているが、アダムⅡは、半分眠っているような状態のことが多い。

 こんな本を書いている私だが、私自身、どうすればアダムⅡを成長させて人格者になれるのかがわかっているわけではない。ただ、少なくとも、そこへ至る道のりがどういうものなのか、先人がどう歩んだのかを知りたいとは思っている。

本書の構成

 本書の構成はとても単純だ。最初の章では、かつて私たちの社会で主流を占めていた道徳観がどのようなものだったかということを書く。かつて私たちの文化では、特に知性ある人々の間では、「人間とは所詮、曲がった材木のようなもの」という考え方が普通だった。人間は生まれたままでは欠陥のある存在だということである。欠陥があり、限界のある存在なのだから、それを自覚して謙虚でなくてはならないと考えられた。また、同時に、私たちには、自分の弱さに立ち向かう力があるとされた。弱さに立ち向かい、罪と闘う、その過程で人格は磨かれる。罪、弱さとの闘いに勝てば、私たちは道徳の面で非常に優れた人間になれるのだ。人間は、単なる幸せ以上の高みを目指して生きることができる。毎日の生活の中であらゆる機会をとらえて自分の美徳を育て、社会に貢献する力を身につけることができる。

 また、本書では実在した人物を例に、それぞれが人生の中で実際にどのようにして人格を磨いていったのかを詳しく書く。つまり、いわゆる「伝記」に近い本になるということだ。道徳、倫理について書く本であると同時に、伝記本のような特徴も持っている。伝記作家プルタルコスの生きた古代ローマ時代から、道徳を語る人は、誰か道徳的に生きた人の例をあげて語るというのが普通だ。ひたすら説教をし、抽象的な規範を示すだけの文章を読んでも、豊かなアダムⅡを育てることなど、とてもできないだろう。実例こそが最高の教師である。人が道徳的に成長するには、何か心が温められるような体験が必要となる。たとえば、尊敬、敬愛している人とじかに接し、言葉を交わすなどすれば、間違いなく心は温められることになるだろう。その後は、意識的ではなくても、その人をまねようとするはずである。自分のそれまでの生き方を曲げてでも、尊敬できる人に自分を似せようとするのだ。

 私は以前、教室で道徳を教えることの難しさについてのエッセイを書いたことがある。学校での道徳教育に成果があがらないことへの不満を書いたのだ。すると私のもとへ、デイヴ・ジョリーという獣医からメールが届いた。メールの中でデイヴは次のような率直なものの言い方をしていた。

 教室で、教師が一方的に話をし、生徒は聞いた話をただ機械的にノートに取るだけ、そんなやり方ではとても心の教育はできません。まず、生徒が自分の頭で考えることをしないからです。善き心、賢き心は、実際に人生を生き、その中で勤勉な努力をすることによってしか身につきません。自分の心の奥底を見つめる、心に傷を負って生涯をかけてそれを癒やす、そんな体験が心を良いものにするのです。教室で教え込むことなどできないし、ましてやメールやツイートなどでは、ほとんど何の役にも立たないでしょう。道徳は自分の心の中で発見するしかないのです。そのためには、探す準備を整えなくてはいけません。準備が整う前に見つかることはないのです。
 道徳を教えようとしても、成果があがらず、いらだちを感じることもあるでしょう。でも賢明な人の仕事は、そんないらだちを隠し、自ら手本となるような人生を送ることではないでしょうか。他人に気を配り、他人を理解しようと努める。良い人間になれるよう勤勉に努力する。その姿を見せるのです。たとえ賢い人であっても、言葉で教えられることは本当に少ないでしょう。人生の全体が、その細部にいたるまでが手本となります。
 忘れないでください。メッセージは人そのものです。生涯をかけた努力がそのままメッセージになります。そして、その努力もきっと、他の賢い先人によって突き動かされたもののはずです。長い時がたつにつれ、その姿は見えなくなるでしょうが、先人が存在したことには変わりがありません。人生は私たちが思うよりもずっと大きく、広がりのあるものです。広大な道徳の世界では、因果関係が複雑に絡み合っています。簡単にどれが原因でどれが結果かは見分けられません。その複雑な構造のおかげで、私たちは、暗く混乱した状況に置かれ、苦しんでいても、より良い行動を取ることができ、より良い人間になることができます。

 この「人生を手本とする」というのが、まさに本書の目的となる。二章から最後の一〇章までの各章では、実に様々な人たちを手本として取りあげることになる。白人もいれば黒人もいるし、男性も女性もいる。宗教に関係の深い人もいれば、そうではない人もいる。文学者も、文章とは無縁の人もいる。どの人も完璧ではないし、完璧に近いわけでもない。ただ、皆に共通しているのは、彼ら、彼女らの生き方が、今となっては極めて稀なものであるということだ。皆、自分自身の欠点を知り、自らの抱える罪との内なる闘いを繰り広げていた。また、現代とは違った種類の自尊心を持って生きていた。何より重要なことは、彼ら、彼女らについて私たちが思いをはせる時、まず考えるのが「その人が何を成したか」ではない、ということである。もちろん、業績も素晴らしい人たちだが、後世の私たちにとって大事なのは、その人のしたことより、その人がどういう人だったかだ。私としては、素晴らしいお手本の存在を知ることで、読者の「良い人間になりたい」「この人のように生きたい」という気持ちに火がつくことを期待している。これまでの生き方を変えることは誰でも恐ろしく、勇気のいることだが、そうする人がいると嬉しい。

 最終章では、全体のまとめをする。なぜ、現代人は、道徳的に良くなるということを重要視しなくなったのかに触れ、人間を、矯正すべき「曲がった材木」ととらえる考え方の利点もあげる。あまり時間がなくて、早くこの本の要点が知りたい人は、いきなり最終章を読んでもいいだろう。

 現代であっても、時々は驚くほど内面の優れた人に出会うことはある。当然のことながら、彼らは支離滅裂な場当たり的な人生を送ってはいない。考え方、行動に一貫性があるのだ。別の言い方をすれば、「内面の統合ができている」ということになる。そういう人はいつも落ち着いていて、感情の起伏は大きくなく、浮き足立つようなこともない。嵐の中でも、針路を外れることなく進んでいける。逆境にあっても負けたりはしない。心の状態が常に一定していて変わらないので、信頼ができる。この美徳は、まだ若い人にはあまり見られない。やはり、年月を経て、ある程度、喜びも悲しみも体験し、人間として熟した頃に身につく美徳だろう。

 ただし、たとえそういう人が身近にいても、気づかないことは多い。きっと優しく明るい人だろうが、あまりに控えめなために、そんな立派な人間だとは思わないで見過ごしてしまうのだ。彼らの持つ美徳はどれも目立たない。いずれも素晴らしい美徳だが、世界に向かって自分の存在を主張するような美徳ではなく、むしろその逆だ。謙虚さ、自制心、克己心、寡黙さ、他人に対する尊敬、どれをとっても、その性質上、存在を主張することはない。

 道徳的に優れた人間には、そういう人間だけの喜びがあり、その喜びは周囲に放散される。他人が刺々しい態度で接してきた時でも、柔らかく応えることができる。不当な扱いを受けても、大げさに騒ぎ立てることはしない。たとえ侮辱されても、堂々としている。挑発を受けた時でも、自分を抑え、怒るようなことはない。彼らはただ黙々と自分のすべきことをする。たとえ自らを犠牲にして他者に奉仕する時でも、それを誇示するようなことはない。ただ日々の食糧を調達するような淡々とした態度でそれをする。自分の仕事がどれだけ人の印象に残るかということには関心がない。自分自身のことは一切考えていない。自分の周囲にいる人々、多くの欠陥を抱えた人々の役に立てればそれを喜びにできる。今、自分が何をすべきかを考え、気づいたことはすぐに実行する。

 彼らと話をしていると、自分がいつもよりも面白い人間、賢い人間になったような気がする。彼らは社会階層などを飛び越え、誰とでも同じように接することができる。意識しなくてもそれができるのだ。知り合ってしばらくすると、その人が一度も自慢などしたことがなく、独善的な態度も、強情に何かを言い張る態度も見せたことがないと気づく。自分にはこんな優れたところがある、自分はこれほどすごいことを成し遂げたと自らの口で言うこともない。

 精神が安定しているからといって、葛藤がないわけではない。葛藤は絶えずあるが、少しでも成熟に向かおうと闘っているところが違う。彼らはいわば、人生における最も根本的な問題を解決すべく歩んでいる。その問いとは、善と悪を隔てる境界線とは何かということである。ソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは言っている。「善悪は、国境線で分かれるわけではないし、階級で分かれるわけでもない。また、二つの対立する政党があっても、一方が善で一方が悪というわけではない。善悪の境界線はすべての人の心のどこかにある」〔『収容所群島』〕

 内なる人格を磨くべく長年、闘い続けた人は、いずれ深みのある心を持つことができる。はじめのうちは、表面的な成功を望む気持ちも強いかもしれないが、次第に内なる闘いの方が重要になる。アダムIがアダムⅡに屈服する時が来る。本書を読む人たちにも是非そうなってもらいたい。
(「はじめに」了。 つづきは本をご覧ください)

冒頭試し読み①はこちら

訳者あとがき(単行本時)はこちら

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